物体の運動を観察するとき、速度が急に加速される、あるいは減速されると見られる場合は力が加わったことを示す。加速度は力に比例する、という物理法則はニュートンが発見した(一六八七年 アイザック・ニュートン『自然哲学の数学的原理』)と言われていますが、物理学など知らない幼稚園児もこのことは分っている。身体で分かっている。
この法則を知らなければ、ボールをうまく投げることもできません。私たちが力の法則を理論として知っているのは、ニュートンのおかげですが、それ以前に身体がその法則を知っている。これは(拙稿の見解では)、人間が、たぶん、生れつき持っている脳の運動制御機構による働きだと思われます。たとえば、路上の紙くずが転がっていくのを見ると、私たちは、風が紙くずを押す力を加えていると感じる。これは、ニュートンの法則を教科書で学んだからではなくて、子供のころから身体で知っているのです。
ボールや紙くずに限らず、あらゆる物質が動くときは、それに加わる力に比例した加速度が働くことで運動が変化する。これが自然法則です。その物質が動物であろうと人体であろうと同じことです。自然の物質法則が働いて、物理方程式のとおりに動く。その動く物質が無生物の場合、幼稚園児もこの法則を身体で知っている。
ところが、動いているものが無生物ではなく、生きた人体である場合、私たちは、ふつう、それが風力などの外力で動かされているとは思わない。私たちは、無生物の動きは物理法則どおりと感じているのに、生きている人間や動物などの手足や表情や言語器官の動きは物理法則どおりとは思わない。ここは重要な違いです。
生きている人体は自力で動いている、ように見える。人間の運動は、その人が内面に持っている意志や意図、あるいは感情によって加速される、と感じる。動物の身体の動きも人体と同じように、その動物の内面にある感情や意志で動くように思える。無生物の動きはそうは見えずに、物理法則によって動かされているように見える。
幼稚園児より小さい幼児の場合、ボールがうまく投げられないと、ボールに怒ったりする。赤ちゃんは、おもちゃなど無生物にも人間にも、同じように行動するところがある。無生物も、人間と同じように、感情や意志のようなもので動くと思っているかのようです。赤ちゃんがそういう気持ちを持っているらしい、ということは、私たち大人も分かるような気がする。つまり私たちも物事をそう感じる感覚がある、ということでしょう。注目する対象が人間でない無生物の物質であっても、物質が変化する原因をその物質が内部に持つ感情のようなものとみなして感じ取る感覚が、私たち人間の脳には、もともとあるようです。たとえば私たちは、空をにらんで「雨がやんでくれない」などと言いますね。
ニュートン以来の科学の目覚しい発展を見て、私たち現代人は、人体も脳も神経細胞も、ふつうの物質と同じように科学が明らかにした物質の法則だけにしたがって変化していくことを、よく知っています。現代生物学はこれを徹底している。人間の心の動きを作り出す脳の働きの解明が、現在、科学の最後の領域と言われていますが、ここでも最近の進展はめざましい。私たちが精神的なものと思っている人間の行動が、次々に、物質現象として説明されていく。
しかし、おもしろいことに、科学の知識があってもなくても、私たちの行動は変わらない。日常の生活では、先にあげた幼稚園児が身体で感じるレベルの、直感的な物事の法則を使って、私たちは行動している。科学の方程式を計算して、物事を予測したり、自分の動きを決めたりしている人はあまりいません。これは、なぜでしょうか? この問題を考えるには、私たちの直感が物事の変化をどう予測しているか、その仕組みをよく調べる必要がありそうです。
私たちは、目の前の物体が、外力が働いていないのにひとりでに動き出すのを見ると、視線がそれに引きつけられる。動き出す物体の変化に、無意識のうちに注目する。注目すると、それが(人体、動物、無生物の)どの領域の物体であっても、(拙稿の見解では)無意識のうちに、まずは擬人化する。逆に言えば、そのものの動きに注目する、注意を向ける、ということは、(拙稿の見解では)無意識に擬人化するということです。それが人間であろうと動物であろうと無生物であろうと、擬人化される場合は、人間のように感情を伴って運動するとみなす。
なぜ、私たちの脳では、この、無意識の擬人化が起こるのか? 脳のこの仕組みは、(拙稿の見解では)たぶん、群棲霊長類の集団共鳴運動から進化したものでしょう。物事に対応して仲間が動き出すと、それにつられて無意識のうちに自分の身体が追従してしまう。そういう仕組みです。
私たちは、脳のこの仕組みを使って物事に注目する。つまり(拙稿の見解では)人間が物事に注目するときは、仲間の動きを見つめるときに使う神経回路を使って認知している。仲間を見ている人間は、仲間の身体の動きが自分の身体に乗り移って、自動的に動いてしまう。身体は実際に動かなくても、(拙稿の見解では)脳内では運動形成神経回路が働いて仮想運動が起こっている。そのとき、私たちは、仲間の人間の動きを自分の身体の動きとして感じる。
それと同じ仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは、注目している物事が自分の身体に乗り移ってくることで、その物事の動きが自分の身体で分る。そうであるとすれば、私たち人間の感性にとって、物事の動きというものは、仲間の身体の動きと同じように捉えられるものであり、それは同時にそれにつられて動く自分の身体の動きとして捉えられる。つまり物事は、擬人化されることで注目される。
ちなみに、注目という動物の行動は、首と目玉を旋回してある視覚対象を視野の中央に持ってくる無意識の筋肉運動です。これは、視覚や聴覚その他の感覚の情報を処理して運動神経に指令を送る神経活動の仕組みで実行される。私たちが自分の身体の動きとしてこれを自覚するとき、注意という心的現象として感じる。
注意という心的現象については、現代心理学の初期から研究考察の対象になっている(一八九〇年 ウイリアム・ジェームス 『心理学の原理』)にもかかわらず、客観的な物質現象としてはなかなか捕捉できない。私たちが自分の行動を自覚するときには、明確に、自分が何に注意しているかが分るのに、脳神経系の働きとしてそれを客観的に記述できない。最近、脳科学的実験によって、ようやく大脳前頭葉前野皮質の脳細胞群がこの神経活動の中心になっているらしいことが見えてきた(二〇〇四年 レベーデフ、メッシンガー、クラリック、ワイス『前頭葉前野皮質における注意対記憶位置の表現』)。
これらの研究がさらに進んで、拙稿の提唱している擬人化がどういう脳神経現象なのか、科学的に解明されることを期待したいが、残念ながら現代の実験計測技術では、無理でしょう。脳計測の技術は急速に進歩しているとはいえ、感覚情報の複雑な処理を神経細胞間の連携活動として捉えるにはまだまだ精度が足りない。
さて、擬人化された物事は、(拙稿の見解では)それが私たち自身の身体であるかのように運動し、運動の加速に伴った感情を持つことによって一つの身体運動‐感覚受容シミュレーションとなり、過去の現実として私たちの脳に記憶される。それが人間であろうと動物であろうと無生物であろうと、あるいは集合的なものや抽象的な概念であろうとも、私たちの脳内では同じ仕組みで擬人化される。注目された瞬間、その物事は、実際に人間であるときもそうでないときも、仲間の人間の身体であるかのように、さらにまた、仲間の動きにつられて動く自分の身体であるかのように、意志あるいは感情、のようなものを内部に持っている、と私たちには感じられる。
幼児向けのマンガなどでは、木も草も風も時計も自動車も、顔が描かれていて、ときには手足がついていて、笑ったり怒ったりする。未開人が感じる、森の精霊たち、ヤオヨロズの神、ランプの精、花の精、などなども、諸々の物事が擬人化されたものでしょう。(英語以外の)西洋語の名詞についている男性、女性などのジェンダーも、未開人があらゆる物事を擬人化していた名残だという理論が、現代哲学の開祖の一人によって唱えられています(一八七三年 ショーンシー・ライト『自意識の進化』既出)。
逆に言えば、私たちは、人体やその他の物事の動き、あるいは変化、を見るとき、(拙稿の見解では)それらの内部にそれらに動きや変化を与えるような内的要因の存在感を感じて、それをその物事が内蔵する感情であると思っている。物事が変化するときは、それが人間であろうと、そうでなかろうと、その内面にある内的要因=感情によって動く、と私たちは感じる。この図式は、(拙稿の見解では)人間や物事のシミュレーションとして私たちの脳に記憶されていて、連想によって無意識に想起される。
ところで、拙稿では、物事の認知に関するこの脳内現象を、(適切な用語が作られていないようなので科学用語にも哲学用語にもなっていない)擬人化という言葉で説明したが、これが、拙稿が命名したい脳内現象を名づけるのに適切な用語であるかどうか、筆者は自信がない。ふつう、擬人化とは、詩歌など文学やマンガなどに使う修辞的な技法とされている。現代のマンガ文化では、六法全書がキャラクターの絵を添えられて擬人化されている例がある。これら、一般にいわれる擬人化は、修辞法や子供向けに親しみやすくする目的で使われるものとされる。拙稿の用語法によれば、擬人化はずっと強い意味になって、人間の脳が物事を理解する仕組みは、すべて擬人化と呼ぶことになる。したがって、(拙稿の見解では)いわゆる修辞法の擬人化は、無意識の認知の過程を、意識の表面に引き出すことで強く感性に訴える技法といえる。