哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ明日を語るのか(1)

2012-01-28 | xx8私はなぜ明日を語るのか

28 私はなぜ明日を語るのか? begin

 28 私はなぜ明日を語るのか?

 正月に新しい手帳を買いました。正確には十二月に入ってすぐ買いました。前の手帳が十二月三十一日で終わってしまっているので、一月の予定を書き込むためには、新しい年の手帳を買わなければなりません。年末の忙しいときに面倒なことです。

新しい手帳の一月十八日の欄に17:00望月、と書いてあります。私が一週間くらい前に書き込んだものです。一月十八日午後五時に望月氏と面談する予定、という意味です。その日その時刻になれば望月氏がいらっしゃって私と談笑することになろう、と私は思っています。おそらく望月氏の手帳にもこの予定が書き込まれているはずだ、と思えます。間違いないでしょう。人を通じて電子メールのやり取りがあったので、まず間違いありません。

一月十七日の時点で一月十八日の予定表を見ると、このように明日十八日にやらねばならないことがいくつか書きこまれている。その中には、今日中に準備しておかなければならないものも含まれています。たとえば明日望月氏に渡す書類を、今日中に、鈴木さんにチェックしてもらう必要があります。鈴木さんが明日は不在だということが分っていますから、今日中にしてもらわなければなりません。では、今すぐに鈴木さんに声をかけてお願いしよう、ということになります。

このように、明日の予定がはっきりすると、今日すべきこともはっきりする。そういう理由で、私たちは明日の予定を知る必要があります。

私は、明日の予定を鈴木さんに語ることによって、今日すべきことを鈴木さんの協力を得て実行できます。

私たちは、いつも明日のことを語る。それは、たいていは話し手と聞き手が今すぐにしなければならないことについて語っていることになります。たとえば、忘れないように明日の予定をちゃんと手帳に書き込んであるかどうか確かめる、というようなことです。

このように明日、あるいは明後日、あるいは来週、来月、あるいは来年のことを人に語りながら私たちは暮らしています。むしろ私たちの会話は、先々のことを語ることでできあがっている、といえます。それ以外のことは、実はあまり話していませんね。人と人が話をするするときはいつも、明日のこと、近い将来のことあるいはもっと先のことを語ります。

人がいないときでも、私たちは自分自身に明日の予定あるいはこれからすべきことなどを語りながらその準備をする。声に出さなくても頭の中で語っています。身体を動かさなくても気持ちの準備はします。気持ちがそのように明日に向かっていないと、明日の準備などできません。逆に気持ちをしっかり持つためには明日のことを考えていなければなりません。

私はなぜ明日を語るのか? それは、私がなぜ私の気持ちをしっかり持っているのか、なぜ私が意識をはっきり持っているのか、という問いになります。

私はなぜ明日を語るのか?

明日のことを思い煩うな、と聖人君子は教えました(マタイ伝六章、一九四二年 太宰治「新郎」での引用が有名)。つまり、ふつうの私たちは、明日のことを思い煩うのです。いやむしろ、私たちは一日中、明日のこと、来週のこと、来月のこと、来年のことなど先のことばかり思い煩って暮らしている、といえます。

私たちが聖人君子になるのはまず無理そうなので、むしろ、私たちはなぜそもそも、明日のことを思い煩ってしまうのか、について考えてみましょう。

明日のことを思い煩うということは、まず明日のことを人に語り、あるいは自分自身にそれを語るということでしょう。なぜ私たちは明日を気にかけ、意識して、それについて語るのか?

拙稿本章では、私はなぜ明日を語るのか、というテーマを考えていきます。

人類は、農耕牧畜を始めたころから、明日のことを考えていたはずです。明日どころか、何カ月も先の収穫を考えて種をまきます。あるいは数年後の肉を期待して家畜を飼育します。農耕牧畜を始める前、狩猟採集の原始生活でも、人類はドングリを穴に貯蔵したりして明日以降に備えています。そもそも、家族の将来についての長期的な見通しを持たなければ異常に成長が遅い人類の子供は育てられません。明日ばかりでなく何日も何か月も先のことを予測して行動するからこそ、人類は地球上いたるところに広がって繁殖していくことができたといえます。

このような人類の生態学的生物学的な特徴から推測すれば、明日以降の将来を予測して集団行動をとる人類の生活形態は、おそらく数百万年前からあったものと思われます。もちろん人類のこの生活形態は、他の動物に比べて異常に大きい大脳皮質の働きと深い関係があると考えるべきでしょう。明日のことをはっきりと想像する能力がなくては、明日を語ることはできません。それは自然の変化を予測し、仲間の動きを予測し、そのときのその空間での自分の姿を想像することで、初めて可能となります。これらの、人類特有と思われる予測能力が、明日を思い煩うことができるための前提となっているはずです。

人類以外の動物も、予測の能力はあります。昆虫や鳥類などが、天候の変化に備えて行動を変えることが知られていますが、これらの種のいくつかは人間よりもすぐれた予測能力を持っているようです。しかし、一般には、人間以外の動物は数秒後あるいは数分後の変化を予測することはすぐれていても、数日後、あるいは数カ月後に起こりうることを予測する能力には乏しいと思われます。ほとんどの動物の生活形態においては、数秒後あるいは数分後の変化を予測することの必要性が極めて高いのに対して数カ月後など長期の予測はあまり必要でない、というからくるのでしょう。もしそうであれば、動物の身体の仕組みとしては、簡単な(たぶんにアナログ的な)計算で数秒後あるいは数分後を正確に予測して行動に反映するするシステムが作られていて、数か月後の予測などのために必要な大量の記憶装置と演算装置を備えた大きな脳は非効率なので発達していないはずです。

このことは、動物の生活環境において数秒後数分後を予測するシステムと、数か月後を予測するシステムとは根本的に違う原理で作られる必要があることを示唆している、と考えることができます。人間は、数秒後数分後を予測する能力もありますが、数日後、数カ月後あるいはずっと先のことをも予測することができます。

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私はなぜ空間を語るのか(17)

2012-01-22 | xx7私はなぜ空間を語るのか

二十一世紀の現代科学理論による現実現象の予測能力は、近代以前の経典や伝承あるいは古典的科学にくらべて飛躍的に強力なものになっています。科学理論は分かりにくくなっているものの、その予測能力を利用して作られている現代技術文明、たとえばエネルギー、情報通信、医療技術などの成果を日々享受している私たち現代人は、現代科学の強大な存在感をよく知っています。

現代においては、つまり、科学が描く空間の実在感は、直感で理解しにくいという面で直接的には弱くなっている一方、多数の人々の生活の根幹を支えているという面で間接的には非常に強くなっている、ということができます。その理論が直感ではよく分からないところがあるけれども、素粒子から生物、地球、宇宙、と科学の理論を使ってスケールアップする私たちの空間は、間違いなく実在している、という感じです。

人と人が言葉で語り合う限り、あるいは目と目で語る場合も含め、人間どうしの間では、当然、空間は実在する。何の気なしに、ふつうに歩いている場合も、私たちにとって、ふつうに歩いて行けるということによって、当然、空間は実在しています。しかし逆に、そういうこと以外に空間が実在する根拠があるのかというと、それは、実はありません。

実在とか存在とかいう言葉の意味自体、(拙稿の見解では)私たちの身体が、それが存在するかのごとく反応するということ以上の意味を持たせることはできない(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」

)のですから、この空間もまたそのように存在しているとしか言えません。

科学がすべてを説明できるといっても、同じことです。説明される私たちが、それが説明できていると思う限りでそれは説明できる、というしかないでしょう。私たちがそう思えること以外にその根拠はありません。私たちがそう思うということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体がそのように変化しそのように動いていくということです(拙稿25章「存在は理論なのか?」

)。

その空間があると思ってそのように身体が動き、そのように空間が実在すると私たちが感じるということは事実です。あえていえば、私たちがそう思うことによって空間はそのように実在する、といえます。また逆に、私たちがそう思うようにしか空間は実在しない、ともいえる。

そうであるからこそ、私たちは毎日、空間についてお互いにそれをどう思っているのか、空気を読み合い、表情や動作で伝え合い、また言葉で語り合う必要があるのです。

(私はなぜ空間を語るのか? end

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私はなぜ空間を語るのか(16)

2012-01-16 | xx7私はなぜ空間を語るのか

原始の時代から人類は、空間を実在するものとして感じ取り、その中で互いの身体の位置と動きを認め合い、互いの位置と動きの過去を記憶し未来を予測し合うことで、狩猟採集生活において協力して社会を作ることができたと思われます。

現代では、空間を測定し数値で表し、それを用いて科学理論を作り実証することができます。現代の科学は全体の統一性と汎用性が高いことから、神話経典や俗説などに比べて(科学リテラシーがある人々にとっては)理論の実在感は極度に高くなっています。そのため、科学に組み込まれている現代の空間概念はまさに理性の先験条件(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判 』第二版既出)とみなさざるを得ないものとなっています。私たち現代人において、科学と整合するこの現実空間の存在感は過去の人々が感じ取っていたよりも、さらにずっと堅固なものとなっていると思われます。

しかしながら現代においても、空間の実在感が強く感じられる場合は人間の活動スケールの範囲内となっていることに注意する必要があります。逆にいえば、人間の活動スケールを大きく超える空間概念に関しては実在感が薄れていきます。

現代社会でも、日常生活や政治経済産業など大多数の人々にとって重要な人間活動は、人体のスケールで行われます。たとえば人体はふつうメートル単位の大きさで飛んだり跳ねたり物を投げたりします。数百キロメートル先を見て身体を動かす場面はあまりありません。また細かいほうでも、一ミクロンの精度で指や道具を動かす場面はあまりないでしょう。簡単な機械を使った場合、動きの範囲は、数キロメートル(鉄砲や飛行機を使う場合など)から数十ミクロン(拡大鏡操作など)くらいに拡張できますが、直感で大きさを感じ取れる空間はこのくらいが限界です。

このスケールの範囲で起こる物事は、直感でもうまく予測できます。私たちが感じ取る空間の中で起こる物事が予測できるということは、私たちの空間概念が現実的なものであり、実在する世界を認知しているからだ、と直感で感じられます。

私たちの身体がそのスケールに合った運動と集団行動をしているかぎり、(拙稿の見解によれば)人類の身体が作り出す空間概念が、そのスケールの近辺で物質の自然法則に関して統一性と汎用性が高いものとなっていることは、適応進化として納得できるものと考えることができます。それが空間の起源であり、限界である、というべきでしょう。

たしかに、人間のふつうの活動のスケールをはるかに超えたマクロの世界を扱う相対論、宇宙論、あるいはミクロの世界を扱う量子論、素粒子物理学の世界では、かならずしも人間が感じ取る空間概念が統一性あるいは汎用性が高いとはいえません。これらマクロ、ミクロの領域を取り扱う科学では、空間概念や自然法則が、私たちの日常感覚で理解できるものからだんだんと離れていきます。この事実は、私たちの空間感覚が自分たちの身体をスケールとして自然法則を感じ取るところからでき上がっていることを表している、といえます。

宇宙の果ての謎、宇宙の始まりの謎、素粒子の整合性の謎等はマクロの極限、あるいはミクロの極限で起こる現象に関する謎です。人間の生活スケールを大きく超えたマクロあるいはミクロの理論的な空間像が私たちに理解しにくいことは、私たちの身体がコントロールできる程度の空間的時間的スケールでの生活に適応して進化してきた私たちの脳神経系にとっては仕方のないことだ、と納得できます。

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私はなぜ空間を語るのか(15)

2012-01-08 | xx7私はなぜ空間を語るのか

このとき画家にとっては現実の空間はこういうものであった、ということでしょう。国王の視線に映る光景が重要である、自分の姿が国王の目にどう映るかが現実として重要であって、自分の目に実際に映る光景はそれに比べてあまり気にする必要はない。

画家は絵の鑑賞者たち、つまり王族や貴族、宮廷人たちとこのような空間を共有していることを主張したかった。自分は国王の肖像を描いているのですぞ、自分は王のために働いているのですぞ、と言いたい画家の気持ちがよく分かります。

この画家の伝記を読むと、本人としては卓越した画家であることよりも宮廷で出世することが重要であったと書かれています。まさにこの絵の視点は、宮廷で出世する人らしい空間認識を表している、といえるでしょう。

しかし改めて振り返ってみれば、実際に目に映る光景とは違った視点で自分の姿が見える情景を感じ取っているという、この画家のような空間の感じ取り方は、通常、私たちだれもが日常的に使っている空間認識ではないでしょうか?

人の目で見て自分がどう見えるか?それを知るには、自分の目に実際に映る光景を感じ取っているだけではだめです。自分の姿は自分の目には映りません。人の目に映る光景を想像することが重要です。人の目に映る光景には自分の姿が入っている。自分の顔や表情が見えているはずです。不動の空間の中に置かれている人物像として自分の姿がある。自分が置かれているそういう空間、そういう視点からの情景をいつも忘れずに感じ取っていることが重要です。せまい社会の中で上手に生きるためには特に重要でしょう。

空間というものは自分だけが分かればよいというものではありません。人が感じ取っている空間を感じ取ることが重要です。そうすることで、空間は客観的な現実となります(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」

)。

いま目に見えている空間が現実の空間であるということは、目に見えるそこの床や壁が不動の大地の上に置かれていることであり、この風景はこの風景として、自分ばかりでなく仲間の人間のだれもが見ることができ、その中を動き回ることができるものだということです。つまりこの空間は実像として実在するということです。

このように人も自分も皆が同じ空間を感じ取っていることが感じられるようになってはじめて、空間は不動でここにあって間違いなくその中に自分の身体がある、と感じられるようになります。

そしてはじめて人間は社会生活を営めるようになります。人と人がかかわり合い、語り合うための基礎として、明らかに言語の発生よりも先に、先験的に空間のありようを感じ取る神経機構はできていたはずです。この空間認知機構はかなり古くから哺乳類共通の神経回路として進化したようですが、人類の祖先においては、仲間の身体の位置関係を表現できることから空間認知の共有機構が進化し、それが言語の発生を導く役割を果たした可能性があります。

いずれにせよ、私たちは視覚や触覚で感じ取れる身の周りの空間を実在する実体として認知することができます。また私たちは言葉で語られる目の前に見えない空間をも想像することができ、それらについて自分以外の人たちがどう感じ取っているかも感じ取ることができます。そして人とその空間認識を前提としていろいろな物事を語り合うことができます。

そうであるから、空間は客観的なものとして実在し、私たちはその内部を動いていく自分たちの身体をまた客観的なものとして認めることができます。

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