哲学の科学

science of philosophy

偽善する人々(10)

2015-10-10 | yy47偽善する人々

私たちは偽善者に操られるのは不快でたまりません。ほかの方法で操られるほうがまだましだ、と思えるところもあります。
たとえば金で操られる。現金を十分払ってくれればコントロールされてもよいかな、と思ってしまう。偽善を使わないで人間をコントロールする仕方は、お金のほかにも、たとえばマシンガンを使ってコントロールする仕方とか、セックスを使ってそれをする方法とか、宗教やイデオロギーや集団いじめを使ってそうする方法などがあり、実際歴史上、あるいは現代でもある地域では、よく使われています。
偽善を嫌うあまり、ほかの術策にはめられてしまう。独裁政治はしばしばそうして現れる。正義は偽善を排除できるが、偽善はなかなか正義を排除できません。

偽善者を避けられない世の中ならば、そういうものと割り切って、善意と偽善を峻別しないでやっていけないものでしょうか?まあ、できそうにありませんね。昔から今でも、人々は偽善者を見つけては憎む。それは、私たちの身体が、たぶん、善人を好み悪人を憎み、グレーゾーンからも鋭く偽善者をかぎ分けようとし続けるように作られているからでしょう。

偽善者にも悪い偽善者と善い偽善者がいる。善い偽善者は偽善者であることを見抜かれない。ばれない。ばれない偽善者は善人としてふるまうから、善人と同じことをするはずです。されるほうから見れば善人と同じことをしてくれる人ならば善人にしてもらうのと同じように幸せになるでしょう。それならばそれでもよいではありませんか?
しかし残念ながら、こういう考え方は私たちの身体に合わない。身体の直感は偽善のにおいをかぎ分け、弾こうとします。であるからして、ばれない偽善者も存在を許されません。
私たちの身体の作りがそうであるならば、社会をうまく維持していくためには、皆が善人になろうとしなければなりません。皆が善人である、いちおうそうである、としなければなりません。実際、それが現実のこの社会なのです。

きれいは汚い。汚いはきれい(一六〇六年頃 ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」Macbeth (1.1. 11-12))。■










(47 偽善する人々 end)




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偽善する人々(9)

2015-10-03 | yy47偽善する人々

さらに柔らかい準公的機構として学会、同好会、親睦会、町内会、教会、NPOなどの任意団体や非営利公益法人などがあり、これらも個人とみなす場合、おおかたは善人です。その実体的な組織構造は官庁など公的官僚組織と同様の仕組みで機能しますが、構成員にとっては生活をかけたフルタイム業務ではないので効率は低く非常事態にはふつう機能しません。
しばしば組織代表と事務局長などがフルタイムあるいは生活や人格がかかるコミットをしており、組織の行動は、その二人ないし三人の個人的資質に大きく影響されます。官僚組織としては柔らかい分だけ、ときとして偽善者の様相を呈する危険は、官庁や大きな企業など正規の官僚組織に比べると大きいといえます。

私たちは偽善者にだまされるのはいやですが、いくら用心しても、偽善は見抜けない場合が多い。逆に、偽善者のように見えても実は善人であるという場合も多いようです。私は見抜ける、と思っている人こそ、よくだまされる、間違える。
また私たち自身が偽善者と疑われることもあります。社会的な活動をしていればそれは避けられません。それを気にしすぎるとまたおかしなことになる。ある程度、鈍感にしていられる必要があります。
偽善者を警戒しすぎても、私たちはうまくやってはいけません。社会は基本的には、善意を支えにすることで成り立っている。善意のリーダー、善意の仲間が多くいて現実に対処していくのが永続する社会です。偽善を排除する仕組みを維持する必要がありますが、それは社会の善意を守るためであるので、偽善者を殲滅して正義の勝利を徹底することが目的ではないでしょう。












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偽善する人々(8)

2015-09-27 | yy47偽善する人々

次に官庁など公的組織の場合、これもふつうは善人と思ってよいでしょう。公的組織のトップは大臣などの責任で政府が人選委員会などの審議を経て任命しますが、実績と経験のあるまともな人が実際には任命される仕組みになっています。トップの下にあるピラミッド式の実行部隊は上司の命令で動くようになっています。
官僚組織は建前でしか動かない、とよく悪口をいわれます。まさにその通りなのですが、そうであるからこそその動き方は予想可能であってその意味で信頼できます。
ちなみに官僚主義、ビューロクラシーという現象は昔からよく知られているので、その行動様式を勉強しておけば理解可能です。官庁組織には建前しかなく裏がないので偽善もできません。見えるようにしか動かないので、偽善者とはいえないでしょう。
軍隊も警察も学校も公的組織である限り、その中身は官僚組織です。
軍隊や警察は、暴力と恐怖を制御することを使命としているので、外部者から見ると怖い集団にみえますが、その機能を維持するために、上官の命令でよく制御されるように訓練されているので理解しやすい官僚組織です。
裁判所や大学、学校などは裁判官、教師の良心が尊重されますが、これらも組織としての実態は上司が人事を行うことで部下をコントロールする仕組みで秩序が保たれる官僚組織として機能しています。
これら組織機構は上意下達の機構であり、かつトップは善行をなすことを任務として実行するので、機構全体も善人であるかのように行動することになります。
また公的な組織は、法令、規則などに成文化された公的使命を持っていて、末端の成員までその使命を守るように教育されています。ふつう組織の成員は集団として仲間意識を持ち組織特有のカルチャーを持つので、公的組織の使命はその組織カルチャーを通じて組織の上から下まで貫かれた暗黙の行動規範の基底をなすことで機能しています。
官僚制を核とするこの実体的な組織構造は公的組織が継続して機能するための条件でもあるので、逆にいえば、安定して継続している公的組織はいずれこの構造を保有しています。










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偽善する人々(7)

2015-09-19 | yy47偽善する人々

見知らぬ個人に頼ることは、いずれにせよ、リスクが多いから避ける、という方法もよく使われます。個人ではなく会社、役所、政府、国家など組織機構を信頼するほうがまだまし、とする考えです。会社や役所など、これらの機構は、世の中でそれなりに何十年も機能しているところを見れば、信用できる存在であるらしい。そこに所属している正規の職員ならば信頼できそうです。
それらの組織機構は善意で行動するのでしょうか?集団として偽善者ではないのでしょうか?
会社など法人組織を一人の人としてみた場合どうでしょうか?善人ですか、悪人ですか、それとも偽善者でしょうか?
まず営利企業の場合、ふつう社長をはじめ社員などは営業利益を出すために努力するので、顧客から見ると信頼できる善人にみえます。対価を支払えば期待通りのサービスを提供してくれます。逆にいえば、顧客の期待を裏切るような企業は永続できないので市場から消えているはずです。
中には顧客をだまして暴利をむさぼる悪徳企業もいますが、そういう類はいずれ評判を落として消えてきます。その業界で長く営業している会社は大丈夫でしょう。会社のブランドや評判をチェックしておけば顧客は安心して付き合うことができる。その会社が広告やコマーシャルやカタログなど証拠に残る媒体で公式に発言している言葉は嘘ではないと信頼できます。
欠陥商品を売ってしまったことが社内で判明したにもかかわらず、販売中止せず、あるいはリコールしなかった製造会社は善人のふりをしたということで偽善者ということになります。これも暴露されれば社会的糾弾を受けて損害賠償ばかりか売り上げ低迷に見舞われ、大損害を受け、トップは解任されるでしょう。そうであるから永続する会社はそういうことはしません。
たまには特別にダメな個人の行為が重なって長年の信頼を壊してしまう会社もあります。新聞テレビは毎日そのような事件を報道しているので、一流企業といえども最近はダメになっているような気がしますが、全国の会社の数を考えれば、長年続いているほとんどの会社はまあ大丈夫でしょう。善意で動いていると思って心配なくつきあえます。









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偽善する人々(6)

2015-09-12 | yy47偽善する人々

人間というものがそもそも私利私欲から逃れられず利に流されることは、社会に生きる人はだれもがよく知っています。それにもかかわらず、エリートには無私の美しさを求める。
人類は、群生霊長類から進化した過程で、集団に共鳴し、権威あるリーダーに追従することで社会を形成し維持する性質を発達させてきました。集団を率いる自分たちのリーダーは強く美しい理想的な君子であって欲しいという思いは素朴で根強い。
集団の正義を守り私利私欲に超然としているリーダー像。その資質を備えるエリート群。青少年はそのように育ってほしい。青少年のお手本になるような正しいエリートがいなければならない、という理想はどの社会にもあります。私たちは、無意識のうちに、そのような理想のエリートを必要としているからでしょう。実際、歴史上の社会はこのように構成されていたし、現代でも、この理想の上に現実の社会秩序が成り立っている、とみることができます。
その理想的エリート像の期待が裏切られたとき社会は怒り悲しみ、制裁を課します。偽善者であってはならないものが偽善者であることは社会秩序の根源を冒すからでしょう。

理想はそうである。しかし残念ながら現実の社会は偽善者に満ちています。
私たちは社会生活において偽善者にだまされたくない。偽善者にだまされることを避けるためにはどのような用心をすればよいのでしょうか?見知らぬ人と取引する場合はよほど慎重に話を進めなければいけません。紹介者がいない場合、インターネットで知り合った場合、身元が分からない人、外国人など、取引の相手としてはふつう好まれません。初対面からにこにこ笑いかけてくる人も危ないかもしれない。そうかといっても、目をそらしてぶっきらぼうな言い方をする人はもっと危ない。何を信頼してよいか困ります。
見知らぬ個人は残念ながらやはりしばしば偽善者であります。見知らぬ人は信用してはならない。それでは、何を信用すればよいのか?

仕事をしていれば、知り合いがいない業界の人とも取引しなければなりません。生活の面でも現代人は、よいものを安く買うために、インターネットを通じて見知らぬ相手から購入しなければなりません。見知らぬ個人はしばしば偽善者である、とすれば、どうすればよいのでしょうか?
その人を知っていそうな知人に評判を聞いて見る。しかし同じ業界ならともかく、まったく知らない世界の人の場合、自分の知り合いに聞いてもふつう無駄でしょうね。インターネットのことはインターネットに聞いてみる、という知恵が現代の若者にはあります。フェースブックとか、個人の情報や評価が手に入るルートがあるでしょう。それでもデジタルの世界では隔靴掻痒のようなデータしか取れない場合が多い。直感で信用できるところまでいきません。
若い人は、インターネットなどを駆使して、信用にたどり着こうとしてがんばるが、それほどうまくいってはいないようです。年寄りはインターネットなど使えませんが、むしろ直感の世界では有利です。よく知っている知り合いが多い。長年の人脈ネットワークをたどって信頼できる経路から相手を見つけることができます。あとは自分の経験と勘による人物鑑定。それで生き抜いてきた人は偽善者を上手に避けることができる。経験と勘が身についていない未熟者はどうすればよいか、言葉で教えることはできません。











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偽善する人々(5)

2015-09-05 | yy47偽善する人々

ボランティア活動家は、法や契約でしばられていないだけ純粋な善意で公共に奉仕しています。報酬は実費だけでしょうから、他に職業を持っているか、富裕な人なのでしょう。しかし奉仕活動が社会から期待されるものであるためには信頼が必要です。
ボランティアを名乗る人であっても、期待された行動を確かにしてくれることが信じられなければ公共の役割を委託できません。ボランティアを名乗り行政や関係者の協力を得るためには、本人が善意を持っていることだけでは不十分です。職業歴などの背景、所属団体、活動実績、推薦状などによる信頼が必要です。活動の受け入れ側としてはその信頼により奉仕などの仕事を委託でき継続できることを期待します。
ボランティアが善意からしていると見せかけている行為が実は私利私欲を目的とするものであった場合、その人は偽善者です。たとえば市の補助金を受けて講習会を開催したボランティアが教材を売って利益を得ることを目的としていた場合など。偽善であることが判明した場合、社会は糾弾するでしょう。
そのような人がボランティアとして認められないようにする仕組みが社会には必要です。

会社の社長やスポーツチームの監督など組織団体のリーダーも、その団体を代表して会社内やチーム内で正義を行うことになっています。社長や監督は、公共に奉仕するエリートと同じように、会社やチームの目的に奉仕しなければなりません。社長は会社の収益をあげるために社員に命令することはできますが、会社の利益にならない個人利益のために社員を使った場合、会社内からも社会からも非難されるでしょう。チームの監督も、選手を自分の個人的目的で使役すれば同様です。
これら種々の組織団体のリーダーも権力を持つことによって偽善者になりうる可能性を社会から疑われているのであって、実際偽善をしたことが判明した場合、許されません。

作家、文化人、俳優、芸能人、タレント、スポーツ選手など、著名人、有名人であるというだけで、偽善は許されないという社会現象があります。これらの人々は、優れた才能があって、競争に勝ち抜いてきた人々であるから著名になれたのだろう、と思われています。私たち社会のエリートです。
エリートであるというだけで、嘘をつくことはあってはならない。社会のモラルを守らなくてはいけません。
有名人であるからには汚い生きかたは許されない、とされる。これは、逆に人に勝る人々は理想的に美しくあるべきである、という期待を私たちの社会が持っているからといえます。
私たちの社会は、そういう社会であるべきだ。そのような尊敬すべき美しい生き方をしている人々が競争に勝ち続けてエリートになってくれなければいけません。私たちの社会は、そのような強く美しいエリートにいてもらう必要を持っているらしい。つまりこれらの著名人は理想的に清廉で嘘をつかず偽善を行わないからこそスター、タレント、エリートとして尊敬され、有名になり、いつでも注目されるのでなければならない、とされています。
逆に、たまたま競争に勝ち抜いて有名人あるいはエリートになってしまった人は、嘘をつかず偽善を行わないように行動しなければ、その偽善が見つかった場合、世間から放逐されてエリートの地位を失ってしまいます。私たちの尊敬を裏切ったエリートは許されるはずがありません。
これら競争に勝ち抜いた人々のほうも、エリートの座を降ろされて家族親類からの尊敬を失いまた仲間から軽蔑されることはとても嫌だろうから、恥ずかしい嘘はなかなかつかないだろう、と信頼できる仕組みになっています。これは有名人あるいはエリートの品質保証制度になっています。
こういう社会の仕組みが働いていれば、著名人、有名人あるいは権力者層のエリートたちはだんだんと本心から清廉で偽善を行わない人になっていくでしょう。特に大きな組織のリーダー、人の上に立つ経営者、代表、強い権力を行使する責任者となる人は、尊敬される理想的なエリートでありたいという気持ちが自然に身についてきますから、偽善を避け本心を述べながら現実に対応する姿勢をとることができるようになります。
そうなると、偽善者とされずに現実を処理していく立派なエリートになる人が育ってくる。まあ、うまく環境が許せばですが、そうして尊敬すべきリーダーが実際に頂点に位置した社会が実現する可能性もあります。古代の伝説の王、皇帝は賢かった、と史書にありますが、そうであったのでしょう。











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偽善する人々(4)

2015-08-22 | yy47偽善する人々

総理大臣に限らず、正義にもとづいて毎日の仕事をしている人が世の中には必要です。権力を与えられた地位に就いていて、私利私欲のためではなく社会的使命感に従ってその権力を行使する。法令や多数決でそのような地位に就いている人が典型です。公務員あるいはそれに準ずる人々がそのように必要とされているとすれば、その必要な数だけ実際にそういう人がいてくれて社会は正常に維持されているはずです。
その正義を行っているはずの人がいるとしても、その人が行う正義行為が見せかけであって実は私利私欲を目的としていたと分かったとき、その人は偽善者といわれる。社会の期待を受けて正義を行っているはずの人々は、正義を期待される地位や立場にあるがゆえに偽善者になり得る可能性をも強く持っています。
そのような、正義を行っているはずの人々とは、どのような人々なのでしょうか?

まず公共に奉仕する人。助けを必要とする人々を助ける社会的役割を担う人。聖職者、慈善家、篤志家、公務員などが思い浮かびます。職業的には医師、看護師、教師、弁護士、代議士、司法官、軍人、政府高官、ボランティア活動家などでしょう。
これらの人々は職業人である場合は国家試験や選挙で選ばれたエリートです。社会に必要な正義を実行するために国によって特権を与えられた人々です。法令に従って正義のために働くことを社会から期待されています。その権力の行使を許された職業についている限り、正義を行うことが当然の義務であって、私利私欲のために職権を乱用すれば強い制裁を受けることになっています。
これら権力者層のエリート職業人は、職権を乱用しなくとも、正義にもとる行動をしたことが発覚した場合、問題視されます。粗暴な発言やセクハラ、交通違反や脱税、虚偽申告などふつうの人が犯した場合は重大でない違反行為や迷惑行為をした場合でも、一般の人に比べてかなり強く社会から糾弾されます。新聞や週刊誌に載ったりします。
一般の人々はこれらのエリートが良心に従って職務を誠実に実行するだろうと期待して生命財産を託しているのですから当然です。モラルに抵触するような行為、重大なマナー違反の振る舞いは、その人の品性への疑いを生じさせ、その良心の存在を疑いたくなります。そうした人物は特権的地位から排除されるべきです。また庶民感覚の上からも、地位にあぐらをかくような尊大な偽善者は嫌悪されるでしょう。











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偽善する人々(3)

2015-08-15 | yy47偽善する人々

総理大臣が偽善者であることは許されない、と思う人は多い。本当はどうなのか、知りたい人は多い。しかし一方、原子力や自衛隊に関しては総理大臣が偽善者であるかどうかよりも、そういう課題が実際危険であるかどうかのほうこそ知りたい、と思う人も多い。
総理大臣が偽善者であるかどうかは、結局は、分からないかもしれないが、原子力や自衛隊が危険かどうかは分かるのではないか?それも分からないというなら分からない理由は分かるのではないか、と思う人も多い。安全問題を「分からない」と言って済ませるような総理大臣では困ります。
総理大臣が偽善者であるかどうかは後で述べるように非常に重要で興味を引く問題でもありますが、それと国民の安全問題とは混同すべきではないでしょう。
ちなみに、どんな場合でも100パーセント安全ということはない、とよく言われます。どんな事象についても完全な予測方法というものはありえないことは、ほとんどの人は知っていますが、安全保証がないものが持ち込まれることもほとんどの人は納得しません。この点から、安全問題は、しばしば、いつまでも分からない状態で推移することがあります。
そこに、本当はどうなのか、という問題と、それに引きずられて、回答者が本当はどう思っているのか、という第二の問題がからみあって出てくるとますます分かりにくいことになります。

そもそも総理大臣が偽善者でないはずがない、と思う人もいる。偽善者でない人が多数派の支持を得られるはずがない。みんなに良い顔をする人は偽善者ではないですか?と思うのでしょう。
まあ、そうかもしれないが、総理大臣が偽善者であっても悪いことをしなければよいではないか、と思う人もかなりいます。実力のある偽善者のほうが実力のない非偽善者よりも皆の役に立つ、あるいは現実を知っている偽善者のほうが幻想の理想を追う非偽善者よりも結果的に悪いことをすることが少ない、と思う人もいるでしょう。もしそうであれば偽善者が総理大臣になることは悪いことではないことになります。
一方、腹黒い偽善者などに我が国を代表してほしくない。国民として恥ずかしい、世の中が不気味になるよ、国民がだめになるよ、と思っている人も多い。古代ギリシアや古代中国の賢人たちが言ったように、国家のリーダーは聖人君子であり明るく正義を代表する人物であるべきだ、という考えは素朴ですが国家体制に従う人間心性の基本にあるのかもしれません。










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偽善する人々(2)

2015-08-08 | yy47偽善する人々

偽善かどうかは単純な白黒ではありません。ある人はそれを偽善者と思うがほかの人はそうは思わないというグレーゾーンがあります。自分の名前を冠した図書館を大学に寄付した篤志家は偽善者と思う人もいます。養老院に多額の寄付をした人が議員に立候補した場合、偽善者と言う人もいます。風評被害と言われる牛肉を食べるところがテレビニュースに出た政治家を偽善者と言う人もいます。
白か黒か、その間に広がるグレーゾーンは幅広い。限りなく黒に近いグレーだとか、白のようだけれどもわずかにグレーっぽいとか、グラデーションがあります。
見る人によってグレー度は違う。見る角度によっても違う。この顔つきは怪しい、とか、しゃべる言葉が上滑りしている、とか、かなり主観的に私たちは判断します。
納得しやすい見分け方は、その人の背景を見る方法です。何を狙ってそうしているのか?「それをすることで誰が得するのか?(Cui bono?)」という質問は偽善者をあぶりだします。また逆に、そうしていったんあぶりだされてしまうと、その人が内心どう思ってその行動をしたかとは別に、その行為だけで偽善者とされてしまいます。

一番けしからん偽善者であると糾弾されることが多いのは政府や政権にある政治家などいわゆる権力者でしょう。逆に正義の立場でそれら権力者を責める人びと、つまり野党、評論家、新聞、雑誌の記者、テレビのキャスター、コメンテータ、有名タレントなど世論をリードしているといわれる人々もまた、偽善者と疑われる場合が多いのは面白い現象です。
正義は諸刃の剣でもある。正義を語る人はまた偽善者と思われる危険と背中合わせです。実際、偽善者がしばしば正義を語ることを多くの人は知っています。

原子力は安全だと思っていないのに、自分の利益へひそかに誘導するために「安全だと思っている」と公言することは偽善です。心から安全だと思っていて「安全だと思う」と公言すれば偽善ではない。しかし逆に、安全などには興味がないのに、自分をよく見せるために「安全が大問題だ」と叫んでいる評論家がいるとすればその人は偽善者でしょう。
自分が実は興味ないのに利益があるから興味が出てきて、しかもそのことを自覚していない発言者も多いようです。それらの人は偽善者のグレーゾーンにあるといえる。本当はどう思っているのか、本音でそう思っているのか、によってグレーなのか、ホワイトなのか、ブラックなのか偽善者であるのかどうかが決まる。自分がブラックであると自覚しているブラックよりも無自覚なグレーのほうがよほど始末に悪い、という場合もあります。









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偽善する人々(1)

2015-08-01 | yy47偽善する人々

(47  偽善する人々 begin)



47  偽善する人々

人間は偽善をする。善いことをしていないのに善いことをしているふりをします。実は悪いことをしているのに善いことをしているふりをします。

悪いことをしていると思われると損をするし、善いことをしていると思われれば得をすることが多い。人はふつう利にさといから偽善が可能であれば、しばしば、それをするはずです。実際、世の中は偽善に満ちている。
一方、他人がする偽善にだまされると損をすることが多い。善意を裏切られて傷つく。したがってふつう人は他人がする偽善は大嫌いです。しかし自分の利を求めて偽善をする人は絶えないので、だれでも生きている以上、しばしば人が偽善をする場面に出くわすことはしかたがないでしょう。

偽善はなぜいけないことなのか?まず偽善があると分かると不愉快です。偽善をして得をする人がいればその分、偽善をしない人が損をする。いや、その人が得した分の何倍も損をする場合が多いようです。腹が立ちますね。
腹が立つ以前に白々しい嘘に出会うとぞっとする。悲しくなる。私たちは嫌悪感を持ちます。人間不信になります。
そうであれば、偽善が横行するような場では、言葉を交わすことが空しくなる。人と付き合うことが空々しくなります。それでは人間関係が円滑に保てません。約束事もできない。貸し借りもできない。ビジネスもうまくいかなくなるでしょう。行政も政治も娯楽も芸術も、うまくいかなくなる。そこかしこに偽善ばかりがはびこるようでは、社会がだめになりますね。

偽善者が得をするような世の中では、偽善は後を絶たない。偽善者を犯罪者のように取り締まって罰を与えたり、刑務所に隔離したりすることができる制度にすれば世の中はよくなるはずです。しかし実際はそうなっていない。偽善を犯罪として取り締まることは、実際問題としては、むずかしいのでしょう。

明らかに嘘をついて人の財物を詐取すれば詐欺として犯罪になります。これも被害者からみれば、加害者が善人のふりをするという点で偽善でもあります。見知らぬ人が「おばあさん、荷物を見ていてあげますからトイレに行ってきなさい」といってくれても信用できません。置き引きである可能性があります。振り込み詐欺、悪徳内装業者など、年寄りを狙う詐欺は後を絶ちません。
善人のふりをして財物を狙う。この手法を合法的に使えれば楽に利益が上がります。インチキ商法など上手なものはだまされた後でも気がつかない。見事な偽善ともいえます。
「お客さん気に入ったから仕入れ値でさしあげます。半値でいいよ」といわれて信用する人はよほど人がよい。だまされた場合、商人は偽善者です。「悪性の恐れがありますね。この薬を飲んでください」とお医者さんがいえば、ふつう信用して薬価を支払います。しかし、これが無用な薬で薬屋さんからリベートをもらっている場合、医者は偽善者です。「きみの才能が惜しいから進学を勧めているのだ」と言いつつ、実は進学率を上げて出世することを目指している教師は偽善者です。









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