歴史時代以降、人類の生活においては、社会活動の発展によって人間関係の重要さがまし、また哲学や宗教による人間関係の理論化などのおかげで、「私」はますます重要になっていく。特に、西洋の近代哲学は、自分の行動を計画する「私」の使い方に注目した。これを人間にとって最も重要なものと位置づけ、主体的な自我という概念を作り上げた。身の回りの世界で、特に人間社会の中で、自分という人間がどう見えるのか、それが他の人々との関係でどう動いていくのか、それに注目して将来を予測し、自分の意思で目的を持って行動するべきだ、と人々に教えました。
自分というものを考えるということは、だれでもいい仮想のだれか他人による注目を想像して、自分の行動を作っていくということです。「だれでもいいだれか他人の注目」という感覚は、神様の視線、という想像に通じている。それがキリスト教の教えに重なっていたことが、西洋で特に受け入れやすかった理由でしょう。都市文明が近代にかけて大発展してくる中で、キリスト教、ルネッサンスの歴史的な重なりが強く影響して、近代西洋の自我意識を作っていったのでしょう。
この西洋特有の発想のおかげで、西洋人は個人としてひとりひとりの立場で、自分の現状を理解し、将来の状況を予測し、計画を立てて、個人的な目的を追求できるようになった。この結果、西洋人の作る集団は非常に強い組織力を持つようになる。西洋の教会、国家、組合、企業、軍隊、などの集団組織は目的のしっかりした人間どうしの言葉による相互了解、ルール、約束あるいは契約、を通じて構成できることになる。個人は、組織の歯車として組み込まれる自分を、他人の目ではっきりと客観的に見つめることで、組織に役立つ行動をとれるようになった。西洋文明は、このような個人の自我を明確に確立することで、世界で最も効率的に目的を追求できる集団的能力を獲得したのです。
個人が自分を客観的に見つめて、その身体を計画的に自由に運転する。自分のために理性で考えて、自由な意思を持って自己の長期的な利益のために行動する。人間のあるべき姿は明白になり、世界の合理性は疑いないものとなった。それは個人が作る人生の計画を安定させ、人間関係を安定させ、社会を安定させ、商業を発展させ、科学技術を発展させました。それらを駆使して西洋文明は大成功し、世界に広がっていったのです。
このような「客観的世界の中に生きる個人である私」の発明は、人類の文明を大きく発展させました。陸上動物が肺を発明して陸を征服し、鳥が翼を発明して空を征服したように、人類は「私」を発明して、地球全体を征服したのです。
しかし、現代の私たちは忘れかかっていますが、ヨーロッパでもその他の地域でも、西洋型の個人としての「私」が出現する近代以前、大多数の人々は自分個人ではなく部族集団の生存を最大の関心事として行動していたのです。つまり、かつて「私」と「私たち」は同じものだった。逆にいえば、たった一人の個人としての「私」というものは、はっきりした存在感を持つものではありませんでした。
日本なども、中世までは部族共同体の名残を残す集団中心的な行動様式がほとんどでしたが、近代になってから急速に西洋文明に感化されたためか(そうではなく日本の封建制が西洋封建制に類似していたためだという説もあるが)、自分個人の人生目的を追求する(近代的な)行動様式に変わってきています。現代では、特に米国文化の影響を受けてすっかり西洋文明の一員になってしまったといわれる日本では、欧米と同じく、言葉によって自我を維持しようとする西洋哲学の考え方がいきわたっているように見えます。しかし、二、三千年前までは西洋の人々も、また現代でもアジア・アフリカの人々のほとんどは、部族共同体の一員としての個人、という行動様式で人生を生きていたし、今も生きています。つまり二百万年以上にわたって人類が続けてきた部族集団中心の行動様式に対して、個人単位の行動様式というものが顕著に現れるようになったのは、つい二、三千年前からの西洋のごく一部であり、本格的に世界中で現れるようになったのは、この二、三百年です。これは、前者を過去の蛮習として捨て去るにしては、大きすぎる事実ではないでしょうか?
筆者などは、アメリカナイズされた現代日本文明にしっかり染まっていますから、明日の自分はどうなるのか、そうなったら自分がどう得するか損するか、社会的に経済的にちゃんとやっていけるのか、それで妻と子の明日は大丈夫か、というようなことばかりを考えて毎日を過ごしてきました。頭の片隅では「そういう発想自体、現代人特有の間違いじゃないか」と疑いつつも他に良い悟りも浮かばなかったので、そのまま漫然と、自分のことばかり考えて人生を過ごしてきました。今、人生の終りに近づき改めて世の中を観察するに、現代の日本は若い頃の筆者のような、いやそれよりさらに徹底した自分ひとりの幸福だけを追求する狭い人生観がますます蔓延しているように見えるのですが、年寄りの思い過ごしでしょうか?
こういう筆者のような西洋文明型の人間は、何事に関しても常に自分にとっての利害を計算し、自分の行動のすべては「私」の利益のためになされるべきだ、と思い込むような思考方法になっています。私はどうなるの、私はどうなるの、ということばかり考えている。そうなると、行動に迷うときなどに、「そもそも私って何?」という疑問が出てくるようになる。「自分探し」とか「ほんとうの私」とかなどという意味がない言葉に惹かれてしまう。この現象を高尚なことと思い込むと、哲学の難問を考えているような気になってしまうわけです。
しかし、さらによくよく考えると、これは高尚なことでも難しいことでもありません。存在しない錯覚を存在するはずだ、と思い込むことからすべてが難しく見えてしまう。「私って何?」という疑問を、まともな疑問だと思うのは間違いなのです。
素直に考えれば簡単なことです。そもそも私というものは、もともとこの世には存在しない、脳の中だけの錯覚です。私たち人間は、実際、自我の存在感を感じる。しかし、それは私たちがそういうふうに感じるような脳の仕組みを持っている、というだけのことです。
つまり、人間に感じられるもの全体の一部分が目に見えるこの物質世界全体ですね。その物質世界の中の小さな部分としてあるように感じる人体の一つに、身体内部からくる感覚や運動が投射されているように感じられる。人間の脳がそういう仕組みになるように進化したからです。この仕掛けは生存に便利であることは間違いありませんが、それが言語と社会の発展に組み込まれていく結果、「私」という幻を作り出してしまうのです。
ここにあるこの人体を私の身体と呼ぶのは問題ないのですが、感じることすべてがこの人体の中で起こると思い込むから間違うのです。この人体を、他人は私だと思っているでしょう。私が生まれてから死ぬまで、この人体は、確かにこの世界の中にあるのです。私としては、その人体を私だと言えば、他人と話が通じます。他人と付き合うだけなら、それで話は終わりです。だが、だからと言って、いま感じていることすべてが、他人の目に映る物質としてのこの人体の中にあるのでしょうか? 他人から見れば、私も別の第三の人物も同じような一個の人間です。それぞれが「これが私の身体です」と言っているだけです。それなのに、私にとっては、なぜこれだけが私の身体なのか。理由がありません。
物質世界がすべてだと思えば、この他人の目に見えているただの物質としての私、ただの人体としての私があるだけ、と思うしかない。ただの物質であるふつうの人体が物質を超越した神秘的な何かを内蔵しているはずがない。物質である私は、物質の法則に従って動いているだけです。
空気の分子が衝突しあって風が吹くように、人体も脳も動いている。その状態変化が今の私が感じていることを決めている。いずれにしろ、脳の状態も物質の法則だけで変化していく。それが私の脳だからといって、何も特別なことはありません。私の脳であろうとも他人の脳であろうとも、まったく同じことです。
どの人体もこの物質世界の単なる一部分です。原理的には、原子や分子がこれとほとんど同じように組み合わさった人体のコピーを作ることもできる。 あなたのその人体とそっくりのコピーを作ったら、彼、または彼女もあなたなのですか? 身体の傷も脳内の記憶状態もそっくりコピーされていたら、その人体も二つ目のあなたなのですか? 他人が見たら、どちらをあなたと思って付き合っても問題はありません。というより、あなた以外の人にとっては、どちらも間違いなくあなたです。それはむしろ、一つだけでないと混乱して困ります。
ではそこに完璧なコピーを一つ作りましたから、元の人体であるこちらのあなたのほうは廃棄処分にしてかまいませんね?
ちょっと待ってくれ! と言いたくなりませんか?
科学を駆使して、この物質世界がどうなっているかということをいくら調べても、どの物質が私の感じているすべてを感じているのか、分かるわけはありません。
客観的物質世界の一部である、この私ということになっている人体は、感じられるもの全部の中の小さな一部分に過ぎない。客観的に見れば、世界の他のどの一部分と比べても特別ということはない。それこそ、私と同じ物質構造の人体を百個作って並べた場合、私以外の人間にとっては、どれもまったく区別はできないのです。
この物質世界を私が感じているということは、私の脳がそれを映し出しているということです。だからこの物質世界にあるこの私らしい肉体は、私の脳の中に映し出されている物質世界という模型の中に作りこまれている一個の人体の模型でしかない。模型は錯覚を組み合わせて作られている。私というものは錯覚の組み合わせでできている。そういうものを実物と思い込んで混同すれば、そこから先の話が混乱するのはしかたないでしょうね。
人間が、「私は・・・」と言うとき、自分が感じる感覚や感情などすべてを含ませて言っている、と思い込んでいます。しかし他人がそれを聞くときは、ただそこでしゃべっている一つの人体でしかありません。それは物質だから、物質が何をどう感じているか考えても意味がありません。物質が物理法則に従って動いているだけと見れば、物質が何かを感じると思うのはおかしいわけです。
実際、そういうことが他人の立場になってみると分かります。他人から見れば自分はただの物質で、それが何かを感じているかどうかも怪しい。私としては確かにそういうことを感じているのですが、そういうこと全部を感じている私の内面というものは、他人の目には見えませんから、物質としては表れていません。他人の目や耳や手では感じられないでしょう。想像はしてくれるかもしれませんが、それも正確な私の内面ではないでしょう。他人にきちんと感じられないということは、この物質世界にはそれはないということです。だからこの自分の内面というものは、この世にはない何ものか、つまり脳の中で、(心と同じように想像から作られた)理論による錯覚でしかない。そう言ってみても、そう思う気持ちそのものもこの物質世界にはありそうにない。それで、人間は「私は・・・」と言うとき、虚しさを感じることがあります。私という理論は、考えれば考えるほど虚しい。そこで哲学などをするとますます混乱して、虚しさは増すばかりとなります。
「すべてを含む集合は自分自身をも含むから、その集合は自分自身の一部分にすぎない」というような数学のパラドックスに似ていますね。
私が内面としての私と思っているような私は、この世には存在しません。他人が私と思っているような外面の私しか、この世には存在しない。そしてそういう外面の私、つまり私だと他人が認める物質としての私の人体は、原理的にはいくらでもコピーが作れる。他人にとっては、コピーはまったく区別がつかない。私にだけ、私はこの一つの身体だけだ、と分かるのです。つまり、私というのは他人の目に見えるこの身体だ、と思うことは間違いです。
では、どこに私はあるのか?