私たちはなぜ、なぜと問うのか?
私たちはなぜ宇宙があるのかと問う。それはここに宇宙があるから、というよりも、私たちがなぜ宇宙があるのか、と問うから、宇宙はある。宇宙がある目的は何かを私たちが知りたいから、宇宙はある、といえます。
私はなぜあるのか(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )? それはここに私があるから、というよりも、私が私はなぜあるのか、と問うから、私はある。私がある目的は何かを私が知りたいから、私はある、といえます。
物事がこうである、というとき、私たちは、なぜこうであるかを自分が分かっていると思う以前に、仲間がそれを分かっていることを分かったうえで、それがこうであると思う。物事がこうであるには、それなりの理由があるはずだ、と思う。だれかが目的を持って、物事がこうであるようにしたいと考えているはずだ、と思う。そういう背景を、仲間と暗黙に認めあったうえで、物事がこうである、という。そういう考え方を、無意識のうちに、私たちはしています。拙稿の見解によれば、そういう考え方が自然に思い浮かぶように私たちの身体は進化してきました(いわば人類特有の拡張表現型(リチャード・ドーキンス の造語))。
逆に言えば、私たちがそういうように物事がこうなっていることを認めるから物事はこうなっている、ということになります。
ちなみに、物事がこうである、というときのこういう私たちの直感と現代科学の考え方とは、まったく違います。現代科学は物事がこうである真の原因(vera causa)を問う。科学でいう真の原因とは、ある状態から科学の法則だけに従って次の状態に変化が起こり得るということです。地球上の生物は神様が創造したという(真でない)原因で存在しているのではなくて、ある一個の始原細胞が変異と自然淘汰の繰り返しにより地球上に分散することで過去および現存のすべての生物に進化し得るという真の原因により存在している(一八五九年 チャールズ・ダーウィン「生存競争における適者保存あるいは自然淘汰の作用による種の起源について 」)。
この現代科学の考え方は私たちの直感になじみません。
私たちの直感では、この世のもろもろの物事は、それぞれ、だれかがそうしたくてそうしているから起こる。何者かは分からなくても、何者かのなせる業である、と感じます。逆に言えば、その物事が何者かのなせる業であると直感するとき、私たちはその物事が起きていると気が付く。認知できる。そうでない物事は無意識に無視してしまいます。
本章をまとめてみましょう。
私はなぜ、なぜと問うのか?
物事がこうであるのはなぜか?
(「物事」を「○○」で置き換えてみましょう。疑問文「○○がこうであるのはなぜか?」の○○に好きな言葉を入れてください。この後に出てくる「物事」という語をその「○○」で置き換えて読み直してみてください)
それは、物事がこうであるのはなぜか、と私たちが問うから物事はこうである、と答えることができます。私たちは物事がこうであるのはなぜか、と問うとき、答えが得られなくても、すでに物事がこうである、と思っています。
答えが得られてそれが納得できれば、もちろん、ああそうか、物事がこうである理由が分かった、と思います。しかし、ちゃんと納得できなくても、よく分からないけれども、とにかく物事がこうであるということだよ、と思うのは変わりません。
いずれにしろ、物事がこうであるのはその裏に何か(だれかの)目的があるのだろう、と思うわけです。その目的を知ることで物事の先行きを予測できると期待する。物事はそういうように予測できるから私たちは物事に注目する。
そういう無意識の考えがあるから、私たちは「物事がこうであるのはなぜか」と問う、というのが拙稿の見解です。■
(31 私はなぜ、なぜと問うのか? end)