哲学の科学

science of philosophy

哲学する人間を科学する(3)

2007-05-26 | 5哲学する人間を科学する

私たちの目に見えて手で触れるこの現実世界を、実在する最も確かなものだとするところから、科学は成り立っている。確かにこの物質世界は、だれが見ても触っても同じように感じられる。それはこの世界が実在しているということだ、と言ってしまえば、確かにそれだけのあたりまえのことです。

しかし、さらにその、だれの目にも見えて手で触れる、ということの足元を掘り下げて考えてみれば、この現実世界は同じ仕組みの脳を持つ人間集団の運動神経と感覚神経の共鳴によって共有された脳内の共通模型だともいえる。いや、そう言うほうが、むしろ、科学的でしょう。人間各人が持つその共有された共通模型を実在する物質世界だと感じて、互いの脳内のその存在感をお互いにいつも確かめ合うことで、人間は相互理解し、世界を実在させて科学を作り、毎日の社会生活をしているのですね。

人間はふつう、信じやすいですから、周りの仲間が信じているものを信じる。毎日、同じように繰り返して起こることは信じる。朝になれば日がまた昇ることを信じる。偉そうな人が言うことを信じる。科学者のいうことを信じる。皆が信じる人のことを信じる。テレビが言っていたり、新聞に書いてあったりすることは、ほとんど信じる。

そうして人間は、明日もだいたい今日と同じと思い、安心して暮らす。ふつう、そう感じるように人間はできている。周りの人々がそう信じているらしいと分かるから、そう信じる。そうしていれば、大体うまく行くことを知っている。そういうように脳を進化させた人類の身体が、そういうしかたで生存競争を生き抜いて繁栄し、私たちの身体となったのですから。

人間はふつう、将来のことを深刻には悩まない。大体、自分が知っていることだけで世界の動きは予想できると思っている。分からなければ、仲間の真似をすれば用は済む。それで実際、毎日は問題なくやっていける。それでよいのです。細かいことは分らないことも多いですが、そんなことは放っておけばよろしい。悩み込んでしまう必要などない。

しかし、ある日、たとえば子供時代が終わりそうになった小学五年生の夏休みに、あるいはプロ野球の選手になれないことが分かってしまった高校二年のころに、あるいは三十代になって出世があやしくなってきて起業もできそうにないし映画監督にも小説家にもとてもなれないと思ったときに、あるいは六十代で定年退職して毎朝の通勤が必要なくなったときに、次のようなことに気づいてしまうことがあります。

この世界について、人生について、人々が言っていることは大体分かるけれども、何か一番大事なところが信じられない。何か、だれも分かっていないような気がする。

たとえば、私は何なのだろうか、何ができるのだろうか、これからどうなるのだろうか、私はいつか幸せになれるのかしら? 全然、保証はない、という気がする。不幸なまま、だれにも理解されないまま、惨めに死んでしまったらどうなるの? それじゃあ悔しくて死にたくない。それでも死んじゃうのかしら? 

そういうことはだれも教えてくれません。新聞にも本にも書いてありません。だれも知らないようです。それとも、ふつう教えてくれないことになっているのかもしれません。人に聞いてはいけないような気がします。だいたい、目に見えるものではありません。神様にしか見えないもののような気もします。こういうところで考え込んでしまう人がいます。この世は分からない。どうしようもなく分からない、と思ってしまう。神秘感に落ち込んでしまうのです。

こういう人たちは、かなり昔からある程度の割合でいたと思われますが、近代や現代になって、たぶん、ますます多くなったようです。つまり、飢えや狼におびえる必要のない豊かな生活を送っている人に起こる悩みなのでしょう。だが、それだからこそ、深刻な悩みなのです。本人にとって、これらの悩みは、飢えや狼よりも手ごわいと感じられるのでしょう。

この人たちは、命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・ こういう目に見えないものがどう動いていくのか、こういうものたちが、物質世界での、過去、現在、未来の自分の身体の運動とどう関係していくのか? 予測したくなったのです。

こういう類の問題は、原始時代には、たぶんあまりなかったのですが、農耕社会が発展して人間関係が複雑になり、特に文字文明が発展すると出てくる。出てきますね。経典が書かれ詩歌が書かれるようになると、もうこういう言葉が毎日活躍するようになってしまう。それを商売にして生活する言語技術者たちが栄えるようになるわけですね。

生活に余裕のある人たちは、言葉の綾に敏感になるのでしょう。死とか自我とか幸福とか正義とか社会的認知とか、に深い意味を求めるようになる。あるいは、宇宙とか、無限とか、存在とか、美とか、真実とかに神秘を感じるようになる。古代ギリシアの哲学は、奴隷に労働をまかせて暇になった有閑市民たちの間で生れました。現代の先進国では庶民の私たちも、古代ギリシアの市民(とか近世の旦那衆?)くらいには、生活の余裕ができてきたのでしょうか。

そうなるとそこから哲学が始まり、その哲学は(筆者に言わせれば)すぐ間違えていくのです。言葉を文字で書き留めることで論理的に考えるようになる。抽象的な議論が好きになる。人生をゲーム的に考える。仲間とそういう話題で盛り上がる。それでこれらの哲学的、文学的な言葉が大事がられるようになった。

「哲学する人間」を科学すると、ざっとこんなイメージになるでしょう。

 ずっと昔は宗教が立派で、哲学的なこういう疑問にも答えてくれました。たとえば、「ただ、ひたすら祈りなさい」とか説得力ある答をくれました。ところが今は科学のほうがずっと立派そうですから、宗教の言うことは説得力がない。ふつう頼る気がしない。

その上、近代や現代の哲学はだめです。論理と言語技術に優れた人たちが哲学に集まったため、かえってむずかしい言葉や理論ばかりを作って空転していきました。それで、科学が疑問に答えてくれると良いのですが、答えてくれない。

科学者は科学者どうしの競争で忙しい。科学者は実は余計なことを考える余裕がないのです。ただ、そうは言わないで、自分は哲学の問題に興味はないという態度をとります。困ったことです。

興味がないというよりも、科学者たちは、哲学の問題はどう考えていいか分からないから考える気になれない。むしろ、やれることがはっきりしている科学を先に進めてしまいたいと思っている、というのが実情です。そういうことで、結局、科学は物質世界専門で物質の話以外は相手にしない、ということになっています。それで人々は、科学も宗教も頼りにならない、やっぱり人生は謎なのか、自分は何も分からないまま死ぬのか、とあきらめるしかない。

 もともと素朴な人々の疑問は、自分の運命のこと、死とか自分のアイデンティティのこと、人生のこと、幸福のこと、あるいは、この世の根源の神秘、というようなことですから物質の話とは違います。だからふつうの人間は、科学の言葉にはあまり興味がない。むしろ、命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・そういうものの正体を知りたいわけです。こっちのほうが物質の話よりもずっと大事だという気がする。

そういう人が哲学をしたい。ところが言葉で哲学を語ろうとするとたん、物質世界を足場にして立つしかない。人にものを伝えようとしたとき、本当に頼りになる足場はだれとも共有できる、目に見えて手で触れる物質世界でしかない。物質世界にないものを語らいたくても、それを目に見せるわけにはいきません。それでしかたなく物質世界に関する言葉を使って類推や比喩をするしかない。それではあいまいな言い方しかできないわけです。

そうなると確かに語れるものは、結局、科学しかないかもしれない。言葉を使う以上、物質世界を指差さないと、正確に語れないからです。

 物質世界のものを指差して、物質でないものを語れるのか? 物質を比喩に使って語ればよいのか? 物質の中に、物質でないものが入っているかのように語ればよいのか?

 物質としての生物を指差して「命」を語る。物質としての人体を指差して「心」を語る。目の前の物質を指差してその「存在」を語る。物質としての音声や文字を指差して「言葉」を語る。物質として自分の肉体を指差して「自分」を語る。・・・

私たちが物質でないものについて思うことや感じることは、こういうやり方で言葉を使うことでしか、他人に伝えられません。しかし、これで、話し手の感じていることが聞き手に、正確に伝わるのでしょうか? 

そのとき指差している物質の中には、実は、物質以外のものは入っていない。生物の内部には、細胞、分子、原子、素粒子、つまり物質しかない。人体の内部にも、他の生物と同様の物質しかない。「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」。こういうものはどの物質の中にも入っていない。物質として存在しないのです。この世で、いくら、何かを指差しても、それは物質を指差していることでしかないのです。物質しか指差せない世界で、物質でないものを語ろうとすれば、言葉は結局のところ、空転していくしかないでしょう。それでも、人間はこういうものの変化を予測したい。それを他人に伝えたい。それを予測し、人に伝えようとする哲学は、言葉を使うしかないから必ず間違う。それなのに、人間は、かなり強烈に、それをしたいのです。

原始時代の人々は、物質でないものには、ほとんどこだわらなかったでしょう。命や心のような錯覚の存在を、漠然と感じることはあっても、それが物質世界とどう関係するのか、などという問題を仲間と話し合い、哲学研究学会を作って徹底的に追求する、という気持ちはなかったと思われます。

農耕社会になって、一年計画で作物を栽培する必要から豊作占いや雨乞いが生まれ、豊作の神、凶作の神、疫病の神、死の神などが生まれた。それらの超自然的存在は言葉で名づけられ、呪術、儀式、宗教などで現実の物質世界との関係ができていた。それらは人間の感情に強く結びつき、だれもが共感できるものだった。脳の感情回路に響く錯覚を作り出しやすい運動感覚シミュレーションを引き出すものだったはずです。そこから、私たち現代人が共有している「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」などの観念が作り出されていったのでしょう。

それらの観念は、まず部族の管理と呪術を担当する支配者階級と聖職者階級の関心事となり、次に、宗教、哲学などの体裁を整えて徐々に下層の階級に浸透し、中世以降は、すべての人間の生活に優先する重大事、とみなされるようになっていった。

現代では、ほとんどの人が、わが身自身の将来、つまり「自分の命、自分の人生、自分の幸福、自分の健康、自分の財産、自分の地位がどうなるのか? 自分が死ぬか死なないか? 幸福になるのか不幸になるのか?」という問題が最大の関心事、と思い込むようになってしまいました。宗教や哲学が普及する数千年前まではこんな事態はありえなかったことを、だれも覚えていません。

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哲学する人間を科学する(2)

2007-05-19 | 5哲学する人間を科学する

原始時代の人間は、現代人よりもずっと、感情を共有する能力が高かったのではないでしょうか? 言語が未発達のころのほうが、表情や視線、動作を通じて、完璧に近い相互理解が可能だったかもしれません。

人間は、(テレパシー能力は持たなくても)目や耳の感覚からの間接的な情報だけで、他人が感じている世界をかなりはっきりと感じることができます。他人の身体の動きを見たり音声を聞いたりすると、人間の脳は、自分が感じるときと同じ神経回路が自動的に活動するようにできています。そのとき、他人の感覚を自分の感じている世界に重ねることができます。これは、テレパシーのような神秘的なものとは関係ありません。他人の身体とその運動を、ふつうに目で見て、耳で聞くだけで、人間の脳は、他人の内面の運動と感覚を感じるようにできているのです。

これは、まったく見かけの動きだけに対する反応です。他人の動きの外面の見かけだけを見ているのに、人間の脳は、その人の内面の動きと感覚を感じたと感じるようにできているわけです。むしろ、自分の身体の動きを目で見たり、体性感覚でそれと感じたりするよりもさきに、他人の身体の動きを目で見て、その内面の感覚や感情を感じるのです。そういう脳の仕掛けによって、人間は、他人が周りの世界をどう感じているかが分かるような気がするのです。他人の動きを見て、その人がそこにある物質をどうしようとしているのか、予測できます。(拙稿の見解によれば)この仕組みが、その物質の存在感を作り出すのです。

ロボット工学の観点から見ても、人間のこの能力はすばらしいものです。ロボットでは、このような能力は、なかなか実現できません。カメラとマイクで得た情報だけから、カメラの前で動いている人間がこれからどう動くか、予測できるようなコンピュータプログラムは、どう設計したらよいでしょうか? 多分、そのコンピュータプログラムは、人間の運動形成機構のシミュレータを内部に持つ必要があります。これを組み込んでいない現状のロボットは、人間のように見える動作はできないわけです。確かに、こういう機構は、「Aの感覚が入力された場合、Bの運動を出力する」というノイマン型のコンピュータプログラムでは設計しにくい。ニューラルネットワーク型コンピュータが使いやすそうです。自分の身体とか他人の身体とか認識する以前に、筋肉を動かす運動出力と目など感覚器に映る感覚入力の変化は全部そのままニューラルネットワークに入力してしまう。それで学習が進み、うまく適応できていくわけです。

人間も、他人の運動を予測できるということは、自分の脳の中に、たぶんニューラルネットワーク型の、運動シミュレータを持っているのでしょう。進化の過程で人間はこういうシミュレータを獲得したのでしょう。進化のためとはいえ、脳の中に大きなシミュレータをいくつも新しく建設するのは大変だったでしょうね。

たぶん、進化の過程で、忙しい生存競争の最中に、そんな脳の大増築をする余裕はなかったと思われます。むしろ、おそらく人類は、一つしかない古い群行動用の脳内機構を、自分のための運動形成と仲間の運動を感知するためのシミュレータと、二つの目的に共用に使って、他人の運動を自動的に予測計算する方法を取ったに違いありません。そうすれば、狭い脳内に、他人予測用に新しいシミュレータを建設する必要はなくなります。

人間が、集団行動用の自分の運動回路を使って他人の運動を理解している証拠はいろいろあります。電話をしながらテレビを無音にしてサッカーを見ていると、どうも相手を怒らせてします。「ちょっと! 聞いているの?」と叱られてしまいます。一つの運動回路を共用して、別世界にいる相手と真剣に会話するのと同時に目の前のテレビの中のサッカー選手の蹴る方向をきちんと予測するのは無理なのです。

予測した他人の動きは、自分がそこにある物質を扱うときの自分の身体の運動と同じように感じられます。私がその人であったら、そうするだろうな、と思えるように他人は動きます。それで私は、その人の心が理解できる、と思えるわけです。逆に、誰か他の人間が私だったらそうするだろうな、と思えることを私はするわけです。私は他人の中にいて、他人は私の中にいる、といえます。私が他人に乗り移る、ともいえるし、他人が私に乗り移る、ともいえる。拙稿の用語では、これを憑依といいます。これができなければ、人間は集団行動も共同生活もできません。言語も使えません。人間の生活はすべて、(拙稿の見解では)物質を扱う仲間の運動形成過程を脳内で感じ取り、憑依によって自分の運動として感じるところから成り立っています。

目の前で動く仲間の人間の動きは、私たちが予測したとおりになるのです。目の前の、あるいは想像する他人が(仲間が、というほうがよい)物質を扱う動きが自分の予測どおりになると感じられるとき、私たちは、その物質の完全な存在感を感じられるようになります。そうする結果、人間仲間の誰もが共通に感じていると自分が感じられる周りの世界、人間どうしが共感することで共有する世界、つまり客観的な物質世界、がしっかりとした存在感をもって感じられてくるわけです。

それが人間の脳内に作られる物質世界の模型です。人間は、その物質世界の模型の中に、自分の身体の模型を作ります。この自分という模型は、幼児が物心つきはじめる頃、頼りにしている他人の姿をお手本にして作ります。子供が最初にお手本にする人間は、たとえばママとか、お兄ちゃんでしょう。その他人(たとえばママ)の動き方をコピーした人物像を取り込んで、今度は他人の目に映るだろうと感じられる自分の身体の模型として使います。そのコピーした人物像を、自分と思って、その動き方と他人からの見え方を想像していくわけですね。

そうしようと思ってするのではなく、子供は、自然にそうしてしまうようになっていきます。小学生くらいに成長した後は、覚醒しているときは、それをいつも感じることができます。これが意識された自分の模型です。もともとの自分の模型は、特定の家族などある人間のコピーなのですが、それはすぐ忘れて、幼稚園くらいから、完全に他人とは区別された自分という人物のイメージに作り上げられていきます。

こうして、この世界と自分というものが、(拙稿の見解では、神様によって、というよりも)他人(人間仲間)の運動(動作や視線)によって作られてくるわけです。

子供が運動を計画するとき、たとえば、遊園地の滑り台を駆け上るとき、こういう場面でお兄ちゃんならこういう動きをするだろうな、とお兄ちゃんの運動を思いだしたり、想像したりして自分の運動シミュレータ回路の上に再現し、これからの運動計画を作ります。これは仲間につられて運動する集団動物の習性と同じ神経活動です。つまり自分の脳の中にある(お兄ちゃんの姿から作った)自分の身体の模型が仮想運動としてまず動いて、それにつられて実際の運動が起こります。

人間が、主観的に、自分の目の前にある現実の物質世界だと思っている空間と物質は、客観的な物質現象としては、脳神経回路の(時系列的な)神経活動ですね。それは、脳の運動シミュレーション回路において、そこに視覚、聴覚、触覚などの感覚信号が投射され仲間の運動と連動する集団的な仮想運動の脳内シミュレーションに対応しています。その運動シミュレーションが自分の脳内で動いていることを感じて、人間は自分の目の前に物質があり、空間が広がっている、と感じるわけです。ただ単に、視覚や聴覚の感覚神経からの信号を脳の視覚、聴覚部位で受信するだけで、物質世界の存在を感じるわけではありません。テレビの画像データも0と1の羅列からなる時系列の信号ですが、それを見る人の脳内で物質や空間と感じられるわけですね。それと同じです。

その現実世界の中にある、たくさんの人間の身体のうちのひとつを自分と思うわけです。空間がひろがっていく感覚の中心に人体がひとつあって、その身体の動きが五感を変化させ、快不快を発生し、感情を誘発するように感じられる。そういう人体が自分だと思うのです。

実は、赤ちゃんだった頃の学習経験で、私たちはこの自分の身体を自分の運動と感覚が世界へ通じる出入り口とみなすと運動がうまくいくことを覚えたのです。この身体に、自分の内部感覚を貼り付けてみると分かりやすい。さらに視覚、聴覚、触覚も、この身体についている目や耳や皮膚が感じているとみなすと、分かりやすい。この身体を自分が運転している、と感じるような気持ちになってみる。そうすると周りの物質とのやり取りで具合が良い。何度も繰り返してみたそういう経験から、赤ちゃんの脳内に、自分の身体という模型が作られるのです。

自分の身体はいつも動いて何かをしようとする。それが動く力を予想し、動いた結果を予想する。その結果で世界がどう変化するかを予想し、その結果で自分の身体がどう変化するかを予想する。つねに先のことを予想する。そういうふうに人間の脳は作られているようです。

そのために、身の回りの世界の変化の法則を知りたがるのでしょう。無意識的に自動的にそうするように人間の脳は作られています。そうしようとしてそうするのではなくて、いつのまにかそうしています。そういう機構が、生まれつき人間の脳の中にあるようです。

そのために脳内に現実世界の模型を作ります。脳の中にいろいろな現象の模型を作って、現実を予想します。模型を動かすシミュレーションで将来を予測します。いくつかの模型をつなぎ合わせ、組み合わせて、上位の模型を作ります。だんだん大きな世界の模型を作っていきます。それらは全部、無意識に自動的に行われています。

周りの物質が、どのように動き変化するか、予測用の模型を作ります。自分の周りの他の人間がどう動くか、その人がそこの物質をどうしようとしているのか、目に見えない他人の気持ちがどう変化するか、自分の気持ちがどう変化するか、自分の収入が、地位が、財産が、経済が、社会が、どう変化するか予測します。明日の運勢はどうなるか、神様はどう助けてくれるのか、などなども予測したいわけです。

それで、人間は予測用模型を作ります。そういうものを自動的に作るように人間の脳はできているのでしょう。二回続けてバスに乗り遅れると、次回も乗り遅れるという予測用模型を作ってしまいます。それで、早めにバス停に行くわけでしょう。

私たちは、そういう模型で作った予想を信じて次の行動をするようにできているようです。人間はみな脳の仕組みが同じなので人間が作る予想用模型はみな同じようなものになります。それを人間どうしお互いに眺めあうことで、集団的に、人間は現実世界の共通的な模型を共有していることになる、と(拙稿の見解では)考えられます。

実際の運動に先立って自分の模型が脳の運動シミュレータ回路の中で動いています(拙稿では、これを仮想運動という)。それがこの筋肉にこういう力を出させて、手足が、顔が、目玉が、こう動いたら他人の目にこう映るだろう、あるいは、そこにある物質にはこういう影響を与えることができるだろう、ということが動く前に、無意識に、分かります。それを自分の意思あるいは欲望、と感じます。それからは自動的に実際の筋肉が動く。それで自分が動いたことを意識する。意識的な運動はこうして起こると考えられます(拙稿のこの仮説は、神経科学では検証されていない。類似の理論としては、一九八八年 バーナード・バーズ意識の認知理論』などがある)。

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哲学する人間を科学する(1)

2007-05-12 | 5哲学する人間を科学する

5  哲学する人間を科学する

 

猿は哲学しません。人間だけがそれをします。

人間という動物は、なぜ哲学するのでしょうか? なぜ世界の真理を知りたがるのでしょうか?

そもそも、猿と同じように動物の一種でしかない人類が、なぜ世界の真理を知ることができるのでしょうか? 明らかに他の動物は、鶴も亀も、猿も、世界の真理など理解できません。理解しようともしません。動物の中で人類だけが、世界の真理を知る、などということができるのでしょうか? 鶴も亀も、人類も、それぞれが住む環境で、生存と繁殖に有利な身体を持ったから今存在しているのです。

動物というものは、栄養をとって成長し、交尾して子を産み育てる。それだけです。それだけのはずです。世界の真理を知る能力を持つことで過去の人類が、原始生活の生存繁殖で有利になった、とは思えませんね。だから、そんな必要ない能力は現代人にまで遺伝しているはずはありません。実際、人類は世界の真理を知ったわけではありませんし、むしろ知りたがっただけで、間違えてばかりだったのです。

それでは、知ることができない世界の真理を知りたがる、間違えてでも知りたがる、という身体を持ったことが人類の生存繁殖によかったのでしょうか?

猿は甘い果物を食べたがります。甘いものを食べれば糖分の形でカロリーが身体に蓄積されるからです。そうすればしばらく食べ物が獲得できないときでも飢え死にしないで生存を続け、いずれは繁殖して、同じように甘いものを食べたがるような身体を持った子孫を増やすからです。しかし、猿は生存して繁殖したいと考えて甘いものを食べたがるのではなくて、単に甘いから食べたがる。理由も考えずに甘いものを食べたがるのです。そういう身体になっている。そうするように猿の脳が進化してきたのです。

人間の哲学も、もともとは、それを求めれば人類が生存しやすくなるものであったはずです。そのように人類の脳が進化したはずですから。つまり、今までの人類の生活の中で、世界の真理を知りたがると生存競争に有利な事があったに違いありません。

ものの原理を知れば応用が利きます。この世の原理を知っていれば、初めての経験と出会ってもその後どうなるかの予想がつきます。何も分らないまま、あわてて逃げ出さなくてすみます。落ち着いて新しい環境を観察すれば、今までの経験を生かせるでしょう。どこに行っても世の中たぶんこんなものだろうと知っていれば、新しい土地で新しい生き方をすることもそれほど怖がらないでしょう。

地球上のあらゆる地域に住み着き、そこの環境に適応していった人類にとって、これは生存に有利だったでしょう。だから人間は、身の周りの物事がどう動いていくものか知りたがる、予想したがる。物の法則を知りたがる。世界の原理を知りたがる。他人の行動を予測したがる。そういうように進化してきました。そしてそれは大成功しましたね。身の回りの世界の変化を予想する能力によって、人類は地球全体を征服したわけです。

もともと哺乳類は、自分の周りの環境の変化に対して自分がどう動けばよいかを経験から学習する機能を持っている。動物が鼻をくんくんさせて周りの匂いを嗅ぎ取っているのは、外界の変化を感知して次の運動を決めるためでしょう。

人間の脳も同じことをしているはずです。しかし、他の動物と違って人間の生きる世界は大きく、環境の変化は複雑です。扱わなければならない情報は、物質の匂いと位置の情報ばかりではない。

人間は過去の記憶に、現在見えていること、感じていること、直感、もっともらしさ、現実感、ほんとっぽさ、感情、不安、好き嫌い、そういうもろもろの信号を照らし合わせる。経験から学んだ法則、あるいは多くの人が言っているものごとの法則、を当てはめて状況を判断する。

動物は、ふつうその場その場で感知した情報に瞬間的に反射して運動する。過去を省みたり、未来を想像したりはしない。しかし人間は、感知した情報に過去の経験を重ね現実全体の模型を作り直してから、自分の動きが引き起こすだろう未来の変化を想像する。将棋の読みのように、次の手を読む。そして、現在とり得る一番よい行動を計画した上で実行に移す。こうすれば、動物的な反射だけで行動するよりも安全で成功確率の高い動きができる。下手な将棋指しのように、読みもしないで衝動的に動いてしまって失敗してから「待った」といっても、現実は待ってくれません。身体が頑丈な動物なら、失敗して崖から転げ落ちても、蛇に咬まれても、毒がある食べ物を食べてしまっても、傷つきにくい。しかし、運動が器用な分だけ華奢な身体の人類は、失敗によって傷つき、場合によっては、命を落とす。そういう者たちは、子孫を残せない。そうして堅い皮膚も牙も体力もない猿人の仲間の中から、行動の結果を予測する読みが上手な者の子孫だけが生き残り、今の私たち、現生人類になった。

感覚器官で感知できる情報はたいてい断片的です。そこで脳は、足りない部分は適当な錯覚や想像を使って滑らかにつなぎ合わせて、一番分かりやすい現実の模型を作っていく。身の回りの現実世界を模擬するその模型を使って将来を予測し、今現在、自分の身体のどの運動神経をどう動かすべきかを決めていく。

こういう脳の使い方をするならば、人間がなるべく実用的な現実世界の模型を脳の中に作り上げていこうとするのは当然でしょう。そういう傾向は、原始生活の中での生存競争に有利です。そうだとすれば、人間の脳はその傾向を持つ機構を備えるように進化したはずです。

周りの世界のよい模型を作りたい。自分の周りは、これからどう動いていくのか? それを知りたいという気持ちは、動物としての人間の脳が古くから持っているこの機構から表れるのでしょう。動物に食べ物の匂いや異性の匂いを嗅ぎわけようとさせる脳のこの探査機構と同じところから、哲学といわれる高尚な人間の行動ができてきたようです。人間のその機構は、動物に探査活動を起こさせるその神経回路に、ほんの幾つかの配線が付け加わっただけなのでしょう。

動物になくて人間だけにある重要な能力がある。言語もそうですが、言語の基礎でもある重要な能力として、人間は仲間の考えを読むことができる。人間以外の動物は、これができない。

人間は仲間の顔や動作を見て、その考えや感情を知る。同時に自分の考え、感情を仲間に知ってもらう。

猿には白目がない。人間の白目は、なぜこれほど真っ白いのか? 他人に視線を読んでもらいやすいようになっているのでしょう。自分が何に注目しているか、仲間に知ってもらうためです。猿には眉毛もない。人間にだけ、なぜ眉毛があるのか? 表情を見分けてもらうためでしょう。人間は恥ずかしいとなぜ顔が赤くなるか? 感情を隠すほうが良いなら顔が赤くなるはずはない。感情を知ってもらうためでしょう。現代社会では、自分が注目しているもの、自分の考えや感情を他人から隠すほうが有利な場合が多いようですが、もともと(たぶん数十万年前から数千年前まで)人間は正直に自分の関心や考えや感情を仲間どうし伝え合うことで有利に生きてきた。そういう身体を作るDNA配列(ゲノム)がそうでない配列よりも生存に適していたために、いま私たちの身体の中にある。

人類は、言語を獲得するよりもずっと以前から、互いに考えていることや感じていることを、視線や声や表情や身体の動きを通じて、いつも仲間どうしで知らせ合っていた。他の動物もこういう仕組みをある程度持っていますが、人類は特にこの仕組みが発達したようです。そうすることで、群れとして緊密な共同行動をとっていたのです。

人間の脳の運動形成回路は、他人の身体が動くのを見ると、自分の身体が動いた場合とおなじように信号が走るようにできている。それで、他人の運動の真似をしたくなる。あくびはうつる。貧乏ゆすりもうつったりします。歌も、踊りも、言葉も、同じように、人から人へ、その動作が伝播する。他人がそれをしているのを見ると、じっとしているつもりでも、無意識に、自分の身体がむずむずと動き出しそうになる。真似しそうになる。

自分の身体を動かそうと思うよりさきに、仲間の身体の動きが自分の動きを誘い出す。一人の人間が動くとき、それはその個人がそうしようと思って動くというよりも、身体が自動的に仲間の(目の前のあるいは記憶の中の)運動に合わせて動くことから始まる。そうなるように、人間の脳の運動機構はできている(筆者のこの仮説は、脳神経科学ではまだ検証されてはいません)。

他人がしゃべるのを目で見てその声を耳が聞くと、同じ音を出す自分の口の運動信号が脳内で無意識のうちに形成されます。隣の席の人がおしゃべりしている中身に聞き耳を立てながら、気楽に電話できますか? できないでしょう? 人間は自分がしゃべるとき使う(一人一個しかない)運動形成神経回路を使って、他人の話を理解しているからです。

それで言葉が分かる。言葉に限らず、すべての随意運動に関して、人間の運動形成神経回路は、自動的に目の前の他人の運動と共鳴し繋がって連動して動く仕掛けになっているようです。その運動は共鳴する運動・感覚信号の記憶を呼び出す。これで想起された記憶が意識されると、それが連想として感じられるのでしょう。意識的な感覚信号の理解はこの仕組みで行われているようです。他人の動きは、自分の動きのように感じられる。それで相手の心が感じられる。つまり相手が何を感じているか、分かる。

拙稿の見解では、人間は自分の運動であっても、自分が意図的に考えて動きを作りだすというよりも、無意識のうちに、(目の前のあるいは記憶や想像の中の)他人の動きを写し取っていつのまにか動くようになっている、と考えます。そうだとすると、自分と他人(仲間というほうがよい)の区別は、曖昧になってくる。その動きを写し取った他人(の内面)が自分(の内面)だ、ということになるわけですからね。

人間の行動は、個人の意図から作られるというよりも、仲間集団として動いている(目の前のあるいは記憶や想像の中の)集団運動の感知が先にあって、それを写し取ることで個人の運動が形成される、と考えられる。ダンスでは一人で踊ることをソロといいますが、ソロはグループダンスから派生したものです。動物の脳には、仲間と群れて集団行動をする仕組みが古くからある。つまり、仲間の運動を自動的に追従する。人間の脳の奥にも、その古い仕掛けの神経回路が根強く残っているのでしょう。仲間の運動に共鳴して動く。それは自分で考えて動くよりもずっと深いところから人間の運動を誘導しているのです。

自分で考えて動く、と自分では思っていても、それは仲間が動くのを感じて、あるいは記憶を再生して、あるいは脳内で想像して、その仮想運動に自動的に身体が追従して動いていく。自分の身体という(集団の中の)そのひとつの人体が、集団運動に誘導されていつのまにか動く。(現実の、あるいは仮想の)集団の動きを無意識に感じ、それによって脳内に形成される仮想運動に自動的に追従して、実際の運動をしてしまう。それを人間は、自分の内部で、「動きたい」という欲望が生じてその通りに自分は動いたのだ、と思っている。それが「動きたくて動く」とか「動こうと思って動く」ということ、そして、人間の「思う」、「考える」という行為の仕組みではないでしょうか。

赤ちゃんが物心ついていくとき、毎日のように感じ取る感覚は、家族など周りの人間が繰り返す同じような動き、同じような発声であり、同時に自分の身体がいつのまにか無意識的に動いたときに戻ってくる規則的な視覚、聴覚、触覚(体性感覚)などの変化でしょう。それらを繰り返し感じることで運動・感覚の規則性を(無意識的に)学習し、また繰り返し身体を動かすことにより運動形成の癖がついてくる。それら運動の規則性は仲間(家族など)の運動(表情や動作、言葉など)の規則性から導かれる。それが赤ちゃんの脳に、仲間(家族など)の運動に共鳴する追従運動を形成する神経機構を作っていく。赤ちゃんが成長して幼児になると、その運動共鳴による運動の実行を意識的に捉えて言葉で表現できるようになり、「自分がそれをしたいと考えて動いた」と思うようになるわけです。

欲望といわれるもの、つまり自分がその動きをしたい、という感情はどこから来るのでしょうか? 脳のこの仕組みは興味深い。詳しく調べる必要がありそうです。しかしそれは、今論じているテーマからかなり離れてしまいそうなので、ここで深入りすることはさける。後で詳しく論じましょう。ここでは代わりに、拙稿の見解を次のように、簡単に要約しておきます。

ようするに、人間は(他の群生哺乳動物と同じように)仲間の動きを感じると、それに自動的に共鳴して脳内に運動指令信号が形成され、仲間の運動を追従する。脳の運動回路がそのような運動指令信号を形成すると、人間はそれを感情回路で感じる。その信号を受けた感情回路は、まず、自分が仲間の動きを追っていきたくなった、と感じる。同時に仲間の感情を自分のものとして感じる。それをしたいという仲間集団の感情を感じると、それを、自分がそれをしたいという感情としても感じるようになる。特に、仲間が今目の前にいるわけではなくて記憶や想像の中の仲間の動きを無意識的に感じている場合、仲間の存在は意識できないので、自分一人がそれをしたいと感じている、と人間は思う。

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世界という錯覚を共有する動物(8)

2007-05-05 | 4世界という錯覚を共有する動物

さて相互理解の話に戻って、別の例をあげます。

たとえば暴力。暴力によって人間どうしが相互理解できる、などというとひどく誤解されそうです。しかし、目の前に突きつけられた暴力の脅威はだれの脳にも同じような恐怖を引き起こす、という点で共感を相互理解できる。刃物を突きつける、あるいは銃口を向けるという行為で表現する脳内の緊張状態(裏返せば、それがないときの安心感、平和感)は、言葉を必要とせずに、かなり正確に伝わるものでしょう。この共感の効果を利用するために、昔の武士は刀剣を帯びていたし、現代の兵士はマシンガンを携行しているのではないでしょうか。

言葉と貨幣と暴力は人間社会の基盤を作っている。現代の国民国家がこれらの管理権を独占することによって安定を保っている事を見てもそれが分かる。これらは人間の脳が、もっとも深いところで、集団として共有している錯覚です。

そのほか人間が相互理解できる機会は、儀式や祭礼、戦闘、など鮮明な目的を掲げた組織行動、あるいはその現代的な変形としての演劇、合唱、舞踊、スポーツ、ゲーム、音楽、絵画、彫刻、などの中にもある。学生の部活動などもこれでしょう。大人の仕事場、ビジネスオフィスなどでも、営利活動の形を取ってはいますが、実は必要以上に、儀礼、祭礼、戦闘、と言った昔の集団行動が変形して行われている。こういうことを熱心にする人どうしは、錯覚を共有し、言葉に頼らずに互いの脳内状態が相互理解できている。ただしこれらは、そこに集まる人々の間では通じても、お金のように、見ず知らずの他人どうしがそれを介することで、一瞬にして、きちんと相互理解できる、というものではありません。

人間のある集団が共有する錯覚の体系は、集団の履歴、文化、規範を反映する。この点を強調すると、現代文明の相対化に繋がる社会観が作れる(構成主義などという)。一方、人類全体に共通な身体機構から共有される錯覚は多く決まってくる、という見方を強調すれば、いつの時代、どの社会も、基本的には、同じ世界を共有することになる(汎人間主義、人類普遍主義などという)。

どちらを強調するにしても、通常、互いに目で見える物質現象のこと以外では人間どうしは言葉、あるいはそれ以外のどんな手段を使っても、正確に錯覚を共有し相互理解することはかなりむずかしい。

動物と付き合った人は分かるでしょう。動物と、物質以外のことで相互理解できますか? 私たちは、ふつう、「動物は言葉が通じないから抽象概念のことは理解できない」という言い方をしますが、じゃあ、人間どうしは本当に通じ合っているのか、抽象概念を本当に相互理解できるのか、と改まって聞かれると、ちょっと自信がなくなりませんか?

ペンは剣より強し」という勇ましい格言がありますが、「ペンは剣より強し・・・されどパンより弱し」という駄洒落のほうが納得できたりします。実際、弱い順に並べると、ペン、剣、お金、パン、という順になる。つまり、正直いえば物質的なほうが強い、ということだと筆者は思いますが、いかがでしょうか?

さて、駄洒落などはさておき、本題に戻ります。哲学であろうと何学であろうと、言葉で語る以上、語ることができないものを語ることはできない。言葉で語ることができるものよりも語ることができないもののほうがずっと多く、ずっと人々の感情に結びついている。それらは人生において言葉よりも、たぶん、ずっと重要なものです。人々は、そういうよく分からないけれども重要そうなことをはっきり語ることを、哲学に期待する。ですが、それは無理です。哲学者はそれらの重要なことを、何とかはっきり語りたいでしょう。それでもそれを語ると、かならず間違いを語るしかない。

語ることができないものを無理やりに語っているうちに、それを語ることができるものであるかのように錯覚してしまう。するとそれは、客観的世界に存在するものであるかのように感じてしまう。命、心、自分、個人、幸福、そういうものがこの世に存在すると思い込んでしまう。

哲学は、その間違いを人々に権威を持って教えてしまいました。それで世の中の人々が皆、それら錯覚の存在を当然と思ってしまった。あいまいな錯覚に物質以上の確実な存在感を感じてしまう。それは歴史上、文明の発展にとっては悪いことではありませんでした。近代の西洋文明のように、哲学に支えられて明瞭な言葉の体系を得た人々は自信を持って自分の人生に努力を集中し、個人の人生目標を確立し、感情を整理してビジネスライクに他人と協力し、現実の世界を開拓していった。しかし、いまや、それは過去のことです。現代のように宗教が権威を失い、哲学と科学との矛盾が、ここまで明らかになると、哲学の間違いは人々を混乱させる役割を果たすようになる。

一番大事そうなことが分からない。世界は大きな謎を抱えているらしい。そのままその謎に知らん顔をして世界は毎日もっともらしく動いていく。冷徹な科学と経済はどこまでも力強そうになってくる。政治は偽善の応酬ばかりで愚劣な社会習慣を改めることができない。そういう白々しい偽善の世界に生きなければならない現代人はニヒルになっていく。それを科学のせいにしたり政治のせいにしたりしてみるけれども、どうもそうではない。

それでその謎を解こうとするまじめな哲学は、現代の科学や経済や政治がもたらす悲惨や偽善、この世の不条理について語りたくなってしまう。しかしそれを語りだすと、また新しい難解な言葉を作り出して袋小路にはまり込んでいく。そして結局は人々に見放されていく。そういうふうに、今までの哲学は間違えていった。

筆者の予想では、いずれ科学がますます発展していくと、人間の脳神経系の微細な活動をそのまま観察する(非侵襲的で)超精密な装置が作られるはずです。そういうものを使って人間どうしはお互いに感じていることを目で見ることで共感し、その感覚を共有化できるようになるのかもしれません。

そのような科学に支えられて、人間の相互理解は現在よりも格段に深くなっていく。そのときはじめて、脳の中に起こる感情や錯覚を正確に言い表す言葉が作られてくるでしょう。その言葉は自然言語に近いものなのか、画像の形を取るのか、偏微分方程式、あるいは神経ネットワーク多次元状態ベクトル遷移関数のような形を取るのか、筆者にはまったく分かりません。

ただ、たぶん間違いなく、そういう新しい言葉を使って、いつか哲学は人間が感じるもの全体について迷いなく語ることができるようになる。そのとき、それは哲学であって同時に科学になっているはずです。

哲学の科学、哲学学、あるいは新語を発明するのが好きな哲学的伝統の顰にならって、「メタメタフィジカ(メタ形而上学?メタメタ科学?)」とでも唱えましょうか? たちまちたくさんのツブテが飛んできてメタメタにハジカれそうですね。

まあ、そういう哲学の科学が本格的に発展してくるのを待つ間、これ以上、間違った哲学を増やすことははやめて、語ることができることだけを語ってみましょう。旧来の哲学のように新しくむずかしい言葉を次々に発明して世間に売り出し、錯覚の上にさらに間違った錯覚を付け加えて手品のように人々を幻惑したり(と同時に論者自身が自分の作った言葉で幻惑されてしまったり)する商売は控えたほうがよさそうです。むしろ逆に、欠陥商品の責任を取らされたメーカのように、間違った過去の哲学が世間に売りさばいてしまった欠陥品である間違った人間観、世界像、哲学思想、あるいはその欠陥の原因になっている日常語の曖昧さ、混乱、錯覚をひとつひとつ点検し、回収してまわるほうがよいのではないでしょうか。

それはふつうの言葉を使って、あたりまえのことを言ってみるだけです。私たち現代人のだれもがうすうす感づいていることを、もう少しはっきり言うだけのことです。

それは、近代哲学が抉り出してしまったパンドラの箱の底、虚無の真っ暗な裂け目、そこから抜け出すことができなくなってしまった唯物論の深淵、です。つまり、自然科学の描くような物質世界はもともと存在しない。もちろん、目に映るこの世は存在しない、命は存在しない、心は存在しない、意識、苦痛、幸福というものは、実は存在しない。自我とか自分というものも、やはり存在しない。私は存在しない。死は存在しない。存在は存在しない。そして、それら存在しないものが、なぜ存在しているようなのか? なぜ存在しているように思えるのか? 人間はなぜ、それらが存在しているかのように確信するのか? なぜ、それら目に見えない、存在しないものたちが、目に見える物質たちよりも、私たちの人生にとって大事なものたちだと感じられるのか? なぜ、いままでの哲学はこれらの問題が解けないのか? 

科学はこれらの問題の解決に役立つのか? こういうことを感じる人間の脳の機構を作り上げる物質の法則は、なぜこうなっているのか? それは現代の科学知識だけを使っても、ある程度見分けることができます。そしてそれを知ることはちっとも怖いことではありません。

足元の深淵を覗き込むと、引きずり込まれてしまいそうですか? それは、それを感じている自分自身が怖いからでしょう? 光り輝く現代文明の世界の中で、現代人が唯一真っ暗な深淵と感じるものは、自分自身の存在かもしれませんね。若い人が自分を怖がるのはしかたのないことです。しかしそんなものは、ガリレオが言いふらしている地動説を聞いたときのローマ法王の恐怖に比べればたいしたことはありません。それでもそのしばらく後、法王も科学者もふつうの人も、地面が動いていることを知ったからといって、毎日の生活は何も困ったことにはならなかった。それどころか、天体の力学を知ることは自然科学の大発展のきっかけを作った。人々の生活は豊かになった。地動説から数百年後には、その科学を基盤にして力強い現代文明が立ち上がってきたわけです。

過去のそして現代の哲学が何も答えてくれないことが分かってしまったからといって、悲観する必要はありません。それが分かったことで、むしろ私たちは、言葉に惑わされずにまっすぐに事実を見ることができるようになる。むずかしい言葉など使わなくても、何も困ることはありません。人生が楽になるだけです。たとえば筆者などは、言葉を上手に使う高級な言語技術者にはなりそこないましたが、おかげで言葉を飾る苦労も知らず、毎日を楽々と生きています。

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5  哲学する人間を科学する

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