文化によるその様式の継承が他の動物種の反射的メカニズムよりも効率的で安定的であったが故に、それはフェロモンなど他のメカニズムを退化させ、言語の概念化で人類に実装されました。
その存在感は「対の理論 theory of pairing(拙稿82章『付き合いの存在論』)」として人類文化の無意識な下層に埋め込まれています。
古典文学をみれば(西暦九〇〇年前後「伊勢物語」)、(一〇〇八年 紫式部「源氏物語」など)物語は生来、男女があらゆる困難をかいくぐって一夜の逢瀬を求める語りとなっています。
男女が近づき対を作り結合する。これが対の理論の根幹をなしている。家族の基礎となり国を作っていく。世界中そうでしょう。その初めに来るファースト・デートの存在論はかく重要です。
個人にとってのファースト・デートの成功は、人類の大いなる快挙です。たとえば月面の足跡(一九六九年)。ニール・アームストロング「この小さな一歩は人類の大いなる飛躍だ That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.」
ファースト・デートが成功したとしても、それは二人だけの小さな記憶をつくることでしかない。「いつの日にか 僕のことを想い出すがいい ただ心の片隅にでも 小さくメモして(一九八一年「セーラー服と機関銃」来生えつこ)」
結果は、ただの小さいメモで終わるかもしれないし、あるいは数世紀にわたる一族の始りかもしれません。■
一瞬どう見えるか、が問題です。一瞬で脳裏(視覚野)に焼き付く。その前に動眼神経が動き瞳孔が開いてしまう?視床の反射が最初に来る、でしょう。
男も女も女の身体が美しく見える、というのが拙稿の見解です(拙稿54章「性的魅力の存在論」)。女の額は丸い。骨盤は胸郭より広い。性的二形を作る差異は一瞥で感知できます。女がここに存在する、と感覚で分かる。軽く柔らかい、と分かる。
その差異を美しいと思えるように人間の感受性は作り込まれています。しかし美しい花にはとげがある。つまり触りたくなる、という事実があります。薔薇には棘がある(No rose without a thorn)。直感で分かる。
棘を厭わず触れるか?触れたものをどうするか?
身体がすでに進んでくれれば理論はついてくる。ふつう対の理論がついてきます。
拙稿では男女一組という存在感を仮に「対の理論 theory of pairing、源流は共同幻想論(吉本隆明1968)」といいます(拙稿82章「付き合いの存在論」)。男女の対という観念は、つまり、男や女という観念よりもずっと根源的に存在する。世界は男女の対でできている。この相手と対がつくれる、と思えるかどうか、でしょう。そうでないならば進みません。
ファースト・デートの存在論もそれです。どの理論に基づいているのか?とにかく身体は近づいていく、世界によくある一対になろうという衝動。言葉では、付き合いとか、パートナーとか、実にいろいろな言い方をしますが、結局よくあるペアリング(拙稿82章「付き合いの存在論」)のことです。
Elle est retrouvée !
— Quoi ? — l’Éternité.
C’est la mer allée avec le soleil.
大学生のころ、新宿で観た『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou ジャン=リュック・ゴダール監督 一九六五年)。主人公が爆死した煙を高空から俯瞰したエンディングでこの詩が流れます。フランス語で覚えたばかりの句だったので印象に残っています。
この詩の影響で、デートというならば夕日と水平線を見なければいけない、と思い込んでいました。一緒にそれを見るために、伊豆の西海岸、堂ヶ島に一泊でドライブに行きました。海の見える部屋をとれたか、夕日のとき晴れていたか、覚えていません。