哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(23)

2010-03-20 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

うまく仲間と共有できないような、自分だけが感じているような感覚は、気味が悪く、あってはならない、と私たちは感じる。私の身体の奥の、はっきりしないところのかすかな痛みだとか、親しいはずの人たちとどうもうまくいかないとか、そういうあるのかないのか分からない感覚は、気持ちが悪い。私の気持ちなのか、私の気持ちではないのか、よく分からないのです。それらの感覚は、それをどうすればよいのか、何を目的にしてそれを感じとればよいのか、私たちは分からない。したがって、言葉にすることができない。しかしまた、未開人と違って個人的な内面の感覚にこだわる現代人は、こういう物事も、どうも自分の気持ちだとしか思えない。

そうだとすると、はっきりと存在する現実世界と、なにか分からないもやもやとしたところが多い自分の内面との関係がまた不可解、ということになる。それから、混乱した哲学が続く。

私たち人間が共有するこの現実世界、そしてそこに含まれるこの社会や人間たち。それらのすべては、どんなにはっきりとその存在が私の身体の外部にあると感じられようとも、(拙稿の見解では)それは外部にあるものだとはいえない。人類特有の身体から現れてくる生存繁殖に便利な錯覚を、仲間と互いに共有することによって作られたものです(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

私たちが感じとる自分の気持ち、というものもまた、自分だけの身体の内部にあるのではない。仲間の気持ちとの共鳴による共有によって作られている。

目に見えるこの現実世界も、身体の内部で感じられる自分の気持ちというものも、両方とも同じように、世界という錯覚そして自分という錯覚を、仲間の人間たちと共有することで作られている。現代人はそれを誤解して、この現実世界は自分の外面に存在し、自分の気持ちは自分の内面に存在し、かつその二つの存在は互いに無関係だ、と考えるから、混乱した哲学ができてくる。

見回してごらんなさい。この現実世界は目的に満ちています。あらゆる人の行動はそれぞれの目的を持っている、ように見える。あらゆる物事はそれぞれの目的を持っている、ように見える。次はどうなるか、次はどうすべきか、と身構えている。それは、私たちの身体が物事をそう認知し、それに対応して身体が動いていくからです。私自身の気持ちもまた、目的を持って私の身体を動かしているように感じられる。それも同じように、私たちの身体が私自身をそう認知するからです。

私たちの身体は、世界をも自分自身をも、そう感じとるようにできている。逆にいえば、身体がそう感じとっているものが世界の現実であり自分の気持ちである、というべきでしょう。それは人類という動物の身体が進化の結果作り上げた表現型であるといえる。この現実世界も私自身の気持ちも、人間の足のような足や、人間の顔のような顔と同じように、人類以外には表れない形だといってよい。

私の身体の外側に広がっているこの現実世界も、この世界を説明する科学も、私の身体の内側にあって私の身体を動かしているように感じられる私の気持ちも、それを感じているこの私も、全部私の身体が人々と共有する錯覚からできている。それは人々と協力してこの世を生き抜いていくために役に立ったから、私の身体に備わっている生物現象でしょう。

呼吸運動などもそうであるように、私は私の身体がどう動いてその錯覚現象が起きているのか、その仕組みは自分では感じられない。私にとっては、物心ついて以来、このような現実世界の中にこうして私の身体があり、私の気持ちがその身体の内部に生じているように感じられる。たしかに、拙稿が指摘したようにこの感じ方は論理的に矛盾がある。二元論という矛盾に陥っている。

しかし、そんなことよりもここで大事なことは、その感じ方そのものが、進化によって発現した私の身体の作りから来ているということでしょう。私がこうして現実を感じとり、自分の気持ちをこうして感じ取っているのは、こう感じとることが、生物としてのこの身体が生存繁殖するために便利であるからです。

その結果、ときには人間は過度の論理に走って、哲学的混乱に行き着く場合もある。しかしそういうことは実生活上、子供を生むことに関してあまり害がないから、自然は無視する。そうして、混乱した哲学は放置されてきました。

私たちが感じるこの現実世界は、蟻の巣のように見事な建築物ではある。蟻の身体は、自動的に仲間と協力して蟻の巣を作り上げる。蟻にとっては仲間と協力して行為をなす対象、つまり蟻の巣が世界のすべてでしょう。しかし、それは蟻にとってだけです。


21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? end)

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(22)

2010-03-13 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

この世の物事はみな、それぞれの気持ちを持って動いている。私たちの身体はそう感じる。それぞれの気持ちは、私たちとの間で通じ合う。気持ちと気持ちは分かり合うことができる。それで私たちは安心してこの世界の中を動いていける。

私たちとの間で気持ちが通じ合わないものは、あってはならない、不可解な気持ちが悪いものである、と感じる。そういう不可解なものは認めてはならないものである。私たちの身体はそう感じるから、自分でその気持ちが理解できないものは認めたくない。

自分を嫌いな人は認めたくない。自分の居場所がない社会は受け入れられないし、自分がいなくなった後の宇宙は認めがたい。そういう不可解な物事は避ける。気持ちが悪いものからは逃げる。追い払う。かかわらないようにする。目をつぶる。無視する。そうするように私たちの身体はできています。

身体が痛くなったりする不快な感覚は認めたくない。まずい食べ物は認めたくない。冷たさをいつも感じているのはいやだから、どこまでも客観的な冷たい科学は認めたくない。私が買った宝くじが外れてしまうことも、自分が不幸になることも、自分がいつか死んでしまうことも、受け入れたくないのです。

それらは、人類がうまく生活するために便利なように進化した身体の仕組みの働きです。そのおかげで私たちはうまく生き抜いていかれる。仲間とすっかり気持ちが通じ合う。通じ合うことしか受け入れないからです。こうして、私たちは仲間と協力して精緻な社会集団を作れるようになりました(二〇〇九年 トマゼロ、ドウェック、シルク、スキルムス、スペルク『なぜ私たちは協力するのか?)。

その結果、人類は地球の隅々にまで拡がって大繁栄しました。しかしまたその大繁栄のおかげで文明が発展し、人類はついに宗教や哲学まで作ってしまう。そうして最後に科学まで作ってしまった現代人は、混乱した哲学に投げ込まれることになりました。

宗教や哲学や科学は、この世の物事を矛盾なく説明しようとする。そうすると、人間の身体に備わっている直感と矛盾する。この世の物事はみなそれぞれの気持ちを持って動いている、と私たちの直感は感じます。しかし、この直感はすぐ矛盾に突き当たる。この世には、実際、気持ちが通じないものや気持ちが悪いものがいるという矛盾。自分の気持ちが自分の外側にあるものに伝わらないという矛盾。死んでしまうと気持ちが伝わらなくなるという矛盾。

そういう矛盾に毎日突き当たる。そのことを説明しようとする哲学は、結局は、矛盾に巻き込まれて混乱していく。

私たちが感じとれるものは、それを感じとることで仲間と気持ちが通じ合い、協力が進むことで生活と繁殖に役に立つから、それらを感じとる。そう感じとるような身体になっているからです。私たちがある物事を感じとれるときは、私たちのだれもが、その動きを予測できてその動きに身体が反応できるときです。十分な信頼性をもって動きの予測が可能なときです。

そうでない物事は感じとる必要がない。感じとらないほうが無駄を省けます。仲間とともにしっかり予測できない物事は感じないほうが安全で、しかも無駄がなく、便利なのです。生物の繁殖に役立たない無駄な機能はその生物の身体から消えていく。人類の感じとる現実についても、生き残るために適切な行動を取るために不可欠な物事を認知する機能だけが私たちの身体に備わっているはずです。

だから私たちは、仲間の人間と共有できないような感覚はしっかりとは感じとれない。私たちがしっかりした現実感を伴って感じとれる物事は、仲間と何度も繰り返し共有できて、ともにそれを現実として対応できることだけです。十分な信頼性を伴ってそれを感じ取り、それに対応した行動をとることができたときだけ、私たちはそれを現実だと感じる。

そうして感じとった現実を仲間と共有することで、私たちはリアルに生きていける。現実世界で、毎日努力し、仲間と協力し、勝負に勝ち、生き残ってゲームを続けていける。

そうであるとすれば、私たちが感じとる自分の気持ちというものは、仲間の気持ちとの共鳴による共有ができるから感じ取れるものであるはずです。それは、人間どうしが共有できる気持ちであるからして、当然、共有できるものに限定されています。逆にいえば、私たちは、仲間と共有できないものは自分の気持ちとしても表すことができない。

たとえば、私の背中の微妙な痒さなどは、自分の気持ちとしてきちんと感じることがむずかしいところがある。実際、痛覚の感受性などは個人間の差異が科学的に実証されている(二〇一〇年 ローラ・サンダース『痛覚に相関する遺伝子 共通遺伝変異が一部の人々だけを過敏にする』)。

同じレベルの感覚を持てなければその感覚を共有することは難しいでしょう。またコンテキストに依存するさらに複雑な感情、たとえば親しいはずの人に対する不信感、嫉妬なども、人と共有できない場合が多い。こういう感覚をなんとなく自覚したとしても、それが自分の気持ちであると思うことはむずかしい。あるいは、仲間の感覚とのずれを自覚してしまう。そういうところから、私たちは、仲間になじめない感覚を持つこともある。

部族の仲間とともに生きる未開人の場合、仲間と共有できないものを感じとることはないでしょう。しかし、自我概念が発達した現代人の場合、仲間と共有できない自分だけの気持ち、というものをも概念化する。共有できないものまでを自分の気持ちだと思い込んでしまう。私の内面、私だけの内心、という概念です。

そうなると、外面と内面、見せ掛けと本音、という二面性、その違和感が、社会に対する漠然とした不信感にもなる。

自分の気持ちというものは何なのか? この社会の中での自分とは何なのか? この社会はなぜ私の希望に無関心なのか? この社会はなぜ私に冷たいのか? 私たち現代人はそう思うようになる。 

私の不幸に、私の運命に、何の責任も感じてくれなそうに見えるこの社会は、いったい何なのか? 私の宝くじはなぜいつも外れるのか? だれかが私にいじわるをして、宝くじを外れさせているのか? という疑問にならない疑問が心の底でくすぶるわけです。さらにこの自分自身に関係がなさそうなこの大自然とは、何なのか? 私の歯の痛みに全然関心を持ってくれないように見える、この大自然はいったい何なのか? 

科学でのみ予測できるように動いているこの物質世界。何の目的も持っていないような大自然は何のためにあるのか? 塵のような地球は何の目的を持って宇宙に浮かんでいるのか? その宇宙と自分との関係は何なのか? この自然世界の中での自分とは何なのか? それにしても自分はなぜ宝くじに当たらないのか? 他の人がなれて、なぜ自分はお金持ちのセレブになれないのか? というような哲学的な疑問が現れてくるわけですね。未開人にはない現代人特有の疑問です。

しかしそうなると、(拙稿の見解から言うとすれば)そこからもう哲学は間違っていく。答えのない疑問を繰り返す世界に入ってしまう。現代人のそれら哲学的な疑問はニセの疑問です。だが、それに気づく人は少ない。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(21)

2010-03-06 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちは家を出ると、目的地へ向かう。その日にすることの目的を持っている。明日しなければならない目的を持っている。来年までに達成したい目的を持って、今日すべきことをしている。そう思って、いつも行動しています。

しかしこれは、実は逆であって、私たちの身体がそれを目的に行動しているように動いているから、私たちはそれが自分の行動の目的だと思っているのではないか? 私たちは、それを目的に動いているように見える自分を見て、それが自分の目的だと思い、その目的を目的と思うから、そこから意識的にそれを目的とする行動をするようになるのではないか? 拙稿の見解では、そういうことになります。

家を出て、たとえば、学校に行く。学校に行く、という行為は実はどういうことなのか?実にありふれた行為ですね。しかしそれがありふれた行為であればこそ、私たちがありふれたこととしてそれをするという行為は、深く人間の身体に根ざしているからそうするのだ、と思われます。

そのような行為に伴う私たちの感情は、かつて原始人であった私たちの先祖が、その感情を伴う行為を実行することで、うまく生き残り子どもを生み育てることができたような行為に違いない。それであればこそ、現代人の私たちがその目的をどう思っているのかにかかわらず、その(たとえば、学校に行くという)行為は、過去の人間の生活環境において生存繁殖に役立つ行動から派生しているはずです。

「なぜ、学校に行くのですか?」と聞かれれば、私たちはすぐ答えられる。

「勉強して一人前の社会人になるためです」というように答えれば、それで会話はうまく終わります。

しかし実際に、私たちの身体が動いていって、学校に行くという行為を実行する場合、そういう目的を意識して身体が動いているのか? そうではなく、学校に行く時間にあわせて、いつのまにか身体がそれなりに動いて、学校に到着してしまうのではないか?

私たちは、学校に行くことになっているから学校に行く、というくらいの気持ちで身体を動かしているのではないでしょうか?

なぜか?

「学校に行かないと、お母さんが心配するから」とか、「私の年齢の子供は学校に行くことに決まっているから」とか、「みんなそうしているから」とか、私たちはいろいろな理由付けをすることはできる。

しかし、私たち自身がその目的をどう思うかにかかわらず、私たちの身体は同じように動いて学校に行ってしまう。どうも、目的と思っているものが実際の行動を起こしているのではないらしい。

しかしそれでは、私たちの身体はいったいなぜ、こういう動きをするのだろうか?

その理由は、こういう場合、私たちの身体が学校に行くようにできているから、という答えが一番素直なのではないでしょうか?

私たちの身体は、生まれつき、学校へ行くようにできている。拙稿の見解では、こうなります。人間の身体は、ある条件がそろった場合、学校へ行くようにできている。それは、人類の生存繁殖に役に立ったから私たちの身体に備わった脳神経機構の働きだということになる。人類が進化してきた数万年あるいは数十万年にわたる原始時代において、学校に行くような神経機構を持つことがなぜ実用的だったのか?

その実態は、実はよく分かりません。原始生活での狩猟採集活動に必要な行動様式が変形したのでしょう。仲間と隊列を組んで行動する身体の仕組みとして進化した運動感覚機構かもしれません。しかし実際、これは数万年前の人類の生活形態を知らないと分からない。化石にも遺跡にも残っていない人類の生活環境とその生態を解明することはきわめてむずかしい(二〇一〇年 マイケル・ベントン『化石記録から機能と行動を研究する』)。今後の考古学、人類学の課題でしょう。

実証的証拠がなくて、肝心のところが分からないままでは、拙稿のいうような見解を、科学者は議論できません。したがって、これは、今のところ、無責任な仮説に過ぎない。しかし、拙稿としては、無責任との叱責を恐れる立場でもない。たぶん、というしかありませんが、これは正しい。私たちの身体は生まれつき学齢になると学校へ行くようにできているのでしょう。自分が知っている子供仲間が全員学校に行っていれば、自分も行きたくなる。そういう人体の特性です。逆に言えば、人間の身体がそうであることをよく知っていた昔のえらい人々が、その人体の特性を利用して、学校という制度を発明した、ということです。

ちなみに、こういう話は他にもよくあります。人間ならばだれでもが同じようにすることが、人によってその目的として述べる答えがまちまちである場合、それは本人たちがその目的だと思っていることがその行動を引き起こしているのではない。むしろ、人間の身体が、数十万年にわたる進化の結果、生得的にその行動を起こすような仕組みに作りこまれているからというべきです。たとえば、あくび、貧乏ゆすり、経済活動、お金儲け、政治活動、仲間作り、いじめ、戦争、結婚、子作り、観光旅行、スポーツ、ファッションなどなど。次の時代の考古学、人類学の課題ですね。

さて拙稿の見解では、自分のことに限らず、そもそも私たちが物事の動きを見るとき、私たちは、なにごとも、それ(観察対象)が目的を持ってそれをしていると見取るような身体の仕組みを持っている。

それは(拙稿の見解では)哺乳動物共通の神経系の構造です。特に人類は、類人猿共通の祖先から分かれた後、哺乳動物共通の運動目的シミュレーションを発展させて社会的集団生活に適応する状況認知機能を獲得した。それは仲間集団の間で再帰的に行為の連鎖を繰り返して状況概念を生成することで目的概念を認知できる目的認知機構によってなされる。それは(拙稿の見解では)その後、言語機構に発展した脳神経機構です。

目的認知機構の情報処理計算は次のように行われるのでしょう。たとえばPという状況を目的として、それを達成できる行為Qを対応させる。さらにQができるような状況に到達するための行為Rを対応させる。たとえば、新幹線に乗るために東京駅まで地下鉄で行くことにする。地下鉄に乗るために地下鉄駅までバスで行くことにする、というような場合です。こうして、目的概念はP→Q→Rというように状況空間の探索として行為の連鎖に展開される。同時に逆向きに、R→Q→Pという行為の連鎖によりRの目的概念Pが認知される(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ心の大規模モジュール構造モデル擁護論』既出)。自宅から出てバスに乗って地下鉄に乗って新幹線に乗る。この一連の行為で、この人がバスに乗る行為の目的が分かる。この人は東京を離れて遠くへ旅行しようとしている。その気持ちが分かります。

私たちが見ている世界の中で、目に見える物事はことごとく、ある目的を持って動いている。目に見えることばかりでなく耳や皮膚や身体の奥のほうで(体性感覚で)感じられる物事も、そうだと思えます。すべてはそれぞれの目的を持って動いている。そうであれば、私たちにとっては、その目的がそれらの物事が持っている気持ちのようなものを表しているといえる。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(20)

2010-02-27 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

もしかしたら、私たちの身体は、台風のように自然法則だけにしたがって動くものなのかもしれない。台風のように太平洋を北上し、九州地方を襲う。しかし、台風には、それをしたいという気持ちなどない。台風は九州地方を脅かすかのように接近してくる。しかし、だからといって、台風が九州地方を脅かそうという気持ちを持っているわけではありません。九州に住んでいる人々に害を与えたいと思ってそちらへ接近するわけではありません。重力と熱力学の法則にしたがって空気のかたまりが動いているだけです。

動物の身体もまた、台風と同じように自然法則だけにしたがって動く。進化によって状況に適応した行動を自動的に起こす。進化によって、それは動物の利益が大きくなるような行動になっている。そのために利益を目的として動いているように見える。しかしそれは自然法則だけにしたがって、機械的に自律神経が変化し、機械的に感情が起こり、結局は機械的に動いているだけ、ともいえます。

つまり結局、動物は、電池とモーターと歯車でできている機械のように動く。実際、ロボット製作に莫大なお金をかけて、細かいモーターと歯車を数百台、数千台と使って上手に設計すれば、動物のように滑らかに動かすことができる。コンピューターを搭載すれば、感情を持つかのように動かすこともできる。評価プログラムを埋め込んでやれば、目的を持つかのような行動を取らせることもできる。ロボット集団に(DNA転写変異の代わりにニューラルネットのウエイトに乱数を掛けるなどで )ゲノムの突然変異と集団に働く自然淘汰圧によって進化するように設定すれば、模擬的に進化して動物のように目的を持つかのような行動を身につける(二〇一〇年 ダリオ・フロレアノ、ローレント・ケラー『ダーウィン型淘汰によるロボットの適応行動の進化』)。

生物はすべて、進化現象によって、自然界の中に出現したロボットである、といえる。

人間も動物ですから、自然の法則に従って進化して、このような身体になったのでしょう。現象としては、モーターと歯車でできているロボットと何も違いませんね。もう少し正確に言えば、たんぱく質と核酸の組み合わせで動く分子機械です。そういう物質である身体から成り立っている人間の私が、このように、私の気持ちを持っているということは、どういうことか?

私は、なぜ自分の気持ちというものがあると思うのか?

それは私が、人間というものは皆、それぞれの気持ちというものを持っている、と思いこんでしまっているからではないのか? まわりの仲間たちが、私のそれが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、私はそう思っているだけなのではないか? 私が私の気持ちと思っているものは、そうして作られる錯覚なのではないだろうか? と考えることもできる(二〇一〇年 マーク・エンゲルバート、ピーター・カルーサーズ『内観』)。

もしそうであれば、実際、私たち人間は、だれも自分の気持ちなどというものは持っていないことになる。私たちの行動は、台風などと同じような、ふつうの自然現象だ、あるいは進化によって自然にできあがった機械的な環境適応行動だ、ということになります。

私たちは、目や耳や皮膚で台風の存在を感じる。台風に吹き飛ばされそうになって踏ん張るときの筋肉の緊張としても感じる。もちろん、テレビの情報からも、人との会話からも台風の存在感を感じる。そうして無意識のうちに感じる存在感を台風だと思っている。

それと同じように、私たちは、目や耳や体性感覚で感じ取った情報から無意識のうちに自分の身体という自然現象の存在感を感じとっている。そうであれば、台風の中に台風の気持ちなどというものがある必要がないのと同じように、私の身体の中に私の気持ちというものがある必要はない、といえる。私というものはこの物質である身体だけだ(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』既出)ということになります。

私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分の気持ちが人に伝わらないという問題もありません。社会に疎外されるという問題もなし。宇宙が広すぎてさびしいという問題も起きてこないでしょう。

私たちは、いつも、自分が生きるこの社会の中で自分がどうすればどうなるかを考えている。しかし私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分がどうすればどうなるかとか、どうなったらどうすべきか、などと考える必要がない。自分が不幸になることも、自分がいつか死んでしまうことも、考える意味がない。心配事がまったくなくなるわけです。まことにけっこうなことです。

ところが実際、私たちはそうは思えない。私たちは自分の気持ちというものを持っているとしか思えない。それは、まわりの仲間たちが、私の気持ちというものが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、という気もするが、そればかりではない。私は私が自分のことをどう思っているのか分る。 私が何をしたいのかわかる。何をしなければならないのかが分かる。私は自分の気持ちが分かる。

それは、私たちが、いつも、自分の行為の結果を予測しているからです。私たちは人の行為を見て、その人の目的を推測するように、自分の行為を見て、またそれによる自分の体内の反応、あるいは自分の感情、を感じとって、自分の目的を推測している。自分というものを、目的を持って何かの行為をするものである、というモデルを使って、自分の行為の結果を予測している。それで、私たちは自分の気持ちが分かる。

この分かり方は、私たちが他人の気持ちを分かるのと同じ分かり方です。私たちは他人の身体の動き(表情、視線、声色)を見て、まず身体がこれからどう動いていくかを予測する。それを予測することが、その人の気持ちを推測することになっている。それで、その人の気持ちが分かる。そういう分かり方です。

私たちは、同じやり方で自分という他人のしている行為を予測することでその目的を推測し、それをしている自分という人間の気持ちを推測する。その推測した気持ちが、私たちが思うところの自分の気持ち、というものになっている。

私たち人間は(拙稿の見解によれば)こうして、自分の身体の動きを感知し、その身体がすることを予測することで(自己再帰的に)自分の気持ちを知る、という身体の仕組みを持っている。逆に言えば、私たちが自分の気持ちだと思っているものは、私たちが私たちの身体の動きを観察することで、私たちの身体がしようとしていると予測される行為あるいはその目的のことだ、といえる。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(19)

2010-02-20 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

人類は、こうして(拙稿の見解では)、数分後の具体的な物的配置の状況から遠い将来の抽象的な個人的な状況、あるいは社会的な状況を操作しようとする行動まで、広範複雑な状況を予測し、それを目的概念として脳内に設定することができる。脳神経系のこの仕組みは、行為の連鎖から生成される状況空間構造のなかに目的概念を表現し、そこに至る目的行動を仮想運動として形成する。

この脳神経機構は、原始人類の生活環境において(拙稿の見解では)特に社会生活上、有利な生存繁殖適応を与えたために進化発達して現代人の身体に定着したものと思われます。逆にいえば、私たちが自身の目的として設定する数分後、あるいは遠い将来の状況概念は、私たちが自身の考えで設定したと思っているにもかかわらず、実はそれが導く目的行動が私たちの先祖の原始人類の生活において生存繁殖に有利な行動であったが故に私たちの身体が自動的にそれを作り出している。私たちはそれを自身の意志意図あるいは欲望から発すると思い込んでいるだけなのでしょう。

人間社会の中で共有され反射生成を繰り返す目的概念は、言語と同じように、無限に抽象化し、複雑化する。複雑な目的概念を認知できる人間たちの社会は複雑になっていく。逆に、複雑な社会に生きなければならない人間たちは、複雑な目的概念を扱えなければ生きていけない。

人は、人を見ると、その人が何のために動いているのか分かろうとする。何かのために動いているに違いないと思う。それが人でない物事でも、あるいは抽象概念でも、それが動くのは何かのために動いているに違いない、と感じる。台風でも、日本経済でも、それは何かのために動いている、と感じる。

人間は、無意識のうちに自動的に、物事をそう感じるような身体になっている。人間の脳神経系に、たぶん生得的に備わっているこの機構を(拙稿の用語では)目的認知機構といいます。この脳神経機構は人類社会を構成する基本的な要素になっています。人類の社会と目的認知機構は、共進化によって効率を増すと同時に、抽象化し、複雑さを増していった、と(拙稿の見解では)考えられます。

つまり私たちは、いつも、自分が生きるこの社会の中で自分がどうすればどうなるかを考えている。ここでいう「考えている」とは、行為の結果を予測して、その行為をする自分とその結果の状況変化を予測している、ということです。そして、その状況予測に反応し自分の身体が引き起こす自律神経反応からの体性感覚(不安や期待などの感情)を自分の気持ちだ、と感じとっています。そして同時に、状況変化の予測に反応して身体が反射的に仮想運動を起こしていくのを感じとって、それを自分の意識的意図や意志による目的行動だ、と思っている。しかしそれらの反応は、人類の進化適応によって私たちの身体に埋め込まれている無意識の反射でしかない。

自身のそれら一連の身体の動きを感じとって(拙稿の見解では)私たちは、自分は自分の気持ちにしたがって行動しているのだ、と思う。それが自分の気持ちだと思って生きています。

私たちが自分の気持ちだと思っているものは、もともとは(拙稿の見解では)仲間の視点から見た私の身体運動を芯にして、身体運動に反応して起こる自律神経反応などに対応する体性感覚を貼り付けることで作られている(一九九四年 アントニオ・ダマジオデカルトの誤謬:感情、理性、および脳、二〇〇三年 アントニオ・ダマジオスピノザを探して:喜び、悲しみと感じる脳』)。たとえ一人でいるときでも、私の身体の(表情や声の調子など)動きを見ている仲間がいるとしたらその人たちが感じとるはずの私の気持ちというものを推測することが、私が感じとる私の気持ちというものを作っている。

台風が九州地方を襲うとき、私たちは、台風が九州に被害を与えることを目的にして接近しているかのように感じとる。だから、「襲う」という言葉を使う。しかし、台風は自然現象ですから、何かを襲いたいと思っているはずはありません。つまり台風はその行為の結果を予測してその行為をするわけではありません。私たちも、もちろん、これは比喩だと思っている。台風は目的を持っていない。そうだから台風の気持ちというものは、私たちには、想像できない。

ケニヤのライオンがシマウマを襲うとき、私たちは、ライオンがシマウマにかわいそうなことをしようとして跳びかかる、と感じとる。しかし実際、ライオンはその行為の結果を予測してその行為をするわけではない。逃げるシマウマを見ると自然に跳びかかるような身体になっているだけでしょう。私たち人間はそういう身体にはなっていない。だから私たちは、実は、シマウマを襲うときのライオンの気持ちが想像できない。

そうして、人間の場合も、ある者がある行為をするとき、その行為の結果を予測してその行為をするのではないとすれば、私たちは、その人の気持ちが想像できない。たとえば、自殺行為をする人が何を予測してそれをするのかまったく分からない場合、私たちはその気持ちが理解できない。

最後に、その人間が自分の場合も、自分がなんらかの行為をするとき、その行為の結果を予測してその行為をするのではないとすれば、どうなるでしょうか? 私たちは、自分自身の気持ちというものが想像できない。つまり、自分で自分の気持ちが分からない。そういうことになります。

その行為の結果を予測してその行為をする場合は、はじめからそれをする自分の気持ちは分かっている。けれどもその行為の結果を予測してその行為をするのではない場合は、自分の気持ちが分からない。つまりそれは、私たちが自分は何をしようとしているのか、自分の気持ちが分からないまま行動するということです。たまたま、注意を向けた行為の結果だけを予測するけれども、注意しないでしてしまう行為のほうが圧倒的に多い。呼吸のように、ですね(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)。

もしそれが本当だとすれば、私たち人間というものは、自分の気持ちにしたがって行為するものではないのかもしれない。そもそも私たちが自分の気持ちだと思っているこの自分の気持ちなどというものは意味がはっきりしない、意味がないものなのかもしれない、ということになる。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(18)

2010-02-13 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

ここで、私たちの身体が行為を繰り返すことで状況空間を生成する簡単な具体例として、身体移動により位置空間が生成される過程を書き出してみましょう。

たとえば、私が北を向いているという状況①から、「前に三歩進んで右を向いて四歩進んで、さらに右をむいて五歩進む」という行為によって「はじめの位置から南に二歩、東に四歩の位置にいて南を向いている」という状況②になる。そこで続けて「右を向いて六歩進む」という行為をすれば、「はじめの位置から南に二歩、西に二歩の位置にいて西を向いている」という状況③になる。

私たちは状況の変化を予測して動くことで、それを意識し、計算し、記憶できる。こうして、私たちは状況の変化を目的概念として設定できる。私たちが置かれている状況の変化を、仲間と互いに共有できる。状況を言葉で概念化できる。行為を始める前に、今の状況③を「はじめの位置から南に二歩、西に二歩の位置にいて西を向いている」という言葉で概念化することで、この状況を目的概念として設定することができます。

「はじめの位置から南に二歩、西に二歩の位置にいて西を向いている」という目的状況を達成する、つまり状況①から状況③に達するためには、「前に三歩進んで右を向いて四歩進んで、さらに右をむいて五歩進む」という行為に続けて「右を向いて六歩進む」という行為をすればよいことは、計算で分かる。

また同じこの目的状況を達成できる別の手段として、「はじめの位置で左を向いて二歩進んで、それからまた左を向いて二歩進んで右を向く」という行為をすればやはり状況③に達することが分かる。このように違う行為によって同じ目的を達成できることも分かる。

ちなみに、空間を移動する行為が持つこのような規則性(空間のベクトル構造と群構造)は、進化の過程で動物の身体の中に取り入れられている。実際、人類のほか、多くの脊椎動物や昆虫など帰巣性の動物はこの規則を使った移動シミュレーション機構を脳神経系の中に備えています。

このような、行為の連鎖と状況の変化とが規則的に対応する構造は、数学的にはコンピューター(機械)の計算原理と同形な構造です。たとえば、a,b,c,d,e,fを、それぞれ単純な運動目的イメージを実行する六個の行為(インプット)だとしましょう。ある状況①(コンピューターの内部状態)において、a,b,cという三個の行為を連鎖させると別の状況②に変化する。この新しい状況②を{abc}と書いて表現すれば、これにdという行為をさらに加えた場合の状況③は、四個の行為をa,b,c,dと連鎖させたものと同じことだから、{abcd}と表現できます。ここで、出発点の状況①に戻って改めてe,fという連鎖行為で到達した状況④は{ef}と表現できる。この状況④が状況③と同じだとすれば、

ef=abcd}(同じ内部状態)

と書けますね。

このようにコンピューターの内部で行われる計算と同じ形で、私たちは、行為の連鎖と状況を関係付けることができる。私たち人間の脳は(拙稿の見解では)、行為を連ねることで次々と状況を変化させていく過程を、コンピューターの内部で行われる計算と同じように、シミュレーションとして予測できる。そうであれば、現実の世界での行為と状況変化のこういう関係構造を、私たちが直感で分かることが納得できます。

人間の認知システムが、進化の結果、身の周りの世界へ加える行為とそれによる状況の変化をしかるべく反映する機構となっているとすれば、私たちが認知する具体的な行為と状況変化の関係は現実の世界の構造(たとえば空間移動のベクトル構造)を反映しているはずです。

行為とそれによって引き起こされる状況変化のこのような構造的関係を、人間は生まれつきの感受性を基礎にして、成長の過程で学んで行く。そうして私たちは、行為とそれがなされる状況を想像するだけでその結果を予想できるようになる。物事の成り行きを予測するためのシミュレーション機構が身体に備わるようになるからです。

人類の脳に備わっているらしいこのような機構は、たぶん他の動物の脳にもあると思われます。しかしどの動物にどのような機構があるのか、それが実際どのようなものなのか、私たちの現在の知識ではよく分かりません(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か』既出)。

人類は(拙稿の推測では)他の動物に比べて、たぶん、はるかに緻密に、このような行為と状況変化との構造的関係を予測し、目的概念を作ることができる。私たちは脳内で無意識に働くこの仕組みを使いこなすことで、何層にも行為を連鎖連結させ、合成し、多層的で複雑な状況概念を作り出していきます。

そうして得られる構造的な状況概念は(拙稿の見解では)人々に共有されることで客観的な認知対象となり、人々の間で再帰的に合成を繰り返すことでますます一般的抽象的なものになっていきます。それら状況概念は身体運動のイメージから大きく飛躍した抽象的な概念になっていき、再帰的に生成される記号概念によって表現されることで言語化され、私たちだれもが明確に共有できる社会的感情を作りだし、それを介して互いに感情を共鳴しあうことで、社会生活に使える便利な共有装置となっていきます。

こうして、(拙稿の見解では)人類による状況認知は、仲間に理解され共有される抽象的、記号的なものから構成されるようになる。それは再帰的に生成される(たとえば群構造を持つ)空間概念を作り出し、(あるいは半群構造を持つ)記号列概念となり、共有化され言語化される。言語化された状況概念は、さらに安定的に共有され、行為の目的として設定されることで、逆方向に分解され、行為の連鎖として再合成される。

拙稿の見解では、人類の脳における状況概念の表現は、言語の表現と同様の再帰的生成構造によって行われています。つまり状況概念は、行為の連鎖を表現するシミュレーションとして生成され、目的を表現する空間構造を持つ。空間のある点を目的点とするといろいろな経路で到達できるように、人間の目的行動は、目的となる状況概念に対して、いろいろな行為の連鎖で到達できる経路を予測することで行われる。

目的行動のシミュレーションは(拙稿の推測では)、予測された状況を予測できる行為の連鎖で覆いつくすことでなされる。このシミュレーションは案外と簡単になされていると思われます。なぜならば、予測された状況は、もともと行為の連鎖から生成されているものだからです。シミュレーションは、目的状況に到達する代替経路を探して、比較評価することで実行されるのでしょう。

次に、目的となる状況に至る一本の経路が確定される。行為の連鎖からなるその経路を表現する行動が仮想運動として活性化される。そのとき、仮想運動のその活性度(仮想運動を表現して活性化される神経細胞の数)が閾値を越えると仮想運動は実行運動として起動される。

この場合(拙稿の見解では)、学習記憶の連鎖的想起と瞬時に実行される予測計算の複合を使って、それぞれの行為が自動的に身体運動の運動目的イメージとして表現され活性化されることで、当初の目的を意識することなく私たちの身体は連鎖的に運動を実行していく、と考えられます。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(17)

2010-02-06 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たち人間は(拙稿の見解では)、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」と、無意識のうちに、思っている。世界の物事の動き方に関して、その変化をそう感じ取るように人間の身体が作られているらしい。

たしかに、物事の動きを、直感で、そう感じ取るような身体を持っていれば、生存繁殖に便利です。生活に関係する物事の動きがうまく予測できる。特に生物の動きをよく予測できる。動物や植物が効率よく生存繁殖をしていく現象をうまく表現できるし、かなり正確にその行動を予測することができる。なによりも人間の動きがうまく予測できるようになります。人の動きや表情を見て、次にその人がどう動くのか、まったく分からない人は、社会の中で、うまく生き抜いていけないでしょう。

しかし物事の動きに関するこのような直感が、人類の生存に便利だからといっても、それがすべての物事の動きを正確に予測できるかどうかは、別問題です。社会的なもの以外の自然現象などの動きを予測するためには、むしろ、数学を使って表現される自然科学の法則によって物事は動く、という科学の見方のほうが正確な予測に向いています。

ニュートンが微分方程式によって力学を表現する方法を発見して以来、数学を使って表現される自然科学の予測能力は、自然科学を知らない人間の直感による予測能力をはるかに上回る正確性を持つようになりました。

科学のめざましい予測能力を知っている現代人が、目の前の現実世界を科学の法則で動いている世界だと見なすようになったのは、もっともなことでしょう。しかし実は、私たちが目や耳など感覚器官で感じ取っているこの世界は(拙稿の見解では)、科学の法則で動いている世界とはいえません。私たちの身体で感じ取っている限り、物事は身体で感じられるようにしか感じられないからです。

私たちの身体は、科学の方程式を計算して物事を見るようにはできていない。現代人の私たちも身体は昔と変わらず、いかに科学を知っていようとも、数万年前の原始人と同じ構造の身体で、私たちは、目の前の世界の物事を感じている(一九九四年 レダ・コズミデス、ジョン・トゥービー『ドメイン特有性の起源:機能組織の進化』、二〇〇八年 ジョン・トゥービー、レダ・コズミデス、アーロン・セル、デブラ・リーベルマン、ダニエル、ツニュセル『内的調整変数と人間における動機の設計:計算的進化的アプローチ』)。

私たちが目の前に見ている現実世界は、科学で描かれる世界ではない、というべきでしょう。私たちが、目や耳やその他の身体の感覚器官を使って直感として感じとる現実世界は(拙稿の見解では)、私たちが学校で教わるニュートンやファラデーアインシュタインが描いた世界ではありません。目の前のこの現実は、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という私たちの身体に生まれつき備わっている直感により感知される、いわば人間特有の法則で動いている世界です。

人間の身体は、他の動物と同じように、その生存環境の中で、生き延びて子を産み育てるために便利なように物事を感じ取る。物事のそのような見え方を現実と受け取るようにできている。逆に言えば、現実とは、人類がその生存に便利なように物事を見て取る認知機構のことだといえる。

そうであるとすれば、猛獣や獲物の行動を予測したり、仲間との人間関係を予測したりすることがその生存にとってもっとも重要となる群棲動物である人類が、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の見取り方によって、身の周りの現実を予測し存在感を感じとっていることは、当然と思われます。

私たちの身体が物事をそのように見取るものだとすれば、その見取り方は、自分自身の身体の動きにも使われていると考えられます。仲間から見た自分の身体とその動き、つまり客観的に見た自分の行為、の結果をうまく予測できない人々は、確率的には、うまく生き残れないため子孫を残していない。その理由で、うまく生き残れた人々の子孫である私たちは、自分の行為というものを認知できる。私たちは、自分の行為を見取る場合にも、他人の行為を見取る場合と同じように、「人がある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」と見ている。

こうして、目的行動というものが作られる。こうして、人間が使う複雑な目的という認知の仕組みが作られる。

人類において特に発達した目的認知機構は、対象が動物、無生物、他人、あるいは自分自身である場合も、同じようにその運動を目的志向と見なしその目的を予測する。その目的を推測することで、私たちの周りに起こる将来の状況を予測する。それに反応して自動的に起こる自分の身体の動きを自分の意識的意図と思う。それを自分の行動の目的だと思う。そうして私たちの目的行動が作られていく。

私たちは(拙稿の見解では)こうして、自分がある行為をするときはある目的を持ってそれをしているのだ、と思うような身体になっています。そこからまた逆方向に、向こう側から私の身体を見ている他人もまた、私が持つ目的を認めることで、ある目的を持って、私に何かをしてくるのだと推測する。私の側としては、そこからまたさらに、その人の目的に関しての自分の行為の目的を考える。

このように、他者と自分との間で、目的認知の反射を繰り返すわけですね。いちいち書き出すととても煩雑になりますが、こういう複雑な判断を、私たちは常時、瞬時に、らくらくと実行している。人間どうしの間で、いつもエコーのように目的認知の反射反響が起こっている。再帰的にこの反射の繰り返しが進み、反射から反射が生成され、人間の使う目的認知機構は動物共通の単純な運動目的イメージから大きく飛躍する。

人間の脳に備わっている目的認知機構は(拙稿の見解では)、運動目的イメージを連鎖し合成して作られる行為の結果を予測する。その予測を概念化して仲間と共有する。こうすることで、行為とその結果として予測される状況変化が、目的認知機構によって概念化される。それを繰り返して、行為とそれによって変化する状況を連鎖的に予測し、その予測結果を総合して生成される状況空間を仲間と共有することで概念化する。

私たちはこうして、状況に対して行為を加えることで引き起こされる変化の法則性を学び、精度の高い予測機能を獲得する。

私たちの身体に備わっている右のような法則性を埋め込んだ目的認知機構は、行為の結果を再帰的に予測することで状況空間を生成します。この状況空間を仲間と共感することで、私たち人間は(拙稿の見解では)、同じ客観的世界を共有しています。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(16)

2010-01-30 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

動物あるいは人間の行為は、皆さんが思っていらっしゃるように、目的を持って行われるものなのか? それとも拙稿が言うように、そうではないのか?

この問題は重要です。

拙稿の見解はこうです。

生物の身体は進化によって、効率的に生存繁殖するようにできあがっている。

植物の葉は太陽光線を効率よく吸収するように平均的太陽方向に垂直な方向に広がる。そのことを、「葉は日に当たることを目的として広がる」ということができる。花は蝶を誘い込んで花粉を運ばせることで繁殖する。そのことを「花は蝶を誘うことを目的として華麗な花弁をつける」ということができる。

動物の行動もまた、生存繁殖を効率よく行うように進化している。ライオンがシマウマの背中に飛びつくのは、進化により効率のよい栄養獲得のための行動が身体に作りこまれているからです。それを「ライオンは栄養獲得という目的を持ってシマウマを襲う」ということもできますが、そういう表現のほうが正しく自然を描写しているといえるのか? 

さらに言えば、人間も生物ですから、効率よく生存繁殖の行動を行う。それを自動的に実行するように身体ができている。しかしそれを見て、人間は生存繁殖という目的を持って行動をしている、といえるのでしょうか?

動物の行動に目的を見る見方を人間の場合にも適用することで、私たちは、人間の行動にも目的があると思うのか? それとも、人間の行動には実際に目的があるから、私たちはそこから類推して、動物の行動にも目的があると思うのか? どちらが正しいのでしょうか?

拙稿の見解によれば、「あるものがある行為をするときは、そのものは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という擬人化による物事の見方が(言語以前に)人間の身体には備わっている。物事をこの見方で認知することにより、生物の変化、特に動物の行動を、効率よく、瞬時に認知できる。また人間の行為に関してこの見方を使うことは、人間社会において互いの行動を認知するのに非常に便利な方法となっています。

拙稿のこの見解によれば、人間の身体の仕組みとして作りこまれているこの認知構造は、その「あるもの」が人間であろうと、動物であろうと、無生物であろうと、同じようにその動きに目的を見て取る。

ちなみに、物を人に擬すという観点から擬人化という用語を使いましたが、拙稿の用法ではむしろ、人をも物に擬すという認知構造を指していうので、擬物化とでも呼ぶべき機能ですね。

つまり動物も無生物もどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という認知構造から、そのある物が人である場合も、当然、「ある者がある行為をするときは、その者は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」となるから、同じ言語構造で表現できることになります。

ただし、拙稿では変わった造語を避ける方針なので「擬物化」という造語は使いません。

さて、「ある物」がどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物の見方。こういうような認知構造が(拙稿の見解では)生まれつき、私たち人間の内部にある。このモデルを使って、物事を認知すれば、「XがYをする」という言語表現が自然にできてくる。逆に言えば、私たちが「XがYをする」という形式の言語表現を持っているということは、私たちの内部に右のような認知構造が生まれつき備わっているということを示している。

人体が感知する物事の種々の動きとその予測によって、それらが次の場面でどう変化し、どう動いていくかを予測する仕組みが、私たちの身体の内部にある。それは仲間と共有できる世界の予測機構です。だれもが、その動きを同じように予測できるとき、その動き方の予測が世界の物事を分節化する、と(拙稿の見解では)いえます。

この世界にはYという動きをするXというものがいる、と私たちが仲間と同じように感じとる。そのとき「XがYをする」という分節化が作られる。その分節化が言語を作っていく。そのとき、私たちはこの分節化を共有し、Xが次の場面でどう変化し、どう動いていくかの予測を共有する。逆に、言語は、私たちが共有する予測機構によって世界を分節化し、予測し、認知していく予測機構の共有様式だ、と見なすことができます。

私たち人間は(拙稿の見解では)物事の変化を観察し予測することで認知する。そのとき、その物事自身がその変化を予測してそれを目的として変化する,という見方を使って、私たちは見る。あらゆる物事はこのやりかたで認知できる、と私たちは、無意識のうちに思っている。こうして、あらゆる物事のあらゆる変化は目的を持つこととなる。その結果(拙稿の見解では)、人間も目的を持って行動する、と見て取れるようになります。

この認知の機構を人間どうしが互いに共有すれば、同じ(分節化による)世界を共有できる。そこから人類の言語が作られてきた。そうして作られた人類の言語は、世界のすべてを言い表せるかのように見えます。むしろ逆に、そうして共有できた分節化をもって世界のすべてだと感じるように、私たちの身体ができている、と(拙稿の見解では)言うべきでしょう。

ちなみに、言語の下敷きになっている現生人類のこのようなものの見方を人間以外の動物が持っているのかどうか、という問題に関しては、現代科学ではまったく解明できていません。チンパンジーやゴリラなどの類人猿に関してばかりでなく、言語習得以前の人間の幼児に関しても、事物の変化とその原因となる意識や意図、あるいは目的や動機との相互関係性を概念的に認知できているかどうかの科学的実証はできていません(二〇〇七年 マーク・ハウザー、デイヴィッド・バーナー、ティム・オドンネル『進化言語学 伝統的課題への新しい視点』)。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(15)

2010-01-23 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

そうだとすれば、ライオンを観察している人が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で言う場合、それは事実を言っているのではなく、「ライオンがシマウマを襲うがごとく追跡しているように見える」という擬人化を使った比喩を言っている、ということになる。

しかしここで問題なのは、このような隠喩話法を使う場合、比喩を言っている場合も、直接の事実を言っている場合も、言葉としては同じ、ということです。「ライオンがシマウマを襲う」と言う人が、自分は実は「ライオンがシマウマを襲うがごとく追跡しているように見える」という比喩を言っているのだ、と自覚しているでしょうか?ふつう、していませんね。ただ単に、ライオンがシマウマを襲っているから「ライオンがシマウマを襲う」と言っているのだ、と思っているでしょう。

この点を、拙稿としては問題にしたい。比喩(メタファー)とは何か?つまり、たとえ比喩を語る場面であっても、話し手はいつのまにか事実を語っているつもりになっているし、聞き手もまた事実を聞いているという気になっている。これは、どういうことなのか、という問題です。

拙稿の立場としては、これは人類の言語の顕著な特性である、と認識します。こうして人類の言語は、比喩が比喩であることに気づかずに使われていく。あるいは、比喩は事実の一種である、という形で使われていく。実際、比喩のほうが事実よりも事実を表していたりする(一九八〇年 ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『生きる糧としての比喩』既出 〔邦訳:渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸訳『レトリックと人生』大修館書店, 1986年〕)。「あらゆる行動は目的があるかのごとく見える」というアナロジー(直喩)が、単に、「あらゆる行動は目的がある」という事実の形式(隠喩)で表現される。

私たちの言語は(拙稿の見解では)、本来、比喩と事実を区別しない、ともいえる。比喩を使う文章表現を指して、それが比喩表現であるとする見方は、現代人の言語学者が考え付いた見方ではあるけれども、言語を発明した原始の人々は、もともと比喩と事実の区別はしていなかった、のではないでしょうか?

もしそうであるとすれば、「あらゆる行動は目的がある」という認知は、現代人からみて比喩であろうが事実であろうが、本来、人間の言葉としては、事実として語られる。つまりどんな場面でも「あらゆる行動は目的がある」という見方は普遍的な使われ方をしていることになります。これは人類の言語が持つ二項形式が(X,Y)、Xがある目的を持ってYをする、という形式であることに(拙稿の見解では)表れています。

こうして、XがYをする、という言語形式が作られる。つまり人類の言語においては、話し手は「Xを観察するとXが自分の運動の結果を予測してそれがYをする結果となることを意識した上でYをするかのごとく見える」と推定したときに「XがYをする」という言語表現をする。

こうして人類は、言語を使うとき、その下敷きとして働く運動シミュレーションのモデルとして、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の見方をするようになった。いや、正確に言えば(拙稿の見解では)、人類は、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の動きをシミュレーションモデルとして脳内に備えているから、その仕組みを利用してこのような言語構造を進化させた。

このモデルを使って、動物の動きを見ると、それは目的を持った意識的行動のように見えます。つまり、ある動物がある行為をするときは、その行為の結果を予測して、それを目的として、その行為をしているように見える。

私たちが人間を観察する場合、人間も動物の一種ですから、その動きは当然そう見える。つまり私たちが人間の動きを認知すると、その動きは目的を持った意識的行為であるかのように見える。これは、人間が動く原因はその人間の内部にある意識的意図が働く結果である、というモデルを私たちが、無意識のうちに、使っているからです。

意識的意図は、どの動物の中にもあって、その動物(あるいは人間)の動きの結果を予測してそれがもたらす状況の変化を評価し、好ましい結果をもたらすような動きを選択する、ように見える。この選択には感情が伴っていて、結果のよしあし、好き嫌いを判定している、ように見える。私たちは、こういうモデルで、動物や人間の行動を認知している。

拙稿の見解によれば、私たち人間は、動物の行動にこのような意識的意図、あるいは社会的な意図を見て取る。これは(拙稿の見解では)、動物などの動きに社会的な目的を見る見方から派生して、私たちは、人間の行動にも社会的な目的があると見ている、ということです。

しかし読者の皆さんの常識では逆でしょう。そもそも人間が目的を持って意識的に行動するものであるから、動物を擬人化することで、動物も人間と同じ仕組みで行動を決定していると見なせる。そうすることで、動物の行動を分かりやすく表現できる、ということでしょう。しかし本当に、人間は、動物を人間とは違うものと認めた上で、それを表現上のテクニックとして擬人化しているのか? むしろ、そうではなくて、動物も人間とまったく同じような心を持って動いている、と思っているのではありませんか?

たとえば、「ライオンは食料にしようという目的を持ってシマウマを襲う」という言い方にふつう違和感はありません。この場合、ライオンの意識的目的は、食料の獲得にある。ライオンは、食料を獲得できるとうれしいからシマウマを襲う。ライオンの気持ちがよく分かる、と皆さんは思いますね。

でも、本当にライオンは食料が欲しくてシマウマの背中に飛びつくのか?ライオンの身体の作りが、走っている自分の前を走るシマウマを見ると自動的にその背中に飛びつくようにできているから、ではないのか? このことを敷衍すれば、人間を含めてあらゆる動物はライオンと同じように、身体の作りがそうなっているからそう動くのではないのか?

もしそうだとすれば、私たちの行動は目的を持って意識的になされるのではなく、身体の作りがそう行動するようになっているからそう動くのだ、ということになる。そしてまさに、これが拙稿の見解です。

Banner_01

コメント

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(14)

2010-01-16 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

ライオンがシマウマを襲う目的を聞いてくる質問に対して「シマウマの背中に飛び乗るためだ」という答えは適切な答えだとは言えない。なぜならば、私たちがふつう使う言葉遣いでは、「襲う」という行為は、相手の大事なものを奪うという目的を持つという社会的な意味合いを含んでいる。その意味合いに沿って、相手の何を奪おうとしているのかに答えなければ適切な答えとは言えませんね。だから、襲う目的を問われた場合、「シマウマの背中に飛び乗るためだ」というような物理的身体的な動きを述べるだけでは、答えになっていない。

「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問は、もともとからして、「殺して食べるためだ」というような答えを暗黙のうちに期待している質問です。その期待に沿って会話は進んでいくことになっている。

「殺して食べるためだ」というような、もし人間が人間に対して行ったとすればとても衝撃的な行為を、この二匹の動物がしていると見なすわけです。たしかにライオンのこの行為は人間が見て衝撃的な行為であるべきです。それでこそ、私たちだれもが関心を持つことになる。そうであれば、話し手がわざわざ話す価値があることになるし、聞き手もわざわざ聞く価値があることになる。この場合、「襲う」という言葉が表している行為が、話し手と聞き手が共通に興味を持つ行為であるからこそ、会話の話題になっている、ということです。

そもそも言語による会話は、話し手と聞き手が共感できること以外に意味を成り立たせることはできません。ケニヤの草原でライオンがシマウマを追っている場面を目撃した話し手が聞き手に何かを言うとしたら、話し手は無意識のうちに、二人が共感できる話題を話すでしょう。その話題は、人間どうしが共通に関心を持つこと、たとえば、奪ったり奪われたりすることなど、つまり、ふつうは社会的な(あるいは経済的な、あるいは人間関係に関する)ことです。私たち人間が、そういう社会的経済的なことや人間関係に関することに強く共通に関心を持つからです。

このことは、逆に言えば、人間の身体が生まれつき物事の変化をそう感じとるようにできているからだと(拙稿の見解では)思われます。奪ったり奪われたり、害を与えたり、利益を受けたり、物事のとらえ方として、(主体概念とその目的との関係の)そういう感覚を、身体で感じとるような仕組みが、人間に限らず、多くの群棲哺乳動物にはあると思われます。

社会集団を作る群棲動物の進化の過程で、そのような仕組みの身体を持つことが有利に働いたのでしょう。その身体の仕組みからきて、私たち人間では、目的概念が社会的な意味合いを多く持つようになったと(拙稿の見解では)考えられます。

社会的集団生活をする群棲動物は、社会的な状況(たとえば、仲間に好かれるとか、疎んじられるとか)を認知し、その状況を予測して、有利な行動を選択する能力を持つ必要があります。犬などを見ると、そういう能力が十分ありそうに見えますね。人間もそうでしょう。私たちは、仲間の中での自分をめぐる社会的状況の変化を予測し、求めるべき状況を目的として複雑な行動を組み立てる機能を持っている。人間の場合、この機能に利用されている機構が、(拙稿の見解では)人類特有の抽象的な目的認知機構です。

社会的状況を抽象的な目的概念として認知する。たとえば、仲間にどう思われるか、というところから目的概念が作られる。言語表現にすれば、「仲間に好かれたい」、「仲間に疎んじられたくない」「クールだと思われたい」「負け犬と思われたくない」などとなるでしょう。こういう社会的状況を予測し、それを実現する目的として行動を組み立てる。人間の場合、このような状況―行動の結果予測に、目的認知機構は使われます。

動物の場合はどうか? 人間以外の動物は、まず社会的状況をそれほど精緻に認知しない。人間のように複雑な社会を持つ動物はいない。それで抽象的な目的認知機構は必要としません。逆に言えば、人間は抽象的な目的概念を作り、それを認知する目的認知機構を身体に備えているから、(拙稿の見解では)このような複雑な社会を維持していられる。       

人間はそうして、人と人の間の社会的関係に変化をもたらすことを目的として行動している。しかしたとえば、シマウマの尻を追いかけているケニヤのライオンはシマウマとの社会的関係に何らかの変化をもたらそうとして行動しているのか?

実際、ライオンはシマウマの持っている大事なものを奪うという社会的な目的を持って行動しているのか? 「大事なものを奪う」というような抽象的な目的概念を持っているのか? まじめに考えれば、ライオンがそんな人間のような考えを持っているはずがないことは明らかですね。では、ライオンは何を考えて行動しているのか?

シマウマを追っているライオンの内部で何が起こっているか推測してみましょう。シマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションは活性化されているに違いないと思えますね。一方、「シマウマの持っている大事なものを奪いたい」とか、あるいは「シマウマの生命をこの世から抹殺したい」という考えがライオンの内部にあるでしょうか? 幼稚園児はそう思うかもしれない。しかし、動物をよく知っている大人は、ライオンの内部にそういう考えがあるはずがないことをよく知っています。

ライオンは、逃げるシマウマを追って走るという運動を実行することで、脳神経機構のシミュレーション読み出しシステムから自動的に引き出されてくる運動シミュレーションに沿って、無意識に運動を展開しているだけです。

ライオンの自動的な運動シークエンスは、次のように構成されているはずです。

シマウマを追う→シマウマの尻が目前に見えるまで追いつく→思いっきり飛びつく→背中に飛び乗る→頚動脈を噛み切る→倒れたシマウマを食べる。

ライオンの内部の神経機構では、矢印の直前に記述されている運動が矢印の直後に記述されている運動を自動的に引き起こすような連鎖メカニズムになっている。ライオンの身体は、矢印の方向へ自動的に運動シークエンスが進み、無意識のうちに身体が動いていくような機械的機構になっている。それだけでしょう。

Banner_01

コメント

文献