哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ、なぜと問うのか(7)

2012-09-30 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

私たちはなぜ、なぜと問うのか?

私たちはなぜ宇宙があるのかと問う。それはここに宇宙があるから、というよりも、私たちがなぜ宇宙があるのか、と問うから、宇宙はある。宇宙がある目的は何かを私たちが知りたいから、宇宙はある、といえます。

私はなぜあるのか(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )? それはここに私があるから、というよりも、私が私はなぜあるのか、と問うから、私はある。私がある目的は何かを私が知りたいから、私はある、といえます。

物事がこうである、というとき、私たちは、なぜこうであるかを自分が分かっていると思う以前に、仲間がそれを分かっていることを分かったうえで、それがこうであると思う。物事がこうであるには、それなりの理由があるはずだ、と思う。だれかが目的を持って、物事がこうであるようにしたいと考えているはずだ、と思う。そういう背景を、仲間と暗黙に認めあったうえで、物事がこうである、という。そういう考え方を、無意識のうちに、私たちはしています。拙稿の見解によれば、そういう考え方が自然に思い浮かぶように私たちの身体は進化してきました(いわば人類特有の拡張表現型リチャード・ドーキンス の造語))。

逆に言えば、私たちがそういうように物事がこうなっていることを認めるから物事はこうなっている、ということになります。

ちなみに、物事がこうである、というときのこういう私たちの直感と現代科学の考え方とは、まったく違います。現代科学は物事がこうである真の原因(vera causa)を問う。科学でいう真の原因とは、ある状態から科学の法則だけに従って次の状態に変化が起こり得るということです。地球上の生物は神様が創造したという(真でない)原因で存在しているのではなくて、ある一個の始原細胞が変異と自然淘汰の繰り返しにより地球上に分散することで過去および現存のすべての生物に進化し得るという真の原因により存在している(一八五九年 チャールズ・ダーウィン「生存競争における適者保存あるいは自然淘汰の作用による種の起源について 」)。

この現代科学の考え方は私たちの直感になじみません。

私たちの直感では、この世のもろもろの物事は、それぞれ、だれかがそうしたくてそうしているから起こる。何者かは分からなくても、何者かのなせる業である、と感じます。逆に言えば、その物事が何者かのなせる業であると直感するとき、私たちはその物事が起きていると気が付く。認知できる。そうでない物事は無意識に無視してしまいます。

本章をまとめてみましょう。

私はなぜ、なぜと問うのか?

物事がこうであるのはなぜか?

(「物事」を「○○」で置き換えてみましょう。疑問文「○○がこうであるのはなぜか?」の○○に好きな言葉を入れてください。この後に出てくる「物事」という語をその「○○」で置き換えて読み直してみてください)

それは、物事がこうであるのはなぜか、と私たちが問うから物事はこうである、と答えることができます。私たちは物事がこうであるのはなぜか、と問うとき、答えが得られなくても、すでに物事がこうである、と思っています。

答えが得られてそれが納得できれば、もちろん、ああそうか、物事がこうである理由が分かった、と思います。しかし、ちゃんと納得できなくても、よく分からないけれども、とにかく物事がこうであるということだよ、と思うのは変わりません。

いずれにしろ、物事がこうであるのはその裏に何か(だれかの)目的があるのだろう、と思うわけです。その目的を知ることで物事の先行きを予測できると期待する。物事はそういうように予測できるから私たちは物事に注目する。

そういう無意識の考えがあるから、私たちは「物事がこうであるのはなぜか」と問う、というのが拙稿の見解です。■

(31  私はなぜ、なぜと問うのか? end)

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私はなぜ、なぜと問うのか(6)

2012-09-22 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

私たち人間は物事に注目するとき、いつも、それは人間のような行為者の意図的な行為である、と思う。そうであれば、物事を理解する場合、いずれにせよ、その目的を考えることが手っ取り早い、といえます。

分からない物事を理解したい、と思うとき、私たちは、なぜ、と問う。それはその物事を引き起こしている(擬人化された)だれかの目的を問うことです。

それは私たちに害を与えようとしている悪意を目的とした物事であるのか?

あるいは私たちに益をもたらす善意を目的とした物事であるのか?

あるいは私たちを対象としない中立的な目的であるのか?

そしてそれは、その目的を目指して次にどのような変化を引き起こすのか?

物事に注目するとき、それをするのがだれかという以前に私たちにかかわるその目的を知る必要がある、と私たちは感じます。私たち人間が物事を理解するということは、私たちにかかわるその目的を知ることである、といえます。

私たちは、だれかが目的を持って行為を行うときに起こる物事に関心を持つ。そういう物事を仲間と言葉で語り合う必要がある。拙稿の見解によれば、そういう必要を感じるように私たちの身体は進化してきました。

そういう物事を語り合うために(拙稿の見解によれば)、人類の言語は作られた。言い換えれば、そういう言語を話すように、私たちの身体は(進化により)作られています。

そういう私たちが語り合う物事は、当然、目的を持っています。物事のそういう目的を知るために、私たちは、なぜ、と問う。それを問うような身体に、私たち人類は進化した、といえます。

たぶん類人猿共通の認知神経機構から発展した人類の認知機構は(拙稿の見解では)、物事の予測をその目的を推定するという方法で実行します。人類はそのような物事の予測を仲間と共同して行う。そこから(拙稿の見解では)人類の言語が発生しました(拙稿26章「「する」とは何か?」 )。仲間の動作、表情あるいは音声表現と共鳴することで物事の予測を共有します。私たちの身体が無意識のうちに働くその結果を、私たちは物事の現実として身体で実感していると感じます。私たちが、物事が当然そうなると感じるとき(拙稿の見解によれば)、それは仲間がそう感じていることを感じ取っていることからくる感覚だ、といえます。

こういう現実認識をしている私たち人間は、物事を予測しなければならないと感じるとき、その物事が起きる目的を知ろうとする。それを問う言葉として「なぜ」という疑問詞ができた、といえます。

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私はなぜ、なぜと問うのか(5)

2012-09-16 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

言語は(拙稿の見解では)、もともとは、目的を持った行為に注目するときに使われます。人類の言語はつまり、だれかがある目的を持って物事を引き起こそうと思うから物事が起こる、という考えのもとに作られています。逆に言えば、そう考えられない物事は言葉で語ることはできません。

しかしまた、私たちが考える物事のうちには、だれかがある目的を持ってそれをしようと思うから起こるとは考えないほうが理解しやすいものも多くあります。それらは言語以外の方法で表すほうが実際的です。

たとえば、現代科学で描かれる物質の変化は、だれかがある目的を持ってそれをしようと思うから起こるのではなく、ある状態から科学の法則に従って次の状態に変化が起こるだけです。こういう変化は言葉で語ることはできない。物質の動きや変化を正確に知るためには科学方程式を計算するしかありません。

またたとえば、大気中の二酸化炭素の量を予測したい場合、あるいは市場で株の値動きを予測したい場合、だれかがある目的を持ってそれをしようと思うからその変化が起こると考えるよりも、グラフやチャートの傾向とか海外市場の値動きとかの数値的な平均値を直感で見るほうが実際的だと思われます。

しかし、科学も市場も歴史上ごく最近現れてきたものです。大昔は、言語で表せないことで困る物事はあまりなかったでしょう。むしろ語るべきものは限られていた。仲間と気持ちを通じあうには、言語以外の、表情、声のトーン、身振り、などのほうが重要で雄弁だった。仲間と協力して行う生活上の作業、集団行動などに伴う言葉の掛け合いがほとんどだったでしょうし、それらは分かりきったものだったでしょう。さらに言えば、言語で表しにくいものは注目に値しなかった。つまり仲間と語り合う必要がなかった、ともいえます。たとえば目的もなく変化する風や雲や川の水の細かい動きはふつう気にする必要はなかったでしょう。

目的もなく落下するリンゴや規則正しい天体の細かい動きも気にする必要はなかった。つまり大昔の人々の生活では、当たり前に変化する自然現象などはわざわざ語り合う必要はなかった、と思われます。語り合って情報を共有する必要がある物事は、人間の動きや猛獣や獲物など動物の動きです。

目的を目指しているように見える人間や動物の身体運動については、仲間と語り合う必要があった。目的があるようには見えない植物や非生物の動きについては、自然現象や他の人間や動物に動かされていると思える場合だけ、それを語り合って皆で知っている必要がありました。

この場合は、動きをもたらしている行為について語ることでした。自然の物事や目に見えない物事についても、それらの物事が自分たちにかかわりがあると思えるとき、人々はそれらが人間の行為と同じように目的を持つ者の行為であると考えて擬人化することで語り合った。

人類の(自然)言語は、まず目的を持った人間の行為を言いあらわします。動物の行動も擬人化することで言語表現できます。動物でないもの、植物、微生物、非生物、自然現象、抽象的存在などの動きも擬人化することで言語表現されます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?{7}」 )。つまり(拙稿の見解では)言葉で言い表す限り、物事はすべて、(意識的な)人間であるかのごとく、目的を持って動いていることになる。

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私はなぜ、なぜと問うのか(4)

2012-09-08 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

科学に限らず、何に関しても、「なぜ」と聞いているのに、目的を答えてもらえないと、私たちは納得できません。世間話にしても、人のうわさにしても。犯人はなぜ殺人を犯したのかを知りたくて読み進むミステリーにしても、なぜ日本は金メダルを取れないのかに関しても、私たちはその原因だけでなく、その現象を引き起こしているだれかの目的を知りたい。

目的を知ることができるような問答は、どういうものでしょうか?

たとえば

「なぜ、金メダルを取れなかったのですか?」

「皆さんに期待されているというプレッシャーに負けたからです」

「なぜ、皆さんはあなたに期待したのですか?」 

「前回も日本はこの種目で金だったから、今度も確実に金を取って欲しかったのでしょう」

あるいは

「なぜ、金メダルを取れなかったのですか?」

「勝利の女神に見放されたからです」

「なぜ、勝利の女神はあなたを見放したのですか?」

「さあ、神様としてはだれかを見放さなくてはならないでしょうから、そのときたまたま私のことを、見放す気になったからじゃないですか」

このように私たちは、「なぜ」と聞いてその現象を(直接あるいは間接に)引き起こした行為者の目的を知ることができます。

小さな子供はすぐ「なぜ」と聞きます。

赤ずきんちゃん) 「おばあさま。なんて大きな口なの?」

(おばあさま)「お前をうまく食べるためさ」

というように、子供の質問には目的で答えておけばよい。子供は納得してしまいます。

赤ずきんちゃん) 「おばあさま。なんて大きな口なの?」

(おばあさま)「俺は、おばあさまでなくて、実はオオカミだからさ」

といっても子供は分かる。これも実は目的を答えているからです。

子供の考えでは、オオカミとは大きな口で獲物を食いちぎることを目的として存在しているものだからです。

子供は「なぜ」と聞くことで、言葉で表されているこの世界の仕組みを知っていきます。子供にとってそれは同時に、言葉というものがどのように世界を作っているのかを知ることです。物事を知るということは、それを言葉でどう扱っていけばよいのか、を知ることです。人々が言葉を使って、物事をどう扱っているのか?そうすることで人々とどう協力していけるのか?子供はそれを知る必要があるから、「なぜ」と聞いてきます。

言語は、世界の物事について、だれが何のためにそれを起こしているのか、という形を表す(拙稿26章「「する」とは何か?」 )。物事と行為者と変化の予測を結びつける。それはつまり物事が起きるその背景にある目的を知ることです。

アリストテレス が、物事は目的を持って存在している、とした哲学を唱えたのも、そもそもは子供のように素朴な、このような観点から来ているのでしょう。

世界の物事の変化は、だれかがある目的を持ってそれをしようと思うから起こる。物事に関してのこういう見方が、私たちの使っている言葉(人類の自然言語)の根底を作っています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

人類は、言語を使用するよりもずっと以前からこのような見方で世界を理解していたと思われます(二〇〇七年 ゲルゲリ・シブラ、ギョルジ・ゲルゲリ『目的に憑かれて:人類における行為の目的論的解釈の機能と機構 』既出)。

これは人類だけでなく言語を持たない類人猿にも共有されている認知機構でしょう。仲間の動作を見て、それが自分の運動形成機構に共鳴を引き起こすことで、行動の目的を感じ取る認知神経機構が下敷きになっているようです。類人猿は仲間のサルや猛獣や人間など利害関係にある動物の行動の中に目的を感じ取れることが観察されます(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か 』既出)。人類ではこれがさらに強化されて、注目に値するすべての物事の変化の中に目的を見る、という感じ取り方をするようになっています。

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私はなぜ、なぜと問うのか(3)

2012-09-01 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

これに似たような別の会話を考えてみましょう。

「リンゴはなぜ、落下するのですか?」

「重力が働くからです」

「なぜ、重力が働くのですか?」

「重力の法則があるからです」

「なぜ、重力の法則があるのですか?」

「宇宙が存在するためです」

これは科学の問答としては当たり前の会話です。しかし、この最後の回答、

「なぜ、重力の法則があるのですか?」

「宇宙が存在するためです」

という回答は、質問者が「なぜ」と聞いている現象を引き起こしているだれかがそれをしている目的を答える形になっています。

宇宙が存在するという目的のために重力の法則がある、と言っているように聞こえます。科学者としては、「このような宇宙が存在するためには、このような重力の法則がなければならない。そのことは、物理的な計算をしてみれば、だれにでも明らかです」と言いたいのでしょう。だれかが宇宙を存在させたくて重力の法則を定めている、と言っているわけではありません。

科学者は、だれかが宇宙を存在させている、などと言うつもりはないでしょう。しかしこの問答は、言葉の上では、そうも聞こえる。だれかが宇宙を存在させていると言っているように聞こえる。こういうように、科学を言語で表現すると、そう聞こえてしまう。ここら辺に科学の秘密がありそうです。

あるいはこれは(拙稿の見解によれば)、科学の秘密というよりも、人間の言葉の秘密がここにある、というべきかもしれません。

実際、だれかが宇宙を存在させたいのか? そのだれかがこのような宇宙を作っているのか?

神様なのか? 神様がこの宇宙を作る目的で重力の法則を作ったのか? 

五百年くらい前に西洋で発生した近代科学は、実は、こういうような発想で作られました。近代科学の創始者といわれるアイザック・ニュートンは重力の法則を発見したときに、この法則は神の摂理である、と書いています(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理 』既出)。

その近代科学から発展した現代科学は、百五十年くらい前から、時間空間をパラメータとする数学関数で表現される世界(一八六四年 ジェームス・クラーク・マックスウェル電磁場の動的理論 」)になってきているので、神様も宇宙創造の目的も原因も必要がなくなりました。ところがこのように数学で描き表わされる現代科学は、自然現象を正確に予測できる一方、私たちの日常言語との関わりが分かりにくくなっています。現代科学は、目的や原因や「なぜ」を使わないと理解できない日常言語(自然言語)とは交わらない世界になっています。

科学者の言い方によると、現代科学は、宇宙は実際こうなっていると説明するがそうなっている目的や原因については関知しない、ということになります。

そういう答えを聞く時、私たちは何か納得できないものを感じますね。私たちが住むこの世界がこういうものとなっている原因は、目的を感知しないそういう科学で説明されつくしているのか? 日常語で話し合う私たちは、どうも納得できない。私たちの普通の会話では、いつでも「なぜ」という質問に対して答えがあるはずではありませんか。目的や原因が説明されない限り、世界がこうなっているということについて説明されつくしていないのではないか?という疑問が残ります。

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