引力という私たちだれもがよく知っている仕組みがあって、それがリンゴという対象の状態を変える、ということでしょう。状態を変える、つまりこの場合、リンゴの速度を加速する、ということです。
こういう場合、なぜ私たちは「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を発するのか? それは、目の前のリンゴがその結果これからどうなるのか、について言いたいからでしょう。この場合、リンゴは地面に落ちていく。そのことを言いたい。なぜそれを言いたいのか? 話し手はそれを言うことで聞き手と一緒にリンゴがどうなるかという予測を共有したい、と考えられます。
しかし、この場合、予測の共有だけが発言の目的ではないでしょう。実際、しゃべっているうちに、予測を共有する暇もなく、リンゴは地面に落ちてしまう。言葉など発しなくても一緒にリンゴの状態を見ていれば、それは分かる。それなのになぜわざわざ言葉にして発言するのか?
目の前でリンゴが落ちていくときに、「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を語る人は、ふつう、あまりいないでしょう。この言葉を語ったアイザック・ニュートン は、だから変わった人だった。だいたい、目の前でリンゴが自然に枝から離れて落ちていくのを目撃した読者はいないのではないかと思います。
それでは、どういう場面でこの言葉は語られるのか?初等物理学の授業で先生がニュートン力学を語る、という場面が最もありそうですね。熱心な先生ならばポケットマネーで八百屋からリンゴを買ってきて教壇において説明します。「リンゴに地球の引力が作用する。一方、リンゴにはこの机の表面の抗力が重力と同じ大きさで反対向きに作用しているから釣り合って動かない。つまりリンゴは机の中にめり込んでいかないわけです」とか講義するでしょう。
学生のほうは「何だ。机に置いてあるリンゴが動かないのは当たり前じゃん。それをめんどうくさい理屈で言っているだけだ」と思う。目に見えない地球引力の話など嘘っぽいところがある。身体で感じられません。でも、授業が退屈でまっすぐ背筋を伸ばして座っているのはつらい。椅子が固いからお尻が痛くなってくる。それらの身体感覚が地球引力の作用からくるのだと言われれば、こっちの話は分かるような気がする。身体で分かります。
地球引力は物を下に押し付ける作用をする。そういう作用をいつでもどの物に対してもしている。だから支えがない物は落ちるし、机などに置かれている物は机の表面に支えられている。宇宙ステーションの中で物が浮いている映像を見ればよく分かります。地球引力が作用しないと宙に浮かんでいるという状態は変わらない。地球引力が作用すると状態はしかるべく変わる。作用しないとリンゴは宙に浮かんでいる。作用するとリンゴは落ちる。
地球引力は作用すべきときには作用する。作用すべきでないときには作用しない。地球引力が作用する場面を見れば、私たちはそれが作用すべきときに作用しているのだと思います。つまり地球引力は、自分が作用すべき場合か、そうでない場合かを知っている、と私たちは思っています。
私たち人間は実は、次のように思っています。つまり地球引力は、自分がリンゴに作用するとその結果リンゴが下に向かって加速されることを予測したうえでリンゴに作用する。こういう状況理解のもとに「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉は使われることになっています。
つまり「リンゴに地球の引力が作用する」というとき、私たちは、無意識のうちに、地球の引力がリンゴに作用しようとして作用する、と思っているのです。私たちの身体が地球引力になったと仮定してその身体でリンゴに作用することを考える。その結果何が起こるのかを予測する。今の状態がどう変化してどういう状態になるのか、その結果を予測したうえで行動に移す。
「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉の話し手である私は聞き手であるあなたと一緒に、地球引力になり代わって地球引力がこれからリンゴに何をするのか、その結果どうなるのかを予測したい。そういう場合に、私たちは「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を作りだして発声する。そういうものが(拙稿の見解によれば)人類の言語です。