幸福といい不幸といい、周りの仲間の取り分と比較して感じるという脳の仕組みからして、だいたい半分の人間が自他共に幸福と感じ、残りの半分は不幸と感じるように、人間は作られているはずです。かわいそうなドラマの人気が高いのはそのためです。人間は、仲間と比較しての幸福を強く願う。不幸な他人の人生を見て、その身に乗り移った気持ちで共感の涙を流すと同時に、今の自分の幸福をあらためてかみしめて、うれしくなるような身体になっている。
現実の自分を振り返ると、かなり多くの人は自分が不幸と感じてしまう。不幸と思う人々は、幸福を求めて努力する。自分が幸福と思う人々は、不幸を恐れて努力する。それで人類は繁栄する仕組みになっている。そのためには、幸福な人と不幸な人とは、半々くらい、いるのが良い。実際そうなっているということではなくて、だれもがそうなっていると思える場合、その集団はうまくいく。そのバランスが、集団としての人類の繁栄に有利だった。自分はいつでも幸福だと思い込む人々は滅びるに違いない。逆に、いくら努力しても絶対に不幸から逃れられない、と思い込むような人々も滅びて消えていく。
周りの人たちの幸不幸を横目で見て、「もしかしたら明日はわが身」と思い、今日の運不運に一喜一憂し、幸福な人をうらやみねたみ、明日こそ自分も幸福になりたいと願い、幸福になる希望がないときはひがみひねくれ、自分が幸福だと思うときにも明日の不運をおそれおびえる。私たちがわが身の幸不幸を感じるこのような感情は、人類が、集団の結束を武器にして生き延びるために重要な脳の機構だった。
私たちの身体が、仲間の幸福を見て自分の不幸を感じ、仲間の不幸を見て自分の幸福を感じる仕組みになっているとすれば、結局は、人類の半分が幸福で、残りの半分が不幸になるはずです。まあ、実際は、そう単純ではなく、幸福な階級と不幸な階級に分かれてしまいます。たとえば、貴族階級と平民階級です。幸福な集団は自分たちの幸福を維持保全するために、不幸な人々と分離して、排他的な階級を作る。ところが、階級が隔離されて下の階級の存在を忘れてしまうとすれば、今度は幸福な階級の人間の半分は自分を不幸と感じるようになる。その階級の中の上半分の人々は、また自分達だけの排他的階級を作る。するとそれの中の下半分の人々がまた不幸と感じる。・・・・となって、本当に自分を幸福と感じる人はだれもいなくなる、ということになる。
まあ実際は、上の階級の人々は下の階級が存在することを忘れるわけがありませんから、その優越感を支えにしてなんとか幸福感を保つことができる。しかし、結局みんなが上ばかりを見て、自分はもっと上の幸福な階級の人間と同等であるべきだと思っている限り、ほとんどの人が、多かれ少なかれ、自分は不幸だと感じる、ということが起こります。
両目が見えなかった人は、一つの目でも見えるようになれば、とても幸福になれる。だれを、同等の仲間と思うかで幸福と不幸は逆転するでしょう。私たちは、だれを自分の仲間だと思っているのでしょうか? 現代社会に生きる私たちの脳も、数十人単位の部族社会で狩猟採集の生活をしていたわずか一、二万年前までの時代にうまく働く仕組みのままになっている。現代人は、だれが同じ部族の仲間なのか、よく分からなくなっているのに、脳は無意識のうちに幻の仲間を感じ取り、その幻の人たちの境遇と自分のそれとを比べて、敏感に不幸を感じている。
家でテレビや新聞を見て、有名人の生活や恋人を見て自分と比較する。だれにも名を知られていて、美人で賢くて英語がぺらぺらで、テレビカメラに向かって堂々と語りかける。そういう有名人(最近はセレブというらしい)をうらやむ。外へ出て、豪華なファッションや格好いい自動車や住宅を見て、自分のものと比較する。人と話をして、性別や年齢が同じだと、無意識のうちに自分と比較している。出身校や会社のブランドや肩書きを知ると、すぐ自分と比較する。その場合、問題なのは、自分がそう感じていることをはっきりとは自覚できないことです。いつのまにか、どこかで見かけた人々から受けたイメージだけで、無意識にそれを感じ取っている。そのため、自分が、だれかと自分を比較しているということに気づかない。私たちはただ、自分が不運かどうか、自分が不幸かどうか、を感じるだけです。
出世できた人は優秀で、できなかった人はだめな人だ。お金をたくさん稼げるようになった人がかっこよくて、それができない人はなさけない。たくさんの友達を作った人の生き方は正しくて、それができない人の人生は間違いだ。人々もテレビも雑誌も、毎日そういうことをささやいてくる。そんなことは気にしても仕方がない、と思ってはみても、私たちは、実は、いつもそればっかり気になってしまう。
現代社会は「自分に自信を持って懸命に努力すれば、だれでも夢は必ずかなう」というメッセージにあふれている。これは人を傷つけもする両刃の言葉ですね。つまり裏返して言えば、人にうらやまれるような成功を勝ち得なかった人は、自分に自信を持てなかったか、あるいは懸命に努力をしなかったか、その両方か、のはずだ。君はそういうだめな敗者なのだ、というネガティブなメッセージになっている。
毎日そういうメッセージを浴びせる現代社会は、成功できなかった、あるいは成功できそうにない、大多数の人々が劣等感に苦しむ仕組みになっている。現代人は、世間でだれもが認めるような成功が達成できないと幸福感を持てないような人生を生きている。そのストレスのない本当の成功者だけ、つまり間違いなくだれもがうらやむような社会的エリートの地位を獲得した少数の人々だけは、特に健康で成人病にもかからない、という疫学的研究があります(二〇〇四年 マイケル・ギデオン・マーモット『ステータス症候群』)。そういうことで少数のエリートを除いて、現代人はたいてい不幸になっている。
村中の仲間が、全員、宝くじで一億円ずつ当たってしまった村があるとします。一人だけ九千万円しか当たらなかった人は、我が身のあまりの不幸を恨んで自殺してしまう。現代の自殺には、そういう傾向がかなりあるかもしれません。
しかし、宝くじに当たる前は全員が同じように年収二百万円くらいだったこの村は、ひいおじいさんの世代には年収が一万円以下だったことを、みんな忘れているのです。しかも、当時、十分に食料があったのはこの村だけで、周辺の村の人々はみんな飢え死にしてしまった時代があったことも、すっかり忘れられているのです。
甲子園に出場して一回戦で敗退しても、青春の美しい思い出になります。しかし、甲子園に出るまでのいくたの県内試合を勝ち抜いたことを、一つも覚えていないとしたら、一度だけ戦って自分は負けた、という記憶を一生悔やみ続ける屈折した人生になるかもしれません。全国四千五百校のうち優勝した一校だけが幸福になり、他の学校は全部不幸になるためにこのゲームがあるのでしょうか?
現代に生きる私たちは、全員が、生物として数千万回の命がけの試合を一度も負けずに連戦連勝して生き残った無敵のチャンピオンです。それは祖父母以前の記憶が消えると共に忘れてしまっただけです。それを幸福といわずして、どこに幸福があるのでしょうか?