さて、言語とは何か?
人間は言葉を話す。人間は「貧乏なので私は悲しい」とか言う。人間がそれを言うのを聞くと、私たちはなぜか悲しくなる。
猿は言葉を話しません。猿は「貧乏なので私は悲しい」とか言いません。ロボットはそういうセリフを言うことがある(最近のロボット研究はすばらしい。たとえば理研動的認知行動研究チーム)。そう言うように設計すれば、そういう音声を出す。人間そっくりの声を作ることもできる。でもロボットが、「貧乏なので私は悲しい」と聞こえる音声を出力しても、それを聞いた人間にはちっとも悲しい気持ちが起こらない。無意味だとしか感じられません。
猿もロボットも、「貧乏なので私は悲しい」とか思っているはずがないからです。
耳にはまったく同じ音に聞こえても、だれが言うかで意味が違う。
言葉は物質現象ですか?
いや、それは情報でしょう、という答が返ってきそうです。でも、情報が情報となるように音声に意味を与えるのは話し手の人間です。話し手の人体の内部でその音声がある意味を持っている、と聞き手が思うから言葉が情報となる。私たちがそう思うから、言葉は意味をもつ。ロボットが「貧乏なので私は悲しい」と聞こえる音を出しても、私たちは悲しい気持ちになれない。ロボットの外見が人間そっくりで、私たちがそれを人間だと見間違えたときは、その音声を聞いて、悲しい気持ちになる。ところが、それが実は人間ではなくてロボットだと分かったとたん、同じ音声を聞いても、悲しい気持ちはなくなってしまう。
人体という物質が運動を起こして発生する音波が、他の人体の耳を通って、その脳で神経信号に変換される。その結果がその人体のその後の運動に影響を与えるという現象が言語ですね。そういう見方をすれば、これは自然法則どおりに起こる物質現象です。
物質現象ならば科学で解明できるはずです、実際、脳―口の運動―音声―耳―脳―運動、という経路のそれぞれの物質現象は科学で記述できる。どの神経細胞がどう発火して、というような脳の活動を、将来の科学はいくらでも詳しく記述できるでしょう。しかし、それですべてが分かりますか? 言葉の意味が分かるでしょうか? どうも、それだけでは言葉が脳の活動に関係していることは分かっても、その意味は分からないでしょう。
言語の意味が分かる、ということはどういう物質現象でしょうか。私は日本語の意味は分かるけれど、中国語は分からない。中国人は逆でしょう。日本人も中国人も同じ人間なのに、同じ構造の脳が同じ生理的活動をしているのに、これはなぜなのか?
言葉の意味は、その人が属する言語集団が、どういう身体活動を経験するのか、その経験を集団として、どういうふうに共有し記憶しているか、という共有経験の積み重ねの上に作られている。人類において、身体活動の共有経験は(拙稿の見解によれば)、脳内の運動シミュレーションとして記憶される。言語は運動シミュレーションに音節列の発音運動を対応させる。そして言語集団ごとに、その言語特有の音節列―脳内シミュレーションの対応関係と文法が学習によって継承されていく。
言葉の意味を理解するためには、言語集団に共有されているそういう経験の集積が必要です。脳機構の働きに関する科学の法則だけが分かっていても言葉の意味は分からない。共有化された経験の記憶がシミュレーションとなって蓄積されていて、言語を聞くときに脳の中でそれが自動的に再生されることで、言葉に意味が与えられる。
言語が分かるということは、(拙稿の見解では)脳の中で変換された音節列の信号が記憶から自動的に特定の身体運動シミュレーションを呼び出すことです。脳に記憶として蓄えられているシミュレーションは、過去に仲間と共有した経験で作られている。言葉はその経験記憶に結び付けられている。記憶からシミュレーションを呼び出して再生し、言葉に対応して組み上げることで、私たちは、言葉に対応する一連の身体運動をバーチャルに経験する。音節列と身体運動シミュレーションのこの対応関係が言葉の意味するもの、といえる。
どの音節列がどのシミュレーションを呼び出してくるかは、経験の後天的な学習によって決まる。「ギョーザ」という音声を聞くと、あるいは「餃子」という文字を見ると、筆者はラーメン屋さんで出される焼き餃子を食べる運動シミュレーションを脳に浮かべる。中国人はたぶん違うでしょう。「餃子」という文字を見て筆者がよく知らない中国語の音声を感じるでしょう。同時に筆者がよく知らない何か中国的なおいしい味を思い浮かべるはずです。筆者が全然知らないその作り方を思い浮かべるかもしれない。筆者の頭の中にある「餃子」は、日本人が共有している経験にもとづいている。中国人の頭の中にある「餃子」は。中国人が共有している経験にもとづいている。
言葉を聞くとき、(拙稿の見解では)言葉で呼び出された運動シミュレーションが聞き手の脳の中で運動信号を発生する。しかし筋肉への運動指令は出ずに、脳の中だけの仮想運動が起こる。逆に、話し手として、言葉を発声するときは、脳で働く仮想運動(餃子を食べる)のシミュレーションが、自動的に、特定の音節列(ギョーザ)を作る運動指令を呼び出す。その指令が発声器官の筋肉に送られて、実際に音を出す。つまり言語現象は、脳内のシミュレーションによる仮想運動の発生が音節列形成の運動に自動変換され、話し手の口がそれを音にする。
聞き手の側では、それ(ギョーザという音声)が聞き手の聴覚を通って脳内で特定の運動シミュレーションを呼び出し、運動回路がそれに対応する仮想運動(餃子を食べる)を形成する。さらに運動手続きとして記憶されている文法にしたがって、それぞれの語に対応する仮想運動が連結されることで物事が表現される。こういう経路で、脳内の仮想運動が人から人へ伝わっていく。聞き取った言葉が聞き手の脳内に発生する仮想運動は、話し手が最初に形成した仮想運動と同じような場合と、かなり違う場合(餃子を焼売と思い込んでいる場合など)とがある。同じような学習経験(たとえば同じ日本語の言語環境で育つなど)を共有している人どうしは言葉が通じ合う。
実際は日本人どうしが日本語で話し合っても、意味を取り違えることはよくある。それでも、会話をやりとりしていくうちに、なんとか対応する仮想運動が作れるようになる。それで話が通じる。
つまり、(拙稿の見解では)言語は脳内に記憶として蓄積されている運動シミュレーションと言語習得によって対応づけられた発音運動との連携でできている。この対応連携の学習が、周りの人間が使う言語による言語環境によって違うので、異なる言語となって現れる。
全然知らない国の言葉を、初めて聴くときのことを考えてみましょう。ペラペラペラとつながった音声が聞こえるけれども、どこで音節が区切れるのかも分からない。紙を渡して字で書いてもらっても、ミミズが這ったようにつながっていて、どれがどの字なのか、分かりません。携帯電話を渡して、文字を打ってもらいましょう。ブランクで区切れているのが、単語らしいとは分かります。それでも、どこが動詞で、どこが代名詞かも分からない。言葉の音や文字だけをいくら考えても言葉の意味は分からない。身振り手振りをしてもらえば、分かるのか? いや、話し手の指差しなどで言葉が表している対象物が分かったとしても、それについて何を言いたいのかが分からない。
外国のレストランで次のような光景にであったとしましょう。テーブルの上に料理が並べられている。それを指差して「xxxx」と、何か外国語で言っている人がいます。何かを言いたいらしい、とは分かっても、それが「料理」なのか「食べもの」なのか「昼食」なのか「食べろ」なのか「食べてはいけない」なのか「私のおごりだ」なのか「昼食代はあとで請求する」なのか、言葉の意味はまったく分かりません。どうすれば、言葉が通じるようになるのでしょうか?
「○○語旅行会話」という本を携帯していて、言われた外国語の文が載っているページを、急いで探せばよいのでしょうか? それでは、とても間に合わない。ページをめくっている間に、ウェイターが来て、テーブルの上を片付けてしまうでしょうね。外国語を、辞書を引きながらいちいち日本語に翻訳しているようでは、実際の会話には役立たない。最近性能がよくなったといわれる電子翻訳機を使っても、実際、なかなかうまくはいきません。
外国語を本当にマスターするためには、やはり、二年なり三年なりの時間をかけて、その言語を使っている人々と毎日の生活をともにして、あらゆる場面での言葉の使われ方を経験するしかない。言葉の意味は、人間の動作、人間と物との相互関係、身体の周りに現れる物質現象への注目と操作、それが引き起こす仮想運動の集団的な共鳴、それに連携する音声の発声と聞き取りの学習による。つまり、その言語を使う人間集団内でそれら脳活動が共鳴するシステムを、スポーツのように身体運動シミュレーションとして習得し共有することで、それを使いこなせるようになる。