空想ではそうあるべきだ、といっても、現実では逆に、勉強への強制は続きます。実際、近い将来、すべての若者は大学まで勉強を続けさせられるでしょう。
大学院あるいは専門課程の勉強はさらに続く。勉強が好きな人には天国でも嫌いな人には地獄になってきます。
状況は、しかし悲観的なばかりではありません。長期的には、全員が高学歴化することで学歴は形骸化する。
あまり遠くない将来、学歴のメリットは限りなくゼロに近づきます。だれもが学歴を目指す限り、勉強そのものが結局は無意味な方向に行きます。形骸化した勉強はますます実務の役に立ちません。就職に不必要どころか障害となってくるでしょう。
学生にとって就職はますます勉強と乖離してくる。学校の看板は最後まで残るかもしれませんが、学生の日常生活は勉強から離れる。つまり学校から自由にならざるを得ません。
たとえば籍は学校においてあるが、教室に座っていなくてもよい、毎日の通学はしなくてよい。年数回、先生と面談することだけで単位はもらえる。
勉強はインターネット、あるいはライブラリィ。あとはアルバイトや遊びや放浪や、うまくすれば相当収入の高い仕事をしている、という生活になるでしょう。そうなるとすれば、勉強のつらさはずっと減ります。
今ももう大学生の一部はこれに近い生活をしています。さらに、大学の卒業証書をもらう必要がなくなれば、高校生も大学を目指しての勉強はする必要がなくなる。
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そういう社会に近づくためには、まず政府としては、景気をよくして経済の自由化を進めることです。国際競争力の増進、新規参入の規制緩和、交通通信インフラ高度化、ベンチャー支援、貧困対策、格差対策、高福祉、医療、生活安全など、政府には国策の正面作戦でがんばってもらうことが一番ですね。
学歴にこだわる古い体質の大企業でなくても、スタートアップやベンチャーなど生産性の高い新企業が成長できる環境を作る。既存企業の転進、新規分野進出も促進する。新技術の研究投資、新産業特区の開発など、それらが世界水準を超えられれば若年層の就職機会は多様化するでしょう。
青少年の多くは、大金持ちになりたい、有名人になりたい、という夢を持っていますが、それと同時に、早く親から離れて独立したい。退屈な勉強などしていないで早くお金をかせげる仕事をしたい、かっこよくなって異性にもてたい、と思っています。それは正しい夢です。あきらめろと説得すべきではないでしょう。
非正規でも、臨時雇いでも、賃金が低すぎず、いつでも転職先が見つけられて、その転職歴が学歴よりも次の就職に有利になるならば、若者は学校より就職を選ぶでしょう。
人生の成功は年功序列組織への終身就職ではない、となってくるでしょう。
成功とは何か?若いうちに、早くお金をかせげるようになって親から独立する、恋愛する、結婚する、人の役に立つ仕事を続ける、チームワークに貢献する。人に認められる。あるいは、人を助ける、人に親切にできる、毎日を楽しむことができる、というような昔から大事なこととされてきた個人的成長を達成することが、人生の成功と思うようになるはずです。
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学歴世襲現象による階層化の弊害を緩和する策として、大幅な奨学金制度、学費免除、在校中の生活費補助など、経済的障壁の緩和策は実効的でしょう。
また、就学機会の多様化、たとえば、どの年齢でもだれでもいつでも大学、学校に入学できる、転学休学も自由、とすればよいかもしれません。あるいは社会人教育(職業経験後入学の奨励制度)の拡充、企業留学、取得単位交換制度、通信教育、オンライン教育、電子教材の普及、などが現代では徐々に試行されています。これらの施策は学歴の世襲化を防ぎ階層化を緩和する効果があるでしょう。
しかしそれと同時に、一方では学歴取得機会の平等化を進める結果、競争を激化する面があることは否定できません。階層化などの弊害が緩和され学歴競争が正当化されるほど、学歴の社会的価値を高めてしまい、ますます勉強のつらさを増す、という逆説的現象にもなりかねない面を持っています。一生だれもが勉強を続けられる、続けさせられる。という世界は良いのか、悪いのか?答えは明らかなのでしょうか。
いずれにせよ、少しずつ目標に近づいているという達成感を持てれば、勉強のつらさは我慢できるものになります。目標とする学歴を得るため、あるいは学歴や資格によって社会的地位や収入が安定した職業を得るため、あるいは社会階層を上昇するため、というように、いずれにせよ何かの目標意識が強くあれば嫌いな勉強も進んでしたくなります。
目標が持てない場合、嫌いな勉強は逃げたくなるだけです。目標を持てず、かつ勉強が嫌いな場合、勉強は強いられた苦役でしかなくなります。
若者が目標をさだめやすいように設計された現代の学校制度は階段状にステップアップできる形になっています。学年を順調に進めることを目標にすれば勉強は進めやすい。ただし学年スキップはできません。逆にステップの途中でつまずくとキャッチアップはむずかしい。つまずいたら実質上そこでおしまい、という設計です。
勉強が嫌いな場合もともとつまずきやすいのに、つまずくと終わり、というのでは落伍者あるいは実質落伍者が多くなるのは当然でしょう。かくして目標を固定されたステップ式の学校制度が逆説的に勉強嫌いを増やしていきます。
ある目標を見失った場合、他の目標を見つけてそれを追うことに切り替える、ということは日常生活ではいつもすることです。猟師はシカを見失えばイノシシを追うでしょう。ところが学校制度ではそれができない。進めなくなっても、あくまで正規の勉強という一本の道しかありません。
勉強が嫌いかどうかに関わりなく目標選択の自由、人生進路の自由が若者に開かれた社会が必要でしょう。
若年者に学歴不要で良質な職業への道が多様に開かれていれば勉強以外の目標は見つけやすい。それは試行錯誤でもよい。小さなステップアップの積み重ねでもよい。十代から試行錯誤が許されれば、二十代の終わり頃には自然と落ち着いた社会生活になじんでくるものです。その年令でもまだ野心に満ちている人もいますが、多くは淡々としたストレスの少ない生活を好むようになっているでしょう。そこで転職するとか、結婚するとか、学校に行き直すとか、改めて人生を選ぶことができる。
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民主主義思想は「天は人の上に人を作らず」であるからこそ、社会階層は学問の成果によるべきである、という考え方がもとにあるのかもしれません。
「身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、『天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり』と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」(一八七二年 福沢諭吉「學問ノスヽメ」)
この偉人の言う学問とは経済社会を開拓していく実力としての知識教養のことを指していますが、この言葉を伝え聞いた人々は、大学や学校に行って卒業証書をもらわなければいけない、と思ってしまいました。旧来の士農工商に置き換わる新しい身分制度が出てきた、と捉えたのでしょう。いわば、ここから学歴競争がはじまり、勉強嫌いのつらさが始まった、といえます。
旧来の階級制が崩壊していく中で、エリート階級は子弟の学歴獲得に相当の熱意を維持し、いわゆる高学歴カルチャーを継承することで暗黙の階級アイデンティティを保持していったようです。このエリート階級の行動は徐々に庶民層に浸透し、大衆的な高学歴化が起こってきます。大学、高校など上級学校が増加し、受験産業が発展し、相補的に、ますます高学歴化は進行します。勉強嫌いの人には過酷な社会現象です。
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