哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ現実に生きているのか(3)

2012-10-27 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

あるいは、行動がないのに現実を感じとるように感じられるときもあります。たとえば、午後の大雨という現実を感じ取って買い物に行くのをやめる。明日に延期する。しかしこれも、外出をやめて室内で何かする、テレビを見ることにして室内着を着る、などという行動をすることで午後の大雨という現実を感じ取る、といえます。

このように私たちは毎日の行動において、人々だれもが信じていると思われること、たとえばテレビで放送される内容など、を現実と受け取って行動しています。あるいはテレビ、あるいは噂など、周りの人々が感じているらしいことと同じことを感じる場合、私たちはそれを現実として行動しています。

周りの人々も、いつも、また同じように人々やテレビがそう言っているからということで、それを現実として動いているとすれば、結局は、テレビで言っていることを私たち一人一人が現実として感じる、といえます。これを逆に言えば、現実とはこうして作られるものである、あるいは、現実とはこういうものである、といえます。

では、この例のテレビ天気予報の場合、テレビの中でしゃべっている人はこの予報を現実と思っているのでしょうか?

もちろん、そうでしょう。それでは、なぜテレビの人はこの予報を現実と思っているのか?

それは、気象衛星が撮影する雲のデータを見たからです。地球表面を移動する雲の画像から地上の各地点の雨の状態が推測できます。雲の移動速度から各地点の気象の移り変わりが分かります。台風の大きさ、進行方向や速度が予測できます。

気象の専門家はこれらの気象データから午後の降水確率を正確に予測計算できます。それは過去の観測データに基づく気象理論の精密性と衛星搭載撮像装置の性能の実績から信頼されています。つまり専門家ならばだれもが納得する科学理論と観測実証データに裏付けられています。

そうであるからテレビ局もその専門家にしゃべらせるわけだし、その結果うまくいってきたことは長年の実績があるから、テレビの視聴者のだれもが信頼するということです。

こうしてテレビが言っている午後の大雨は現実のものとなります。

テレビでは台風何号がどこ地点を通過中と言っているから大雨は当然だな、と思います。午後に外出は控えて、家の窓からながめていると雨足はどんどんひどくなってきて、窓を開けてみると、ざあざあと音を立てて落下する雨のしぶきが顔にかかります。これが現実の大雨ですね。

そこへ電話がかかってくる。九州にいる人です。最近の携帯電話は地球のどこからでも簡単にかかる。「こっちはひどい雨ですよ」「へえ、こっちは青空です」それはそうでしょう、半径五百キロくらいの台風ですからそれ以上遠くには全く影響しない。

しかし、東京の人との電話なら「ひどい降りですな、これは」と言い合うはずです。「これは」というのは、話し手と聞き手が、同じ大雨を同時に体験しているという意味ですね。だれでもこの大雨に降られていれば同じこの現実を感じているはずでしょう。

窓を開けて雨の音を聞く。外出を取りやめる。電話で雨が降っていることを話し合う。こういう行動をとることで、私たちは大雨が降っているという現実を感じ取ります。

この雨に降られている人はだれでも、私と同じようにこの雨を感じ取っているはずです。それは間違いないでしょう。だから私は、大雨という現実を感じ取っている、と考えられます。まあこれは、わざわざ考えて分かることではなく、無意識に分かってしまっている、ということです。

現実というものは、だれでもが、このように私と同じ時間、同じ所にいて同じ経験をしていれば同じ現実を感じ取っているはずです。いや、現実に現実はいまここにあるわけだから、それは当然だれもが感じ取るはずですね。

現実とそれを感じ取る人間との間には次の三つの関係があります。

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

この三条件は幼稚園児でも知っています。この三条件を知っているから私たちは安心して毎日の行動ができるし、人と話を通じさせることができる、といえます。逆にこの三条件のいずれか一つでも成り立たないとなると、もう危なくて外を歩くこともできませんね。
   
このように現実を見きわめながら私たちは毎日を暮している。

そういうことであるので、私たちは現実の中を生きている、といえます。

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私はなぜ現実に生きているのか(2)

2012-10-13 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

そもそも現実とは何か?

これは実は、簡単に答えられます。質問者に向かって「ほら、今ここに君と私がいて、こうして会話をしている。これが現実だよ。実際、君だって目の前にこうして見える物たち、私の身体とか君の身体とかこのテーブルとか、これが現実だということは分かりきったことだ、と思っているのだろう?」といえば完璧な答えになっています。

会話ではこう、うまくいく。しかし、これを論文や随筆など論理的な文章で書こうとすると、途端に難しくなります。「ほら、今ここで君が読んでいる文章。印刷した文字。これが現実だよ。パソコンで読んでいれば液晶モニター。これが現実だよ」と書いてもどうも説得力がなさそうです。

会話と文章とは違う。文章はだれがどういうシチュエーションで作った言葉かというコンテキストから離れてしまうからです。正確な文章表現では、現実とは何か、という類の問いに対してまず答えは書けません。

今、ここ、この私、というようなコンテキストから分離された書き言葉は、その文字通りの意味として読まれてしまいます。文字通りの「現実」とは抽象的な語でしかない。いつどこでだれが話している言葉なのか分かりません。

文字で書かれた文章は、どの現場での会話なのか分からない(シンボル接地問題という)。「現実とは何か?」という問いは、現場の会話でしか答えられない、つまりコンテキストでしか答えられないような類の質問です(拙稿19章「私はここにいる」 )。

現実とはどのようなものか、という存在論的な議論については拙稿19章「私はここにいる」 などで述べたことの繰り返しになるので割愛させていただくとして、ここでは、なぜ私たち人間は現実の中に生きていると思っているのか、について調べていきましょう。

拙稿本章の興味は、私たちの体感としての現実感、つまり現実を現実と感じ取る私たちの感覚はどこから来るのか、そしてその現実感覚を私たちは生活行動において、あるいは社会行動においてどのように使っているのか、という問題です。

感覚の問題として現実感とは何か、という問題は比較的に簡単に答えられます。科学の用語としては定着していないようなので、あえて拙稿としてここで科学的(行動学的)に定義してみましょう。現実感とは、「動物の行動を目的指向と解釈する場合、身体がある環境世界におかれていると認知して目的行動が実行されているように観察されるとき、その環境世界の認知に伴っていると想定できる感覚」のことである。つまり、動物(たとえば人間)が目的指向的な行動をとることが観察できるとき、その動物にとってはその行動がある現実の中で行われているらしい、と推定できる、ということです。

心理学では信念(belief )という語を使って、物事が現実であるという認知を認知主体が保持していることを表しますが、拙稿では単純に、動物の目的志向的な行動を引き起こすような認知の内容を現実と呼ぶことにします。

さて実際、私たちの毎日の行動は、目の前の現実を錯覚ではなく本当の現実だと感じ取ることから始まっています。いや、拙稿の捉え方では、感じ取ろうとして感じ取るわけではなく、いつの間にか身体が動いていて身体のその動きはこういうものを現実と感じとってそう動いているからそれが現実なのだ、ということです。つまり(拙稿の見解では)私たちがこのように行動するということは、無意識のうちにこれが現実だと感じ取っているからこれが現実であるような行動になっている、ということになります。

言い方はややこしくなりますが、私たちの身体がこれを現実と受け取って反応している、といえると同時に、身体がこれを現実と受け取って動いているように見えるからこれが現実と感じられるのだ、ともいえます。

たとえば、テレビで午後から大雨になると言っていれば、大きめの傘を持って出ます。ごく当たり前の行動です。雨でびしょ濡れになるのは嫌だから傘を持っていく。そう思うわけです。

このとき一瞬、私たちは土砂降りの中を歩く自分を想像する。大雨というのは予想だから外れるかもしれない。しかし最近の短時間予想はよく当たる。たぶん大雨というのは、現実と感じます。傘を持つ、という行動によって午後の大雨という現実が感じ取れる。あるいは雨靴もはいた方がよいかもしれない。あるいはズボンもお気に入りのズボンはやめて傷んでもよい古いやつに替える必要があるかもしれない。

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私はなぜ現実に生きているのか(1)

2012-10-06 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

(32 私はなぜ現実に生きているのか? begin

32 私はなぜ現実に生きているのか?

 私たちは現実の中に生きている。幻想の中に生きている人もたまにはいますが、たいていの人は現実の中に生きていますね。

ところで、現実の中に生きる、ということはどういうことなのか? 改めて考えてみると、これは意外と分りにくい設問です。

ここに地球がある。ここに地球がある、というよりも私たちが地球の上にいる。ここから見渡す限り地球ですね。雲がない青空も空気が青く見えているわけですから地球の一部です。太陽は地球の外側にあるのだろうけれども、視界のごく小さな部分でしかない。夜空には月や星が見えるけれども、私たちはふつう注目しませんね。つまり、地球は現実にあるものの大部分である。私たちは地球の中で生きている。地球は現実です。

ところで、地球は、なぜ現実としてあるのですか?

それはもう、ほら、ここにあるからですよ。たとえばこの地面。あなたにも見える。私にも見える。だれもが見える。だから現実にある、といえます。

それって、デファクトということ?

事実上だれもが使っているのがデファクトでしょう?

そうだとすれば、現実というのはデファクトなのでしょうか?

私たちだれもが、いつも、いつでも、これが現実だと言い合っているから、これが現実なのでしょうか? だれもがそう思っているらしいからそう思っていてよい、ということでしょうか?

いや、どうも、だれとも会話していないときでも、私はひとりだけで、周りを見渡して、自分が現実の中にいることが分かっています。私の周りが現実に違いない。ここにある私自身の身体も間違いなく現実の一部に違いない、と思えます(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。幻想や錯覚じゃありませんよ。間違いなくここにある、と確信しています。

そうですか? それはよくできたバーチャルリアリティではありませんか?バーチャルとリアル、必ず見分けがつきますか?

バーチャルリアリティと銘打った展示をいくつも見ましたがリアルではないとすぐ分かりましたよ。バーチャルはどこかおかしいから、違和感がありますよ。

でも、よくできたバーチャルなら見分けがつかないでしょう。胡蝶の夢のようなものでしょう。本気で蝶々になってしまうという夢の話です。

昔者荘周夢為胡蝶栩栩然胡蝶也自喩適志与不知周也俄然覚則蘧蘧然周也不知周之夢為胡蝶与胡蝶之夢為周与周与胡蝶則必有分矣此之謂物化(紀元前三〇〇年頃 荘子『胡蝶の夢)昔、中国に荘子という人がいました。あるとき荘子は夢で蝶になって飛び回りました。もう完全に蝶になりきっていました。目覚めると荘子に戻りました。全然、蝶ではなくなっていました。荘子が夢で蝶になったのか、それとも、蝶が夢で荘子になったのか、どうなのでしょうか? (拙稿25章「存在は理論なのか」 )

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