哲学の科学

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この世に神秘はない(1)

2013-03-30 | xxx4この世に神秘はない

(34 この世に神秘はない begin

 

 

 

 

 

    34 この世に神秘はない

 

 

 

一五九六年というと、フランスではデカルトが生まれた年で、日本では豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵していたころですが、オーストリアでは二十五歳の天文学者兼占星術師ヨハネス・ケプラーが「宇宙の神秘」(一五九六年 ヨハネス・ケプラー宇宙の神秘』)という本を出版しました。コペルニクスの地動説(一五四三年 ニコラウス・コペルニクス 『天球の回転について』既出)を擁護する本です。

 

水星、金星、地球、火星、木星と土星、これら六個の惑星(天王星、海王星などは発見されていなかった)は地球を中心に惑っている星なのではなくて、太陽の周りを整然とした楕円形を描いて周回しているのである、惑星を動かす力はその軌道における太陽光線の強さと比例しているらしい(のちにニュートンが発見した万有引力)、と書きました。この整然とした法則性は、まさに神秘である、神の意思を表す宇宙の神秘的な秩序である、と彼は書きました。

 

十七世紀頃、最先端の知識人にとって世界最大の神秘は、宇宙の秩序であったのでしょう。現代でも、宇宙があることの神秘に人は魅かれます。

 

ケプラーが描き出した太陽系の軌道はニュートン力学を使って計算すると明快に導き出せます。つまりニュートンが作り出した科学によれば、太陽系は宇宙のどこにでもあるはずのありふれた惑星系の一つであることが分かる。実際、最新鋭の天文観測により最近の十数年で次々と太陽系外惑星系が発見されています。

 

現代科学によれば、宇宙は百三十七億年にわたって膨張し続け冷え続けているが、その過去を観測するためには高性能の望遠鏡が必要となる。肉眼で見えるものは宇宙のごく一部であり、時間的には一瞬の姿であるので、身の回りを見渡しているだけで毎日を過ごしている私たちには、永遠に変化しない宇宙の風景、つまりありふれた月や太陽や星々しか見えません。

 

私たちの惑星である地球については、人類の活動、つまり産業化と都市化が進み、人の住んでいる土地の風景は十年単位で変わっていくのが現代の時代ですが、それが宇宙の神秘とは思えませんね。

 

現代人にとって、宇宙の神秘は、ビッグバンなどの無から宇宙が生じたという話、あるいは宇宙を生成する素粒子の話、あるいは未来に起こるであろうといわれる太陽系の消滅など、でしょうが、どれも天体物理学者にやさしく解説してもらっても理解しがたい科学理論でしかありません。それでも、宇宙の謎についての本はベストセラーになったりしますから、ふつうの人もまた、これらに神秘を感じているということでしょう。

 

現代人は科学理論として時間空間をイメージしないと宇宙の神秘を感じることはできませんが、昔の人は肉眼で雷や虹、流星や日食を見上げるだけで、素朴に、深い神秘を感じました。大昔、人類が暮らしていた自然の中には謎の現象、神秘の体験がけっこうあったでしょう。それらは目や耳で、体感で、直接に感じられるものです。そこから八百万の神をはじめ、もののけ、精霊、龍、天狗などいろいろな神話や伝説あるいは理論が生まれてきました拙稿3章「人間はなぜ哲学をするのか )。

 

それら神秘あるいはそれを説明する理論もひとつひとつ大いにおもしろいですが、拙稿本章では、それらに現代人の感じる神秘もひっくるめて、神秘はなぜ神秘なのか、私たちはなぜ自然あるいは人生あるいはこの世について神秘を感じるのか、について調べてみようと思います。

 

拙稿の見解では、現代は神秘が衰退し、矮小化されていく時代です。都会の夜は明るく、天文台は人里離れた高山に移転していきました。闇の想像力は発揮される場を失い、何事も科学理論によって解釈されてしまいます。しかしそれでも、神秘が霧消することはないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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現実に徹する人々(11)

2013-03-23 | xxx3現実に徹する人々

孤独で退屈な人は現実をもてあまし、あるいは趣味に、あるいはギャンブルに、あるいはスポーツに、あるいはルーティンワークに没頭しようとしますが、たいがいうまくいかない。巨大な現実の中で個人の活動の意味は限りなく小さいとしか思えません。現代人が獲得した科学や経済の法則に現れている現実の究極の確かさは、逆説的ですが、その上に確立したはずの私たち個々の人生の意味を矮小化していきます。

私たち現代人は、まず現実に徹して、そのうえで自分の人生を考えようとする。しかし、自分の人生をどうするかという問題の答は、現実の中にはない。この場合、人間にとって現実は無意味で中身のない存在です。

まず現実に徹する、という態度が間違いのもとでしょう。人間が現実に徹する場合は、(拙稿の見解では)そうすることで仲間と通じ合うためです。仲間と通じ合うことのない孤独な人にとって現実に徹することは意味がない。

まず現実から、ではなく、まず仲間と協力しともに動くことから、人間にとって物事は始まります。そこから自分が始まり、個人が始まり、人生が始まる。仲間と協力する行動の過程から現実が立ち現われてくる。そのような場面で懸命に、熱心に行動するために人は現実に徹する、という順が正しい。そうすれば、私たちは現実に徹する生活ができるでしょう。

現代は、科学と経済の発展により、現実の存在感が極限にまで強烈に現れています。私たちのこの時代、現実に徹する人々は、現実に徹することに熱中するあまり、しばしば、仲間と一緒に行動することからそれが始まっていることを忘れてしまう。しかし現代においても、(拙稿の見解によれば)人間が感じ取る現実、人生そして自分自身というものは仲間と協力して行動するための仕組みとして身体に備わっている装置であるという事実を無視することはできません(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

科学と経済に支えられて現実の存在感が完璧に近くなっている現代、なかなか現実の背景である仲間との協力の必要性を感じ取ることはむずかしくなってきています。仲間と離れて現実だけを立脚点として生きる現代の個人は限りなく孤独です。そのような個人が自分であると思う内面の感性は、現実との間につながりを見出すことはできない。現代人は現実と切り離されたその内面を言葉にすることもできない。言葉は、元来、仲間と共鳴するところに意味を持つものだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

だれの目にも見える自分の身体のほかに自分だけにしか感じられない自分の内面があると思う限り、人は現実から疎外され続ける。現実の中にあるのは自分の身体だけであって、それは自分の内面とは違う。現実の中にあるものは、自分の身分証明書、氏名、写真、肩書き、戸籍、系図、家族、友人、友人が思う自分、というようなだれの目にも見えるものです。それらは他人にとっての自分であって、自分が感じ取る内面とは違う。だれの目にも見えない自分の内面は現実の中にはない。言葉で語ることもできない。

そう思う人は、自分の身体やここにある物質、人々の認識などの現実そのものと何の関係もない自分の内面を見つめることになる(拙稿19章「私はここにいる」 )。自分の内面が嘘なのか、あるいは目の前の現実が嘘なのか、その矛盾さえも私たちははっきり自覚できない。そうなった現代人は、現実と何の関係もない自分の存在に不安を感じるようになるしかありません。

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(33 現実に徹する人々 end

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現実に徹する人々(10)

2013-03-16 | xxx3現実に徹する人々

目に見える現実だけを対象とする人生は退屈である、目に見えない内面の感情を動かすものが本質である(一九四三年 アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ『星の王子様XXI 』)、という言葉は私たち現代人に訴える力があります。

私たちは漠然とした感覚としてこれを知っているから、現実に徹する生活というものを実際に実行する人は多くありません。何があっても迷いもなくいつでも現実に徹するという態度をとる人は、現実には、ほとんどいないでしょう。

私たちふつうの人間は、現実に徹するべきだ、そうしないと損だ、と思いながらもそれを実行することはしない、と言ってよいと思います。だからこれを実行する人物像は虚構の中にしかいません。つまりこういう人物は、小説になる、ドラマになる。漫画のヒーローあるいはダークヒーローとして活躍します。ところが私たちの人生でも、たまに現実の世界でそういう人に会うこともないわけではありません。現実に、現実に徹している人を見るとき、私たちは、よくやるな、漫画の主人公のようだ、と思い、半ば賞賛し半ばあきれてその人を見ることになります。

科学と経済が発展し、個人が確立されてきた現代に至って、私たちは現実世界の存在感をどの時代の人々よりも強く感じ取っています(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。その確固たる現実の上に構築されている現代人の言語は、現実以外のものをますます表現できなくなっています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。互いにそのような言語で現実を語るしかできない現代人は、現実以外のものに感受性がない。実際私たちは、目の前の現実に対処することに忙しくて、現実以外の物事があるのかないのか考えるひまもありません。

まじめに考えてみても、目の前の現実はすべて物質的なものからなりたっていて間違いなく現実の法則通り動いていく。科学の描く物質世界であるこの宇宙や地球は間違いなく整然と存在している。自分の身体を含めて人間はすべて物質としての身体から成り立っている。これらの物質の上にある人間社会はしっかりと経済の法則で動いている。そのような現実の中で私たちは毎日の生活を生きている。私たちはそう確信しています。

この現実を知れば知るほど、現実だけがすべてではないか、と感じます。自分も現実に徹して生活すべきだ、と私たちは思います。しかし実際にはしない。

それは自分の意思が弱いからなのか?どうもそればかりではない。もともと人間が生きるということは現実に徹するということとは違うのではないか、とも思える。現実の冷然とした推移を見れば見るほど、この現実は人間にとって冷たすぎるのではないか、と思えます。

そもそも人間の身体は、仲間と協力するために現実をつくりだすようにできている(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。それは人類がそのように身体を進化させることによって存続し繁殖してきたからでしょう。そうであれば人間が現実に徹する場合は、そうすることで仲間と通じ合うためにするはずではないか?仲間と通じ合って協力を進めているところから現実が現れてくるならば、仲間と通じ合いながら現実に徹するのでなければ、現実に徹すれば徹するほど、私たちはその現実そのものにどう対処すべきかが分からなくなるでしょう。

そうであるとすれば、仲間と通じ合うことのない孤独な人にとって現実に徹することは意味がない。現実に対して本当にこうしなければならないということがない。ニヒルで退屈な人生となります。ここに現実に徹する人の多くが陥る落とし穴があります。

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現実に徹する人々(9)

2013-03-09 | xxx3現実に徹する人々

ここまでで、現実に徹する人々のイメージはだいたい分かりましたが、そもそも現実に徹する生き方というものは正しい生き方なのでしょうか?この点をここで少し調べてみましょう。

私たち現代人は、現実に徹する生き方をどう思っているのでしょうか?宗教などを軽視している現代人は、むしろ現実に徹する生き方、という言葉に魅力を感じ、賢そうな生き方だ、と思っているところがあります。しかし、これは本当に賢い生き方なのか?

現実に徹する、という言葉は、いかにも正しい考え方のように聞こえます。しかしここで注意すべきことは、人生において現実に徹するべきだ、と思うことと、実際に現実に徹することとは、かなり違うということです。実際に、徹底的に、何があっても現実に徹するということは、自分の感情、他人の感情、良心、モラルあるいは義理人情をすべて無視して冷徹に、合理的に、自分の身体を操作するということです。人生のどんな場面でも常にこういう行動を実行しているという人は、人口の数パーセントもいないでしょう。

ではそれなのになぜ、私たちは、現実に徹するべきだ、と思うのでしょうか?人は、感情に流されて、義理人情にほだされて、あるいは良心やモラルや教養に邪魔されて、冷徹に割り切ることができなかったために、しばしば損をしたり自己利益を失ったりしたことを後悔して反省します。その場合の言葉が「これから自分は、しっかり現実に徹するようにすべきだ」という戒めになることがよくある、ということでしょう。

しかし実際に現実に徹する人は少ない。その理由は、私たちがそうするべきだと思いながらも、実はそうしたくない、という気持ちも併せ持っているからでしょう。

富や社会的地位を確保するために、自分や他人の感情、良心、モラルあるいは義理人情を無視してでも冷徹に行動しようと思う人は多い。しかし実際にそうした場合、そうしてようやく手に入れた富や社会的地位が空しい、意味のないものとなってしまうという矛盾があります。

そもそも富や地位、その他、人生で人々がぜひ獲得したいと思うものは、それを保有することが人の心に強く響くからでしょう。それを持つことが、称賛、尊敬、あるいは嫉妬、怨嗟などの強い感情を他人に抱かせることができる、という理由で私たちはそれを獲得したい。

ところが、現実に徹する人であるということは、その人々が人間の感情に関心がないということです。この人々は、称賛、尊敬、あるいは嫉妬、怨嗟などの強い感情を他人に抱かせることに関心がないはずです。したがって現実に徹する人々が富や地位を獲得できたとしても、それらは獲得したいと思ったものではないということになります。パラドックスです。

多くの人は、漠然とした感覚としてではあっても、これを知っています。それで、実際に現実だけに徹するという行動はしない。

もともと富や地位への欲求は、個人の内面の価値観から始まっている場合がしばしばです。家族の幸せのために富や地位がほしかった場合、プライド、自尊心、あるいは他人への優越感、あるいは劣等感の克服のためにそれらがほしかった場合、あるいは恨みや見返したいという感情など、相当に個人的な、内面的な価値がその欲求の根源であるケースが多いといえます。

これらの価値観は、人生の早い段階、子供のころから思春期のあたりまでに身につくものでしょう。幼少期、あるいは青年期に身体に染みついた価値観は自覚できないまま、人生の目的になっていることがあります。その目的に近づくことで安心できる。楽しくなる。その理由を本人は分かりません。私たちの人生において目的の追求というものは、無自覚の深い感情に根付いている、といえます。

ところが、現実に徹する人の場合、その生活態度は、何事にも個人的、内面的な価値を認めないこととなるので、喜怒哀楽がない、成功感も挫折感も優越感も劣等感も称賛も嫉妬もない。ニヒルな生活態度です。

自分の感情にも人の感情にも関心がない。パラドクシカルですが、人々と感情を交換することで感動するなどということのない、退屈な人生となってしまうでしょう。実際、権力の絶頂にあった王様や大富豪が人生に退屈していたという皮肉な状況が歴史、伝記などに記されています。

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現実に徹する人々(8)

2013-03-03 | xxx3現実に徹する人々

最後に、金や出世を追求しないにもかかわらず現実に徹する人の中に少数ですが、さらに別のタイプとして分類するほうが分かりやすい人々がいます。人生に熱心とはいえないタイプです。

明日の人生に懐疑的というか、明日に備えることが重要であるということを素直に信じられない人たち。明日の人生を期待できなくて、今日現在の物質的な力だけを信じる。明日を期待して社会的に努力しても、うまくいくとは思っていない。だから何事も懸命にする気になれない。何も努力を傾けるほどの対象として信頼できないから何事も熱心にしない。人と感情が通じ合うことに疑念を持っているので、人のために何かをしたり、してもらったり、ということがない。したがって、人との交流にも熱が入りません。人付き合いに不熱心、怠惰にみえる。生活のすべてにわたって不真面目で怠惰なニヒリストにもみえる。こういう人たちもまた、現実に徹する人、と言えないこともありません。

俺たちに明日はない、というアウトローはこのたぐいでしょう。死刑確実な囚人もこうなってしまう人が多いでしょう。また、人生の辛酸をなめた老人などにこのタイプが多いでしょう。ところが現代人、特に日本の若い人たちの中にこのタイプが増えている、という観察もありそうですね。若年寄現象というのか、面白い、といっては不謹慎ですが、少子高齢化を患う国にさもありそうな、もしかしたら人類の明日を暗くするような現象であるのかもしれません。

以上をまとめると、現実に徹する人々について、次のことが言えそうです。

まず、エリートのように経済的社会的地位を求めて人々を操作しながら攻撃的な人生を懸命に生きている人は現実に徹する場合が多い。また対極的ですが、社会的弱者あるいは病弱などで防衛的な人生を懸命に生きている人も、また現実に徹する場合は多い。淡々とルーティン的人生を送っているように見える人々の中にも、その日常的作業において熱心であるがゆえに現実に徹する人もいます。またこれらとは別に、明日の人生に懐疑的な怠惰なニヒリスト、老成した人、あるいは若年寄的な若者のようにみえる人たちの中にも、現実に徹する人はいるようです。

要するに、懸命に熱心に人生を生きている人々は現実に徹する人々であることが多い。一方、明日の人生に懐疑的である人々の中にも現実に徹する人はいます。この二つのグループの共通点は、人との感情の交流を信じないために実質上、孤独である、という点です。

これらを合計すると、人口のどれくらいの割合になるのか? どんな場面でもどんな事態でも徹底的に現実に徹するという人は、現実には、まずほとんどいないでしょう。そのように見えるという人を拾い上げても、人口のせいぜい数パーセントくらいでしょう。しかし、自分は現実に徹するべきだ、とか、どちらかといえば現実に徹しているつもりだ、と思っている人の割合は、現代の日本など先進国では、ずっと多くて、人口の五分の一か四分の一あるいは半分に近いと数えることもできそうです。

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