●遅歩き
散歩はできるだけ遅歩き。通行人の少なくなる時間帯に歩道の端を歩かせてもらう。腰を伸ばしてなるべく暇そうに歩く。
物は持たないが手はポケットに入れず後ろで組むと老人らしく見えるでしょう。ぼんやり目線で前を見て歩くが花などあれば見上げます。
階段はゆっくり上る。若い人に追い越してもらいます。かつて私も老人を追い越していたのでしょうが全然覚えていません。
筋肉は全力の三割くらいの負荷をかける時が最高効率です。つまりゆっくり歩く場合、一番エネルギー消費が少ない。早くても遅くても仕事効率は落ちて無駄に熱が発生する。だから無理をする余裕のない老人はゆっくり動いて食が細く寒がりとなります。それが自然でしょう。
階段の下りは苦手、段差をしっかり体重移動できないでよろける不安があるうえ、膝が痛くなるので左足に体重をかけるのが嫌になっています。さらに筋力が弱っているので前へ蹴り出すときの足が十分上がらない。
歩行運動プロセスは小脳に刷り込まれているので無意識に足が動くようになっていますが、この回路は老化現象に追随して自動的には調整されてきません。運動神経の信号送信強度が同じだと筋肉が細くなっている分だけ足の動きは小さくなる。結果、歩幅が足りなくなって下の段の蹴込みに靴のかかとがこすれることがあります。靴も傷みますが、よろけると転倒の危険がある。
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(83 趣味としての老人 begin)
83 趣味としての老人
還暦を過ぎてから引退老人の趣味としてゴルフを始めてみました。しかし当然上達はしないうえに後期高齢者になると少しずつ後退するようになってきました。ご同輩は立派に現状維持をしていてうらやましい。が、さすが上達してくる老人はいない。悲しいかな、老人が今できることは、最高で現状維持。いずれにせよ近い将来の後退か脱落は避けられません。
であればむしろ後退そのものを趣味にする、という開き直りもよくないか?老人らしい脱力スィングを心がけるが結局ミスショットが多い。その間抜けさを楽しむ。失敗が老人の良さである、とうそぶきます。
こうなると老人の趣味ゴルフというよりも趣味で老人ゴルフをしている、となります。
今年七十六歳になり余生を送る老人として趣味に生きている、といえないことはない。ほかにどう生きるという目的もないからそれをしている、というべきでしょう。そうであれば、むしろ、趣味として老人生活をしている、というべきですね。
趣味は趣味それ自体を目的としている。健康とか社交とか虚栄とか収益とか、他の目的を兼ねる場合も多々あるでしょう。しかしその核心は何らかの目的を志向するものであってはおかしい。
趣味は、それ自体が楽しい、というだけで完結している。他の目的とは断絶している。即自的、純粋な行為であるものが趣味、といえます。
人間究極の趣味は何もしないことかもしれない。寝ることが趣味、クウネルが趣味。と言ったらどうか?まあ、実はそうであってもそこまで開き直っては身もふたもない。死んでいるのと似ている、というか、ほとんど同じです。であるからそれはやめて、それ以外を探してみましょう。
●趣味としての早寝と寝床で読書
夜が来たらすぐ寝る、という趣味。趣味というよりも、老人は自然とこうなってしまう。一日の午後が終りに近づいてくるとすぐ倦怠を感じる。「これでもう今日は終わり(英語でLet’s call it a day)」と思えてきます。そうなるとぐったり眠くなる。
若いころは勤務を終えて一杯飲むと、そこからはりきりだす人が多い。若い人は夜が好き。老人は早めに寝床に入らなくてはいけません。夜のテレビは面白くない。趣味としては寝床で読書が良い。すぐ眠くなります。しかしスマホやタブレットの発光画面は自律神経によくない。読書用には適度な間接照明と本の軽さが必要です。
アラビアのシェヘラザードはおもしろい物語を語っているうちにいつも夜が明けてきた、とありますがこれではいけない。昔大人気だったが現代人が読もうとするとおもしろくなくてすぐ眠くなる物語が良い。ただし硬い語彙を使う内容はだめです。交感神経が刺激されないような眠そうな柔らかい言葉遣いで書かれた文章が最適です。それで長々と続く話が良い。
たとえば徒然草(一四三一年)。カンタベリー物語(一三八七年 ジェフリー・チョーサー 西脇順三郎訳、金子 健二訳)など中世の傑作古典。夏目漱石、谷崎潤一郎全集など大正期の権威ある書き物は今の時代に読むと適当に眠くなります。昭和の傑作、夕べの雲(庄野潤三)、富士日記(武田百合子)も眠りにはよい。読み止しのページをめくって十分くらい読むと寝てしまう。
早寝すると朝暗いうちに目が覚めてしまって困る。明るくなるまで寝たふりをしていないと、うるさがれるおそれがあります。老人になってからひどい不眠症に悩む話(一八八九年 アントン・チェーホフ「退屈な話」)など、それもまた困る。年を取るほど、朝の光が明るいことがうれしくなります。
●英文遅読み
朝のコーヒーを飲みながら読み止しの英文を読むことを日課にしています。ぼうっとしながら一字一句のペースで読むと自分でしゃべっている感覚になります。日本語ではすぐ目が走ってしまうので、英語などが良い。厚さ数センチ千ページくらいの長編小説、大学院教科書など適当です。最近は米国の科学教科書、物理、生物、医学などの最新版に研究の進展がていねいに書かれていて面白い。
一日数ページ。 筆者と同年の作家Jim Craceの「Being Dead」1999など筋が面白すぎて走り読みしてしまいましたが、それはよくない。今はGuyton,HallのMedical Physiology 2021版。まだ八十ページなのであと九百二十ページ、半年以上楽しめそうです。外国本は高価なので早く消費するともったいない。時間のある老人にしかできない贅沢です。
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たしかにその存在感が分からない人もいる。しかしほとんどの人は分かる。分かりたくない人もいるでしょう。それでも実はほとんどの人は分かる。男女が一緒にいたい気持ちは分かります。それが対幻想、対の理論、付き合いの存在論です。
この理論を言語で説明することは不可能です。少なくとも現代までの生物学、人類学、心理学など諸科学、さらには哲学のどの言葉を使っても無理です。
将来の科学ではたぶん解明できるでしょう。それはかなり先です。メタ科学というか、言語の裏を解明すること。その方法は現状の科学ではまったく予想できません。それでも間違いなく付き合いそのものは存在する。そこで拙稿では中身が分からないまま名前だけ付けました。付き合いの存在論、遠い将来、いつの日にか、科学にとって自明のものとなるでしょう。■
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(82 付き合いの存在論 end)
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男女の対という観念は、つまり、男や女という観念よりもずっと根源的に存在するのかもしれません。
そこで拙稿では男女一組という存在感をここで仮に「対の理論 theory of pairing」ということにします。つまりこれは理論である。物質として存在するものではありません。心の理論と同じ類です。
あると思うからある。実体などない。しかし実体がないのに昔からだれもがその存在を疑わないものは、人間にとって相当強い存在感を持っているものである、と言えます。
たとえば、神様、たとえば、いのち(拙稿77章「いのちの美しさについて」)、たとえば、こころ(拙稿8章「心はなぜあるのか」)、たとえば、自分の気持ち(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか」)など。日常会話で毎日使う言葉ですが、改めて考えれば実体はない。男女一組という観念も同じ。男女がなぜ一組になっていたいのか?実体はありません。
つまり理論です。実体はなく存在感だけがある。それはようするに、付き合いの存在感である。だれか特定の異性と付き合いたいと思う気持ちは、あると思うからある。あると思えてしまうからある。ここから恋愛も結婚も同棲も家族も人類の繁殖も、デートもセックスも、派生するといえます。
理論であるがそれは学校や教科書で学ぶものではない、幼児期からの自然の学習と直感で習得する存在感である、といえます。そして人々はそれが理論であることを知らない。
そうであれば、(心の理論の欠如のために)他人の心が分からない人がまれにいるように、対の理論が分からない人もいておかしくない。なぜ結婚しなければならないのか分からない、とか、なぜ異性と付き合わなければならないのか分からない、(言い訳レトリックではなく)本気で分からない、体感で感じられない、という人も(隠れてあるいは無自覚で)いるはずです。それが自然でしょう。
付き合いの存在論、に関する自分の感受性について少数の人はひそかに悩んでいるのでしょう。しかし心配しなくてよろしい。異性との付き合いの必要性は感じ取らなくてもよし。その存在は実体がない。このような存在論の科学的根拠は現在の科学者にも哲学者にも、もちろん文学者にも、だれにも分かっていません。
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経済的にも社会的にもパートナーに期待しなくてよいのならば、結婚などせず同棲もせず、ただ付き合っている状態を維持すればよいではないかと思われます。付き合いを解消したくなれば、ラインも読まず電話にも出ずあるいはアカウントを消去してしまえば簡単に別れられます。
なぜ、別れないの?と聞いても意味がない場合があります。その答えが、付き合いの存在論、でしょう。
付き合う理由を個々人に聞いてもあまり意味はない。人は様々の理由を述べる。しかし結局だれもがだれかと付き合いたい。そのだれかと二人だけの関係になりたい、と思っている。そしてそれはふつうある程度長く続く。それはなぜか、というところが拙稿の興味です。
男女のペアという観念は人間性の根底にある、現代人はそのことがよく分かっていない、といえるような気がします。しかし本当にそうでしょうか?
ひな人形の最上段には男女の人形が置かれています。西洋将棋で真ん中に置かれる駒はキングとクイーンのペアです。家系図では夫婦が横線で結ばれ下に引いた縦線で子孫があらわされます。男と女は対になるべきものである、という直観が先験的にあるのではないでしょうか?
旧約聖書のアダムとイブは人類の祖先となっています。あるいは古事記のイザナギとイザナミ、万物を生み出す男女神とされています。歴史時代以前から男女対という観念はある。もしかしたら人類ユニバーサルな感情に近いかもしれません。
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