場合によっては、単語、映像、顔写真、音声、匂いなどが引き金となって過去の感情が思い出されるという自覚体験が起こります。これも客観的記憶を想起することで同時に身体の中に感情や感覚が再生成されてくることで記憶は主観的なものに感じられます。映画を見て、あるいは小説を読んだ場合でも涙が出てくるという人も少なくありませんが、そのエピソードが自分の体験とそっくりであれば、ますます強い感情が現れるでしょう。
現時点で感じ取れる自我意識は(私の内面で感じている)主観的部分をはっきりと含んでいますが、これが過去の自分が内面で感じていた出来事として記憶されるためには、強烈な身体の反射運動が起こって(膝が震えて転倒するなど、コンテキストを伴った)客観的に観察できる身体行動の記憶となるか、あるいは独語のような言語表現に変換される必要があります。
たとえば「はらわたが煮えくり返った」とか「背筋に寒気が走った」とかいうような身体反射として言語に変換される場合、(コンテキストを伴った)記憶ができあがり、そのコンテキストを想起することで感覚や感情が湧き起こります。そうでない場合、つまり無意識の弱い身体反射や習慣的行動あるいは言語以前のおぼろげな感覚や感情は、記憶されずに消えていきます。
近年、研究者の層が厚くなってきている脳神経科学、認知心理学などでは自我概念や記憶のメカニズムなどの解明を目指して種々の最新技法が開発されていますが、まだまだ実証科学の対象としては掴みがたい精神的領域でありつづけています。
いまひとつ、自我意識の存在問題が科学の対象として図式化できていないことの大きな原因は、これが伝統的哲学の心身二元論と絡み合うからです(拙稿14章「人類最大の謎」)。
私達自身がこれは主観的なものでしかないと分かってはいても、かなり強烈な存在感があると感じられる自我意識や激痛や神や悪魔などは他の人にも分かるはずだ、分かってほしい、客観的な存在のようなものではないか、と思いたくなります。その気持が人類最大の謎を呼んでしまう。科学者も人間である以上、必ずこれに巻き込まれてしまいます(拙稿34章「この世に神秘はない」)。
このように、方法論も確定しておらず、ひどくアプローチのむずかしい問題は、正面から攻めるよりも、時間をかけてでも、外堀の下を掘ったり、埋め戻したりして攻める方法がしばしば功を奏するようです。そのような回り道を使ってでも、いつか拙稿がいう自我意識の存在論が科学として記述される日を期待して本章を終えます。
今朝、私は洗面所で顔を洗ったはずだが、はっきりとは覚えていない。シャツはどこにしまってあるか、などと考えていたらしい。しかし、ひげをそりながら、この顔で外出しておかしくないか、とも、うっすらと、考えていたのでしょう。かすかに、そういう記憶があります。■
(65 私はなぜ顔を洗うのか end)
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私はこう動く、と思ったときはもう身体はこう動いています。0.1秒くらい前から。それから、私はこう動く、と思う。そのときに自我が自覚できます。身体が動いていても「私はこう動く」と思っていなければ、自我は自覚できない。自分の動きを記憶していません。
過去(と自覚できるような過去の)の記憶は自我意識があるときになされて、それ以外のときにはなされません。過去の出来事と思える記憶はたしかに過去の現実を記録しているといえますが、その現実はかならず自我意識を伴っている。客観的に俯瞰した自分が関わっている現実世界の記録となっているはずです(エピソード記憶という)。
この種の記憶は人類に特有の機構であって人間以外の動物(および言葉を話せない幼児および認知症の老人)にはありません。自我が、(他人の視座から見た)客観的世界の認識を下敷きとする人類特有の神経現象であるため、といえます(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
ちなみに言語もまた人類特有の神経現象ですが、これもまた(拙稿の見解では)人類だけが、他の動物と違って、客観的に俯瞰した現実世界を認識しているためです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。
さきに自我は客観的部分と主観的部分とからなる、と述べましたが、記憶に伴う自我意識が客観的世界の認識を下敷きとするとすれば、それは主観的部分を含まないはずです。たしかに記憶の中の私は、主観的な身体の感覚や感情をしっかり伴っていません。
主観的な感覚や感情がおぼろげに記憶されているとしてもそれは身体が反射運動をした場合の痕跡記憶でしょう。反射運動からさらに客観的な言葉になっていれば記憶は確かになります。独り言のようにつぶやいた内容が感覚や感情の記憶として、はっきりと記憶されているようです。
「恐ろしくて逃げたかった」とか「悲しくて泣きたかった」と思ったことが、その時の周囲状況(コンテキスト)の記憶を伴って、記憶に含まれている場合があります。私たちはこれを感覚や感情の記憶として思い出します。感覚や感情そのものが記憶されている、というより、(「悲しくて泣きたかった」などという場面の)コンテキストに惹起されて感覚や感情が再生成されたとみることができます。
記憶の中からこのような形で過去の感覚や感情を想起できることから、それをもって、記憶が主観的であるということもできます。
これらは、しかし、主観の形を取ってはいても(他人の過去の心理を推測して、それをその人の主観的記憶であるということと同様に)客観的な世界の記録としての記憶から惹起される主観的な感覚ないし感情であり、あるいはまた言語による客観的な自己の観察から引き起こされる感覚感情でしょう。
自分の身体の反射運動を感じてそれをはっきりと記憶することで私たちは自我を意識する。自分がここにいるとか、自分が何かしているとか、いわゆる自我の存在を感じます。
人間だけが自分の行動を長期的に記憶できる。自動運転自動車は自動的にブレーキをかけるが自分のしているブレーキ動作を自覚していませんね。まあ、「何時何分うまくブレーキングできた」などと記憶するようにプログラムを組んでおけば、その限りで自動車は自我の片鱗を持っている、ともいえます。
私にとって私とは何か?私がこう動こうと思ったときにやはりこう動くと予測できる身体が私である、といえるでしょう。
私にとってA君とは何か?A君に見かけがそっくりで、しかもA君がこう動くだろうと思った通りに動く身体がA君である。つまり、私の神経反射ネットワークに働いて作り出す予測の動き方が(私が以前から持っている)A君というテンプレートにマッチすれば、それはA君である。これ以外にA君のパーソナリティというものがあるわけはありません。
私にとっての私、私が私だと思っているところの私、つまり私の自我の客観的な部分、というものも、A君のパーソナリティとだいたい同じことです。A君が私に置き換わっただけ、といえます。
自我の認識が他人の認識と違うところは、その入力信号が視覚や聴力など遠隔情報ばかりでなく、体感、体性感覚などが活用されるので情報量が大きくなることです。それら情報に喚起される反射が自我の自覚体感を作り出しています(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
明るくなると目が覚める。朝になった、と思います。身体が朝を感じたように動くから、朝になったと思う。そういう身体の動きをここでは無意識の反射ということにしましょう。
無意識の反射というものが私たちの認識の根底にあることを忘れがちです。というより、まったく自覚していないから無意識というわけです。
目に向かって黒いものが飛んでくれば目をつぶり顔をそむける。防御反射といいます。人間ばかりでなく、サルでもイヌでもキジでも、石を投げつけられれば飛び退いて逃げる。その反射が予測を作り、現実認識を作っています。
私たちは、動物のこういう反射行動を見ると、石があたって痛い思いをすることが予測できるから逃げる、と理解します。実際は逆ではないでしょうか?身体が逃げるから石が飛んできた事が分かる。それが痛そうだと分かる。そこから石の衝撃が予測できる、という順でしょう。
言葉を持つ人間の場合、さらに次の瞬間に「あたると痛そうだからすぐ逃げよう」と言葉で思う。実はもうすでに身体は退避行動を実行してしまっている。
言葉の前に予測、予測の前に反射、というべき機械的応答です。
反射運動は自動運転車が自動ブレーキをかけるメカニズムと同じです。むしろ動物のほうが自動車より簡単な応答システムでしょう。観測データを揃えて予測計算などしていません。視野に突然出てきた黒い影が急に拡大する映像が入ると、反射として身体が飛び退く。最も単純な予測機能です。
単純な反射がいくつも連携してネットワークとして働くと、複雑な動きに見えます。高等動物が備えているその反射ネットワークのことを(拙稿の見解では)私たちは感情であるとか、欲望であるとか、本能であるとか、言っているわけです。
どの状況でどのような反射が起こるか、それは遺伝と経験で身体に刻み込まれ、行動パターン、行動様式を形成しています。同じような状況では同じような応答がいつも起こる。安定した統一的な行動に見えます。
「石が当たると痛いだろうから、それは嫌だと思って逃げることにして、とっさに逃げた」自分の場合、こう思ったことを記憶しています。他人が飛んでくる石から逃げるのを見ても同じことを考えたはずだ、と思います。
逆に、自分がしたことも他人の目で見るとこう見えるだろう、と思います。
ここまで思った場合、このことはしっかりと記憶できます。
拙稿の見解を要約すれば、自我は他人と共有できる客観的な部分と私だけにしか感じられない主観的な部分との両方を含んだものである、といえます。
私たちが感じている自分というものの主観的部分は、体性感覚や感情や思考や知識などいわゆる身体の中で(腹の中であるとか頭の中であるとか言いますが、ようするに自分の内面で)感じていることですが、すべて脳などの神経活動から来ていることは確かです。つまり現在私の脳神経系が活動している結果の一部であるけれども、実際、神経系のどこがどうなっているのかはさっぱり分かりません。
私は私の存在感をこのように確かに感じているが、これは脳の中の一部分の活動でしょう。しかしそれは小さな一部分なのか、それともかなり大きな一部分なのか、それさえもさっぱり分かりません。
いま私が自分自身だと感じているものは、客観的な部分も主観的な部分も含めて、たぶん、自我意識の表層部分だけであって、その下には膨大な神経反射のネットワークがあるというべきでしょう。その実像は現代科学ではほとんど解明できていない脳神経系の機構です。
私たちの自我意識は社会を維持するために不可欠な機能である、といえます。そうであるとすれば、この機能は社会生活を効率よく実行できるように進化しているはずです。自分のことに関しても余計なことは感じずに大事なことだけを鋭敏に感じ取る。それが、私たちが自覚する自我意識になっているはずです。
自我意識は、人間の一人としての私を他人が見てどう思うか、まずそれを感じ取らなければなりません。
私は、まともな人と見られているのか、キチガイに見えはしないだろうか、危険人物に見えはしないだろうか。私は、良い人と見られているだろうか、それとも悪い人と見られているのだろうか。そういうことを瞬時に判断する必要があります。
相手の心の中に写った自分の姿を読み取る。私に相対する相手の気持ちになる。拙稿の用語では憑依といいます。
他人の目に映る私の姿は、私以外のだれにでも同じように見えるはずです。それは客観的世界の一部分となっています。つまり自我は私固有のものである以前に、まずだれの眼にも同じように映っているはずの客観的な世界の中にある一人の人間です。
自我は、しかしながら、私の内側にある私にしか感じられない部分を含んでいます。腰の痛さであるとか、鼻のむず痒さであるとか、私にしか分からない部分です。腰をさすっている私の姿は他人に見えますが、本当にどのくらい腰が痛いのか、他人には分からないでしょう。
これを人に分からせるためには言葉で言うしかない。「腰がかなり痛い」と言ってみる。まあ、ある程度は分かってもらえますが本当の痛さは絶対に伝わらない、と思えますね。
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身体のほうは、「私は」という言葉が浮かぶ前に、0.1秒くらい前に、もう必要な動作を開始しています。自分の状況のチェックを始めている。人に見られても良い顔になっているか、おかしくない服装になっているか、一瞬にチェックしています。
言葉よりも身体の動きのほうが早い。手で顔を触ってみるとか、髪を触るとか、鏡を探すとか、でしょう。逆に、自分の姿をチェックする身体のその動きが、「私は」という言葉を作り出している、といえます。
試しにハロウィーンの格好をして外に出てみましょう。骸骨のコスチュームを頭からかぶる。あるいはコスチュームがなければ素裸で外出すればもっとよろしい。
かなり緊張しますね。恥ずかしい。やめようかな、と思う。それは、相当強烈に自分の姿を自分で見ているからです。いや自分で見ているというよりも他人になった自分が他人の眼で自分を見ている。自我意識の原型でしょう。
他者の視座で自己を見る。これは、自意識過剰とか心理学でよく使われる概念ですが、もっと深い意味があります。自我意識の有無は人間の本性です。我を忘れる、という言い方があるように、私たちはふつういつも自分を観察している。これは他の動物にはなく人類だけが持つ顕著な特性です(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。これは何なのか?
人間は常時、他人の目に映る自分の姿を自覚している。監視カメラが監視カメラ自身の映像をも映し出せる機能を持っている、というようなことです。
すべての人間がこの機能を備えているおかげで社会が成り立っています。逆にいえば、この機能を持たない人間は社会が形成される過程で淘汰されて遺伝子を残せなかった、という事実があるのでしょう。
他人の目に映る自分の姿を自覚することができる。この能力を持っているから私たちは仲間と協力する事ができる。そして社会が形成されました。逆に、すべての人間がこの能力を持っていなければ人間社会は維持できません。
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こういう話は、当たり前すぎて、だれも問題にしない。しかしだれも自分で自覚はできませんが、いつでも他人の存在が発生するこのような信号をしっかり感知して反射的に事態を予測し、身体はしかるべく反射運動をしています。
たとえば視線を感じたらそちらを振り向く。これができる人がふつうの人と思われます。これができない人はおかしな人、避けるべき人、とされてしまいます。
だれでも人に顔を見られそうな場合、それを予測して事前に必ず顔に目ヤニがついていないか、よだれを垂らしていないか、表情がちゃんとしているか、無意識のうちにチェックしています。無意識なので覚えていません。
人前で何かをする場合「私は・・・する」と思うときはすでに顔をチェックしたり、足場をチェックしたり、手に持っている道具をチェックしています。何かをしようと思ったときはすでに自分の状況を確かめています。特に他人にどう見えるか、数メートル離れて見た自分の姿を思い浮かべています。0.2秒くらいの間に。
それと同時に「私は・・・する」と思う。「私は・・・」という主語はそういう身体状態に対応しています(拙稿26章「『する』とは何か」)。
「私は・・・する」と思う、ということは自分自身を意識しているということです。私の意識の中に私がいる。つまり、「私は」という言葉が浮かんだ瞬間、私にとっての私が存在する、といえます。自我という概念はそのような身体状況を概念化したものでしょう。
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目ヤニをつけたまま通りを歩く。筆者はメガネを掛けているので、すれ違う人くらいなら気づかないだろう、という自信はありますが、それでも自分自身気になってしまう。
ときたまひどく急いでいて顔を洗わないで家を出るときは、こういう予測がちらつくので、歩きながらとりあえずティッシュで目尻をふいたりします。
人に見られているか、すぐ分かる。なぜすぐ分るのか?
猫もすぐ分かるらしい。猫の顔をちらっと見た瞬間、猫はこちらを見返します。視線を感じるのでしょう。この感受性は赤ちゃんもけっこう鋭い。ゼロ歳児でもしっかり視線を返します。
動物は動物の動きに敏感に反応します。特に鳥類や哺乳類では、これに鈍い動物は少ない。他の動物の動きはしばしば自分の危険ないし重要な利害に直結するからです。
人間も同様ですが、特に仲間の人間の動きを予測する能力に優れています。いわゆる対人関係の、ある種の動きについての予測能力は驚くほど優れています。
たとえば視線、話し声、足音や咳払いにも敏感に反応する。仲間の動きとそれを発生している原因と感じられる内的な感情や動機を瞬時に推測できます。その能力が人間の社会を形作っている、といえます。
考えてする予測ではなくて、本人も気づかないくらい瞬時に身体が反射することでなされる予測が重要です。顔に目ヤニがついたままで外出すると、まずい。人に顔を見られる。こういう予測は一瞬で身体が反射する事態に近い。
0.2秒くらいですかね。考えていません。考えてしたのではない証拠に自分の身体の反応を覚えていない。気にしたはずだが詳しくは覚えていない、ということです。
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(65 私はなぜ顔を洗うのか begin)
65 私はなぜ顔を洗うのか? 自我の存在論補
朝起きて顔を洗う。眠気が残る中でしているので詳しくは覚えていませんが、ちゃんと洗ったのは確かです。その証拠に顔がさっぱりしています。
さてしかし、私はなぜ毎朝、顔を洗うのか?
別に、いやだとか明日からやめたいとか全然思っておりませんが、なぜか、と問うとよく分からなくなりますね。
検索する。「なぜ顔を洗うのか」。インターネットで皆さんが意見を書き込んでいるのを読むと、洗顔の目的に関する衛生や美容の多種多様の理論が世間にあるようです。
美容にあまり関心のない拙稿ですが、種々の意見の裏に面白い現象が見え隠れているところに興味があります。
美容というとアンチエイジングなど、長期の問題のニュアンスが強くなりますが、今日のいま現在の問題としては、「この顔で外を歩いてよいのか」という問題。つまりは、自分の顔の外見と今日のこれからの外出との関係を皆さんがどう思っているか、という問題であるわけです。あるいは家の中でも妻に叱れるとまずい、という喫緊の問題もある。
朝、顔を洗わないと、目ヤニがついている顔を人に見られる、という事態になりますが、それはどうか?
よだれもついているかもしれない。一瞬にして見られてしまう。それはかなり重要なことでしょう。
長期的な肌のアンチエイジングも大事ですが、今の自分の顔の外見、という超短期的な問題が喫緊の課題である、と思われます。
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