哲学の科学

science of philosophy

「する」とは何か(2)

2011-07-30 | xx6「する」とは何か

引力という私たちだれもがよく知っている仕組みがあって、それがリンゴという対象の状態を変える、ということでしょう。状態を変える、つまりこの場合、リンゴの速度を加速する、ということです。

こういう場合、なぜ私たちは「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を発するのか? それは、目の前のリンゴがその結果これからどうなるのか、について言いたいからでしょう。この場合、リンゴは地面に落ちていく。そのことを言いたい。なぜそれを言いたいのか? 話し手はそれを言うことで聞き手と一緒にリンゴがどうなるかという予測を共有したい、と考えられます。

しかし、この場合、予測の共有だけが発言の目的ではないでしょう。実際、しゃべっているうちに、予測を共有する暇もなく、リンゴは地面に落ちてしまう。言葉など発しなくても一緒にリンゴの状態を見ていれば、それは分かる。それなのになぜわざわざ言葉にして発言するのか?

目の前でリンゴが落ちていくときに、「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を語る人は、ふつう、あまりいないでしょう。この言葉を語ったアイザック・ニュートン

は、だから変わった人だった。だいたい、目の前でリンゴが自然に枝から離れて落ちていくのを目撃した読者はいないのではないかと思います。

それでは、どういう場面でこの言葉は語られるのか?初等物理学の授業で先生がニュートン力学を語る、という場面が最もありそうですね。熱心な先生ならばポケットマネーで八百屋からリンゴを買ってきて教壇において説明します。「リンゴに地球の引力が作用する。一方、リンゴにはこの机の表面の抗力が重力と同じ大きさで反対向きに作用しているから釣り合って動かない。つまりリンゴは机の中にめり込んでいかないわけです」とか講義するでしょう。

学生のほうは「何だ。机に置いてあるリンゴが動かないのは当たり前じゃん。それをめんどうくさい理屈で言っているだけだ」と思う。目に見えない地球引力の話など嘘っぽいところがある。身体で感じられません。でも、授業が退屈でまっすぐ背筋を伸ばして座っているのはつらい。椅子が固いからお尻が痛くなってくる。それらの身体感覚が地球引力の作用からくるのだと言われれば、こっちの話は分かるような気がする。身体で分かります。

地球引力は物を下に押し付ける作用をする。そういう作用をいつでもどの物に対してもしている。だから支えがない物は落ちるし、机などに置かれている物は机の表面に支えられている。宇宙ステーションの中で物が浮いている映像を見ればよく分かります。地球引力が作用しないと宙に浮かんでいるという状態は変わらない。地球引力が作用すると状態はしかるべく変わる。作用しないとリンゴは宙に浮かんでいる。作用するとリンゴは落ちる。

地球引力は作用すべきときには作用する。作用すべきでないときには作用しない。地球引力が作用する場面を見れば、私たちはそれが作用すべきときに作用しているのだと思います。つまり地球引力は、自分が作用すべき場合か、そうでない場合かを知っている、と私たちは思っています。

私たち人間は実は、次のように思っています。つまり地球引力は、自分がリンゴに作用するとその結果リンゴが下に向かって加速されることを予測したうえでリンゴに作用する。こういう状況理解のもとに「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉は使われることになっています。

つまり「リンゴに地球の引力が作用する」というとき、私たちは、無意識のうちに、地球の引力がリンゴに作用しようとして作用する、と思っているのです。私たちの身体が地球引力になったと仮定してその身体でリンゴに作用することを考える。その結果何が起こるのかを予測する。今の状態がどう変化してどういう状態になるのか、その結果を予測したうえで行動に移す。

「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉の話し手である私は聞き手であるあなたと一緒に、地球引力になり代わって地球引力がこれからリンゴに何をするのか、その結果どうなるのかを予測したい。そういう場合に、私たちは「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を作りだして発声する。そういうものが(拙稿の見解によれば)人類の言語です。

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「する」とは何か(1)

2011-07-23 | xx6「する」とは何か

(26 「する」とは何か?  begin

 26 「する」とは何か?

哲学はなぜ間違うのか、について筆者は長々と(数年間にわたって)論じているわけですが、そこでいろいろな切り口がでてきています。切り口の一つは、哲学を語る言葉に問題があるのではないか、という疑問です。哲学に限らず、言葉を使って世界を語る、世界経済を語る、あるいは世間話とか科学の世界とかを語る場合、私たちは、本当のところ、何をしているのでしょうか?

拙稿本章では、言葉を使うということは何をすることなのか? そこらへんを少し詳しく調べてみましょう。

私たちは「何が何する」という形の言語を使う。この形はどういうことなのか? そもそも、「何かをする」と言う、とはどういうことなのか?

たとえば「私は息をする(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)」 このとき「する」とは何をすることなのでしょうか?

「する」とは何でしょうか? なぜ私たちは「する」という言葉を使うのでしょうか?

この問いは、自然科学では、もちろん発されません。心理学でも、言語学でも、人類学でも、発されることはない。哲学でも問題にされません。学問をするということ、言葉を使って語るということは、もうすでに「する」を始めてしまっているからです。私たちは、口を開いた瞬間、すでに息を「する」とか話を「する」とかいうことを始めているわけですから、「する」とは何か、という問いを発する機会はもうなくなっているのです。

拙稿本章でも、こうしてもう議論の開始を「する」ということを始めてしまっているということからすれば、「する」とは何かと問う資格はすでにないと言わざるを得ません。

まあ、しかし、自説に甘い拙稿としては、そう厳しいことは言わずに、するすると、あいまいなところから始めてみましょう。

さて、「~する」という言葉はどのように使われているのでしょうか?

私は息をする

私は生存する

私は息をするから、その結果、生存する

私は運動する。私は肩と上腕の伸筋を収縮する。その結果、私は挙手する

月に地球の引力が作用する。その結果、月は公転する。月は地球の周りを一月に一回周回する。月は地球方向に垂直な方向に秒速一キロメートルで進行する。その遠心力と地球の引力が釣り合うので月と地球とは一定の距離を維持する

リンゴに地球の引力が作用する。その結果、枝を離れたリンゴは地面に落下する

私たちは性交する。その結果、私たちのDNAは結合して受精卵が発生する。受精卵は分裂し分化して人間を発生する。人間は胚から胎児、幼児を経て成人へと成長する。脳が発達する結果、精神機能が発達する

このように「する」という言葉は、いろいろな場面を描写するために使われています。まことに便利な言葉です。もっとも基本的な日本語である、といえるでしょう。しかし、私たちはふつうこの言葉の意味を考えません。「する」とはどういう意味なのか?まったく意識されずに使われているのが実情です。

AはXという行為をする。AはXという行為をしようとしてXという行為をしたのか?それともAはXという行為をしようとしないにもかかわらずXという行為をしてしまったのか?

リンゴに地球の引力が作用する。地球引力は作用しようとして作用したのか?それとも、作用しようとしないにもかかわらず作用してしまったのか?そもそも、引力というものは作用しようとしたりしようとしなかったりするものなのか?変な話になってきます。

実際的な話をすれば、リンゴに地球の引力が作用するということは、リンゴの速度が地球重心の方向に1秒で秒速9.8メートルだけ加速されるということですね。こういうことを表現するのに、私たちは「地球の引力が作用する」という言い方をする。

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存在は理論なのか(17)

2011-07-16 | xx5存在は理論なのか

世界がある、という理論を私たちは持っている。私たちはそれがある、と思っている。それが存在の理論です。世界がこうである、という理論を私たちは持っている。それが言語です。あるいは科学理論です。あるいは人生理論です。世界はここにあってこうであるから私たちはこうであり、だから私たちは世界をこうであると思い、だから世界は、私たちが思う通り、こうである、という理論を私たちは持っている。それが私たちの世界である、と私たちは思っていますね。

世界にはいろいろなものが存在している。存在しているいろいろなものが世界を構成している。それらは存在しているから存在しているのだと思える、というよりも存在しているように思えるから存在している。したがってそれぞれの存在は理論である。存在しているものはすべて、それが存在しているという理論を伴って存在している。逆にいえば、それが存在するという理論を伴わないものは存在できない。

たとえばリンゴは、リンゴが存在しているという理論を伴って存在している。私たちのだれもが、リンゴがここにあるときリンゴはここにあると思うから、リンゴはここに存在している。

たとえば電子は、私たちが科学の理論を学べばそれは確かに存在しているように思えるから存在している。電子はパソコンが正しく働くような理論として存在しているから、パソコンが正しく働くために存在している。あるいは、電子は私の身体が生物として正しく働くような理論として 存在しているから、私の身体が正しく働くために存在している。あるいは、電子は現代の科学文明が正しく働くような理論として存在しているから、文明社会が正しく働くために存在している。つまり電子は、それが電子として働くことが、いろいろな場面で、私たち人間にとって必要であるから電子として存在している。電子は、このように私たちに必要な働きをするというそれらの理論を伴うことによって存在している、といえます。

例にあげたリンゴや電子に限らず、すべての物質現象はこのように私たち人間が互いに協力して生きるために使っている理論を伴うことによって存在している。すべての抽象概念もまた同じように私たちが互いに共通の理論として使うことで私たちがうまく社会生活をあるいは精神生活を送れるように存在している、といえます。

それらの物事の存在の理論は私たちの身体に密着し脳神経系に埋め込まれて肉体の一部となっているために、私たちはふつうそれらの理論のその働きに気が付かない。それらの理論が私たちの身体に埋め込まれていることをあまり自覚できない。そのため、ただ単に、物事がここに当然のごとく存在している、としか感じられません。そうして物事はそのままリアルな実在となる。それらの物事は、感覚器官に直接感じられるように思える目の前のこれらの現実の物質、現実の現象、現実の人間社会となっています。

私たちはそれらの物事は単にそこに存在しているから目に映るのだ、と思っています。しかしそれらが存在していると私たちが感じるということはすでに私たちの身体が内部に持つ理論によってそれらを存在させてしまっているからだ、といえます。そしてそれらの物事はそうして私たちの内部の理論によってこのように存在させられてしまったからこのように存在しているのだ、といえます。

それらいろいろな物事はこういう仕組みでどの人間にとっても存在している。それらが存在していることがそうしてだれにも同じように分かるから、私たちはそれの物事に関して共通の認識を持ち、共通の理論を持ち、それらを指す言葉を持ち、それらの物事をめぐって協力することができる。つまりは、そのように現実の物事を客観的に集団的に感じ取ることで私たちは互いに運動を共鳴させ、協力して社会生活を送ることができるように進化した動物である、といえます。

物事が存在するということは(拙稿の見解では)このように一種の理論です。世界が存在するということも、また一種の理論である。拙稿本章ではそういう結論になります。そしてそれらが理論であるからには、そうでないかもしれないという理論もありうる。私たちは、あるときある理論が正しいと感じられるとしても、次の瞬間、別の理論が正しいような気がしてしまう。つまり、(たとえばネッカーキューブのような)ダマシ絵のように、存在は次の瞬間に不存在に変わってしまうような気がする。

ある物事が存在する。だが次の瞬間それは存在しない。この世は存在するが存在しない。論理的には矛盾した言い方です。おとぎ話に出てくる謎の予言のようです。しかし私たちは、世界の存在について、実は身体の深いところで、そう思っているのではないでしょうか?

私たちは、世界がある,ということ自体を神秘的だと感じる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)。しかしなぜ、私たちは世界が存在するということを神秘と思うのか?それはそれが理論に過ぎないことを、私たちが実は知っているからでしょう。

(25 存在は理論なのか? end)

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存在は理論なのか(16)

2011-07-09 | xx5存在は理論なのか

この問題に関して、拙稿の見解をまとめると、こうです。

まず私たちの身体が栄養源としてリンゴを必要とするところから話がはじまる。リンゴが存在することが私たちの身体にとって必要だからリンゴは存在する。そのようにして存在するからリンゴは私たちの目に見えるようになる。また手で触れるようになる。そうして存在するリンゴを私たちの目が見たり手が触ったりするということが、私たちには分かる。そのようにリンゴが存在するからその存在するリンゴを私たちの目が見たり手が触ったりする、という理論を私たちは信じている。そういう理論を信じることが必要であるから私たちの身体はそういう理論を信じるように作られている。

そう考えれば、リンゴが存在することを目で見て手で触って私たちが知ることができるのは当然です。リンゴは(拙稿の見解によれば)、はじめから、私たちの身体にとってリンゴとして存在していることが必要であるから、私たちの身体がそれを リンゴとして感知するのである。そのような場合、しかもそのような場合に限り、リンゴはリンゴとして存在する。

逆にいえば、私たちが、それが存在していることを目で見て、あるいは手で触って知ることができないものは、はじめから私たちの身体がそれを必要としていない。目で見ることができるものは、それが見えることが身体にとって必要だから見える。つまり、見えるべきものは見えるし、見えるべきでないものは見えない、というだけのことです。

宇宙のダークマター(暗黒物質)は観測できない。だからダークマターは私たちの身体に必要ない、と言えるような気がしますね。しかし一方、銀河の広がり方を観測するとダークマターが存在しなければ納得できるような物理学理論が成り立たない。こういう場合、どう考えればよいか? 物理学理論は私たち現代人の文明生活に必要である。その理論が成り立たないような現象があっては困る。そういう理由でダークマターは必要である、といえます。私たちの身体にとって、そういう理由で宇宙のダークマターが存在することは必要であります。よって、ダークマターの研究は世界中の職業的物理学者の仕事になっています。つまりその研究資金が政府の負担で、あるいは社会の負担で、支出されているという事実がその必要性を現しているといえます。

昔から宗教で問題になっている神様の存在にしても、同じことが言えます。神が必要な場合には神が存在する。神が存在するという理論を私たちが信じる。それを信じるように私たちの身体は作られている。神の存在を現す宗教の施設が作られる。宗教の活動が営まれる。それに関連した職業を持つ人々が存在する。そうしてその場合、とうぜん、神は見える。つまり私たちの前に現れるでしょう。あるいは目では見えないにしても身体で感じられるはずです。逆に私たちの身体にとって神が必要でない場合には神は存在しない。現れない。つまり目に見えない。身体で感じられない。必要なものは感じられる。感じられるものは存在する。感じられないものは存在しない。

伝統的な宗教のくびきから遠く離れた私たち現代人は、見えない世界が存在しているとかむずかしく考える必要はもうありません。世界がなぜ認識できるのか、という問題はもう問題になっていない。(拙稿の見解によれば)私たちに認識できる物事だけから成り立っているものが世界だからです。存在しているものはすべて私たちが認識できるから存在している。私たちが認識できないものは何も存在することができない。したがって存在しているものが認識できる理由を問題にする必要もありません。またもちろん、認識できないもの、目に見えないものが存在すると心配する必要もありません。存在とは(拙稿の見解によれば) そういうものです。

私たちがそうであると思うからそれはそうであるという場合、もしそう思うことだけがそうである理由であれば、そうであることは理論である。世界が存在すると私たちが思うから、それは存在する。存在するものはすべて、私たちがそれが存在すると思うから存在する。つまり、世界は理論であり、存在は理論である、と(拙稿の見解によれば) なります。

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存在は理論なのか(15)

2011-07-02 | xx5存在は理論なのか

西洋近代哲学の創成期(十七~十八世紀ころ)には、現実にあるこの世界を人間はなぜ目で見て認識できるのだろうか、という問題(近代認識論という)が提起されました。空間や物体はまず触覚で感知され、その後経験によって視覚で認知できるようになる(一七〇九年 ジョージ・バークリー『視覚新論』)とか、 空間や物体は生まれつき人間に備わっている幾何学の理解力にもとづくから視覚で認知できるようになるのだ(一七〇四年 ゴットフリード・ライプニッツ人知新論)とか、諸説が戦わされました。十八世紀啓蒙時代の西洋哲学は、人間の理性の働きを見事に整理しましたが、その前提は世界の実在であり、結論もまた世界の実在となっています(たとえば、 一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判既出)。

拙稿の見解によれば、これら古典哲学から中世の神学を経て近代哲学に至る華々しかった形而上学的な論争は、残念ながら、恐竜のように滅亡してしまって今日に子孫を残していません。近代哲学が中心的な問題としていた存在論と認識論、観念論と経験論の論争なども、現在では化石のように過去の哲学史として残っているだけといえます。

これらの哲学論争は、はじめから現実世界の存在を大前提にしています。そうすると現実世界を感知する感覚器官のアウトプットは何か、などという問題が派生してくる。視覚とは何か?触覚とは何か?それらと現実世界との関係はどう考えればよいのか?視覚と触覚の統合は可能か不可能か?などの諸問題が出てきています。

近代哲学から現代哲学への過渡期と見ることもできる十九世紀後半の西洋哲学は、勃興する科学の影響を受けて、現象から帰納的に原因を推定し、あるいは感覚情報から世界の実在を推定する理論を作っていきました(たとえば、一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』既出、一八八六年 フリードリヒ・ニーチェ善悪の彼岸)。これらの理論によれば、世界は現象から理論によって推定され、現象と理論の整合性によって存在を推測される、とされます。現代科学は、本質的にこの時期の哲学を下敷きにしているとされています(一九八三年 カール・ポパー『現実と科学の狙い』既出)。

実際に科学を進めている現場の科学者はずっと素朴で、科学哲学や科学基礎論などに深くかかわる気はなく、単純に現実世界の存在を大前提にして理論を組み立てています。現在最先端の宇宙論や脳科学や認知科学も当然、物質の実在という同じ前提を使っています。

現実世界の存在を大前提にすれば、当然、リンゴがここにあるからリンゴが目で見える、ということになります。リンゴの科学を進める場合、リンゴがここにあるからリンゴが観測できる、というところからまず議論が出発するでしょう。そして網膜に映る映像から脳神経系はどのようにしてリンゴが存在することが分かるのか、という近代認識論から引き継いだ現代認知科学の問題が出てくる。それはそれで科学として重要な課題になっています。

ここに見えるリンゴに反射する光エネルギーがいかにして観察者の脳神経系の連鎖的活性化を引き起こすかという問題は科学であるけれども、ここに見えるリンゴは本当に存在するのか、という問題提起は科学ではありません。哲学の対象でしょう。科学の問題は科学と技術が発展していけば、いつかは答えが見つかる。しかし哲学の問題と思われるものは、たぶん答えがない。

現代科学は現象から帰納的に原因を推定し理論を作っていく。その理論によって逆に現象を予測しそれが当たっていればその理論を科学とする。それだけのルールで着々と進んでいきます。存在の問題などはおいてけぼりにされます。存在は本当に存在しているのか、などとつぶやいている拙稿などあっというまに時代から振り落とされるでしょう。まさに、答えの出ない哲学など無視して科学と経済は進んでいく、という現代のドライな思想風景はここからきているともいえますね。

さて本章のまとめとして、現代人の私たちは、長い歴史を持つ哲学のこういうテーマに関してどう考えればよいのか? というより、拙稿としては本章をどうまとめれば読者に次章を読む気にさせることができるのか?

拙稿本章の議論の流れでは、ここにあるように思える現実世界は本当に存在するのか、という(哲学らしい)問題をいろいろな側面から、またかなり真面目に正面からも取り上げてきました。そしてそうすることで、古来の哲学の諸問題といわれている存在の問題、自我の問題、他者の問題、そしてそれらに付随する生死あるいは人生と世界の存在問題などが解けていく可能性を調べてみました。

この現実世界は本当に存在するのか? 現実の中に私は生きているのか? 私が死んでも現実は変わらずに続いていくのか?

これらの疑問は、つまりは、ここにあるこのリンゴは本当にここにあるのか、という問題です。

拙稿の言葉遣いを使えば、これは次のような問題になります。

このリンゴが存在するということはどういう理論なのか?

そもそもこのリンゴが存在するということは理論なのか?

私たちはなぜこのリンゴが存在するという理論を信じているのか?

このリンゴが存在するという理論はいかにして成り立っているのか?

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