私たちの目に見えて手で触れるこの現実世界を、実在する最も確かなものだとするところから、科学は成り立っている。確かにこの物質世界は、だれが見ても触っても同じように感じられる。それはこの世界が実在しているということだ、と言ってしまえば、確かにそれだけのあたりまえのことです。 しかし、さらにその、だれの目にも見えて手で触れる、ということの足元を掘り下げて考えてみれば、この現実世界は同じ仕組みの脳を持つ人間集団の運動神経と感覚神経の共鳴によって共有された脳内の共通模型だともいえる。いや、そう言うほうが、むしろ、科学的でしょう。人間各人が持つその共有された共通模型を実在する物質世界だと感じて、互いの脳内のその存在感をお互いにいつも確かめ合うことで、人間は相互理解し、世界を実在させて科学を作り、毎日の社会生活をしているのですね。 人間はふつう、信じやすいですから、周りの仲間が信じているものを信じる。毎日、同じように繰り返して起こることは信じる。朝になれば日がまた昇ることを信じる。偉そうな人が言うことを信じる。科学者のいうことを信じる。皆が信じる人のことを信じる。テレビが言っていたり、新聞に書いてあったりすることは、ほとんど信じる。 そうして人間は、明日もだいたい今日と同じと思い、安心して暮らす。ふつう、そう感じるように人間はできている。周りの人々がそう信じているらしいと分かるから、そう信じる。そうしていれば、大体うまく行くことを知っている。そういうように脳を進化させた人類の身体が、そういうしかたで生存競争を生き抜いて繁栄し、私たちの身体となったのですから。 人間はふつう、将来のことを深刻には悩まない。大体、自分が知っていることだけで世界の動きは予想できると思っている。分からなければ、仲間の真似をすれば用は済む。それで実際、毎日は問題なくやっていける。それでよいのです。細かいことは分らないことも多いですが、そんなことは放っておけばよろしい。悩み込んでしまう必要などない。 しかし、ある日、たとえば子供時代が終わりそうになった小学五年生の夏休みに、あるいはプロ野球の選手になれないことが分かってしまった高校二年のころに、あるいは三十代になって出世があやしくなってきて起業もできそうにないし映画監督にも小説家にもとてもなれないと思ったときに、あるいは六十代で定年退職して毎朝の通勤が必要なくなったときに、次のようなことに気づいてしまうことがあります。 この世界について、人生について、人々が言っていることは大体分かるけれども、何か一番大事なところが信じられない。何か、だれも分かっていないような気がする。 たとえば、私は何なのだろうか、何ができるのだろうか、これからどうなるのだろうか、私はいつか幸せになれるのかしら? 全然、保証はない、という気がする。不幸なまま、だれにも理解されないまま、惨めに死んでしまったらどうなるの? それじゃあ悔しくて死にたくない。それでも死んじゃうのかしら? そういうことはだれも教えてくれません。新聞にも本にも書いてありません。だれも知らないようです。それとも、ふつう教えてくれないことになっているのかもしれません。人に聞いてはいけないような気がします。だいたい、目に見えるものではありません。神様にしか見えないもののような気もします。こういうところで考え込んでしまう人がいます。この世は分からない。どうしようもなく分からない、と思ってしまう。神秘感に落ち込んでしまうのです。 こういう人たちは、かなり昔からある程度の割合でいたと思われますが、近代や現代になって、たぶん、ますます多くなったようです。つまり、飢えや狼におびえる必要のない豊かな生活を送っている人に起こる悩みなのでしょう。だが、それだからこそ、深刻な悩みなのです。本人にとって、これらの悩みは、飢えや狼よりも手ごわいと感じられるのでしょう。 この人たちは、命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・ こういう目に見えないものがどう動いていくのか、こういうものたちが、物質世界での、過去、現在、未来の自分の身体の運動とどう関係していくのか? 予測したくなったのです。 こういう類の問題は、原始時代には、たぶんあまりなかったのですが、農耕社会が発展して人間関係が複雑になり、特に文字文明が発展すると出てくる。出てきますね。経典が書かれ詩歌が書かれるようになると、もうこういう言葉が毎日活躍するようになってしまう。それを商売にして生活する言語技術者たちが栄えるようになるわけですね。 生活に余裕のある人たちは、言葉の綾に敏感になるのでしょう。死とか自我とか幸福とか正義とか社会的認知とか、に深い意味を求めるようになる。あるいは、宇宙とか、無限とか、存在とか、美とか、真実とかに神秘を感じるようになる。古代ギリシアの哲学は、奴隷に労働をまかせて暇になった有閑市民たちの間で生れました。現代の先進国では庶民の私たちも、古代ギリシアの市民(とか近世の旦那衆?)くらいには、生活の余裕ができてきたのでしょうか。 そうなるとそこから哲学が始まり、その哲学は(筆者に言わせれば)すぐ間違えていくのです。言葉を文字で書き留めることで論理的に考えるようになる。抽象的な議論が好きになる。人生をゲーム的に考える。仲間とそういう話題で盛り上がる。それでこれらの哲学的、文学的な言葉が大事がられるようになった。 「哲学する人間」を科学すると、ざっとこんなイメージになるでしょう。 ずっと昔は宗教が立派で、哲学的なこういう疑問にも答えてくれました。たとえば、「ただ、ひたすら祈りなさい」とか説得力ある答をくれました。ところが今は科学のほうがずっと立派そうですから、宗教の言うことは説得力がない。ふつう頼る気がしない。 その上、近代や現代の哲学はだめです。論理と言語技術に優れた人たちが哲学に集まったため、かえってむずかしい言葉や理論ばかりを作って空転していきました。それで、科学が疑問に答えてくれると良いのですが、答えてくれない。 科学者は科学者どうしの競争で忙しい。科学者は実は余計なことを考える余裕がないのです。ただ、そうは言わないで、自分は哲学の問題に興味はないという態度をとります。困ったことです。 興味がないというよりも、科学者たちは、哲学の問題はどう考えていいか分からないから考える気になれない。むしろ、やれることがはっきりしている科学を先に進めてしまいたいと思っている、というのが実情です。そういうことで、結局、科学は物質世界専門で物質の話以外は相手にしない、ということになっています。それで人々は、科学も宗教も頼りにならない、やっぱり人生は謎なのか、自分は何も分からないまま死ぬのか、とあきらめるしかない。 もともと素朴な人々の疑問は、自分の運命のこと、死とか自分のアイデンティティのこと、人生のこと、幸福のこと、あるいは、この世の根源の神秘、というようなことですから物質の話とは違います。だからふつうの人間は、科学の言葉にはあまり興味がない。むしろ、命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・そういうものの正体を知りたいわけです。こっちのほうが物質の話よりもずっと大事だという気がする。 そういう人が哲学をしたい。ところが言葉で哲学を語ろうとするとたん、物質世界を足場にして立つしかない。人にものを伝えようとしたとき、本当に頼りになる足場はだれとも共有できる、目に見えて手で触れる物質世界でしかない。物質世界にないものを語らいたくても、それを目に見せるわけにはいきません。それでしかたなく物質世界に関する言葉を使って類推や比喩をするしかない。それではあいまいな言い方しかできないわけです。 そうなると確かに語れるものは、結局、科学しかないかもしれない。言葉を使う以上、物質世界を指差さないと、正確に語れないからです。 物質世界のものを指差して、物質でないものを語れるのか? 物質を比喩に使って語ればよいのか? 物質の中に、物質でないものが入っているかのように語ればよいのか? 物質としての生物を指差して「命」を語る。物質としての人体を指差して「心」を語る。目の前の物質を指差してその「存在」を語る。物質としての音声や文字を指差して「言葉」を語る。物質として自分の肉体を指差して「自分」を語る。・・・ 私たちが物質でないものについて思うことや感じることは、こういうやり方で言葉を使うことでしか、他人に伝えられません。しかし、これで、話し手の感じていることが聞き手に、正確に伝わるのでしょうか? そのとき指差している物質の中には、実は、物質以外のものは入っていない。生物の内部には、細胞、分子、原子、素粒子、つまり物質しかない。人体の内部にも、他の生物と同様の物質しかない。「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」。こういうものはどの物質の中にも入っていない。物質として存在しないのです。この世で、いくら、何かを指差しても、それは物質を指差していることでしかないのです。物質しか指差せない世界で、物質でないものを語ろうとすれば、言葉は結局のところ、空転していくしかないでしょう。それでも、人間はこういうものの変化を予測したい。それを他人に伝えたい。それを予測し、人に伝えようとする哲学は、言葉を使うしかないから必ず間違う。それなのに、人間は、かなり強烈に、それをしたいのです。 原始時代の人々は、物質でないものには、ほとんどこだわらなかったでしょう。命や心のような錯覚の存在を、漠然と感じることはあっても、それが物質世界とどう関係するのか、などという問題を仲間と話し合い、哲学研究学会を作って徹底的に追求する、という気持ちはなかったと思われます。 農耕社会になって、一年計画で作物を栽培する必要から豊作占いや雨乞いが生まれ、豊作の神、凶作の神、疫病の神、死の神などが生まれた。それらの超自然的存在は言葉で名づけられ、呪術、儀式、宗教などで現実の物質世界との関係ができていた。それらは人間の感情に強く結びつき、だれもが共感できるものだった。脳の感情回路に響く錯覚を作り出しやすい運動感覚シミュレーションを引き出すものだったはずです。そこから、私たち現代人が共有している「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」などの観念が作り出されていったのでしょう。 それらの観念は、まず部族の管理と呪術を担当する支配者階級と聖職者階級の関心事となり、次に、宗教、哲学などの体裁を整えて徐々に下層の階級に浸透し、中世以降は、すべての人間の生活に優先する重大事、とみなされるようになっていった。 現代では、ほとんどの人が、わが身自身の将来、つまり「自分の命、自分の人生、自分の幸福、自分の健康、自分の財産、自分の地位がどうなるのか? 自分が死ぬか死なないか? 幸福になるのか不幸になるのか?」という問題が最大の関心事、と思い込むようになってしまいました。宗教や哲学が普及する数千年前まではこんな事態はありえなかったことを、だれも覚えていません。