その世界が現実に近いほど、その世界での行動は役に立つでしょう。しかし、その世界がファンタジーであったとしても、少なくとも、それを共有する仲間との協力は成り立つ。単なる親睦であるかもしれない。親善試合であるかもしれない。それでも、仲間の親睦が深まれば、実用的な別の場面での協力に役立つ。
私たちはそのように共有できる物語に引き込まれる。実際はその物語を共有する仲間がいない場合でも、物語そのものに引き込まれるような身体になっています。それでもなるべく共有されそうな物語が魅力を増す。人が語る物語。語る人の表情が見える物語。演劇、アニメ、印刷物。記事。
しかしその記事がまったくのフィクションでしかもコンピュータが自動的に作文したものだと分かった場合、その物語は急に魅力を失うはずです。
語る人が懸命に語り、それが本当にあった話のように思えるとき、物語は魅力を増す。そう感じ取るように私たちの身体ができているといえます。
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蛇足として、筆者の好きな物語を挙げて本章を終えてみます。百年前に書かれた短編の書き出しです。
文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布竜土町の、今歩兵第三聯隊の兵営になっている地所の南隣で、三河国奥殿の領主松平左七郎乗羨と云う大名の邸の中に、大工が這入って小さい明家を修復している。近所のものが誰の住まいになるのだと云って聞けば、松平の家中の士で、宮重久右衛門と云う人が隠居所を拵らえるのだと云うことである。なる程宮重の家の離座敷と云っても好いような明家で、只台所だけが、小さいながらに、別に出来ていたのである。近所のものが、そんなら久右衛門さんが隠居しなさるのだろうかと云って聞けば、そうではないそうである。田舎にいた久右衛門さんの兄きが出て来て這入るのだと云うことである。
四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬ爺じいさんが小さい荷物を持って、宮重方に著いて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭をしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構な拵の両刀を挿した姿がなかなか立派である。どう見ても田舎者らしくはない。
爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆あさんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷に結っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。(一九一五年 森鴎外「じいさんばあさん」)■
(44 物語はなぜあるのか? end)

世界はそのときそのとき、そのときの物語によって現される。物語が語られるとき、そこにその世界が現れ、また別の物語が語られるとき、別のその世界が現れる。物語は語られても語られても、次の物語が語られる必要がある。
たとえば、人々が渇きを癒すことができるように、泉は、神様によって造られた。
「森の神様が砂原を旅する人々のために木や竹を生やして、真青に茂りました。その真中に清い泉を湧かして渇いた人々に飲ましてやりました。すると大勢の人がやって来て木の下へ家を立て並べて森のまわりに柵をして、中へ休みに入る人からお金を取りました。水を飲む人からはその上に又お金を取りました。
森の神様はこんな意地の悪い人々を憎んで、森を枯らして泉を涸らしてしまいました。
旅人からお金を取った人々は大層困って「何という意地の悪い神様だろう」と、森の神様を怨みました。
森の神様は言いました。 「私はお前たちのためにこの森をこしらえたのではない。旅人のためにこしらえたのだ」(一九二三年 夢野久作『森の神』)」
泉はそこにあるので、そこにあるという物語を伴ってそこにある。その物語があることによって、泉はそこにある。そういう安心を確かめるために、私たちは物語を必要とします。
そして、別の泉に関しては、また別の物語が語られる。
人がいるところ、人は物語を語る。それを人はまた聞く。人がまた別の物語を聞くために、また別の物語が語られる。
私たちは結局、毎日ご飯を食べなければならないように、物語を聞かなければなりません。ご飯は毎日同じご飯でもよいが、物語は毎日同じというわけにはいきません。似たような話でもよいが、違っている必要があります。それはパスワードを毎日変えなければならないことと似ている。
新しい話を聞くたびに、それを語った人と聞いた人たちの間でその話は共有される。その新しい話が描く新しい世界が共有されます。それはパスワードを共有することに似ている。共有された世界の中だけで人々は行動するからです。

人は物語を必要としている。しかもいつも新しい物語を必要としている。これは間違いありません。しかしそれは、なぜなのか?
情報が欲しいのか?そうも思えます。しかしそれならば、フィクションがこれほど求められる理由が分からない。それも毎日、新しいフィクションを聞きたがる理由が分かりません。
シェヘラザードのように、作家は毎夜、新しいフィクションを語る必要がある。それを読んで何の役に立つのか?なぜ違う話を求めるのか?それを聞きたくてたまらないくらいに語りが求められる。スルタンが生活のために毎晩、新しい物語を聞く必要があるとは思えません。
「朝が来てスルタンが祈りと公務のために起き上がると、シェヘラザードは語りを止めた。『なんてすばらしいお話を選んでくださったの』とディナルザードは言った。『もしスルタンがもう一日私を生かしてくだされば、話のお仕舞いが聞けるからもっと驚くことになるわよ』シャハリアル王(スルタン)は、実は話を楽しんで聞いていたわけであるが、彼女が話を終えた後で処刑することにしようと思い直した(千夜一夜物語)」
むしろ生活の必要以前に私たち人間の身体が物語を求めるようにできているからでしょう。それは穴があると覗き込むようにできている子供の身体の機構と同じような機構が大人になってもしっかりと働くからといえます。物語を求める身体の機構は、人の動きを見取ると、その目的を見取る機構です。
石を持った手を振り上げる人を見れば次の瞬間に石が飛ぶ方向を読み取る。人間の身体はそのようにできています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(11)」)。人がいれば、その人が語る物語を期待する。人がいなくても、いずれ人が現れて物語を語ることを期待する。そのように私たちの身体ができているのでしょう。
もちろん、ひとつの物語を聞くことによって、有益な情報が得られることは多い。教訓を学ぶこともできる。しかしそれらは聞いた後に付随するものであって、そのために私たちは聞きたい気持ちになるわけではありません。
物語はそれがあることによって、世界を現してくれる。むしろ世界というものは、私たち人間にとって、物語によって現されるものである、といえます。

これらの(荒唐無稽に見える)神話たちは本当に真実であると信じられていたから改変されずに伝承されたのでしょうか?それとも政府や教会の権威や制度が改変を許さなかったからなのでしょうか?それとも、たとえば国歌のように、真実であるか否かを問題にせずに、与えられた物語を一字一句大事に語り継ぐことがなによりも重要、と信じていたからでしょうか?
結局はそれを語り伝える人々が、そしてそれを喜んで聞く人々が、その内容をそのまま受け入れてそれを次世代にそのまま伝えることがなによりも重要だと考えていたからでしょう。
このことから、私たちはひとつひとつの物語をそれぞれ固有の存在価値があるものと捉えている、と考えることができます。物語を楽しむ人は、その物語が好き、あるいは面白い、身につまされる、ためになる、こわい、リアルな感じがする、本当にあった話のようだ、この話を役立てたい、人に伝えたい、書き残したい、その本を買いたい、そのビデオを録画したい、などと思いながら聞いています。
そして物語には固有の題がついている。その題名で人はその物語について語り合うことができる。もう一度聞きたい、と言うことができる。つまり個々の物語は人格のような、物語格とでもいうような個性を持っています。
であるから、ある物語はほかの物語で置き換えることができない、かけがえのない物語格を持っている。そのように私たちは物語というものを捉えています。
平家物語があるから源氏物語はいらない、とか、ラブストーリィがあるからロミオとジュリエットはいらない、とかいうことはありません。また、続編「男はつらいよ」の人気が高まったのは、初編「男はつらいよ」がいらなくなったからではなくて、初編を気に入って大事に思う人が初編に加えて続編を自己の観劇レパートリーに加えたかったからでしょう。
人はまた次の物語を欲する。ひとつの話を聞き終えると、その次の話を聞きたい。それは続編であってもよいし、まったく別の話である場合もある。たとえばテレビのドラマを見おわって、時間があればまた別のドラマを見る。さらに時間があればさらに別のドラマを見る。
図書館で物語の本を借りて読む。読み終わるとそれを返却してまた別の物語の本を借りる。きりがないといえます。
新聞でスターのゴシップを読む。テレビでまた別のスターのゴシップ番組を見る。毎日きりがありません。

人々は、物語に託して世界や人生の構造を確かめ、自分がおかれた位置を知ろうとする。
昔の人たちが伝承してきた神話伝説は、まさに世界の構造を語っています。
「そして神は深い眠りを起こしてアダムに降ろし彼は眠った。神は彼の肋骨の一本を取り代わりに肉を埋めた。男から取り上げた肋骨で神は女を作り、彼女を男のところに連れてきた。アダムは言った「これは私の骨の骨だ。肉の肉だ。彼女を女と呼ぼう。なぜならば彼女は男から取り出されたからだ」そうであるから、男は父母から離れて妻と一緒になり彼らはひとつの肉となる。その男とその妻はともに裸であったが恥じなかった。(旧約聖書創世記第2章)」
聖書は古来、最も多く語られ最も多く人々に聞かれてきた物語ですが、その冒頭に語られる創世記で世界の起源、人類の起源が語れています。世界の大宗教はいずれもこのような長文の聖書経典を伝承していますが、これらの物語は世界と人類の起源を語ることで神の正統性を主張し信仰を維持する役割を果たしてきました。
日本の創世神話では、「其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿。於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。爲生成國土奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善。爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。爲美斗能麻具波比【此七字以音】如此云期。乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。伊邪那美命先言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人先言不良。雖然久美度迩【此四字以音】興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例(古事記)」とありますが、世界の創世神話はいずれもよく似ています。
それにしても、男の肋骨から女が作られたとか、男女神の交合で国土が生まれたとか、現代人から見れば、いずれも荒唐無稽な世界創造の話で、この程度のフィクションならばマンガ家や小説家がいくらでも作ってくれそうです。女が作られるのは男の肋骨からでなくとも男の夢からでもよいし、国土が作られるのは交合からでなくとも大地震からでもよいし、どうとでも語れるような話に思えます。しかし、何百年も基本的に変更なく伝承されているということは、非常に強い不変性を持っていることになる。
そこには現代の私たちには理解できない過去の時代における物語の存在感、あるいは人々の愛着心、があるように思われます。

たとえば、インフルエンザが流行っているという物語は、マスクをするために必要であるから語られるのかもしれない。あるいはマスクを売るためにそれが語られるのかもしれないが、それでもそれを聞く人は、マスクを売るためにインフルエンザが語られている、と思って聞くのではないでしょう。
たとえば東京の場合、東京都感染症情報センターが都民の健康を守る目的でインフルエンザの患者数を調査し発表する。新聞記者がその情報について書き、デスクが見出しの大きさを決める。新聞を斜め読みする購読者は、見出しの大きさを見て、どれほど深刻にインフルエンザが蔓延しているのかを知り、知り合いに語る。そのとき、人ごみに近づかないようにしようとかマスクをしようとか、注意しあう。こうしてインフルエンザが流行っているという物語は、流行っていきます。
このようにして物語は人々の間で語り継がれて行く。竹取物語は、では、どのようにして伝承されたのでしょうか?
学説によると、奈良時代初期に貴族階級の文人が漢文で書いたものが、後の時代に仮名文として書き直されて伝わった、とされているようです。最初に漢文で書いた人は、たぶん、仲間に読ませて楽しませるという動機で書き下したのでしょう。後の時代に仮名文に直した人は、この面白い物語を多くに人に楽しめるようにやさしい仮名文字で書いた、と思われます。
拙稿本章の興味としては、この物語の原典考証ではなくて、なぜ私たちがこの物語の内容を好きになるのか、という問題です。
竹の中から天女が出てくる、という荒唐無稽さがこの物語の魅力ですが、荒唐無稽なら何でもよいのか、というと違うでしょう。もしかしたら本当にあった話かもしれない、と思えると興味が出ます。さらに竹採集者のような庶民が、まったく偶然、天女を娘に持つことによって、貴族や天皇と対抗できる、というプロットもおもしろい。美女の魅了とはそれほどのものなのか、実人生の参考になります。
月の女神といえば、ギリシア神話では恋した人間の美少年に毎夜寄り添うために永遠の眠りを与えて不老不死にした、となっています。この物語も、神様なら人体を生きたまま冷凍して永久保存とかできるのかな、という人々の興味が下敷きになって作られ伝承されたのでしょう。不老不死でも意識がないのじゃつまらないかな、などと現代の植物人間問題を先取りしているかのようです。

(44 物語はなぜあるのか? begin)
44 物語はなぜあるのか?
今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつゝ、萬の事につかひけり。名をば讃岐造麿となんいひける。その竹の中に、本光る竹ひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。(竹取物語)
物語は世界のどこの国にも、 いつの時代にもあった、といえるようです。つまり人間は、物語を語り、聞く動物である。それは生活に必要だから、なのでしょうか? いや、単に、私たちが話を語り聞くのが好きだから、という気もします。
どうなのでしょうか?なぜそうなのでしょうか?拙稿本章では、この疑問を考えてみましょう。
私たちは物語を聞くのが好きですが、まずそれ以上に、物語を語るのが好きなのではないでしょうか?
物語はなぜ語られるのか?私たちはなぜ物語るのか?その語られた物語をなぜ私たちは好んで聞くのか?
ドラマはなぜあるのか?小説はなぜあるのか?マンガはなぜあるのか?テレビはなぜあるのか?週刊誌はなぜあるのか?インターネットはなぜあるのか?
それらの存在は、生活に必要なのでしょうか?私たちが生きていくために必要なのでしょうか?
物語が生活に必要だ、という意見は余り聞きません。小説家やマンガ家は生活のために書いているかもしれない。しかしそれを読む人はそれを読むことが生活のためなのか?
物語が語られるとき、人はなぜそれを聞くのか?物語はなぜ人に聞かれるのか?人はそれを聞く必要があるとき、それを聞く。あるいは、人はその物語を語る必要があるからそれを語る。
多くの人がその物語を聞く必要があり、同時に何人かの人がその物語を語る必要がある場合に、物語は語られる、ということでしょう。
