もしかしたら、私たちの身体は、台風のように自然法則だけにしたがって動くものなのかもしれない。台風のように太平洋を北上し、九州地方を襲う。しかし、台風には、それをしたいという気持ちなどない。台風は九州地方を脅かすかのように接近してくる。しかし、だからといって、台風が九州地方を脅かそうという気持ちを持っているわけではありません。九州に住んでいる人々に害を与えたいと思ってそちらへ接近するわけではありません。重力と熱力学の法則にしたがって空気のかたまりが動いているだけです。
動物の身体もまた、台風と同じように自然法則だけにしたがって動く。進化によって状況に適応した行動を自動的に起こす。進化によって、それは動物の利益が大きくなるような行動になっている。そのために利益を目的として動いているように見える。しかしそれは自然法則だけにしたがって、機械的に自律神経が変化し、機械的に感情が起こり、結局は機械的に動いているだけ、ともいえます。
つまり結局、動物は、電池とモーターと歯車でできている機械のように動く。実際、ロボット製作に莫大なお金をかけて、細かいモーターと歯車を数百台、数千台と使って上手に設計すれば、動物のように滑らかに動かすことができる。コンピューターを搭載すれば、感情を持つかのように動かすこともできる。評価プログラムを埋め込んでやれば、目的を持つかのような行動を取らせることもできる。ロボット集団に(DNA転写変異の代わりにニューラルネットのウエイトに乱数を掛けるなどで )ゲノムの突然変異と集団に働く自然淘汰圧によって進化するように設定すれば、模擬的に進化して動物のように目的を持つかのような行動を身につける(二〇一〇年 ダリオ・フロレアノ、ローレント・ケラー『ダーウィン型淘汰によるロボットの適応行動の進化』)。
生物はすべて、進化現象によって、自然界の中に出現したロボットである、といえる。
人間も動物ですから、自然の法則に従って進化して、このような身体になったのでしょう。現象としては、モーターと歯車でできているロボットと何も違いませんね。もう少し正確に言えば、たんぱく質と核酸の組み合わせで動く分子機械です。そういう物質である身体から成り立っている人間の私が、このように、私の気持ちを持っているということは、どういうことか?
私は、なぜ自分の気持ちというものがあると思うのか?
それは私が、人間というものは皆、それぞれの気持ちというものを持っている、と思いこんでしまっているからではないのか? まわりの仲間たちが、私のそれが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、私はそう思っているだけなのではないか? 私が私の気持ちと思っているものは、そうして作られる錯覚なのではないだろうか? と考えることもできる(二〇一〇年 マーク・エンゲルバート、ピーター・カルーサーズ『内観』)。
もしそうであれば、実際、私たち人間は、だれも自分の気持ちなどというものは持っていないことになる。私たちの行動は、台風などと同じような、ふつうの自然現象だ、あるいは進化によって自然にできあがった機械的な環境適応行動だ、ということになります。
私たちは、目や耳や皮膚で台風の存在を感じる。台風に吹き飛ばされそうになって踏ん張るときの筋肉の緊張としても感じる。もちろん、テレビの情報からも、人との会話からも台風の存在感を感じる。そうして無意識のうちに感じる存在感を台風だと思っている。
それと同じように、私たちは、目や耳や体性感覚で感じ取った情報から無意識のうちに自分の身体という自然現象の存在感を感じとっている。そうであれば、台風の中に台風の気持ちなどというものがある必要がないのと同じように、私の身体の中に私の気持ちというものがある必要はない、といえる。私というものはこの物質である身体だけだ(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』既出)ということになります。
私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分の気持ちが人に伝わらないという問題もありません。社会に疎外されるという問題もなし。宇宙が広すぎてさびしいという問題も起きてこないでしょう。
私たちは、いつも、自分が生きるこの社会の中で自分がどうすればどうなるかを考えている。しかし私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分がどうすればどうなるかとか、どうなったらどうすべきか、などと考える必要がない。自分が不幸になることも、自分がいつか死んでしまうことも、考える意味がない。心配事がまったくなくなるわけです。まことにけっこうなことです。
ところが実際、私たちはそうは思えない。私たちは自分の気持ちというものを持っているとしか思えない。それは、まわりの仲間たちが、私の気持ちというものが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、という気もするが、そればかりではない。私は私が自分のことをどう思っているのか分る。 私が何をしたいのかわかる。何をしなければならないのかが分かる。私は自分の気持ちが分かる。
それは、私たちが、いつも、自分の行為の結果を予測しているからです。私たちは人の行為を見て、その人の目的を推測するように、自分の行為を見て、またそれによる自分の体内の反応、あるいは自分の感情、を感じとって、自分の目的を推測している。自分というものを、目的を持って何かの行為をするものである、というモデルを使って、自分の行為の結果を予測している。それで、私たちは自分の気持ちが分かる。
この分かり方は、私たちが他人の気持ちを分かるのと同じ分かり方です。私たちは他人の身体の動き(表情、視線、声色)を見て、まず身体がこれからどう動いていくかを予測する。それを予測することが、その人の気持ちを推測することになっている。それで、その人の気持ちが分かる。そういう分かり方です。
私たちは、同じやり方で自分という他人のしている行為を予測することでその目的を推測し、それをしている自分という人間の気持ちを推測する。その推測した気持ちが、私たちが思うところの自分の気持ち、というものになっている。
私たち人間は(拙稿の見解によれば)こうして、自分の身体の動きを感知し、その身体がすることを予測することで(自己再帰的に)自分の気持ちを知る、という身体の仕組みを持っている。逆に言えば、私たちが自分の気持ちだと思っているものは、私たちが私たちの身体の動きを観察することで、私たちの身体がしようとしていると予測される行為あるいはその目的のことだ、といえる。