(43 ひまを守る begin)
43 ひまを守る
ひまはつらい。ひまにならないために、人は勉強し、結婚し、子を育て、お金をかせぐ。生活のために動かなければならない人にひまは出てこない。生活のためには動く必要がない人にひまはおそってきます。
明の文人王陽明の四耐四不の辞は清の曽国藩あるいは現代人小平の座右の銘とされて伝えられていますが、耐冷耐苦耐煩耐閑不激不躁不競不随以成事となっていて、このうち耐閑、つまりひまに耐えることが一番むずかしい、としばしば言われるようです。
そのひまですが、今も昔もたいていの人はあまりひまがないようで、宋の欧陽修の帰田録に余平生所作文章多在三上乃馬上枕上厠上(私が文章を練るのは移動中やベッドの上やトイレにいるときが多い)とあり、よく引用されるが、昔の人でもエリートは確実にひまを持てるのはそのくらいだった、ということでしょう。まあ、そういう場面でも携帯端末でインターネットをしていることが多い現代人は、ひまな時間ゼロと言えるかもしれません。
かなり気をつけていないとひまは消えます。人と話しているとひまは消える。テレビを見たり漫画や新聞を読んだりするとひまは消える。面白い本を読んでいたりおいしいものを食べていたりするとひまは消えます。ゲームをしたりインターネットをしたりするとひまは消える。経済活動や政治活動をすれば、もちろん、ひまはたちまち消えていきます。
さて、ひまなど消えてもよいではないか、むしろ消えたほうがよい、ともいえます。しかし、せっかくひまになりそうなのにその機会が消えてしまうのはちょっと惜しい、という気持ちになることもたまさかあります。拙稿本章では、この後のほうの気持ち、つまり、ひまな機会が消えてしまわないように守りたい、という観点について調べてみましょう。
まず、ふつうの考え方はどうなっているでしょうか?
寸暇を惜しんで勉学に励む、という言葉はよく使われます。わずかな空き時間にも単語帳を読んで暗記する、というような場面で言います。ひまをひまのままに過ごさないでなすべきことをする。そうしてひまを消す、ということです。ひまは良くない、消去すべきである、という考えが根柢にあります。
ひまだからといって何もしないで時間をすごすことはよろしくない、何か有意義なことをしてその時間を有効に使うべきだ、という考えかたです。
何もしない、ということは良くない。いや、良くないというよりも、好きではない、ということでしょう。何もしないということは好きではない、嫌いだ、いやだ。だからひまを消して何かをしていたくなる。そう考える人は多いようです。
ひまを消すために私たちは、タバコをすったり、酒を飲んだり、おいしいものを食べたり、ゲームをしたり、セックスしたり、お金をかせいだりしなければならない。これらの行動は必ずしも大いに有意義であるとはいえないかもしれませんが、やめろといわれてもする。したい。したくてたまらない。つまり、何もしたくない、ということの対極にあります。
筆者の経験ですが五十代の終わりころ、数ヶ月の入院生活をおくったとき、まさに何もできない、何もしない、という生活でした。四ヶ月間ベッドに寝たまま、頭をあげることもできない。おいしいものを持ってきてもらっても、顔があがらなければおいしく食べられません。できないから最初からあきらめている。だから何もしたくない、と言う気分です。病室の窓から見える夕焼けをながめることだけが楽しみでした。
夕焼けがあれほど美しいと思ったのは二十歳のとき以来です。
43 ひまを守る
ひまはつらい。ひまにならないために、人は勉強し、結婚し、子を育て、お金をかせぐ。生活のために動かなければならない人にひまは出てこない。生活のためには動く必要がない人にひまはおそってきます。
明の文人王陽明の四耐四不の辞は清の曽国藩あるいは現代人小平の座右の銘とされて伝えられていますが、耐冷耐苦耐煩耐閑不激不躁不競不随以成事となっていて、このうち耐閑、つまりひまに耐えることが一番むずかしい、としばしば言われるようです。
そのひまですが、今も昔もたいていの人はあまりひまがないようで、宋の欧陽修の帰田録に余平生所作文章多在三上乃馬上枕上厠上(私が文章を練るのは移動中やベッドの上やトイレにいるときが多い)とあり、よく引用されるが、昔の人でもエリートは確実にひまを持てるのはそのくらいだった、ということでしょう。まあ、そういう場面でも携帯端末でインターネットをしていることが多い現代人は、ひまな時間ゼロと言えるかもしれません。
かなり気をつけていないとひまは消えます。人と話しているとひまは消える。テレビを見たり漫画や新聞を読んだりするとひまは消える。面白い本を読んでいたりおいしいものを食べていたりするとひまは消えます。ゲームをしたりインターネットをしたりするとひまは消える。経済活動や政治活動をすれば、もちろん、ひまはたちまち消えていきます。
さて、ひまなど消えてもよいではないか、むしろ消えたほうがよい、ともいえます。しかし、せっかくひまになりそうなのにその機会が消えてしまうのはちょっと惜しい、という気持ちになることもたまさかあります。拙稿本章では、この後のほうの気持ち、つまり、ひまな機会が消えてしまわないように守りたい、という観点について調べてみましょう。
まず、ふつうの考え方はどうなっているでしょうか?
寸暇を惜しんで勉学に励む、という言葉はよく使われます。わずかな空き時間にも単語帳を読んで暗記する、というような場面で言います。ひまをひまのままに過ごさないでなすべきことをする。そうしてひまを消す、ということです。ひまは良くない、消去すべきである、という考えが根柢にあります。
ひまだからといって何もしないで時間をすごすことはよろしくない、何か有意義なことをしてその時間を有効に使うべきだ、という考えかたです。
何もしない、ということは良くない。いや、良くないというよりも、好きではない、ということでしょう。何もしないということは好きではない、嫌いだ、いやだ。だからひまを消して何かをしていたくなる。そう考える人は多いようです。
ひまを消すために私たちは、タバコをすったり、酒を飲んだり、おいしいものを食べたり、ゲームをしたり、セックスしたり、お金をかせいだりしなければならない。これらの行動は必ずしも大いに有意義であるとはいえないかもしれませんが、やめろといわれてもする。したい。したくてたまらない。つまり、何もしたくない、ということの対極にあります。
筆者の経験ですが五十代の終わりころ、数ヶ月の入院生活をおくったとき、まさに何もできない、何もしない、という生活でした。四ヶ月間ベッドに寝たまま、頭をあげることもできない。おいしいものを持ってきてもらっても、顔があがらなければおいしく食べられません。できないから最初からあきらめている。だから何もしたくない、と言う気分です。病室の窓から見える夕焼けをながめることだけが楽しみでした。
夕焼けがあれほど美しいと思ったのは二十歳のとき以来です。