哲学の科学

science of philosophy

物質の人間的基礎(7)

2014-02-15 | xxx7物質の人間的基礎

私たちは、こうしてこのように物質世界があるから、そこで身体をこう動かそうと思い、こう動かしているのだ、と思い込んでいます。しかしそれは、そう思い込んでいるだけで、実は先に無意識のうちに身体が動いてそれによって物質の存在が感じられ世界が感じられて、それからその感じられた物質世界の中でこう身体を動かそうと自分は思ったのだと思い込んでいるのではないでしょうか?

どちらが本当なのか?確かめる方法はあるのでしょうか?

物質が存在するから私たちはそれを感じることができるのか?それとも私たちがそれが存在すると感じるから物質は存在する、ということなのか?

確かめる方法は、ありません。

確かめる方法はありませんが、どちらかが本当という気がしますね。どちらが本当という気がしますか?

筆者ですか?筆者は、この問題は本当の問題ではない、偽問題だ、と思っていますから、どちらが本当と思っても構わない、と思っています。要は、言葉を使いやすいように使えば良い。そうすると、皆さんがふつうに使っている言い方、つまり物質の存在と世界の存在をまず前提とした言葉遣いが分かりやすくてよい。そういう言い方を使わない理由はない。いや、素直に言えば、そういう言い方を使う方が便利だ、ということになります。

これで一安心。ふつうに物質世界は存在していることになります。私たちたちは身の回りにいろいろな物質が存在していることを感じ取って、いつもそれをどうにかしようとしています。自分の身体と物質の変化の仕方を予測して、よいように身体を動かして物質を操作します。たとえばアクセルを踏んで車を走らせる。コップを持ち上げて水を飲む。風呂敷を広げて一千万円の札束を包む。などなど。何も不思議はありません。

しかし一方、このようになっているこの世界は、私たち人間が身体を動かして感覚器官で変化を感知し、同じ人間の仲間と協力して仕事をし、言葉を語り合って生きていくために、こうなっていることが必要だからこうなっている。世界がこうであることによって私たち人間はうまく仲間どうし協力することができる。協力し合ってうまく栄養供給システムにつながることができる。あるいはそうすることで子孫を残すことができる。そうすることでその子孫が物質の存在を語り合うことができる。逆に、そうできるように世界はこうなっている、ということができます。

物質世界はこのようにして存在している。人間の身体の仕組みによってこのように存在している、といえます。そうであれば、そのように存在するこの世界で、私たち人類は生活し、歴史を作り、科学を作ってきた、ということになります。歴史といっても科学といっても、そうであれば、人間の身体の仕組みの上に作られている、ともいえる。

繰り返せない出来事は歴史となって残り、繰り返せることは科学となっていきます。

原始時代の石器作りであれば、人間が石と石を打ち合わせると石が割れることで石器の科学が作られる。現代の先端科学であれば、火星探査機が送ってくるスペクトルデータで火星の科学が作られ、リニア加速器で衝突させた素粒子のエネルギー測定値で、素粒子の科学が作られます。これらの科学はいずれも、人間がどう動くと物質世界はどうなるかという予測として作られています。

歴史上、人間の経験を慎重に整理することで正確な科学が作られてきました。科学が正確になった結果として、現代科学は驚異的な精度で物質世界の変化を予測できます。たしかに直感で見ると科学の精密さは驚異的ですが、それは私たち人間の身体が、もともと、それ(科学の精密さ)を可能とする程度に精密な予測能力を持っているからだといえます。

人間の身体は物質が作る複雑な空間の構造を(かなり精密に)推測し、物質が変化する場合の時間の推移を(かなり精密に)予測できます。また物質の間に働く力や、変形や振動や波動を(かなり精密に)感知できます。それらを記憶し、繰り返される法則として、言葉や図や数学で表現できます。人類が使う言語や図式や数学は(数学に典型的に見られるように)無限の階層構造を表現できますから、物質の空間的時間的構造をいくらでも精密に記述できます。

歴史も科学もこのような人類の身体能力の上に作られていることは明らかでしょう。歴史も科学も私たちの毎日の生活も、物質の上にできあがっていて、それらの物質は(拙稿の見解では)人間の身体の上に作られている。そうであれば、歴史、科学その他、私たちがこうであると思っているすべては、私たちの身体が作り出している。それ以外のものは何もない、といえます。

私がここにあると感じているような物質世界は、人間の身体を持つものならばだれもが同じようにこれがあると感じている。逆に、人間の身体を持たない動物、あるいはロボット、あるいは異星人がいたとしても、彼らにとっては、私がここにあると感じているような世界はない。また逆に言えば、このようにあるものだけが私の感じているこの物質世界であって、そうでない世界はありえない、といえます。私の感じているこの物質世界と違う世界が存在する、と言いたくても、そのような存在の意味は成り立ちません。

人間の身体を持たない動物、あるいはロボット、あるいは異星人が感じるような別の世界がある、ということはできない。人間が感じられない別の世界がある、という言い方は意味がありません(一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか既出 )。また、私たちの身体とは関係なく物質世界が存在する、という言い方も意味はありません。なぜならば、私が今ここにこの身体でこのように感じているものだけから成り立っている物事を、私たちは物質という言葉で語り合っているだけだからです。

物質で成り立っている世界の他に別の世界がある、と言っても、それは深く語れば語るほど、矛盾した理論になり、間違った哲学に行き着いてしまうだけです( 拙稿24章「世界の構造と起源」 )。私たちの身体はここに見えるような物質世界しか語り合うことはできないし、逆に物質とはそのような私たちが語り合えることだけから作られている、といえます。■

(37  物質の人間的基礎 end

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物質の人間的基礎(6)

2014-02-01 | xxx7物質の人間的基礎

人類においてはさらに(拙稿の見解では)、仲間との運動感覚の共鳴によって、物質の変化を感知しその存在感を共有します。人類は身振りや表情を使って、また言語を使って、仲間と物質の存在について語り合います。そうすることで(拙稿の見解では)私たち人類は、物質の存在を確定することができます。

 

そうであれば、私たちの身体はこのような身体機構が働くことで、そこに物質があるがごとく動いていきます。逆に、このように物質があるとしなければ動くことができません。そうであるから身体が動くと同時に、あるいは動いた直後に、(拙稿の見解では)私たちは、このようにそこに物質がある、世界が存在すると感じ取る。ここでさきのような拙稿本章の表現法を用いるとすれば、すべての物質はこのような仕組みで存在する、かくして世界は存在する、ということがいえる(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物 」)。

 

 

もちろん、物理学など科学の理論を使って説明すれば、身の回りの物質の有様は詳しく正確に分かります。物質が次にどう変化するかは科学理論で高精度に予測できます。変化が予測どおりであればそれらの物質は現実に存在している、と思えます。科学理論が予測するように変化する物質はたしかに存在している、といえます。

 

そういうことから、科学理論による自然法則を満たすように物質世界は存在している、と理解できます。しかし科学以前に物質の存在感はある。

 

身体で感じる存在感がまずあって、その上に科学理論は(拙稿の見解では)成りたっています(拙稿14章「それでも科学は存在するのか? 」)。つまり物質がこのように存在するように身体で感じられることから、その存在の有様を予測するための理論として(帰納的に)自然法則を記述したものが科学理論である、といえます。

 

 

 

 

それでは、私たちが身体で感じられる物質の存在感はどこから来るのでしょうか?直感では、単に物質が存在するからそれが存在すると感じられるのだ、と思えます。たしかに古来、人々の会話も物語も理論も、宗教も哲学も、単純にそういう直感を下敷きにして物事を語っています。

 

しかしそうでないという仮定を立てた場合どうか?

 

「物質は、私たちが身体を使って、あるいは言語を使って、それをどうにかしようとするとき以外、はっきりと存在するとはいえない」という仮定を立てた場合、どうなるか?この場合、私たちが身体で感じられる物質の存在感はどこから来るのでしょうか?

 

身体で感じる物質の存在感は(拙稿の見解では)、それを感じる直前に身体が無意識に動いているからそれをそう感じる。つまりその物質がある、と感じる。そうであるとすれば、私たちの身体がいつの間にかこう動いている場合に限り、身体がこう動くように物質世界はある、といえます。

 

 

 

 

 

 

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物質の人間的基礎(5)

2014-01-25 | xxx7物質の人間的基礎

では仮に、次のように言い切ってみましょう。

物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき以外、はっきりと存在するとはいえない。

もっといえば、物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき、あるいは、それについてだれかに語りたい時、そういう瞬間にだけ、はっきりと存在し、そうでないときは存在していない。

宇宙科学者どうしの会話で、銀河系の中核ブラックホールが語られる瞬間にだけそれは存在し、宇宙科学者が分かれて帰宅後、テレビでサッカーを見だすともう銀河の中心のブラックホールは存在しない。消えてしまう。

二歳児が「あ!にゃんにゃん!にゃんにゃん!」と叫んだ瞬間にだけ塀の上にその猫は存在し、数十秒後、子供がほかのことに気を取られてしまい、他のだれもその猫のことを気にしなくなったときには存在していない。

こういう考え方はいかがでしょうか?まあ何を言いたいのか分かるような気もしますが、とても、おかしな理論ですね。

このおかしな理論は、どこがおかしいのでしょうか?

たとえば部屋の中に猫を閉じ込めてドアを閉める。私たちは一時間外出する。もう猫は存在しない。一時間後にドアを開ける。猫が死んでいます。毒薬のガラス瓶が割れています。何分も前から、生きた猫は存在していなかった、といえます。

ふつうの言い方では当然、そう言えますが、さきの言葉遣い、つまり「物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき、あるいは、それについてだれかに語りたい時、そういうとき以外、はっきりと存在するとはいえない。」を使う場合、ちょっと違ってくる。

猫は、ドアを閉めた瞬間にもう存在しなくなる。一時間後にドアを開けた瞬間に死んだ猫が存在しはじめた。割れた毒薬のビンも存在しはじめた、ということになります。

しかし、そういう言い方をすると、ドアを閉めた瞬間に部屋の中は何もなくなってしまうことになって一時間後にドアを開けた瞬間に、部屋の中のすべては整然と現れる、ということになります。猫は死んでいるけれども、ちゃんと死体はあるし、毒薬のビンが割れているからなぜ死んだのかも分かる。部屋の中は、あたかもその一時間ちゃんと存在していたのと全く同じように突然、整然と現れる、ということなのか?

なにか、とても無理に言っているような言い方としか思えませんね。

ドアを閉めて外出するとき、私たちは当然、一時間後に帰ってきてドアを開ければ、部屋は前と同じようになっているだろうし、猫はたぶん生きているし、あるいは運悪く毒薬のビンが割れば死体になっているだろう、と想像して出かけるわけです。

ふつう、ドアを閉めた瞬間に部屋の中は何もなくなってしまうことになって一時間後にドアを開けた瞬間に、部屋の中のすべては整然と現れるとは想像しません。ドアを閉めている一時間、部屋の中は見えないけれども、見えているのと同じようになっているはずだ、と私たちは思い込んでいます。

私たちはなぜ、そう思い込むのか?それは、実際、ドアが閉まっている間、部屋の中は見えないけれども見えているのと同じようになっているはずだからだ、と思えますね。室内には猫がいて、その猫はたぶん生きているし、あるいは運悪く毒薬のビンが割れて死体になって転がっているだろう、ということです。室内は今見えないけれどもそうなっているに違いないのです。では、見えない部屋の中は、なぜそうなっているのか?

それは物質の法則からそうなるのでしょう。人間が見ていようといまいと、部屋の中の家具やビンや猫は物質の法則にしたがって変化するからそうなる。そう私たちは思います。ドアを閉める前から、一時間後にどうなるかは決まっていたのです。そして一時間後にドアを開ければ、当然、そうなっている物事が見える、ということでしょう。ドアを開けた瞬間に、何もなかった部屋の中に、物事がそういう形に並んで現れた、ということではないと思われます。

逆に言えば、この物質世界は、私たちがよく知っている物質の法則に従って変化するから、私たちは一定の時間のあとの物事のあり方を予測し、想像できる。一時間見ていなくても、一時間後の有様を予測できるから外出もできるし、帰宅したあとの計画も立てられるわけです。

まあ、猫がいる部屋にシアン化水素のビンが置いてあって、上からハンマーが落ちそうになっていれば、猫が死ぬことも予測できます。そういうことも含めて予測できていれば、帰宅してからすべきことも計画できます。シアン化水素を吸い込まないようにガスマスクをつけてから部屋に入るべきでしょうね。

このように、私たちが物質の有様を予測できるということから、物質は存在するように思える、といえる。逆に、その物質の存在、という言葉が意味を持つためには、私たちがその物質の有様がどうなっていくかを予測できる必要があります。

たとえば、その猫が存在している、と言えるためには、私たちはその猫を目の前に見ているか、見ていなくとも私たちが見えないところでその猫が今どういう有様になっているのかを予測できなければなりません。

猫が目の前にいなくて、しかもどこにいるのか分からなくて、どこでどうなっているのかもさっぱり分からないという状況であれば、その猫は存在していると言い切ることはできなくて、言うとすれば、「その猫は存在しているのかいないのか分からない」と言うしかないでしょう。

そういうことから、物が存在しているということはそれがこれからどうなるかを予測できることだ、といえます。

今この瞬間にその物が目に見えていてもこの後それがどうなっていくのかさっぱり分からない、という場合はそのものは存在しているとはいえない。

たとえば今そのドアの隙間から室内を覗いたら猫のしっぽが見えたようだけれども錯覚かもしれない、自信がない、という場合は、猫がはっきりと存在しているとは言えません。しっぽが見えて、さらによく見ても間違いなく猫のしっぽだと分かって、しかも周りの仲間に「部屋の中に猫がいる」と叫ぶと皆が部屋を覗いてくれて「ほんと、猫がいる!」と言ってくれた場合、その場合は完全に猫が存在している、といえます。

しっぽが今見えなくても、一分後に室内を覗き込んで見てそこに猫が隠れていたならば、一分前にも室内にその猫はいた、と結論してよいでしょう。なぜならばこの一分間にドアから出入りしたものはなかったからです。一分前に存在しなかった猫が密室の中に突然現れるはずがないからです。

当たり前のことをくどくど書いています。愚問愚答のようですね。しかし私たちはなぜ、一分前に存在しなかった猫が密室の中に突然現れるはずがないと思うのでしょうか?

それは科学で猫の身体という物質の変化について分析的に説明しても証明できますが、それ以前に、私たちの直感でそう思うわけです。まずそれは毎日の経験でいつもそういうことになっているからと思われます。しかし、このことはもっと私たちの奥深くにある生得的に近い身体構造からくるようです(二〇〇七年 ガネア、シュッツ、スペルク、ドローシュ『見えないものを考える:幼児、言語使用による心的表現の更新 』既出)。

これは、この物質世界の環境で進化した動物である私たちの身体がこの物質世界の存在という構造を感じ取る機構を備えているからだ、ともいえます。一方、逆に言えば、このように私たちの身体が感じ取るから物質が存在する、ともいえる。物質の存在とはそういうことである、ということができます。

もしそうであるとするならば、物質というものは私たち人間と関係なく存在しているのではなくて私たち人間の身体が作り出している、とすることができる。ここでは仮にそうすることとして話をすすめてみよう、というのが拙稿本章の考え方です。

人類に限らずにずっと広い動物種、哺乳類全体あるいは鳥類(さらには恐竜やたぶん軟体動物のタコなど頭足類)、までを含めて、このような(物質の存在を感じ取るような)身体機構は発達しているようです。これらの動物は、身の回りの物質が次の瞬間にどう変化するか、変化しないか、どう動くか、動かないか、を予測することができると思われます。物質がどう変化するかが分かるということはその物質が存在するあり方を認知しているということだ、といえるでしょう。

このような動物の身体機構が(拙稿の見解では)、物質が存在していることの生物学的意味を表している、といえます。さらに言えば、この少なくとも哺乳類に共有されている身体機構が物質の存在の基礎をなしている、ということができます。

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物質の人間的基礎(4)

2014-01-04 | xxx7物質の人間的基礎

私たちにとってどうでもよい物質はないのと同じである、という考えはかなり説得力があります。

どんな物質も、それが私たちにとってどうでもよい物である場合には、私たちはそれを無視することができます。たとえば私たちに最も身近な物質、たとえば私の身体についても、その一部分である組織細胞など私にとってどうでもよい物質については、それはないのと同じである、ということになります。

私の胃に早期のガン細胞 が見つかったとして、私はどうすればよいのか?外科手術をするか、抗がん剤か?真剣にそう思うでしょう?医者あるいは家族とその細胞について真剣に話し合うでしょう。しかし、私が死刑囚で明日死刑になることが確実である場合、そのガン細胞はないのと同じです。

物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき、あるいは、それについてだれかに語りたい時、そういうときにはっきりと存在する。

それをどうすることもできない、あるいはする必要がまったくない、あるいはそれについて語る機会がまったくないような物質は、科学者が理論的に存在すると言っていても、ふつうの人にとっては、ないと同じです。

たとえば銀河系の中心には超重量級のブラックホールがある。筆者が若い頃には、この理論はなかった。前世紀末から今世紀にかけての最近の天体観測データから確立された科学理論です。宇宙科学者にとってはインパクトの大きな理論の転回です。しかし、宇宙科学者ではないふつうの人にとっては、ブラックホールなどあってもないと同じですね。

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物質の人間的基礎(3)

2013-12-28 | xxx7物質の人間的基礎

科学理論から推測すれば雪は白かった。だから雪に覆われた地域では保護色として白い表皮を持つ恐竜が進化しただろうとも推測できます。しかし変温動物の恐竜は雪の中では動けないでしょう。そうすると白い恐竜は存在しなかったのか? こういう議論ならば科学者も参加してくれるでしょう。しかし拙稿がここでしている議論は、もう少しややこしい。

「雪は白い」と言える世界が、私たちが住んでいる世界です。しかし、無色の結晶の粉末が可視光線を波長によらず一様に反射するような物理法則に従っている世界では、かならず「雪は白い」と言えるのか? 物理法則は同じであっても人間がいない世界では、そうはいかないのではないか?「雪は白い」と言う人間がいない世界は私たちが住んでいる世界と同じなのか、いや同じではないのではないか、という問題です。

 たとえば、人間が住んでいない南極にも雪はある。というよりも、雪しかない。その雪は白いのか?

 愚問に聞こえますね。

 行ってみればすぐ分かる。現代では犬ぞりなど使わずに、飛行機で簡単に行けます。間違いなく、そこの雪は白いでしょう。

 しかし、行ってみなくても、そこの雪は白いに決まっているではないか、と思えますね。それは科学理論によってもそうであると分かりますが、それ以前に直感でそうに決まっていると思えます。

まあ、そういうことにして、先に進みましょう。

それでは、火星の南極にあるらしいとされている雪は白いのか?

これは愚問でしょうか?

H2O

固体の粉末は白い。故に火星の雪も白い。そうは言えますが、ちょっとすっきりしない気がしませんか?

次にこういう話はどうでしょうか? 海王星の軌道の外側に、2004年に発見された準惑星ハウメア の表面は望遠鏡の分光分析で白色と観測されています。反射率から推定すると雪のような氷の結晶らしいとされます。この雪(らしい物質)は白いのか?人間は、まず遠い未来であっても、たぶん、この天体には、地球から遠すぎるので、着陸できないでしょう。そういう天体の雪は白いのか?

「ハウメアにおいて、雪は白いと言えるか?」こんな質問をされた場合、惑星科学者、あるいはSF愛好家以外の人は横を向いてしまいたくなるでしょう。直感では想像するのもむずかしい。科学理論を援用すれば、仮にそこに人間を置いた場合、その人間は視覚で白を感知するはずである、と推定されるが、それをもって「ハウメアにおいて雪は白い」と言ってもよいのでしょうか。科学者は、たぶん、そう言ってよい、というでしょう。一方、科学者ではないふつうの人は、そういう分からない話は聞きたくないと思うでしょう。

初めて名前を聞いただけの天体に関して仮にそうであるとしても、それを知って私はどう動けばよいのか?もしそうでないとすれば、私はどうすべきなのか?どうにも関係はありそうにありません。

ほとんどの人にとって準惑星ハウメアの表層における雪状の物質はこのような話として存在しています。ほとんどの人にとってハウメアの雪は、要するに、どうでもよい物質です。取るに足らない話です。しかし、地球上あるいは宇宙の、どの物質についても、物質というものは、たいてい、このような話としてしか存在できないのではないでしょうか?

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物質の人間的基礎(2)

2013-12-21 | xxx7物質の人間的基礎

たとえば「雪は白い」という表現形式は、ふつうに聞けば、客観的事実だといえる。客観的事実であればそれは科学的真実である。雪は可視光線を波長によらず一様に反射するから白い。

雪は白い、ということが真実であると私は知っている。なぜ知っているかというと、私自身が雪を見るといつも白いと感じるからであり、また、だれもがそう感じると私が感じるからである。しかしそれだけではない。次のように理論によっても、雪が白いことがわかる。

つまり、雪は氷の結晶の粉末である。氷は透明である。雪に限らず無色透明な結晶の粉末は白い。無色の結晶の粉末は可視光線を波長によらず一様に反射するから白い。

しかし、可視光線を波長によらず一様に反射する物はなぜ白いのか?それは人間の視覚はそういう光を白と感じるようにできているからである。あるいは、そういうような光を感じる場合、それを(日本語では)白という言葉で表すからである。

絶望するとなぜ頭の中が真っ白になるのか?人間はだれでもそうなのか?吹雪に閉じ込められて遭難した時の記憶を生まれる前の記憶として持っているからなのか?白はなぜ涼しいのか?なぜ清潔なのか?

白は清潔な感じがする、というのは真実なのか?アンケートを取れば90%の人の人はそのとおりと答えてくれます。しかし90%の人がそう感じるならばそれは真実なのか?

人類が誕生する遥か昔、恐竜が大絶滅したころの時代に降った雪も白かったのだろうか?私たちの常識では、当然、雪は白かったはずです。しかし、なぜそう言えるのか?

恐竜たちが「雪は白いね」と(恐竜語で)語り合ったということはないでしょう。「今朝、白い雪が降った」と(恐竜語で)日記に書いた恐竜はいませんでした。雪の反射スペクトルを測定した恐竜はいませんでしたし、観測結果を発表する学会もありませんでした。

恐竜の時代も雪の成分や構造は今と同じはずです。そうであれば、太陽光の反射スペクトルも同じ、つまり水が固体として結晶した場合、その構造の粉末は可視光線を波長によらず一様に反射するから、私たち人間が見れば白色に見える。このことをもって、過去のその時代でも雪は白かったというべきなのか?という問題です。

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物質の人間的基礎(1)

2013-12-14 | xxx7物質の人間的基礎

37 物質の人間的基礎 begin

    37 物質の人間的基礎

ここに物がある。

物があるということは、単に、物があるからだ、と思えます。ここに物があるのは、しかし、ここに人間がいるからでしょう?

人間がいなければ物質はない。いや、そういう言い方をすると、人間原理 に過ぎない、と叱られそうなので、「人間が物質を感知しなければ物質に関する会話はない」と言い換えます。

人間が物質を感知しなければ物質について語る者はいない。言語を使う者は人類だけですから、人間がいなければ何事に関しても語るものはいない。当然です。

言語を使えなければ何に関しても会話はない。当然、物質に関する会話もない。物質に関する会話がなければ世界は語られない。物質に関する会話がなければ科学はない。結局、人間がいなければ物質はないのと同じである、と言いたい。これは言えるでしょう。

言い換えれば、人間の身体がなければ世界や科学という言葉は意味がありません(拙稿章「この世はなぜあるのか?」 )。

人間がいなければ物質はないという考えは、しかし、あまり一般的ではありません。そんな話はふつうしません。たいていの人は、そういうような会話は聞いたことがないでしょう。公開の場で言ってみても、空気がしらっとなりそうです。

「人間がいなければ物質はありませんね。そう思いますか」と面と向かってしつこく聞いてみても、賛同しないという人が多いでしょう。特に科学者は賛同しません。科学は人間の主観に影響されるものではなく、自然を客観的に捉えたものでなくてはならない、と多くの科学者は信じています。

人間がいない無人島にも、珊瑚礁は存在する。人類がいなかった一億年前にも恐竜は存在した。人間が入れない原子炉の炉心にもプルトニウムは存在する。と科学者は言い、ふつうの人は、それはそうだろう、と思う。

しかし、と拙稿は言う。人間がいなければ物質に関する会話もない。物質に関する会話がなければ世界は語られない。人間がいない無人島では、珊瑚礁は語られない。人類がいなかった一億年前には恐竜について何も語られなかった。人間が入れない原子炉の炉心でプルトニウムを触りながら何かを語る者はいない。それらの場では、物質について何も語られない。語られないものは、ないと同じである。結局、人間がいなければ物質はないのと同じである。

科学は客観的物質現象を記述するから、人間の身体があろうとなかろうと、どうであろうと科学の真実は変わらない、という考えが常識ですね。確かに近代科学はそのような常識の上に作られています。このような近代科学の世界観は近代哲学に基礎をおいています。

近代哲学によれば、人間が記述する世界の描写は、人間の感覚によって捉えられる現象だけを源泉としているから、人間の感覚の外側にある生の物自体については表現することができない(イマニュエル・カント純粋理性批判 』既出)。

物自体そのものは表現できないけれども言語や数学を使って物自体と矛盾のない表現形式を作ることはできる。世界の物自体と矛盾なく表現されている形式を真実という。その真実を法則として理論化したものが科学だ、という考え方です。

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