哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(7)

2008-07-26 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

物体の運動を観察するとき、速度が急に加速される、あるいは減速されると見られる場合は力が加わったことを示す。加速度は力に比例する、という物理法則はニュートンが発見した(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』)と言われていますが、物理学など知らない幼稚園児もこのことは分っている。身体で分かっている。

この法則を知らなければ、ボールをうまく投げることもできません。私たちが力の法則を理論として知っているのは、ニュートンのおかげですが、それ以前に身体がその法則を知っている。これは(拙稿の見解では)、人間が、たぶん、生れつき持っている脳の運動制御機構による働きだと思われます。たとえば、路上の紙くずが転がっていくのを見ると、私たちは、風が紙くずを押す力を加えていると感じる。これは、ニュートンの法則を教科書で学んだからではなくて、子供のころから身体で知っているのです。

ボールや紙くずに限らず、あらゆる物質が動くときは、それに加わる力に比例した加速度が働くことで運動が変化する。これが自然法則です。その物質が動物であろうと人体であろうと同じことです。自然の物質法則が働いて、物理方程式のとおりに動く。その動く物質が無生物の場合、幼稚園児もこの法則を身体で知っている。

ところが、動いているものが無生物ではなく、生きた人体である場合、私たちは、ふつう、それが風力などの外力で動かされているとは思わない。私たちは、無生物の動きは物理法則どおりと感じているのに、生きている人間や動物などの手足や表情や言語器官の動きは物理法則どおりとは思わない。ここは重要な違いです。

生きている人体は自力で動いている、ように見える。人間の運動は、その人が内面に持っている意志や意図、あるいは感情によって加速される、と感じる。動物の身体の動きも人体と同じように、その動物の内面にある感情や意志で動くように思える。無生物の動きはそうは見えずに、物理法則によって動かされているように見える。

幼稚園児より小さい幼児の場合、ボールがうまく投げられないと、ボールに怒ったりする。赤ちゃんは、おもちゃなど無生物にも人間にも、同じように行動するところがある。無生物も、人間と同じように、感情や意志のようなもので動くと思っているかのようです。赤ちゃんがそういう気持ちを持っているらしい、ということは、私たち大人も分かるような気がする。つまり私たちも物事をそう感じる感覚がある、ということでしょう。注目する対象が人間でない無生物の物質であっても、物質が変化する原因をその物質が内部に持つ感情のようなものとみなして感じ取る感覚が、私たち人間の脳には、もともとあるようです。たとえば私たちは、空をにらんで「雨がやんでくれない」などと言いますね。

ニュートン以来の科学の目覚しい発展を見て、私たち現代人は、人体も脳も神経細胞も、ふつうの物質と同じように科学が明らかにした物質の法則だけにしたがって変化していくことを、よく知っています。現代生物学はこれを徹底している。人間の心の動きを作り出す脳の働きの解明が、現在、科学の最後の領域と言われていますが、ここでも最近の進展はめざましい。私たちが精神的なものと思っている人間の行動が、次々に、物質現象として説明されていく。

しかし、おもしろいことに、科学の知識があってもなくても、私たちの行動は変わらない。日常の生活では、先にあげた幼稚園児が身体で感じるレベルの、直感的な物事の法則を使って、私たちは行動している。科学の方程式を計算して、物事を予測したり、自分の動きを決めたりしている人はあまりいません。これは、なぜでしょうか? この問題を考えるには、私たちの直感が物事の変化をどう予測しているか、その仕組みをよく調べる必要がありそうです。

私たちは、目の前の物体が、外力が働いていないのにひとりでに動き出すのを見ると、視線がそれに引きつけられる。動き出す物体の変化に、無意識のうちに注目する。注目すると、それが(人体、動物、無生物の)どの領域の物体であっても、(拙稿の見解では)無意識のうちに、まずは擬人化する。逆に言えば、そのものの動きに注目する、注意を向ける、ということは、(拙稿の見解では)無意識に擬人化するということです。それが人間であろうと動物であろうと無生物であろうと、擬人化される場合は、人間のように感情を伴って運動するとみなす。

なぜ、私たちの脳では、この、無意識の擬人化が起こるのか? 脳のこの仕組みは、(拙稿の見解では)たぶん、群棲霊長類の集団共鳴運動から進化したものでしょう。物事に対応して仲間が動き出すと、それにつられて無意識のうちに自分の身体が追従してしまう。そういう仕組みです。

私たちは、脳のこの仕組みを使って物事に注目する。つまり(拙稿の見解では)人間が物事に注目するときは、仲間の動きを見つめるときに使う神経回路を使って認知している。仲間を見ている人間は、仲間の身体の動きが自分の身体に乗り移って、自動的に動いてしまう。身体は実際に動かなくても、(拙稿の見解では)脳内では運動形成神経回路が働いて仮想運動が起こっている。そのとき、私たちは、仲間の人間の動きを自分の身体の動きとして感じる。

それと同じ仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは、注目している物事が自分の身体に乗り移ってくることで、その物事の動きが自分の身体で分る。そうであるとすれば、私たち人間の感性にとって、物事の動きというものは、仲間の身体の動きと同じように捉えられるものであり、それは同時にそれにつられて動く自分の身体の動きとして捉えられる。つまり物事は、擬人化されることで注目される。

ちなみに、注目という動物の行動は、首と目玉を旋回してある視覚対象を視野の中央に持ってくる無意識の筋肉運動です。これは、視覚や聴覚その他の感覚の情報を処理して運動神経に指令を送る神経活動の仕組みで実行される。私たちが自分の身体の動きとしてこれを自覚するとき、注意という心的現象として感じる。

注意という心的現象については、現代心理学の初期から研究考察の対象になっている(一八九〇年 ウイリアム・ジェームス 心理学の原理)にもかかわらず、客観的な物質現象としてはなかなか捕捉できない。私たちが自分の行動を自覚するときには、明確に、自分が何に注意しているかが分るのに、脳神経系の働きとしてそれを客観的に記述できない。最近、脳科学的実験によって、ようやく大脳前頭葉前野皮質の脳細胞群がこの神経活動の中心になっているらしいことが見えてきた(二〇〇四年 レベーデフ、メッシンガー、クラリック、ワイス『前頭葉前野皮質における注意対記憶位置の表現』)。

これらの研究がさらに進んで、拙稿の提唱している擬人化がどういう脳神経現象なのか、科学的に解明されることを期待したいが、残念ながら現代の実験計測技術では、無理でしょう。脳計測の技術は急速に進歩しているとはいえ、感覚情報の複雑な処理を神経細胞間の連携活動として捉えるにはまだまだ精度が足りない。

さて、擬人化された物事は、(拙稿の見解では)それが私たち自身の身体であるかのように運動し、運動の加速に伴った感情を持つことによって一つの身体運動‐感覚受容シミュレーションとなり、過去の現実として私たちの脳に記憶される。それが人間であろうと動物であろうと無生物であろうと、あるいは集合的なものや抽象的な概念であろうとも、私たちの脳内では同じ仕組みで擬人化される。注目された瞬間、その物事は、実際に人間であるときもそうでないときも、仲間の人間の身体であるかのように、さらにまた、仲間の動きにつられて動く自分の身体であるかのように、意志あるいは感情、のようなものを内部に持っている、と私たちには感じられる。

幼児向けのマンガなどでは、木も草も風も時計も自動車も、顔が描かれていて、ときには手足がついていて、笑ったり怒ったりする。未開人が感じる、森の精霊たち、ヤオヨロズの神、ランプの精、花の精、などなども、諸々の物事が擬人化されたものでしょう。(英語以外の)西洋語の名詞についている男性、女性などのジェンダーも、未開人があらゆる物事を擬人化していた名残だという理論が、現代哲学の開祖の一人によって唱えられています(一八七三年 ショーンシー・ライト自意識の進化』既出)。

逆に言えば、私たちは、人体やその他の物事の動き、あるいは変化、を見るとき、(拙稿の見解では)それらの内部にそれらに動きや変化を与えるような内的要因の存在感を感じて、それをその物事が内蔵する感情であると思っている。物事が変化するときは、それが人間であろうと、そうでなかろうと、その内面にある内的要因=感情によって動く、と私たちは感じる。この図式は、(拙稿の見解では)人間や物事のシミュレーションとして私たちの脳に記憶されていて、連想によって無意識に想起される。

ところで、拙稿では、物事の認知に関するこの脳内現象を、(適切な用語が作られていないようなので科学用語にも哲学用語にもなっていない)擬人化という言葉で説明したが、これが、拙稿が命名したい脳内現象を名づけるのに適切な用語であるかどうか、筆者は自信がない。ふつう、擬人化とは、詩歌など文学やマンガなどに使う修辞的な技法とされている。現代のマンガ文化では、六法全書がキャラクターの絵を添えられて擬人化されている例がある。これら、一般にいわれる擬人化は、修辞法や子供向けに親しみやすくする目的で使われるものとされる。拙稿の用語法によれば、擬人化はずっと強い意味になって、人間の脳が物事を理解する仕組みは、すべて擬人化と呼ぶことになる。したがって、(拙稿の見解では)いわゆる修辞法の擬人化は、無意識の認知の過程を、意識の表面に引き出すことで強く感性に訴える技法といえる。

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私はなぜ言葉が分かるのか(6)

2008-07-19 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

人間は、興味を引かれる物事に注目する。物事に注目すると同時に、自動的に脳内の身体運動形成回路でそれに対応する仮想運動が実行される。目に入った物事に対応して必要な身体運動が、無意識のうちに準備される。逆に言えば、視線が引きつけられるなど、無意識にその物事に対応する仮想運動が起こることで、興味を感じる。

たとえば、矢印を見ると、私たちは無意識のうちに矢の方向に視線を向けてしまう。たとえば↓こうです。ね、矢印の図形を見ると、目玉が↓の方向へ運動するでしょう? これは、無意識の運動です。こうなると、矢印の先にあるものに興味が出てきてしまう。私たちの脳の神経回路は、こうなっている。こうなるようにできている身体が、原始生活では必要だった。矢印のように方向性のある物体を見たときは、その先に重要なものがあることが多い。それを無視するような身体は子孫を残せなかった。だから、私たちは矢印の先に目が走る。

私たちが物事に注目するとき、その物事に対応する仮想運動が、脳内で実行されることで、物事は感知される。物事が注目された場合、それが無生物か、生物か、人間か、どの領域に属する物事かによって、脳内の別々の無意識的認知機構で処理されて、その運動が予測されるという最近の仮説があります(二〇〇四年 ローラ・シュルツ、アリソン・ゴプニック『領域横断的な原因学習.)。この仮説によれば、四歳くらいの幼児はすでに領域ごとの原因結果の予測機構を持っていて、ママが消えたのは別の部屋に行ったからとか、ママが笑っているのはご機嫌がいいからとか、ママが咳き込んでいるのは具合が悪いからとか、分かるわけです。幼児は、ただ漠然と物事を見ているということはない。その物事に対して、自分がどう身体を動かしていけばよいか、を瞬時に判断して仮想運動を準備している。その仮想運動が、物事を注目するということであり、幼児にとっては、その仮想運動が、その物事が存在する、ということの意味です。

哺乳動物は、身体の周辺で起こる物事の動きを感知すると、その情報を分類して、次に起こることを予想できる。何がどうだからどうなるのか、そうしたらどうすればよい、などと予測する能力を持っている。人間以外の動物の場合、この働きは無意識でなされて、きちんと記憶されない。たいていは、数分先の予測しかしません。それにしても、爬虫類や鳥に比べれば、哺乳類の将来予測能力は格段に優れている。犬や猫などの動きを観察すると、何事かが起きたことを感知した場合、現時点のことをその場で理解して、次の瞬間に起こる事態に対応する能力はしっかりあるようです。

このような働きをする脳神経機構の出現は、たぶん、霊長類が出現した頃よりずっと古く、哺乳類に広く共通の仕組みとなっているらしい。比較的初期の哺乳類において、嗅覚を中心とした感覚信号を処理する脳幹、辺縁系、基底核と、それらにつながる小脳と大脳皮質からなる連携回路で作られた仕組みでしょう。それが霊長類共通の機構として視覚や眼球、手指の運動機構と共進化した。特に群棲の霊長類では、物事の感知と予測は群の集団運動に連動し運動共鳴による共感を起こす。たとえば、猛獣の出現に際して、猿の群れがいっせいに悲鳴を上げる場面、などです。

霊長類の脳のこの仕組みが人類の世界認識に進化していく過程については、とても興味深い。しかし残念ながら、その具体的な過程は、現在の科学では、よく分かっていません。

拙稿の見解にもとづけば、多くの霊長類では、この仕組みで、物事の認知と予測が集団運動の共鳴による脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーションとして経験され記憶されている。人類では、物事の認知と予測にかかわる共鳴運動は身体運動‐感覚受容シミュレーションを使った憑依を引き起こすことで、「XXが○○をする」という形式で認知される。さらに(拙稿の見解では)それら仮想運動が音節列との対応によって言語構造に埋め込まれることで、安定した客観的世界の経験を作り出すものと思われます。

人類では、脳のこの機構により、感覚で受け取るすべての物質現象は、それが引き起こす集団的運動共鳴の経験として分類され、同じとみなされたものは同じように擬人化され、それにふさわしい運動をするものとして、記憶される。(例―枯葉がひらひら散る) 逆に言えば、同じように運動するものが同じものとみなされ、同じ名で呼ばれるのです(例―ひらひら散るのは枯葉)。抽象概念もまた、(拙稿の見解では)比喩などを使って分類され、それぞれに擬人化された運動をする。これらの経験は、仲間との仮想運動共鳴の経験(例―枯葉がひらひら散ることは、だれもが知っている)として記憶されるところから、客観的な存在感を伴うことができ、言語形式に表現されることで客観的世界に定着される。

要約すれば、言語は、話し手と聞き手とが、指差しなどによって客観的な同じ物質現象に注目しながら、「XXが○○をする」という形を、憑依と共鳴運動を使う身体運動‐感覚受容シミュレーション表現として共有することで、生活に必要な協力を行うシステムです。これがさらに拡大されて、人間どうしは、(拙稿の見解では)物質現象に限らず、言葉を発すれば分かり合えるさまざまなXXという認知対象を共感して同時にそれに共鳴運動によって表わされる仮想運動「○○をする」を対応させる形式で言語として表現し、それによって世界で起こる物事を共有するようになった。

私たちのご先祖が、「XXが○○をする」という言語形式を発明してくれたおかげで、(拙稿の見解では)国語や英語の先生が仕事を持てるばかりでなく、現代の文化文明があり、社会経済があり、哲学があり、私たちの世間話がある。しかし、この言語形式は、原始時代のジャングル(あるいはサバンナ?)の中で精霊や悪霊に取り巻かれながら狩猟採集生活を送っていた人類のご先祖が発明し、自分たちが生き抜くために便利だったから子孫に伝わったものです。原始生活での自然環境と社会環境で、特に役に立ったから人類の宝として今に伝わってきた先祖伝来のありがたいアンティークな道具です。しかし、数万年以上も前に作られて、そのころの環境で最高に便利だったこの古い道具を、現代の私たちが、現代科学や哲学の問題を解くために使って大丈夫なのでしょうか? こういう疑問は、拙稿が思いつくまでもなく、百年以上も前に提起されています(一八七三年 ショーンシー・ライト自意識の進化)。

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私はなぜ言葉が分かるのか(5)

2008-07-12 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

「XXが○○をする」という形式の言語表現に対応して、(擬人化された)XXが、○○という運動をその(擬人化された)脳内で形成しているという仮想運動のシミュレーションが、私たちの脳内で起こる。(仮想運動→拙稿2章「言葉は錯覚からできている」)この自動的な神経活動は、群棲動物が群れの集団的な運動に共鳴して身体を追従させていく神経機構から進化したと(拙稿の見解では)思われる。

拙稿でいう仮想運動は、過去の運動経験で学習した身体運動とそれに伴う感覚受容との脳内シミュレーションを組み合わせて作られる。「走る」、「立つ」、「立てる」、「ふるえる」など筋肉を使う運動はもちろん、「見る」、「聞く」、「忘れる」、「憎む」、「眠る」、「病む」、「遅れる」、「負ける」など、筋肉を使わない感覚情報の受容や状況変化の認知なども、比喩を使った仮想運動のシミュレーションで表現される。つまり、(拙稿の見解では)あらゆる述語に対応する脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーションは仮想運動として行われる。逆に言えば、仮想運動による脳内シミュレーションがうまく作れて、多くの人がそれに共鳴できる場合に限って、述語が作られる。

たとえば(比喩による仮想運動形成の例を、ごく単純化して挙げれば)、「見る」という述語に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションは、仮想の眼球運動とそれによる仮想視覚のフィードバックによる比喩で作られる。同様に、「聞く」は、仮想の耳振り向け運動とそれによる聴覚のフィードバックによる比喩。「忘れる」は置き去り運動とそれによる存在感の喪失感覚による比喩。「憎む」は顔をしかめる運動とその体性感覚へのフィードバック、「眠る」は目つぶりや脱力とその体性感覚フィードバック、「病む」は仰臥など、「遅れる」は追尾運動など、「負ける」は防御運動などとそれによる仮想の体性感覚へのフィードバック。というように筋肉運動を使う仮想経験の比喩で表現される。もちろん、実際の脳内シミュレーションの構造は、この例のように一言でいえるような単純なものではないでしょう。ただ、その基本構造は、このような身体運動と感覚フィードバックの連結でできているものと思われます。この脳内シミュレーションの構造とその形成プロセスの具体的な解明は次世代の科学の課題でしょう。

人類の進化の過程で発生してきた言語システムが脳神経系のメカニズムとして解明される時代は、(拙稿の見解では)そう遠くない。物質現象として記憶が形成され再生されるメカニズムは、神経細胞間結合の分子構造変化として、現在、詳細に解明されつつあります。ただし、実際の言語システムは、神経細胞間結合から組み上げられる神経回路網の上に、さらに何層もの上位システムが組み上げられてできている。

身体運動と言語を通じて、これら各層の神経システムを仲間の身体運動と共鳴させることで、私たち人類は言語システムを操作し仲間と世界を共有する(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これら言語システムの階層構造全体の解明には、まだまだ多くの発見と理論の構築が必要です。

さて、現代の言語では、抽象的な述語が多く使われる。たとえば、「発表する」、「増加する」、「決定する」、「参加する」、「酸化する」。しかしそれらも、もともとは、人間の身体運動の比喩によって作られている。たとえば、(極端に単純化してみれば)「発表する」は、人々に見せる運動、「増加する」は、同一運動が繰り返されること、「決定する」は、ふらついている運動を止めて停止すること、「参加する」は、仲間の運動に同調すること、「酸化する」は、酸化という科学で決められた形の物質変化を起こす運動、によって比喩される。

聞き手が文を聞き分けると、(拙稿の見解では)文と対応する仮想運動のシミュレーションが、無意識のうちに、脳内で実行され記憶される。文は忘れてしまうが、仮想運動シミュレーションは、記憶としてきちんと保存される。つまり文そのものではなくて、文の内容が、身体運動‐感覚受容シミュレーションの表現形式で脳内に記憶される。そして、それはいつでも再生できる状態に保たれる。そのとき、言語の内容が分かる、という。

日本語が分かる人の間では、一つの日本語の文はだれの脳にもだいたい同じような身体運動‐感覚受容シミュレーションを引き起こす、と思われる。このことの科学的な実証は、残念ながらできていません。脳内シミュレーションを見分けるには、現在の脳神経科学の測定技術では、まったく精度が不足する。理論も完成していない。したがって、この判定には外的な身体反応を観察するしかない。文を聞いたときの、言語的返答、抑揚、間の空き方、表情、その後の行動などで判定するしかありません。それでも、このことは推測できる。つまり、文を聞いたとき、だれもが、無意識のうちに、同じようなその仮想運動シミュレーションを脳の中で実行する。「雨が降りそうだ」と聞けば、傘を持って出る。言葉が分かるということはそういうことです。

身体運動‐感覚受容シミュレーションが、言葉の感知によって活性化されると、仮想的な感覚の経験が付随して引き起こされる。それによって(拙稿の見解では)言語を理解する人間は、主語で表現される(擬人化された)人物等のモデルが述語によって表現される運動をすることによって得られるはずの経験を、自分の運動回路を使うシミュレーションを自動的に実行することで疑似体験する。つまり、この疑似体験によって、私たちは言語を理解する。

この疑似体験は、もともと、群棲霊長類が、仲間の行動を、追従する、身体を動かして実際に真似る、という運動共鳴行動(まさに猿真似)から発展したのでしょう。仲間の身体運動を見て自分の身体を連動させてなぞる行動が進化して、脳内で自分の身体を動かす仮想的な身体運動‐感覚受容の経験としてそれをなぞるシミュレーション機構が発展した。

幼児や未開人は物真似、憑依、集団遊戯、歌、踊りなど共鳴動作が大好きです。人類は、たぶん、言語以前から集団運動によって、シミュレーション機構を共鳴させていた。そこにたまたま、発声運動が関与するようになり、「音節列→シミュレーションの共鳴」という条件反射が成立して、なぞり運動のシミュレーションが同時に音声を発声する運動と連動するようになったのではないでしょうか? 踊っているうちに掛け声を掛け合うようなものでしょう。脳内でのそれらの仮想運動シミュレーションと発声運動との条件反射による連結、さらに視覚聴覚を通じての仲間の人間とのそのシミュレーションの共鳴、を土台にして言語はできてきた。

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私はなぜ言葉が分かるのか(4)

2008-07-05 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

言語能力は人類共通のものである、という仮説(たとえば一九九四年 スティーブン・ピンカー言語本能」)は、現代、広く受け入れられている。日本語を話すか、中国語を話すか、とかかわりなく、人間の脳は言語を操るための、同じひとつの仕組みを持っている。

人類の言語の規則は簡単です。現在、地球上には数千の自然言語があるが、いずれも、数十個の要素からなる音声、あるいは文字(あるいは手話の単位)を一列に並べて表わされる。音声も文字も言語ごとに違う伝統的な決まりごとにしたがって、一列に並べられる。どの順番で並べるかで、意味が作られる。並べ方の規則が、語彙文法です。この規則も言語ごとにすこしずつ違うが、その基本構造は同じです。形式的には、数少ない有限個の単位要素から構成される美しい構造を持っている。どこの国の言葉でも、それが書かれた文章を紙に印刷してみてください。伝統的な日本語の書き方ならば縦書きです。最近は、急に横書きが多くなっている。外国の文は、ほとんど横書きです。いずれにしても、一列に並んでいって、紙の幅に制約されて折り返す。ながめてみると、模様として美しい絵柄になっている。まったく知らない国の言葉でもインテリアとして壁紙に使えそうでしょう?

言語は、有限な音節を直列に連結して作られる。たとえば日本語は五十くらいの音節の並び方で表現される。「あだだ」とか、「あいあかう」とか、語はいくらでも作れる。いくつかの語をつなげると、また語になる。たとえば、「あだだあいあかう」も語です。末尾に「。」をつけた語は文と呼ばれる。「あだだあいあかう。」は文です。

数学で半群と呼ばれるこの構造は、実質上、無限の語や文を作り出せる。自然界のDNAも、コンピュータのプログラムも半群の構造を持っています。少数の記号を一列に並べて無限の表現を作り出すには、この半群構造が便利だからでしょう。自然言語も、コンピュータのプログラム言語も、DNA配列の遺伝情報も、記号列を操作に対応させる。つまり、ある記号列が読み取られると、それに特有な機械的操作が起こる。昔のオルゴールや、自動工作機械の制御テープも、こうなっています。DNAの記号列は、細胞で製造されるたんぱく質の種類を指定する。

人間の言語では、(拙稿の見解では)語や文は、脳内シミュレーションによる仮想運動の種類を指定する。コンピュータプログラムでは、記号列は、論理回路が行う演算の種類を指定する。ただし、DNA配列と違って人間の語やコンピュータプログラムは、記号列と行為との対応関係が恣意的です(一九一三年 フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』)。つまり最初は、その言語の設計者が、記号列と行為との対応関係を勝手に決めてかまわない。

往来の通行なども、最初にたまたま、左側に寄る人が多かったら、その後ずっと左側に寄ることと決まってしまう。東京のエスカレータがそれですね。日本全国、大阪を除いてほとんど左寄りらしい。ちなみに大阪は右寄り、ニューヨークもロンドンも右寄りです。

さて、人間の言語の場合、それぞれの民族言語の設計者、つまり最初にその語彙と文法を作った人は、エスカレータの乗り方の場合と同じく、歴史に残らない無名のだれかさんでしょう。音節列で語を作って、それで何かを意味したい場合、音節の配列は、どう決めてもよい。「あいあかう」といって、それが、空腹だという意味でもよい。代わりに、「はんぐり」といってそれが空腹という意味にしてもよい。「ひもじい」といって空腹をあらわしてもよい。最初は、何でもよいから決めればよい。言葉を使う皆が、その音節列が何を指すかという知識を共有すれば、それでよいわけです。

実際、皆が勘違いすることで、言葉の意味は、変わっていきます。たとえば「キリギリス」という語は、古くはコオロギを指していたのに、いつのまにか、キリギリスのことになってしまった。それでも、ふつうの人は全然困らないわけです。

人間が身体運動をする。あるいは物質に運動を加える。仲間どうし、集団でその身体運動を共鳴させる。つまり、皆がいっせいに、その身体運動のイメージを感じる。脳の運動形成回路が、その運動を組み立て、そのイメージ信号が脳の各部に配布される。それがその運動のシンボルに結びついていく。(拙稿の見解では)共鳴できるその運動、その状況、その物質現象、の脳内シミュレーションに対応させるシンボルとしての音節列が語です。

この対応は、最初に、その語の創始者によって勝手に決められてしまう。それを、その言語集団の皆が学習して身につける。学習は、ふつう無意識に行われるが、ときには意識的に行われる。(拙稿の見解では)群棲動物に共有されている古い脳神経回路による集団運動の共鳴として、言語は学習される。人間は、個々の語や文を感知すると、それを、仲間がする集団運動として、無意識のうちに、追従して発声する。発声しない場合も、脳内の運動形成神経回路は、発声運動の信号を仮想運動として形成している。そうしてできあがる運動共鳴を繰り返すことで、条件反射として、私たちは言語の意味を習得する。

条件反射による言語の習得という理論は、初期の行動主義心理学として唱えられた(一九五七年 バラス・スキナー言語行動』)。言語生成理論の学説として、この理論は、言語発生機構の生得性を強調する生成文法理論(一九五六年 ノーム・チョムスキー言語記述の三モデル』)と二論対立するものとされる。拙稿の見解では、この二論は対立関係ではなく、補完的関係にある。発音運動と集団運動の共鳴を対応させる神経回路の発生は生得的(人類共通)であって、その集団共鳴の神経回路を使う語彙と文法の学習は後天的(言語集団特有)である、と素直に考えることが常識的と思うが、いかがでしょうか?

さて、拙稿の見解によれば、文法は、話題にする人物(や動物や擬人化された物事や概念)を脳内で表す身体運動のシミュレーションに語の連結を対応させる脳内プロセスです。これはスポーツのように反復的な条件反射によって形成された手続き記憶の一種です。たとえば、自転車の乗り方のように、反復練習によって、無意識のうちに身についてくる。自転車にまたがったとたんに身体がうまく動いて乗れる。自転車にまたがった身体からくる筋肉や平衡器官などの体性感覚が引き金になって、記憶から自転車でバランスを取る運動シミュレーションが呼び出される。それで運動を実行すると、それがまた引き金になって次の運動シミュレーションを記憶から呼び出す。そういう連鎖反応が、無意識のうちに起こって、じょうずに自転車に乗れる。

言語の場合、(拙稿の見解では)言葉が耳に入ったとたんにそれが引き金になって対応する運動シミュレーションが記憶から呼び出される。それで、文法の上でのその語の位置関係が分かる。そのように、言語の使い手が身体運動の記憶として覚えている語の連結手続きの集合が文法です。

文法は、いくつかの語を一列に連結して、「XXが○○をする」という形に並べる。これを文という。

文は主語と述語からなる。「XXが」が主語で「○○をする」が述語です。主語―述語、という言語の捉え方は、古代ギリシア哲学から始まる伝統的な定式化ですが、人類の言語の本質をうまく捉えている(二〇〇三年 ケイト・アレン『言語学界におけるアリストテレスの足跡)。実際、どこの言語も、人類の自然言語は例外なく、この形で作られている。これは、人類共通の、たぶん生得的な法則でしょう。拙稿も、この形式を言語の基本と考えます。(正確に言うと、主部と述部という。主語の役を果たす複数の語の連結を主部という。同じように、述語の役を果たす語の連結を述部といいます。しかし拙稿では、簡単のため、主部と主語、述部と述語は、それぞれ同じもの、ということにします)どれが主語でどれが述語かは、どの言語でも、それを母語にしている人は、無意識のうちに、見分けることができる。それが見分けられなければ、言葉の意味は分かりません。

主語と述語は、どのようにして見分けられるのか? それは、言語の使い手の脳内で、(拙稿の見解では)次のようなプロセスが無意識のうちに実行されるからです。

―まず、主語が表わす人物(や動物や擬人化された物や概念。以下「人物等」という)への注目が起こる。脳内でその人物等のモデルに憑依する仮想運動が起こる(憑依→拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。続いて、脳内シミュレーションでその人物等の内部に入って述語が表わす仮想運動を実行する。人間以外の動物や非生物についても、それが言葉で表されるときは、擬人化されるという点が重要です。

逆に言えば、主語で表されるものは、それが人物等として憑依できる擬人化された物事です。つまり、主語になる物事は擬人化されている人のようなものと感じられて、それが「何かをしようとしてする」、と感じられる。私たちは、ある文を思い浮かべると同時に、無意識のうちに、主語になる人物等に憑依して、それがする運動形成過程を私たちの脳に共鳴させて体感する。つまり、主語になる物事を思い浮かべることで、自動的に、私たちの脳内で、それに対応する運動形成回路が活動する。その活動が感情回路を活性化し、その物事の存在感を作り出す。それに続いて、主語に続く述語の表す運動のシミュレーションが起こってくる。

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