哲学の科学

science of philosophy

偽善する人々(8)

2015-09-27 | yy47偽善する人々

次に官庁など公的組織の場合、これもふつうは善人と思ってよいでしょう。公的組織のトップは大臣などの責任で政府が人選委員会などの審議を経て任命しますが、実績と経験のあるまともな人が実際には任命される仕組みになっています。トップの下にあるピラミッド式の実行部隊は上司の命令で動くようになっています。
官僚組織は建前でしか動かない、とよく悪口をいわれます。まさにその通りなのですが、そうであるからこそその動き方は予想可能であってその意味で信頼できます。
ちなみに官僚主義、ビューロクラシーという現象は昔からよく知られているので、その行動様式を勉強しておけば理解可能です。官庁組織には建前しかなく裏がないので偽善もできません。見えるようにしか動かないので、偽善者とはいえないでしょう。
軍隊も警察も学校も公的組織である限り、その中身は官僚組織です。
軍隊や警察は、暴力と恐怖を制御することを使命としているので、外部者から見ると怖い集団にみえますが、その機能を維持するために、上官の命令でよく制御されるように訓練されているので理解しやすい官僚組織です。
裁判所や大学、学校などは裁判官、教師の良心が尊重されますが、これらも組織としての実態は上司が人事を行うことで部下をコントロールする仕組みで秩序が保たれる官僚組織として機能しています。
これら組織機構は上意下達の機構であり、かつトップは善行をなすことを任務として実行するので、機構全体も善人であるかのように行動することになります。
また公的な組織は、法令、規則などに成文化された公的使命を持っていて、末端の成員までその使命を守るように教育されています。ふつう組織の成員は集団として仲間意識を持ち組織特有のカルチャーを持つので、公的組織の使命はその組織カルチャーを通じて組織の上から下まで貫かれた暗黙の行動規範の基底をなすことで機能しています。
官僚制を核とするこの実体的な組織構造は公的組織が継続して機能するための条件でもあるので、逆にいえば、安定して継続している公的組織はいずれこの構造を保有しています。










Banner_01



コメント

偽善する人々(7)

2015-09-19 | yy47偽善する人々

見知らぬ個人に頼ることは、いずれにせよ、リスクが多いから避ける、という方法もよく使われます。個人ではなく会社、役所、政府、国家など組織機構を信頼するほうがまだまし、とする考えです。会社や役所など、これらの機構は、世の中でそれなりに何十年も機能しているところを見れば、信用できる存在であるらしい。そこに所属している正規の職員ならば信頼できそうです。
それらの組織機構は善意で行動するのでしょうか?集団として偽善者ではないのでしょうか?
会社など法人組織を一人の人としてみた場合どうでしょうか?善人ですか、悪人ですか、それとも偽善者でしょうか?
まず営利企業の場合、ふつう社長をはじめ社員などは営業利益を出すために努力するので、顧客から見ると信頼できる善人にみえます。対価を支払えば期待通りのサービスを提供してくれます。逆にいえば、顧客の期待を裏切るような企業は永続できないので市場から消えているはずです。
中には顧客をだまして暴利をむさぼる悪徳企業もいますが、そういう類はいずれ評判を落として消えてきます。その業界で長く営業している会社は大丈夫でしょう。会社のブランドや評判をチェックしておけば顧客は安心して付き合うことができる。その会社が広告やコマーシャルやカタログなど証拠に残る媒体で公式に発言している言葉は嘘ではないと信頼できます。
欠陥商品を売ってしまったことが社内で判明したにもかかわらず、販売中止せず、あるいはリコールしなかった製造会社は善人のふりをしたということで偽善者ということになります。これも暴露されれば社会的糾弾を受けて損害賠償ばかりか売り上げ低迷に見舞われ、大損害を受け、トップは解任されるでしょう。そうであるから永続する会社はそういうことはしません。
たまには特別にダメな個人の行為が重なって長年の信頼を壊してしまう会社もあります。新聞テレビは毎日そのような事件を報道しているので、一流企業といえども最近はダメになっているような気がしますが、全国の会社の数を考えれば、長年続いているほとんどの会社はまあ大丈夫でしょう。善意で動いていると思って心配なくつきあえます。









Banner_01



コメント

偽善する人々(6)

2015-09-12 | yy47偽善する人々

人間というものがそもそも私利私欲から逃れられず利に流されることは、社会に生きる人はだれもがよく知っています。それにもかかわらず、エリートには無私の美しさを求める。
人類は、群生霊長類から進化した過程で、集団に共鳴し、権威あるリーダーに追従することで社会を形成し維持する性質を発達させてきました。集団を率いる自分たちのリーダーは強く美しい理想的な君子であって欲しいという思いは素朴で根強い。
集団の正義を守り私利私欲に超然としているリーダー像。その資質を備えるエリート群。青少年はそのように育ってほしい。青少年のお手本になるような正しいエリートがいなければならない、という理想はどの社会にもあります。私たちは、無意識のうちに、そのような理想のエリートを必要としているからでしょう。実際、歴史上の社会はこのように構成されていたし、現代でも、この理想の上に現実の社会秩序が成り立っている、とみることができます。
その理想的エリート像の期待が裏切られたとき社会は怒り悲しみ、制裁を課します。偽善者であってはならないものが偽善者であることは社会秩序の根源を冒すからでしょう。

理想はそうである。しかし残念ながら現実の社会は偽善者に満ちています。
私たちは社会生活において偽善者にだまされたくない。偽善者にだまされることを避けるためにはどのような用心をすればよいのでしょうか?見知らぬ人と取引する場合はよほど慎重に話を進めなければいけません。紹介者がいない場合、インターネットで知り合った場合、身元が分からない人、外国人など、取引の相手としてはふつう好まれません。初対面からにこにこ笑いかけてくる人も危ないかもしれない。そうかといっても、目をそらしてぶっきらぼうな言い方をする人はもっと危ない。何を信頼してよいか困ります。
見知らぬ個人は残念ながらやはりしばしば偽善者であります。見知らぬ人は信用してはならない。それでは、何を信用すればよいのか?

仕事をしていれば、知り合いがいない業界の人とも取引しなければなりません。生活の面でも現代人は、よいものを安く買うために、インターネットを通じて見知らぬ相手から購入しなければなりません。見知らぬ個人はしばしば偽善者である、とすれば、どうすればよいのでしょうか?
その人を知っていそうな知人に評判を聞いて見る。しかし同じ業界ならともかく、まったく知らない世界の人の場合、自分の知り合いに聞いてもふつう無駄でしょうね。インターネットのことはインターネットに聞いてみる、という知恵が現代の若者にはあります。フェースブックとか、個人の情報や評価が手に入るルートがあるでしょう。それでもデジタルの世界では隔靴掻痒のようなデータしか取れない場合が多い。直感で信用できるところまでいきません。
若い人は、インターネットなどを駆使して、信用にたどり着こうとしてがんばるが、それほどうまくいってはいないようです。年寄りはインターネットなど使えませんが、むしろ直感の世界では有利です。よく知っている知り合いが多い。長年の人脈ネットワークをたどって信頼できる経路から相手を見つけることができます。あとは自分の経験と勘による人物鑑定。それで生き抜いてきた人は偽善者を上手に避けることができる。経験と勘が身についていない未熟者はどうすればよいか、言葉で教えることはできません。











Banner_01



コメント

偽善する人々(5)

2015-09-05 | yy47偽善する人々

ボランティア活動家は、法や契約でしばられていないだけ純粋な善意で公共に奉仕しています。報酬は実費だけでしょうから、他に職業を持っているか、富裕な人なのでしょう。しかし奉仕活動が社会から期待されるものであるためには信頼が必要です。
ボランティアを名乗る人であっても、期待された行動を確かにしてくれることが信じられなければ公共の役割を委託できません。ボランティアを名乗り行政や関係者の協力を得るためには、本人が善意を持っていることだけでは不十分です。職業歴などの背景、所属団体、活動実績、推薦状などによる信頼が必要です。活動の受け入れ側としてはその信頼により奉仕などの仕事を委託でき継続できることを期待します。
ボランティアが善意からしていると見せかけている行為が実は私利私欲を目的とするものであった場合、その人は偽善者です。たとえば市の補助金を受けて講習会を開催したボランティアが教材を売って利益を得ることを目的としていた場合など。偽善であることが判明した場合、社会は糾弾するでしょう。
そのような人がボランティアとして認められないようにする仕組みが社会には必要です。

会社の社長やスポーツチームの監督など組織団体のリーダーも、その団体を代表して会社内やチーム内で正義を行うことになっています。社長や監督は、公共に奉仕するエリートと同じように、会社やチームの目的に奉仕しなければなりません。社長は会社の収益をあげるために社員に命令することはできますが、会社の利益にならない個人利益のために社員を使った場合、会社内からも社会からも非難されるでしょう。チームの監督も、選手を自分の個人的目的で使役すれば同様です。
これら種々の組織団体のリーダーも権力を持つことによって偽善者になりうる可能性を社会から疑われているのであって、実際偽善をしたことが判明した場合、許されません。

作家、文化人、俳優、芸能人、タレント、スポーツ選手など、著名人、有名人であるというだけで、偽善は許されないという社会現象があります。これらの人々は、優れた才能があって、競争に勝ち抜いてきた人々であるから著名になれたのだろう、と思われています。私たち社会のエリートです。
エリートであるというだけで、嘘をつくことはあってはならない。社会のモラルを守らなくてはいけません。
有名人であるからには汚い生きかたは許されない、とされる。これは、逆に人に勝る人々は理想的に美しくあるべきである、という期待を私たちの社会が持っているからといえます。
私たちの社会は、そういう社会であるべきだ。そのような尊敬すべき美しい生き方をしている人々が競争に勝ち続けてエリートになってくれなければいけません。私たちの社会は、そのような強く美しいエリートにいてもらう必要を持っているらしい。つまりこれらの著名人は理想的に清廉で嘘をつかず偽善を行わないからこそスター、タレント、エリートとして尊敬され、有名になり、いつでも注目されるのでなければならない、とされています。
逆に、たまたま競争に勝ち抜いて有名人あるいはエリートになってしまった人は、嘘をつかず偽善を行わないように行動しなければ、その偽善が見つかった場合、世間から放逐されてエリートの地位を失ってしまいます。私たちの尊敬を裏切ったエリートは許されるはずがありません。
これら競争に勝ち抜いた人々のほうも、エリートの座を降ろされて家族親類からの尊敬を失いまた仲間から軽蔑されることはとても嫌だろうから、恥ずかしい嘘はなかなかつかないだろう、と信頼できる仕組みになっています。これは有名人あるいはエリートの品質保証制度になっています。
こういう社会の仕組みが働いていれば、著名人、有名人あるいは権力者層のエリートたちはだんだんと本心から清廉で偽善を行わない人になっていくでしょう。特に大きな組織のリーダー、人の上に立つ経営者、代表、強い権力を行使する責任者となる人は、尊敬される理想的なエリートでありたいという気持ちが自然に身についてきますから、偽善を避け本心を述べながら現実に対応する姿勢をとることができるようになります。
そうなると、偽善者とされずに現実を処理していく立派なエリートになる人が育ってくる。まあ、うまく環境が許せばですが、そうして尊敬すべきリーダーが実際に頂点に位置した社会が実現する可能性もあります。古代の伝説の王、皇帝は賢かった、と史書にありますが、そうであったのでしょう。











Banner_01

コメント

文献