哲学の科学

science of philosophy

ひまを守る(1)

2014-12-27 | yy43ひまを守る
(43 ひまを守る begin)





43 ひまを守る

ひまはつらい。ひまにならないために、人は勉強し、結婚し、子を育て、お金をかせぐ。生活のために動かなければならない人にひまは出てこない。生活のためには動く必要がない人にひまはおそってきます。
明の文人王陽明の四耐四不の辞は清の曽国藩あるいは現代人小平の座右の銘とされて伝えられていますが、耐冷耐苦耐煩耐閑不激不躁不競不随以成事となっていて、このうち耐閑、つまりひまに耐えることが一番むずかしい、としばしば言われるようです。

そのひまですが、今も昔もたいていの人はあまりひまがないようで、宋の欧陽修の帰田録に余平生所作文章多在三上乃馬上枕上厠上(私が文章を練るのは移動中やベッドの上やトイレにいるときが多い)とあり、よく引用されるが、昔の人でもエリートは確実にひまを持てるのはそのくらいだった、ということでしょう。まあ、そういう場面でも携帯端末でインターネットをしていることが多い現代人は、ひまな時間ゼロと言えるかもしれません。

かなり気をつけていないとひまは消えます。人と話しているとひまは消える。テレビを見たり漫画や新聞を読んだりするとひまは消える。面白い本を読んでいたりおいしいものを食べていたりするとひまは消えます。ゲームをしたりインターネットをしたりするとひまは消える。経済活動や政治活動をすれば、もちろん、ひまはたちまち消えていきます。

さて、ひまなど消えてもよいではないか、むしろ消えたほうがよい、ともいえます。しかし、せっかくひまになりそうなのにその機会が消えてしまうのはちょっと惜しい、という気持ちになることもたまさかあります。拙稿本章では、この後のほうの気持ち、つまり、ひまな機会が消えてしまわないように守りたい、という観点について調べてみましょう。

まず、ふつうの考え方はどうなっているでしょうか?
寸暇を惜しんで勉学に励む、という言葉はよく使われます。わずかな空き時間にも単語帳を読んで暗記する、というような場面で言います。ひまをひまのままに過ごさないでなすべきことをする。そうしてひまを消す、ということです。ひまは良くない、消去すべきである、という考えが根柢にあります。
ひまだからといって何もしないで時間をすごすことはよろしくない、何か有意義なことをしてその時間を有効に使うべきだ、という考えかたです。
何もしない、ということは良くない。いや、良くないというよりも、好きではない、ということでしょう。何もしないということは好きではない、嫌いだ、いやだ。だからひまを消して何かをしていたくなる。そう考える人は多いようです。
ひまを消すために私たちは、タバコをすったり、酒を飲んだり、おいしいものを食べたり、ゲームをしたり、セックスしたり、お金をかせいだりしなければならない。これらの行動は必ずしも大いに有意義であるとはいえないかもしれませんが、やめろといわれてもする。したい。したくてたまらない。つまり、何もしたくない、ということの対極にあります。
筆者の経験ですが五十代の終わりころ、数ヶ月の入院生活をおくったとき、まさに何もできない、何もしない、という生活でした。四ヶ月間ベッドに寝たまま、頭をあげることもできない。おいしいものを持ってきてもらっても、顔があがらなければおいしく食べられません。できないから最初からあきらめている。だから何もしたくない、と言う気分です。病室の窓から見える夕焼けをながめることだけが楽しみでした。
夕焼けがあれほど美しいと思ったのは二十歳のとき以来です。






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幽霊はなぜ怖いのか(6)

2014-12-20 | yy42幽霊はなぜ怖いのか


そもそも幽霊は物質ではないのではないか?物質でないものは知覚できないという科学者の意見に従えば、そこに見えるように感じられる幽霊は物質である。あるいは物質である、と言い切らないまでも、あたかも物質であるかのように知覚される存在である、ということになります。つまり幽霊は、幽霊が見えるような感じがする限りにおいて、物質のようなものです。
そうでなければ錯覚ということです。
幽霊は、私たちが人間を見る場合、人間が物質のように見えるというような意味あいにおいて、物質である。あるいは逆に言えば、幽霊は、人間がただの物質とは違って、物質以外の何かを含んでいるように感じられるという意味あいにおいて、ただの物質ではない何か人間的な存在である。あるいは、幽霊は、人間という存在から物質的なものを除いて後に残るものに似ているものである。
それは魂でしょう、という意見があるでしょう。しかし(拙稿の見解では)言葉を正確に使うと、魂というものがあるということは不可能になります(拙稿8章「心はなぜあるのか)。残るものは、人間を目の前にした場合の私たち自身の身体の反射から生じる認知感覚でしょう。人間の身体の内側には心があるように感じられる、その認知感覚です。
薄暗闇に枯れ尾花を見た場合、錯覚してそこに人間のような影を感じ取ればそれが幽霊になる。そのとき、枯れ尾花の内部には、たしかに幽霊が存在する、と言うこともできる。存在とは何か、という存在論的問題でもあります(拙稿25章「存在は理論なのか?」)。

幽霊はなぜ怖いのか、そしてふつうの人間はなぜ怖くないのか?その理由はひとつです。私たちが、人間というものを、どこかしら、幽霊のようなものと思っているからでしょう。つまり幽霊に毛が生えたようなものが人間。いや、幽霊に足が生えたようなものが人間である、と私たちは思っているからです。
足が生えていれば、その幽霊のようなものは人間であるから恐くない。しかし足が生えていなければ、その人間のようなものは幽霊であるから怖い。■




(44 幽霊はなぜ怖いのか? end)



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幽霊はなぜ怖いのか(5)

2014-12-13 | yy42幽霊はなぜ怖いのか

しかしこの幽霊のようなものが作り物の人形だと分かって、その声が録音再生音声だと分かった場合、あまり怖くない。子供はそれでも怖がるでしょうが、しっかりした大人は怖がらないでしょう。つまりそれが生きている人間の類であると思うか否かによって、怖さがあるかないかの違いになってくるようです。
人間は単なる物質ではない。では何なのか?
人間は、自分たち人間というものを何であると思っているのか?
そこに、幽霊とは何か、が関係しています。
死体は単なる物質であるのか?それとも生きている人間の類だと思うか?幽霊の人形も人間の類と思うか?ロボットも人間の類と思うか?というところに関係しているようです。
科学的な言い方をするならば医学生物学では、受精卵から死後硬直まで生きている人間の身体を指して生体、つまり生きている人体という。死体は生体ではない。違いははっきりしています。
しかし、医学生物学と関係なく、私たちの直感では、人間そっくりの形をしていて気持ちが通じ合うかどうかで判断する。会話ができる、あるいは気持ちが通じ合う、という場合、その相手を人間と思う。人間そっくりの形をしていても、こちらの気持ちがまったく伝わらない場合、それは狂人、異星人、ロボット、お化け、幽霊、などであると思われます。

脳死の人体は生きていると言えるのか?極度の認知症の老人は人間として生きていると言えるのか?生まれたばかりの嬰児は人間と言えるのか?胎児はどこまで人間なのか?受精卵は?植物人間は?しばしばマスコミの話題になる法医学的、法的な意思表示能力の境、それを死なせた場合、殺人と認定されるのか否かの境といわれるグレーゾーンの問題であるかも知れません。そのグレーゾーンと幽霊の出現する薄暗闇とはかかわりがありそうです。
生きているか死んでいるかは、どちらかひとつが正しい。生きているけれども死んでいる、とか、どっちでもあるとか、どっちでもない、とかいうことはない、とされています。黒か白か、其の中間のグレーゾーンなどあっては困る。私たちは直感でそう思います。
そうであるから、脳死など分かりにくい問題は気味が悪い。そういう意味あいで幽霊も気味が悪い。





(幽霊はなぜ怖いのか? end)



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幽霊はなぜ怖いのか(4)

2014-12-07 | yy42幽霊はなぜ怖いのか
とにかく、人間の内部には心があるらしい。しかもその心は眼で見えない。外見では判断できない。だから細心の注意を払って人の心を推測しなければならない。そうすることによって互いに信頼し、遠慮し、裏切りを用心し、協力し合い、愛し合って生きていく。私たちはそうして社会を維持しています。人間は神秘的な心というものを内部に持っている神秘的な存在であるから、そのようにしてこの社会は維持されています。
つまり、人間が神秘的でなくなると、このようにして社会を維持することはできない。たとえば人間の集団が野獣の群れのようになってしまうでしょう。野獣の群れでは生産力の高い社会は維持できません。高い生産力がなければ人類社会は維持できません。逆の言い方をすれば、人類社会が維持できるためには人間は神秘的でなくてはなりません。

あなたは神秘的でなくてはならない。もちろん、私も神秘的でなくてはならないでしょう。さらに彼も彼女も人間は全員が神秘的である必要があります。

幸い、人類の身体にはこの必要性を担保する機構があるようです。人間の脳の認知機構では、目の前にある物質が人的存在である場合と、そうでない場合とで、違う神経回路が働くようにできています(拙稿8章「心はなぜあるのか」)。そこにあるそのものが人間である場合、自分の身体がその人の身体と重なりその人の運動を自分がしているように感じ取れます。人間の神経機構はそう働くようにできています。これを拙稿の用語では「運動共鳴」と呼びます。

そこにある人間のようなものに対して運動共鳴が働くとき、そこにあるそのものは心が通じる人間と感じられます。そうでなくて、人間のようなものではあるが、それと運動共鳴が働かないと感じられる場合、人はとまどい、不快や恐怖を感じる。言葉が通じない人、幼児、認知症の老人、狂人、人間そっくりのロボット、異星人、ゾンビ、死体、幽霊とかがそれでしょう。
人間のように感じられるけれども生きた人間ではないもの、その典型は死体です。実際、生きていた人間が死んだだけの物体ですから、眼に見える形は生きている人間と同じ。しかし息をしない。心臓が動かない。目を閉じている。呼んでも答えない。ピクとも動かない。そういう物体が人間の死体です。これは、ふつう、怖い。医者や葬儀屋さん以外、触るのも怖い、という物質です。
幽霊は死体に似ている。似ているというよりも死体そのものが空中に浮かんでおぼろげに見えている、という現象でしょう。筆者も見たことはありませんが、見たという人が言うところによると、そのようです。「うらめしや」とかしゃべるらしい。上目使いで見つめたりするらしい、です。
これは怖い、と思えます。






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