あるいは、行動がないのに現実を感じとるように感じられるときもあります。たとえば、午後の大雨という現実を感じ取って買い物に行くのをやめる。明日に延期する。しかしこれも、外出をやめて室内で何かする、テレビを見ることにして室内着を着る、などという行動をすることで午後の大雨という現実を感じ取る、といえます。
このように私たちは毎日の行動において、人々だれもが信じていると思われること、たとえばテレビで放送される内容など、を現実と受け取って行動しています。あるいはテレビ、あるいは噂など、周りの人々が感じているらしいことと同じことを感じる場合、私たちはそれを現実として行動しています。
周りの人々も、いつも、また同じように人々やテレビがそう言っているからということで、それを現実として動いているとすれば、結局は、テレビで言っていることを私たち一人一人が現実として感じる、といえます。これを逆に言えば、現実とはこうして作られるものである、あるいは、現実とはこういうものである、といえます。
では、この例のテレビ天気予報の場合、テレビの中でしゃべっている人はこの予報を現実と思っているのでしょうか?
もちろん、そうでしょう。それでは、なぜテレビの人はこの予報を現実と思っているのか?
それは、気象衛星が撮影する雲のデータを見たからです。地球表面を移動する雲の画像から地上の各地点の雨の状態が推測できます。雲の移動速度から各地点の気象の移り変わりが分かります。台風の大きさ、進行方向や速度が予測できます。
気象の専門家はこれらの気象データから午後の降水確率を正確に予測計算できます。それは過去の観測データに基づく気象理論の精密性と衛星搭載撮像装置の性能の実績から信頼されています。つまり専門家ならばだれもが納得する科学理論と観測実証データに裏付けられています。
そうであるからテレビ局もその専門家にしゃべらせるわけだし、その結果うまくいってきたことは長年の実績があるから、テレビの視聴者のだれもが信頼するということです。
こうしてテレビが言っている午後の大雨は現実のものとなります。
テレビでは台風何号がどこ地点を通過中と言っているから大雨は当然だな、と思います。午後に外出は控えて、家の窓からながめていると雨足はどんどんひどくなってきて、窓を開けてみると、ざあざあと音を立てて落下する雨のしぶきが顔にかかります。これが現実の大雨ですね。
そこへ電話がかかってくる。九州にいる人です。最近の携帯電話は地球のどこからでも簡単にかかる。「こっちはひどい雨ですよ」「へえ、こっちは青空です」それはそうでしょう、半径五百キロくらいの台風ですからそれ以上遠くには全く影響しない。
しかし、東京の人との電話なら「ひどい降りですな、これは」と言い合うはずです。「これは」というのは、話し手と聞き手が、同じ大雨を同時に体験しているという意味ですね。だれでもこの大雨に降られていれば同じこの現実を感じているはずでしょう。
窓を開けて雨の音を聞く。外出を取りやめる。電話で雨が降っていることを話し合う。こういう行動をとることで、私たちは大雨が降っているという現実を感じ取ります。
この雨に降られている人はだれでも、私と同じようにこの雨を感じ取っているはずです。それは間違いないでしょう。だから私は、大雨という現実を感じ取っている、と考えられます。まあこれは、わざわざ考えて分かることではなく、無意識に分かってしまっている、ということです。
現実というものは、だれでもが、このように私と同じ時間、同じ所にいて同じ経験をしていれば同じ現実を感じ取っているはずです。いや、現実に現実はいまここにあるわけだから、それは当然だれもが感じ取るはずですね。
現実とそれを感じ取る人間との間には次の三つの関係があります。
①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。
②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。
③だれもがそのこと(①と②)は知っている。
この三条件は幼稚園児でも知っています。この三条件を知っているから私たちは安心して毎日の行動ができるし、人と話を通じさせることができる、といえます。逆にこの三条件のいずれか一つでも成り立たないとなると、もう危なくて外を歩くこともできませんね。
このように現実を見きわめながら私たちは毎日を暮している。
そういうことであるので、私たちは現実の中を生きている、といえます。