哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(3)

2008-06-28 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

さて、言語とは何か?

人間は言葉を話す。人間は「貧乏なので私は悲しい」とか言う。人間がそれを言うのを聞くと、私たちはなぜか悲しくなる。

猿は言葉を話しません。猿は「貧乏なので私は悲しい」とか言いません。ロボットはそういうセリフを言うことがある(最近のロボット研究はすばらしい。たとえば理研動的認知行動研究チーム)。そう言うように設計すれば、そういう音声を出す。人間そっくりの声を作ることもできる。でもロボットが、「貧乏なので私は悲しい」と聞こえる音声を出力しても、それを聞いた人間にはちっとも悲しい気持ちが起こらない。無意味だとしか感じられません。

猿もロボットも、「貧乏なので私は悲しい」とか思っているはずがないからです。

耳にはまったく同じ音に聞こえても、だれが言うかで意味が違う。

言葉は物質現象ですか? 

いや、それは情報でしょう、という答が返ってきそうです。でも、情報が情報となるように音声に意味を与えるのは話し手の人間です。話し手の人体の内部でその音声がある意味を持っている、と聞き手が思うから言葉が情報となる。私たちがそう思うから、言葉は意味をもつ。ロボットが「貧乏なので私は悲しい」と聞こえる音を出しても、私たちは悲しい気持ちになれない。ロボットの外見が人間そっくりで、私たちがそれを人間だと見間違えたときは、その音声を聞いて、悲しい気持ちになる。ところが、それが実は人間ではなくてロボットだと分かったとたん、同じ音声を聞いても、悲しい気持ちはなくなってしまう。

人体という物質が運動を起こして発生する音波が、他の人体の耳を通って、その脳で神経信号に変換される。その結果がその人体のその後の運動に影響を与えるという現象が言語ですね。そういう見方をすれば、これは自然法則どおりに起こる物質現象です。

物質現象ならば科学で解明できるはずです、実際、脳―口の運動―音声―耳―脳―運動、という経路のそれぞれの物質現象は科学で記述できる。どの神経細胞がどう発火して、というような脳の活動を、将来の科学はいくらでも詳しく記述できるでしょう。しかし、それですべてが分かりますか? 言葉の意味が分かるでしょうか? どうも、それだけでは言葉が脳の活動に関係していることは分かっても、その意味は分からないでしょう。

言語の意味が分かる、ということはどういう物質現象でしょうか。私は日本語の意味は分かるけれど、中国語は分からない。中国人は逆でしょう。日本人も中国人も同じ人間なのに、同じ構造の脳が同じ生理的活動をしているのに、これはなぜなのか?

言葉の意味は、その人が属する言語集団が、どういう身体活動を経験するのか、その経験を集団として、どういうふうに共有し記憶しているか、という共有経験の積み重ねの上に作られている。人類において、身体活動の共有経験は(拙稿の見解によれば)、脳内の運動シミュレーションとして記憶される。言語は運動シミュレーションに音節列の発音運動を対応させる。そして言語集団ごとに、その言語特有の音節列―脳内シミュレーションの対応関係と文法が学習によって継承されていく。

言葉の意味を理解するためには、言語集団に共有されているそういう経験の集積が必要です。脳機構の働きに関する科学の法則だけが分かっていても言葉の意味は分からない。共有化された経験の記憶がシミュレーションとなって蓄積されていて、言語を聞くときに脳の中でそれが自動的に再生されることで、言葉に意味が与えられる。

言語が分かるということは、(拙稿の見解では)脳の中で変換された音節列の信号が記憶から自動的に特定の身体運動シミュレーションを呼び出すことです。脳に記憶として蓄えられているシミュレーションは、過去に仲間と共有した経験で作られている。言葉はその経験記憶に結び付けられている。記憶からシミュレーションを呼び出して再生し、言葉に対応して組み上げることで、私たちは、言葉に対応する一連の身体運動をバーチャルに経験する。音節列と身体運動シミュレーションのこの対応関係が言葉の意味するもの、といえる。

どの音節列がどのシミュレーションを呼び出してくるかは、経験の後天的な学習によって決まる。「ギョーザ」という音声を聞くと、あるいは「餃子」という文字を見ると、筆者はラーメン屋さんで出される焼き餃子を食べる運動シミュレーションを脳に浮かべる。中国人はたぶん違うでしょう。「餃子」という文字を見て筆者がよく知らない中国語の音声を感じるでしょう。同時に筆者がよく知らない何か中国的なおいしい味を思い浮かべるはずです。筆者が全然知らないその作り方を思い浮かべるかもしれない。筆者の頭の中にある「餃子」は、日本人が共有している経験にもとづいている。中国人の頭の中にある「餃子」は。中国人が共有している経験にもとづいている。

言葉を聞くとき、(拙稿の見解では)言葉で呼び出された運動シミュレーションが聞き手の脳の中で運動信号を発生する。しかし筋肉への運動指令は出ずに、脳の中だけの仮想運動が起こる。逆に、話し手として、言葉を発声するときは、脳で働く仮想運動(餃子を食べる)のシミュレーションが、自動的に、特定の音節列(ギョーザ)を作る運動指令を呼び出す。その指令が発声器官の筋肉に送られて、実際に音を出す。つまり言語現象は、脳内のシミュレーションによる仮想運動の発生が音節列形成の運動に自動変換され、話し手の口がそれを音にする。

聞き手の側では、それ(ギョーザという音声)が聞き手の聴覚を通って脳内で特定の運動シミュレーションを呼び出し、運動回路がそれに対応する仮想運動(餃子を食べる)を形成する。さらに運動手続きとして記憶されている文法にしたがって、それぞれの語に対応する仮想運動が連結されることで物事が表現される。こういう経路で、脳内の仮想運動が人から人へ伝わっていく。聞き取った言葉が聞き手の脳内に発生する仮想運動は、話し手が最初に形成した仮想運動と同じような場合と、かなり違う場合(餃子を焼売と思い込んでいる場合など)とがある。同じような学習経験(たとえば同じ日本語の言語環境で育つなど)を共有している人どうしは言葉が通じ合う。

実際は日本人どうしが日本語で話し合っても、意味を取り違えることはよくある。それでも、会話をやりとりしていくうちに、なんとか対応する仮想運動が作れるようになる。それで話が通じる。

つまり、(拙稿の見解では)言語は脳内に記憶として蓄積されている運動シミュレーションと言語習得によって対応づけられた発音運動との連携でできている。この対応連携の学習が、周りの人間が使う言語による言語環境によって違うので、異なる言語となって現れる。

全然知らない国の言葉を、初めて聴くときのことを考えてみましょう。ペラペラペラとつながった音声が聞こえるけれども、どこで音節が区切れるのかも分からない。紙を渡して字で書いてもらっても、ミミズが這ったようにつながっていて、どれがどの字なのか、分かりません。携帯電話を渡して、文字を打ってもらいましょう。ブランクで区切れているのが、単語らしいとは分かります。それでも、どこが動詞で、どこが代名詞かも分からない。言葉の音や文字だけをいくら考えても言葉の意味は分からない。身振り手振りをしてもらえば、分かるのか? いや、話し手の指差しなどで言葉が表している対象物が分かったとしても、それについて何を言いたいのかが分からない。

外国のレストランで次のような光景にであったとしましょう。テーブルの上に料理が並べられている。それを指差して「xxxx」と、何か外国語で言っている人がいます。何かを言いたいらしい、とは分かっても、それが「料理」なのか「食べもの」なのか「昼食」なのか「食べろ」なのか「食べてはいけない」なのか「私のおごりだ」なのか「昼食代はあとで請求する」なのか、言葉の意味はまったく分かりません。どうすれば、言葉が通じるようになるのでしょうか?

「○○語旅行会話」という本を携帯していて、言われた外国語の文が載っているページを、急いで探せばよいのでしょうか? それでは、とても間に合わない。ページをめくっている間に、ウェイターが来て、テーブルの上を片付けてしまうでしょうね。外国語を、辞書を引きながらいちいち日本語に翻訳しているようでは、実際の会話には役立たない。最近性能がよくなったといわれる電子翻訳機を使っても、実際、なかなかうまくはいきません。

外国語を本当にマスターするためには、やはり、二年なり三年なりの時間をかけて、その言語を使っている人々と毎日の生活をともにして、あらゆる場面での言葉の使われ方を経験するしかない。言葉の意味は、人間の動作、人間と物との相互関係、身体の周りに現れる物質現象への注目と操作、それが引き起こす仮想運動の集団的な共鳴、それに連携する音声の発声と聞き取りの学習による。つまり、その言語を使う人間集団内でそれら脳活動が共鳴するシステムを、スポーツのように身体運動シミュレーションとして習得し共有することで、それを使いこなせるようになる。

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私はなぜ言葉が分かるのか(2)

2008-06-21 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

たしかに、言葉とは不思議なものです。人間は言葉を使ってお互いを理解する。言葉を使って世界を理解する。言葉を使って哲学を語る。それ以外に哲学を語る方法はありそうにありません。目つきや手振りだけで、あるいは歌やおどりで、哲学を語るわけにはいかないでしょう。

昔の哲学者が、「言葉がすべての始まりだ」と考えたのは無理もありません。そう考えたからこそ、言葉で哲学が語られてきた。そうして哲学書が書かれ、大学に哲学科が作られ、哲学者という職業ができた。言葉が哲学の始まり、哲学の生い立ち、だったことは間違いありません。まあ、逆に言えば、言語技術を職業とする人たちの間から哲学ができてきたわけです。ただ、そのような、その生い立ちが、哲学の不幸の始まりだった、と(拙稿の見解では)いえます。

言葉がすべての始まり、と思うことから間違いが始まる。言葉がすべての始まりではありません。言語は、人類という生物現象の一部分です。言葉は便利なものですが、人間が感じているものを、すべて言い表せるものではない。言葉で表せないものは、もちろん、他の方法で表すことはむずかしい。それでも、そういうものは、たくさんある。言葉が、本当に正確に表せるものは、(拙稿の見解では)人間が感じるものの一部分でしかない、机やパソコンや猫や自分や他人の身体など、目に見える物質世界のことだけです。

言語は、人間が仲間と共感できる感覚についてだけ表わすことができる。共感だけが頼りです。ところが、人間どうしの共感は、それがある時点で起こったとしても、別の機会に必ずしも正確に再現性を持って現われることができない。昨日はうまく気持ちが通じたのに、今日は通じない、ということがある。ある人には通じるのに、他の人たちには通じない、ということが、いつでも起こる。多くの人との間で、いつも同じ共感を作れないと、その感覚に対応させる言葉の信頼性が保証されない。

信頼性がないと、あいまいな怪しげな言葉遣いになってしまう。それでは正確な言語は作れない。結局、科学のように、客観的な物質を介して人間どうしが言葉を確認できるときだけ、言葉の信頼性は保証される。複数の人間が、いつでもそれを見られて聞けて触れるものだけを、言葉は正確に語れる。見えるだけで、聞いたり触ったりできないものでも、言葉にすることはできるが、あまり正確ではなくなってくる。たとえば、虹や雲などの話をしても、気象学者でない私たちの会話では、雲をつかむような頼りない話になってしまう。さらに、まったく目で見ることもできないもの、たとえば物質世界に実体がない脳の中だけの感覚、あるいは錯覚や感情などを、言葉で正確に表すことは無理なのです。私の歯の痛み、とか、存在の耐えられない軽さ、などについて語っても、それで何が人に伝わるのか、はなはだ、頼りない。

ところが、私たちは、自分が感じることは何でも言葉で伝えたい、という気持ちを持っている。親しい人がそばにいれば、遠慮なく自分の今の気持ちを言い表したくなる。たとえ、そばに人がいなくても、私たちは一人でもしゃべりたくなる。子供のおしゃべりを聞いても、大人が書くブログなどを見ても、それが分かる。私たちは、とにかく衝動的に、自分が感じていることを口にする。私たちは、言葉を使って、毎日、毎時間、気持ちを伝え合っている。物事を伝え合っている。自分自身に対しても独り言をいい、自分自身に自分の思いを伝え、確認し、記憶していく。私たちは、このように、身の回りの物事は何でも言葉で伝えられる、と思っている。

現実にあるものは、すべて言葉で伝えられる。正しいことは、すべて言葉で伝えられるはずだ。逆に言えば、私たちは、お互いが言葉で分かり合えることだけが、正しい現実だ、と思っている。もしそうであれば、言葉がすべてだということになります。言葉を、適切に使いこなしさえすれば、すべての問題は解決するはずです。だが、本当に、そうでしょうか?

言葉を使うようになって以来、人類は、自分たちが感じるあらゆる感覚や感情や錯覚を、言葉で表そうとして試行錯誤してきた。そのおかげで、言語技術は発達し、詩や文学や哲学ができた。文明が発展し、社会が発展し、科学が発展した。ついにグローバリゼーションが始まった。人類は、昔に比べれば、数の上でも大増殖し、しかも一人一人、すばらしい生活ができるようになった。

それで、人間は感じることをすべて、言葉で言い表せるようになったのか? 確かに表現は豊かになった。しかし、すべてを言葉にできるか、というと、結局は、うまくいっていない。言葉を使って私たちは、感じることの一部だけを、なんとか表現できるようになっただけです。人間どうしは、確かに多くのいろいろな感覚や感情や錯覚を共有しているらしい。しかし、人間どうしが共有しているそれらを、言葉でうまく表現することは、実は、きわめてむずかしい。言語化が不可能なものが多い。

たとえば、私たちの内面の感覚や感情や現実感は、目に見える互いの表情や、耳に聞こえる音声で、互いに感じ取るしかない。それを言葉につなげれば、あいまいにぼんやりとしたイメージを表わすことはできます。「ね。ね」とか、「分かるでしょ」と言えば、なんとなく分かり合える。わかり合えるような気になれる。たしかに、親しい者どうしの日常会話ではそれで十分伝わることが多い。しかし、哲学のように、私たちが共有する現実感や存在感を理論的な観念として定義したり、論理的に厳密に表現したりしようとすると、どうしてもうまく行かない。だれもが納得できるように正確に表わすことはできない。

ふつう、こういうことは無視されたまま、私たちの日常生活は営まれていく。ごく少数の哲学者や知識人が、理論的な思索を問題にする。しかし、結局は、うまく言い表せない。そのために、明快な答がでないまま、また忘れられていく。これは困ったことです。

私たちはなぜ、内面の感情や哲学的な思索を、言葉でうまく言い表せないのか? 言い表し方が下手だからなのか? 言語技術を磨けば、何とかなるのか? それとも、原理的にできないことだからなのか? 

ここの問題をはっきり見極めないと、いつまでも混乱した哲学が続きます(現代哲学におけるこのテーマについては、たとえば、二〇〇八年〈出版予定〉  ピーター・カルーサーズ認知における言語』)。哲学者でない人も、いわゆる哲学的問題、などになまじ興味を持ってしまうと、これに巻き込まれて、人生の神秘に悩む。正しい人生とは何か? などという問題ですね。特に、文学や倫理に感受性のある人たちが巻き込まれてしまうようです。また、世界はなぜあるのか? あるいは、意識とは何か? などという科学にかかわる謎もある。科学者も、こういう哲学の謎に巻き込まれていくと、自分たちの科学が空虚に思えて悩む。これらの問題は、言葉でうまく言い表せない。言葉を使えば使うほど、混乱してくる。言語のこの問題は、人間だれにとっても深刻なのです。

動物は言葉を話さない。コンピュータも言葉を話さない。人間だけが言葉を話す。そして自分について語る。世界について語る。とても大事なことを語る。それは人間だけです。だから、神秘的な感じがする。崇高な感じもします。もしかしたら、言葉というものは神様が人間にだけ与えてくれた宝物なのではないか、という気もしてきますね。

でもただの動物である人間がする言語という行動が、他の動物の行動と全然違う、神秘的なものでなければならない理由があるのでしょうか? 仲間と協力して花から蜜を集めるミツバチの社会行動などに比べて、人類の言語活動だけが、特に崇高だったり、神秘的だったりするはずはありませんね。

動物の行動は脳の仕組みによって決まってくる。哺乳類の脳の仕組みは数億年をかけて徐々に進化してきた。言葉を使う人類の脳も、言葉を使わない古い祖先の脳から徐々に進化したはずです。そうであれば、人間の言語活動を担う脳の神経回路は、非言語動物であったはずの(猿人、原人など)人類の祖先が言語以外の用途に使っていた神経回路から発展したものということになる。そしてその発展部分は、たかだか数十万年と見積もられる言語使用の歴史の短さから考えると、ごく小さなものであるはずです。

人間の言語のモデルを、力学系のモデルを統計的に学習する機能を持つニューラルネットワークであるとする見地から、非言語動物の猿などと人間の連続性を強調する理論がある(二〇〇〇年 川人光男、銅谷賢治、春野雅彦『ヒト知性の計算神経科学 言語に迫るための条件』)。私たちの脳には、人類特有の離散的なシンボル操作である言語機構があるが、その下部構造として、もっとずっと基礎的な、猿などにも共通のニューラルネットワーク構造による運動形成/認知機構がある、という理論は、拙稿の見解と同じです。また、動物の非言語的な思考システムが思考の本体部分であって、人間特有といわれる言語的な思考システムは、それに付け足された擬似思考だ、という現代哲学の見解もあります(二〇〇九年〈出版予定〉  ピーター・カルーサーズ無脊椎動物の概念が一般化制約に対決する』。これも拙稿の見解に近い。

要するに、(拙稿の見解によれば)言語自体の問題はそれほど大きな問題ではない。それよりも言語を支えている土台と思われる構造、つまり、多くの動物に共通な、身体運動の制御機構の解明が大きな手ごわい問題です。世界を学習し現実を作り出す存在感を形成して、感覚・運動信号全体を制御するシステム。その具体的な設計図を解明することが重要です。

ところで、その大きな手ごわい問題は後回しにするとして、言語現象の解明だけを切り離して取り組めないだろうか? 取り組みやすい部分だけを全体から切り離せれば、その狭い部分に研究を集中できる。むずかしい大きな問題からやさしい小さな問題だけをうまく切り離して研究できれば、手ごろな科学が作れる。たしかに、これができるケースであれば、だれかがすぐやってしまいます。しかし言語の問題に関しては、残念ながら、これは無理なようです。なるほど、言語はコンパクトに閉じた有限形式を持っている。けれどもそれは、研究者をあざむく美しい衣装です。衣の下は地面深く根が生えていて、それを掘り出そうとしても、地下のどこまでも続いていく。

つまり、結局は脳全体、あるいは人間の身体全体を細胞レベルにまで微視的に理解したときに、一気にすべてが分かる、という予想が正しいようです。まことに残念ながら、脳全体にわたる微視的な、神経細胞の単位での信号処理機構としての脳機能の解明は、数十年後あるいはさらに先の世代の革新的な計測手段が開発されるのを待つことになるでしょう(二〇〇七年 川人光男「脳を創ることで脳を知る」から操作的神経科学へ 。(拙稿の予想では)拙稿が今提唱している哲学の科学は、やっとそのころから、実際的に発展することになるわけです。

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私はなぜ言葉が分かるのか(1)

2008-06-14 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

(第四部 私と世界とのいかがわしい関係 begin

(18 私はなぜ言葉が分かるのか? begin




第四部 私と世界とのいかがわしい関係




18 私はなぜ言葉が分かるのか?

 

 

世に哲学の難問、といわれている人生の謎の数々がある。しかし、それらはすべて、(拙稿の見解によれば)人間が自分で作った言葉のわなにはまって、動きが取れなくなることに過ぎない。拙稿は、哲学という学問が作り出す諸問題を、まず人類の脳に発生した言語システムという生物現象が引き起こす見かけの問題と捉えて、考えてきました。

人間という動物はなぜ、言葉を使ってむずかしい問題を考え出すのだろうか? 特に哲学に解明が期待されているといわれる難問を表わす言語表現の作られ方を、このアプローチで解きほぐしてみました(拙稿第一部および第二部)。

さて、本章では、この問題のさらに根底にある、人類の言語行動そのものを考えてみましょう。そもそも言語というものを、私たちは、科学としてどう考えればよいのか? 

言語の起源に関する研究。これは、十九世紀フランスの言語学会がタブーとした研究テーマです。方法論が確立していないにもかかわらず素人受けがしすぎて言語学の信頼性が歪曲される危険がある、という理由からでした。さすがに最近はタブー視もなくなり、言語学、人類学、認知科学などから広く研究されています。また、境界領域として進化言語学など興味深い新分野が提唱されています。しかし、遠い過去の言語の実態を研究対象とする場合の困難がまず、ある。現物はまったくなく、さらに過去の人類の生活形態を推定できる物的データがほとんどない。また、画期的な実験観察の方法論も見つからないことから、仮説を排除する厳密な科学としては、依然として、取り組みやすいテーマではない。

そこで、哲学的論議の余地が多く残っている、ともいえる。哲学が活躍できそうな気がする。実際、多くの哲学者が言語の起源について言及しています。しかしながら、(拙稿の見解では)言語技術をもって言語の本質をえぐりだすことはむずかしい。言語技術に頼る哲学は、ここでもまた、大きな間違いに陥る恐れが大きい。当然、哲学に対して憎まれ口ばかり利いている拙稿としても、これから自説を展開するに当り、よほど気をつけなければ空しく落とし穴に落ち込むでしょう。それでも、ここまでえらそうに書いてしまったからには、進むしかない。ということで、そろそろと、始めます。

さて、言語は人類という動物だけに見られる種に特有な行動です。人間に一番近い動物とされるチンパンジーも言語のようなものは持たない。人類の言語は、キリンの長い首のように、動物の一種に限られ、近隣の動物種には見られない特有な遺伝形質です。進化によって作られたその種に特有のDNA配列(ゲノム)の作用によるものです。人類のDNA配列(ゲノム)には、脳の中に言語を発生する神経回路を作る機能がある。他の動物にそれはない。その遺伝子の全体構造は、まだ解明されていないが、いずれ近い将来、分子レベルの発生過程が脳神経科学の研究対象になるでしょう。その遺伝的仕組みは、人類の生活形態にうまく適応して生存繁殖に有利だったために、自然淘汰を経て生き残った(二〇〇三年 スティーブン・ピンカー認知的ニッチへの適応としての言語』)。

しかし、その進化の結果人類の脳に備わった、言語といわれている生物機構は、どんなものなのか? 科学的にはどういう現象なのか? 人体あるいは脳の物質現象としては何が起こっているのか? それにかかわる脳の神経回路はどういう構造になっていて、どのような作動過程でその現象が起こっているのか? それらが現在の科学では、実は、まったくというほど分かっていません。

生物学でも、脳神経科学でも、あるいは、人類学、心理学、言語学、哲学など、言語についてよく分かっていなくてはいけないはずの学問領域のどこにも、科学として明快な納得できる答えは出てきていません。

もしかしたら、これはあまりにも深遠な神秘であって、人間の知的能力では、到達できない問題なのかもしれない、と思いたくなります。

まあ、しかし、拙稿の見方では、これは生物現象に数ある未解明問題の一つに過ぎない。たとえば、有性生殖蛍の光鳥の渡りなども、まことに不思議な生物界の現象です。その中でも、言語の謎は、特に不思議に見える。言語は、私たち人間にとってあまりにも身近な問題であるために、この謎は巨大に見えてしまうのでしょう。いずれも手ごわい謎ではありますが、言語だけが特別にむずかしいと構える必要はないでしょう。

そこで、この世に神秘などない、という主張を好む拙稿としては、現代科学ではなかなか解明が進まないこの問題についても神秘を認めたくない。言語に神秘などない。いちおう、そう言い切ってしまいましょう。つまり、言語の問題に神秘など感じる必要はない。拙稿のアプローチを使えば、この謎も、だいたいのところは、意外と簡単に解いてしまえる、ということを示してみようかと思います。

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私はなぜ幸福になれるのか(8)

2008-06-07 | x7私はなぜ幸福になれるのか

人生には、ふつういわれているような目的というものは、実は、ない。人生には、私たちが思っているような幸福も、実はない。幸福は、将来の人生の中にはなくて現在の脳の中にある。現在の私の脳の中には、今思う幸福、今思う憧れ、夢、今思う目的、が確かにある。それが世界を映し出し、世界の中で、仲間の人間の動きを見渡し、今の私を動かしていきます。

今どう動けば、その夢にみる幸福のイメージに近づけるのか? そのように動いていくために、人間は世界を見渡す。そういう動きをするための対象として見渡すから、私たちの運動神経系のシミュレーションとして世界が捉えられる。その結果、現在の現実の世界が存在するようになる。つまり、いわば、夢のために現実がある。夢があるおかげで現実が存在するようになる。その現実世界の中を夢みた将来の幸福のイメージを求めて動いていく私の姿。それが、私の人生の目的、という錯覚を作っていきます。

将来きたるべき自分の人生、というイメージは、人類が農耕をはじめた時代から、社会と文明の基礎を作る重要な錯覚です。私たちの脳の中に、いつも、しっかり固定されている。たぶん、狩猟採集の時代からこの数万年、すべての人間が「自分の人生」というその錯覚のゲームを生きることができた。

私たち人間は、十数年にわたる異常に長期間の無力な幼少期を過ごす。子供の養育に要する母親と家族の負担は長期にわたり持続されなければならない。このことが、おそらく人類が人生という超長期のシミュレーションゲームを脳内に作り出すようになったきっかけでしょう。来年以降のために食物を保存する。道具を作る。不測の事態に備える。子供を大切に育てる。将来の人生というイメージを持たなければ、こういうことはできない。逆に言えば、個々人が人生というイメージを見つめることで、人類は、強力な生存繁殖能力を身につけた。

現代においても、自分の人生をイメージした個々人の努力が、社会を安定させる基礎になっている。逆に言えば、こういう人生シミュレーションの能力を持った人類だけが生き残って現生人類になったのでしょう。その結果、今も、私たちは懸命に明日を予測し、自分の人生を見つめながら生きている。

(拙稿の見解によれば)私たちは、客観的世界のモデルを人々と共有することで、明日の世界で生きる自分のイメージを予想するシミュレーションを作り、その実現を期待する(拙稿4章『世界という錯覚を共有する動物』)。明日の幸福を夢みて、そのシミュレーションを感情機構にしっかりと連結する。こうして作られた私たちの脳では、感情機構の働きによって、幸福に近づくような衝動的行動が起こりやすくなる。こうすることで、衝動的行動が世界の現実に適応する。私たちの感情機構が現実にうまく適応するように進化しているからです。そのため、人間は、他の動物と同じように無意識の反射で衝動的に行動を形成しているにもかかわらず、見かけ上は、長期の目的を追求してその実現に必要な最適な行動をとっていくように見える。

私たちは、おいしいものを食べるとか、かつて生存繁殖に有利であった状況を幸福と感じるような身体になっている。そして、無意識な身体の衝動的反射行動は、やはり、かつて生存繁殖に有利だった行動を自動的に選んでいく。その結果、私たちの自然な行動は、私たちが、自分の幸福を目的として行動していくように見える。

実際、私たち自身、自分たちの行動をそう思っています。それで、私たちは、自分が幸福をめざしている、と思える。そうして私たちは、今日も、明日の幸福をめざし、がんばって生きていく。その自分の行動のイメージを言葉にしたものを、私たちは、計画と呼んでいる。つまり、幸福を目指すことを計画という。だから計画は実行される。私たちが幸福を目指すから実行されるであろう将来の状況予測を、いつのころからか、人生の目的、というようになったのです。

他の動物はそれができない。人間だけが、遠い将来、たとえば明日、の世界のモデルをつくり、それを仲間と共有し、その中に明日の自分を夢見ることができる。毎日、その実現を目指して働く。それで人類は社会と文明を作り出し、急速に地球全面に広がり、他の動物をすべて駆逐して大繁殖することに成功した。

どこの国もそうですが、日本でも、つい百年前まで、だれにとっても人生は単純でした。だれがどう考えても、人生の目的は同じようなものになった。何が幸福か、分かりきっていた。家族や共同体の仲間の間で認められ、できるだけ優位な地位を得られるよう行動する。富を蓄積し、良い配偶者を得て良い家族を作り子孫を繁栄させる。個人が達成したい人生は、共同体の存続に直結していて、はっきりしていた。

ところが現代のように爆発的に経済が成長し生活が豊かになり、国家が安全を保障して市場が自由化すると、共同体の輪郭があいまいになってくる。共同体の文化が変容する。かつては物語や役割や儀礼によって共同体に貼りついていた人生の捉え方がはっきりしなくなる。

家族と共同体の文化は、物語や役割や儀礼を通じて、人間の感情機構に刻み込まれている。文明が発達することで、その言語表現の中に各個の文化は吸収され溶解される。そうなると、共同体の文化に代わって、文明による言語表現が感情機構に刻み込まれ、それが個々人に人生の捉え方を教える。現代の私たちは、すべてを言葉だけで表現しようとする文明に、直接、放り出されるようになった。言葉に引きずられて私たちは、人生を、個人が自分だけの幸福を求めて戦う出世ゲーム、あるいはマネーゲーム、などと極端に単純化してとらえるようになる。自分の人生というものを、共同体と関係せず、自分個人だけのゲームとして単純素朴に捉えてしまう人たちが多くなってくる。最近の日本人の晩婚化少子化など、その結果でしょう。

まあ現代、グローバリゼーションは進むというものの、日本人を含めて人類の大部分は、まだ、家族や仲間と共に生き、そこで認められたいという気持ちに動かされて生きている。そうである限り、共同体の中で懸命に働き、生活を安定させ、子供を産み育てる能力を失うことはない。つまり、実際、伝統的に正しい夢を失ってはいない。そうであれば、人類の再生産システムは維持され発展し続ける。すぐ危なくなるという心配はない。もうしばらく人類の繁栄は続くでしょう。

人生の目的といい、幸福といい、もともと言葉で表されるものではない。私たちがばくぜんと抱く期待、明日への夢がその実体です。その夢は、言葉ではなく、無意識の感情に根ざしている。生存と繁殖に適応するように進化した感情機構は無意識のうちに身体を動かしていく(一九九一年 リチャード・ラザルス感情と適応』)。幸福は、それが言葉になる前に、身体がその意味を知っている。その動きを見て、私たちは、それが自分の目的だと思い、言葉にしてみる。逆にいえば、身体がそれに向かって動いているその夢が実現することを、幸福という。

私たちは実際、目的との距離を測りながら冷静な計算で動くゲーマーというよりも、どちらかといえば、明日にくる幸福をばくぜんと思い描き、夢を追って生きているドリーマーなのでしょう。

筆者の夢ですか? 

まあ、年もとったし、たいていの夢はかなってしまった。でも、今も、もちろん夢はある。

ハワイの海岸でビーチチェアを二つ借りて、妻と並んで青い波を眺めることです。そのとき通りかかった観光客(たぶん年配の日本人)にデジタルカメラを渡して写真を撮ってもらうでしょう。デジタルメモリに保存するだけではすぐ忘れてしまうでしょうから、「夢 X年X月X日」と文字入れしてプリントし、机の上の小さな写真立てに飾ろうと思っています。

(17 私はなぜ幸福になれるのか? end)

(第三部 私はなぜ死ぬのか?  end

→(第四部 私と世界とのいかがわしい関係

18 私はなぜ言葉が分かるのか?

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