私たちは、こうしてこのように物質世界があるから、そこで身体をこう動かそうと思い、こう動かしているのだ、と思い込んでいます。しかしそれは、そう思い込んでいるだけで、実は先に無意識のうちに身体が動いてそれによって物質の存在が感じられ世界が感じられて、それからその感じられた物質世界の中でこう身体を動かそうと自分は思ったのだと思い込んでいるのではないでしょうか?
どちらが本当なのか?確かめる方法はあるのでしょうか?
物質が存在するから私たちはそれを感じることができるのか?それとも私たちがそれが存在すると感じるから物質は存在する、ということなのか?
確かめる方法は、ありません。
確かめる方法はありませんが、どちらかが本当という気がしますね。どちらが本当という気がしますか?
筆者ですか?筆者は、この問題は本当の問題ではない、偽問題だ、と思っていますから、どちらが本当と思っても構わない、と思っています。要は、言葉を使いやすいように使えば良い。そうすると、皆さんがふつうに使っている言い方、つまり物質の存在と世界の存在をまず前提とした言葉遣いが分かりやすくてよい。そういう言い方を使わない理由はない。いや、素直に言えば、そういう言い方を使う方が便利だ、ということになります。
これで一安心。ふつうに物質世界は存在していることになります。私たちたちは身の回りにいろいろな物質が存在していることを感じ取って、いつもそれをどうにかしようとしています。自分の身体と物質の変化の仕方を予測して、よいように身体を動かして物質を操作します。たとえばアクセルを踏んで車を走らせる。コップを持ち上げて水を飲む。風呂敷を広げて一千万円の札束を包む。などなど。何も不思議はありません。
しかし一方、このようになっているこの世界は、私たち人間が身体を動かして感覚器官で変化を感知し、同じ人間の仲間と協力して仕事をし、言葉を語り合って生きていくために、こうなっていることが必要だからこうなっている。世界がこうであることによって私たち人間はうまく仲間どうし協力することができる。協力し合ってうまく栄養供給システムにつながることができる。あるいはそうすることで子孫を残すことができる。そうすることでその子孫が物質の存在を語り合うことができる。逆に、そうできるように世界はこうなっている、ということができます。
物質世界はこのようにして存在している。人間の身体の仕組みによってこのように存在している、といえます。そうであれば、そのように存在するこの世界で、私たち人類は生活し、歴史を作り、科学を作ってきた、ということになります。歴史といっても科学といっても、そうであれば、人間の身体の仕組みの上に作られている、ともいえる。
繰り返せない出来事は歴史となって残り、繰り返せることは科学となっていきます。
原始時代の石器作りであれば、人間が石と石を打ち合わせると石が割れることで石器の科学が作られる。現代の先端科学であれば、火星探査機が送ってくるスペクトルデータで火星の科学が作られ、リニア加速器で衝突させた素粒子のエネルギー測定値で、素粒子の科学が作られます。これらの科学はいずれも、人間がどう動くと物質世界はどうなるかという予測として作られています。
歴史上、人間の経験を慎重に整理することで正確な科学が作られてきました。科学が正確になった結果として、現代科学は驚異的な精度で物質世界の変化を予測できます。たしかに直感で見ると科学の精密さは驚異的ですが、それは私たち人間の身体が、もともと、それ(科学の精密さ)を可能とする程度に精密な予測能力を持っているからだといえます。
人間の身体は物質が作る複雑な空間の構造を(かなり精密に)推測し、物質が変化する場合の時間の推移を(かなり精密に)予測できます。また物質の間に働く力や、変形や振動や波動を(かなり精密に)感知できます。それらを記憶し、繰り返される法則として、言葉や図や数学で表現できます。人類が使う言語や図式や数学は(数学に典型的に見られるように)無限の階層構造を表現できますから、物質の空間的時間的構造をいくらでも精密に記述できます。
歴史も科学もこのような人類の身体能力の上に作られていることは明らかでしょう。歴史も科学も私たちの毎日の生活も、物質の上にできあがっていて、それらの物質は(拙稿の見解では)人間の身体の上に作られている。そうであれば、歴史、科学その他、私たちがこうであると思っているすべては、私たちの身体が作り出している。それ以外のものは何もない、といえます。
私がここにあると感じているような物質世界は、人間の身体を持つものならばだれもが同じようにこれがあると感じている。逆に、人間の身体を持たない動物、あるいはロボット、あるいは異星人がいたとしても、彼らにとっては、私がここにあると感じているような世界はない。また逆に言えば、このようにあるものだけが私の感じているこの物質世界であって、そうでない世界はありえない、といえます。私の感じているこの物質世界と違う世界が存在する、と言いたくても、そのような存在の意味は成り立ちません。
人間の身体を持たない動物、あるいはロボット、あるいは異星人が感じるような別の世界がある、ということはできない。人間が感じられない別の世界がある、という言い方は意味がありません(一九七四年 トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどういうことか』既出 )。また、私たちの身体とは関係なく物質世界が存在する、という言い方も意味はありません。なぜならば、私が今ここにこの身体でこのように感じているものだけから成り立っている物事を、私たちは物質という言葉で語り合っているだけだからです。
物質で成り立っている世界の他に別の世界がある、と言っても、それは深く語れば語るほど、矛盾した理論になり、間違った哲学に行き着いてしまうだけです(
拙稿24章「世界の構造と起源」
)。私たちの身体はここに見えるような物質世界しか語り合うことはできないし、逆に物質とはそのような私たちが語り合えることだけから作られている、といえます。■
(37 物質の人間的基礎 end)