哲学の科学

science of philosophy

私はなぜあるのか(3)

2007-10-27 | x2私はなぜあるのか

歴史時代以降、人類の生活においては、社会活動の発展によって人間関係の重要さがまし、また哲学や宗教による人間関係の理論化などのおかげで、「私」はますます重要になっていく。特に、西洋の近代哲学は、自分の行動を計画する「私」の使い方に注目した。これを人間にとって最も重要なものと位置づけ、主体的な自我という概念を作り上げた。身の回りの世界で、特に人間社会の中で、自分という人間がどう見えるのか、それが他の人々との関係でどう動いていくのか、それに注目して将来を予測し、自分の意思で目的を持って行動するべきだ、と人々に教えました。

自分というものを考えるということは、だれでもいい仮想のだれか他人による注目を想像して、自分の行動を作っていくということです。「だれでもいいだれか他人の注目」という感覚は、神様の視線、という想像に通じている。それがキリスト教の教えに重なっていたことが、西洋で特に受け入れやすかった理由でしょう。都市文明が近代にかけて大発展してくる中で、キリスト教、ルネッサンスの歴史的な重なりが強く影響して、近代西洋の自我意識を作っていったのでしょう。

この西洋特有の発想のおかげで、西洋人は個人としてひとりひとりの立場で、自分の現状を理解し、将来の状況を予測し、計画を立てて、個人的な目的を追求できるようになった。この結果、西洋人の作る集団は非常に強い組織力を持つようになる。西洋の教会、国家、組合、企業、軍隊、などの集団組織は目的のしっかりした人間どうしの言葉による相互了解、ルール、約束あるいは契約、を通じて構成できることになる。個人は、組織の歯車として組み込まれる自分を、他人の目ではっきりと客観的に見つめることで、組織に役立つ行動をとれるようになった。西洋文明は、このような個人の自我を明確に確立することで、世界で最も効率的に目的を追求できる集団的能力を獲得したのです。

個人が自分を客観的に見つめて、その身体を計画的に自由に運転する。自分のために理性で考えて、自由な意思を持って自己の長期的な利益のために行動する。人間のあるべき姿は明白になり、世界の合理性は疑いないものとなった。それは個人が作る人生の計画を安定させ、人間関係を安定させ、社会を安定させ、商業を発展させ、科学技術を発展させました。それらを駆使して西洋文明は大成功し、世界に広がっていったのです。

このような「客観的世界の中に生きる個人である私」の発明は、人類の文明を大きく発展させました。陸上動物が肺を発明して陸を征服し、鳥が翼を発明して空を征服したように、人類は「私」を発明して、地球全体を征服したのです。

しかし、現代の私たちは忘れかかっていますが、ヨーロッパでもその他の地域でも、西洋型の個人としての「私」が出現する近代以前、大多数の人々は自分個人ではなく部族集団の生存を最大の関心事として行動していたのです。つまり、かつて「私」と「私たち」は同じものだった。逆にいえば、たった一人の個人としての「私」というものは、はっきりした存在感を持つものではありませんでした。

日本なども、中世までは部族共同体の名残を残す集団中心的な行動様式がほとんどでしたが、近代になってから急速に西洋文明に感化されたためか(そうではなく日本の封建制が西洋封建制に類似していたためだという説もあるが)、自分個人の人生目的を追求する(近代的な)行動様式に変わってきています。現代では、特に米国文化の影響を受けてすっかり西洋文明の一員になってしまったといわれる日本では、欧米と同じく、言葉によって自我を維持しようとする西洋哲学の考え方がいきわたっているように見えます。しかし、二、三千年前までは西洋の人々も、また現代でもアジア・アフリカの人々のほとんどは、部族共同体の一員としての個人、という行動様式で人生を生きていたし、今も生きています。つまり二百万年以上にわたって人類が続けてきた部族集団中心の行動様式に対して、個人単位の行動様式というものが顕著に現れるようになったのは、つい二、三千年前からの西洋のごく一部であり、本格的に世界中で現れるようになったのは、この二、三百年です。これは、前者を過去の蛮習として捨て去るにしては、大きすぎる事実ではないでしょうか?

筆者などは、アメリカナイズされた現代日本文明にしっかり染まっていますから、明日の自分はどうなるのか、そうなったら自分がどう得するか損するか、社会的に経済的にちゃんとやっていけるのか、それで妻と子の明日は大丈夫か、というようなことばかりを考えて毎日を過ごしてきました。頭の片隅では「そういう発想自体、現代人特有の間違いじゃないか」と疑いつつも他に良い悟りも浮かばなかったので、そのまま漫然と、自分のことばかり考えて人生を過ごしてきました。今、人生の終りに近づき改めて世の中を観察するに、現代の日本は若い頃の筆者のような、いやそれよりさらに徹底した自分ひとりの幸福だけを追求する狭い人生観がますます蔓延しているように見えるのですが、年寄りの思い過ごしでしょうか?

こういう筆者のような西洋文明型の人間は、何事に関しても常に自分にとっての利害を計算し、自分の行動のすべては「私」の利益のためになされるべきだ、と思い込むような思考方法になっています。私はどうなるの、私はどうなるの、ということばかり考えている。そうなると、行動に迷うときなどに、「そもそも私って何?」という疑問が出てくるようになる。「自分探し」とか「ほんとうの私」とかなどという意味がない言葉に惹かれてしまう。この現象を高尚なことと思い込むと、哲学の難問を考えているような気になってしまうわけです。

 しかし、さらによくよく考えると、これは高尚なことでも難しいことでもありません。存在しない錯覚を存在するはずだ、と思い込むことからすべてが難しく見えてしまう。「私って何?」という疑問を、まともな疑問だと思うのは間違いなのです。

素直に考えれば簡単なことです。そもそも私というものは、もともとこの世には存在しない、脳の中だけの錯覚です。私たち人間は、実際、自我の存在感を感じる。しかし、それは私たちがそういうふうに感じるような脳の仕組みを持っている、というだけのことです。

つまり、人間に感じられるもの全体の一部分が目に見えるこの物質世界全体ですね。その物質世界の中の小さな部分としてあるように感じる人体の一つに、身体内部からくる感覚や運動が投射されているように感じられる。人間の脳がそういう仕組みになるように進化したからです。この仕掛けは生存に便利であることは間違いありませんが、それが言語と社会の発展に組み込まれていく結果、「私」という幻を作り出してしまうのです。

ここにあるこの人体を私の身体と呼ぶのは問題ないのですが、感じることすべてがこの人体の中で起こると思い込むから間違うのです。この人体を、他人は私だと思っているでしょう。私が生まれてから死ぬまで、この人体は、確かにこの世界の中にあるのです。私としては、その人体を私だと言えば、他人と話が通じます。他人と付き合うだけなら、それで話は終わりです。だが、だからと言って、いま感じていることすべてが、他人の目に映る物質としてのこの人体の中にあるのでしょうか? 他人から見れば、私も別の第三の人物も同じような一個の人間です。それぞれが「これが私の身体です」と言っているだけです。それなのに、私にとっては、なぜこれだけが私の身体なのか。理由がありません。

物質世界がすべてだと思えば、この他人の目に見えているただの物質としての私、ただの人体としての私があるだけ、と思うしかない。ただの物質であるふつうの人体が物質を超越した神秘的な何かを内蔵しているはずがない。物質である私は、物質の法則に従って動いているだけです。

空気の分子が衝突しあって風が吹くように、人体も脳も動いている。その状態変化が今の私が感じていることを決めている。いずれにしろ、脳の状態も物質の法則だけで変化していく。それが私の脳だからといって、何も特別なことはありません。私の脳であろうとも他人の脳であろうとも、まったく同じことです。

どの人体もこの物質世界の単なる一部分です。原理的には、原子や分子がこれとほとんど同じように組み合わさった人体のコピーを作ることもできる。 あなたのその人体とそっくりのコピーを作ったら、彼、または彼女もあなたなのですか? 身体の傷も脳内の記憶状態もそっくりコピーされていたら、その人体も二つ目のあなたなのですか? 他人が見たら、どちらをあなたと思って付き合っても問題はありません。というより、あなた以外の人にとっては、どちらも間違いなくあなたです。それはむしろ、一つだけでないと混乱して困ります。

ではそこに完璧なコピーを一つ作りましたから、元の人体であるこちらのあなたのほうは廃棄処分にしてかまいませんね?

ちょっと待ってくれ! と言いたくなりませんか?

科学を駆使して、この物質世界がどうなっているかということをいくら調べても、どの物質が私の感じているすべてを感じているのか、分かるわけはありません。

客観的物質世界の一部である、この私ということになっている人体は、感じられるもの全部の中の小さな一部分に過ぎない。客観的に見れば、世界の他のどの一部分と比べても特別ということはない。それこそ、私と同じ物質構造の人体を百個作って並べた場合、私以外の人間にとっては、どれもまったく区別はできないのです。

この物質世界を私が感じているということは、私の脳がそれを映し出しているということです。だからこの物質世界にあるこの私らしい肉体は、私の脳の中に映し出されている物質世界という模型の中に作りこまれている一個の人体の模型でしかない。模型は錯覚を組み合わせて作られている。私というものは錯覚の組み合わせでできている。そういうものを実物と思い込んで混同すれば、そこから先の話が混乱するのはしかたないでしょうね。

人間が、「私は・・・」と言うとき、自分が感じる感覚や感情などすべてを含ませて言っている、と思い込んでいます。しかし他人がそれを聞くときは、ただそこでしゃべっている一つの人体でしかありません。それは物質だから、物質が何をどう感じているか考えても意味がありません。物質が物理法則に従って動いているだけと見れば、物質が何かを感じると思うのはおかしいわけです。

実際、そういうことが他人の立場になってみると分かります。他人から見れば自分はただの物質で、それが何かを感じているかどうかも怪しい。私としては確かにそういうことを感じているのですが、そういうこと全部を感じている私の内面というものは、他人の目には見えませんから、物質としては表れていません。他人の目や耳や手では感じられないでしょう。想像はしてくれるかもしれませんが、それも正確な私の内面ではないでしょう。他人にきちんと感じられないということは、この物質世界にはそれはないということです。だからこの自分の内面というものは、この世にはない何ものか、つまり脳の中で、(心と同じように想像から作られた)理論による錯覚でしかない。そう言ってみても、そう思う気持ちそのものもこの物質世界にはありそうにない。それで、人間は「私は・・・」と言うとき、虚しさを感じることがあります。私という理論は、考えれば考えるほど虚しい。そこで哲学などをするとますます混乱して、虚しさは増すばかりとなります。

「すべてを含む集合は自分自身をも含むから、その集合は自分自身の一部分にすぎない」というような数学のパラドックスに似ていますね。

私が内面としての私と思っているような私は、この世には存在しません。他人が私と思っているような外面の私しか、この世には存在しない。そしてそういう外面の私、つまり私だと他人が認める物質としての私の人体は、原理的にはいくらでもコピーが作れる。他人にとっては、コピーはまったく区別がつかない。私にだけ、私はこの一つの身体だけだ、と分かるのです。つまり、私というのは他人の目に見えるこの身体だ、と思うことは間違いです。

では、どこに私はあるのか?

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私はなぜあるのか(2)

2007-10-20 | x2私はなぜあるのか

昔の大哲学者たちがむずかしそうに、「存在ということが大問題だ」などと言ったから、(拙稿の見解では)この問題はよけいややこしくなった。存在するという言葉は、(拙稿の用法のように)この物質世界の中に物質現象として存在するという場合だけに限定して使うことにすればよかった。でも、いまさら筆者がこんなことを言っても、もう遅い。哲学者たちが現れるよりはるか昔に、人類の言語は、「ある」、「存在する」という動詞を使って何もかもを言い表すように作られてしまったのですから。

古い時代にも、「私」とはその存在を知覚できるようなものではなく経験の全体のことだ、と言った哲学者がいました(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)。これは筆者の考えに近いのですが、西洋哲学でこのような考えはあまり受け継がれていかなかったようです。現代哲学の時代になって、ようやく、「私」はこの世界の内部にはないのではないか、という考え方が認められるようになった。たとえば、世界の境界が「私」なのではないか、という考え(一九一六年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『草稿』)などが、はっきり出てきました(これがそのまま拙稿の見解というわけではありませんのでご注意)。

世間常識ではあまりはっきりとは理解されていないようですが、科学が対象とする物質世界を表わすのに、私という概念は必要ありません。科学が対象とする物質世界を表わす場合に、「私」とか、「今」、とか、「ここ」とかいう言葉は、必要ありません。科学は、どの時点でも、どの場所でも、同じ法則で成り立つものを物質世界として記述する。つまり科学は、空間と時間と物質(エネルギー)の全体が全部連続したひとくくりのものとして共通の法則にしたがうことを書き表すことしかできない。今が今でなくとも、ここがここでなくとも、この私などいなくても、科学の描く物質世界はしっかりと存在できる。逆にいえば、「私」とか「今」とか「ここ」とかいう言葉は、科学の中では意味を持たない。なぜならば、「私」だけが、とか「今」だけとか「ここ」だけとかの場合には観察されて、他の人が他の時間に他の場所で観察することとつながらない(再現性がない)ことを対象とすると、科学が客観的に成り立たなくなるからです。

私が私のものだと思っている、ここにあるこの肉体は物質としてはあるかもしれませんが、それが私である必要はない。それが人体の構造をもった物質でありさえすれば、物質世界に関するすべては説明できる。逆に、それは私だ、と言っても、科学にとっては意味がないわけです。

物質はすべて物質の法則だけで動く。どの人体もすべて物質の法則だけで動く。もちろん私の人体も、私の脳も、物質の法則だけで動いている。例外はありません。

このだれの目にも見える物質世界には、他人にとっての私は存在しますが、私にとっての私は存在しない。私の周りの物事をこのように感じ取り、私の手足をこのように動かし、私の考えをこのように考えているこの私にとっての私、というものはこの物質世界にはない。このだれの目にも見える私らしい人体は、他のすべての物質と同じく、物質の法則で動いているだけです。ただ、その物質の構造からして、それぞれの人間の脳の中に「この肉体は私」と思い込むような神経系の機構ができている。だから私という言葉は使われている。それだけです。

私はなぜあるのか、簡単に答えるとすれば答えはこれだけですね。

科学をつきつめるほど、このことがはっきりするだけです。ますます、私が私と思っているような私というものは居場所がなくなってしまいます。科学が嫌いな人は、ここで、「だから科学は万能でない!」と叫びたくなるでしょう。 しかしこれは、科学の欠陥ではありません。科学など作られる前から、人類が言葉を話し始めたときから、いやさらに昔の、人間が仲間と共感できる客観的世界の感じ取り方(拙稿ではこれを客観的世界モデルという)を獲得したときから、この矛盾が出てきていました。

だれの目にも見える客観的世界が現実としてここに存在する、ということと、私が今ここにいてその客観的世界の存在を感じ取ることができる、ということとの関係を、私たち人間は言葉ではうまく説明できない。それはしかたのないことなのです。これは人間の脳神経系の上に作られた客観的世界モデルの欠陥です。その客観的世界モデルの上に作られた人類の言語の構造は、はじめからこのような矛盾をはらんで作られているからです。

人間の言葉は、もともと、話し手と聞き手が同じものを見ながら、それを話題にしてうまく考えが通じるように作られている。目の前のものについて話せば、とてもうまくいく。今は見えていなくても、二人とも見たことがあるものについて話しても、話はうまく通じます。しかし、もともと目に見えないものを話題にしようとすると、話は急に怪しくなる。

蚊に刺された腕の、赤くなってぷくっと膨れたところを見せながら、「ここが痒くてね」といえば、話は良く通じる。けれども、腰に手を当てて、「腰が痛くて」というとき、ちゃんと通じるでしょうか? 相手に私の腰痛の苦しみが理解されるかどうかは、とても怪しい。痛くないのに腰に手を当てて嘘をいっても、「ほんとに痛そうね」などと同情されてしまう。逆に、本当に痛いとき、腰の痛みを詳しく熱心に語れば語るほど、相手は困ってしまうだけです。何の話をしているのか、ますます分からなくなるわけです。

人間どうしが共感しあえる物事だけからこの客観的物質世界はできている。目に見えなくて私だけにしか感じられないような物事は、この物質世界には、はっきりとは存在できないのです。私たちは、このところをあまりきちんと理解していない。そのために起こる混乱のひとつが、心身問題、つまり「私」の存在問題なのです。

私が感じている私というものが、私しか感じない部分を含んでいるとすれば、その部分は、この物質世界の中には入ってこない。この世界の中には存在できないわけです。その部分(たとえば、腰の微妙な痛み)は私のことではない、として切り離さなければ、私というものが完全にこの世界の中にあるという話はどこかおかしい、という違和感が出てくるようになってしまうのです。

これは人間の脳の欠陥です。人間の脳は自分自身を原点として、世界を表現することが上手なように進化してきた。目をカメラのように使って世界をながめると便利だからでしょう。カメラは世界中を撮影できますが、カメラ自身を撮影することはできない。同じように、脳は自分自身を除いて自分の周りの世界を描き出します。

そうすることが人類の生活に便利だったからでしょう。しかし、これが過ぎると困ったことが起きる。客観的物質世界の中で、自分という主体の存在の意味が分からなくなるのです。それで「自分とはなにか」とか「私はなぜあるのか?」などと自問するようになってしまう。それが哲学のはじまりです。哲学は、人類特有の脳の欠陥が原因で起こる錯覚現象だ、といえる。人間以外の動物が哲学を必要としないのもこの理由です。客観的世界モデルを持たない動物は、「私はなぜあるのか?」などと自問する必要がないからです。

 「私」は、もともと他人と交わる便宜のために作られた概念です。他人と話すとき、私は私自身の身体を聞き手の視点から見ている。話し手である私は、聞き手が分かりやすいように話そうとする。筆者も幼児に話しかけるときは「ぼくちゃん。おじちゃんはね」とかいいます。「おい子供。俺はなあ」などとはいいません。聞き手から見て、私は一人の人間であるに過ぎません。その人間が何かする、ということを言いたいとき、その人間、つまり私のことを指す言葉が必要ですね。自分を「おじちゃん」と呼ぶのもいいですが、ちょっと無責任な感じがします。話し手が意思を持ってその行為をするのだ、ということをはっきりさせたい場合に、聞き手から見て今発言しているその人物を指す言葉が、「私」です。「私」とは、もともと、「あなたに聞いてもらいたくて今発言している話し手がここにいます」ということを聞き手の立場から見たときに分かりやすく表現することで聞き手に理解してもらおうと思って話し手が使う言葉ですね。

 言い換えれば、「あなたに対して今発言しているこの人体に、あなたは憑依してみてください。そうすれば、『私が○○する』というときに、あなたは自分が○○するように感じられるでしょう? それで会話が続けられるのですよ」と言いたいときに、私たち人間は「私」という言葉を使う。

そこから始まって「私」の使われ方は、かなり発展します。

話しながら、私のことを私と言っている私を私は観察する。脳内で、その記憶が「私」の存在感を作る。そして、聞き手がいないときにでも、「私は・・・」と言ってみる。声を出さずに自分にだけ分かるように、それを言ってみる。それで、私は、他人から見た私という人間がどんな感じに見えるか、を知ることができる。つまり、「私」という言葉が、独り言の場合にも使えるわけです。だれでもいいだれか他人に、私がすることを説明する。そうすると、ドラマのナレーターのように、客観的に、私という役者の行動を言い表せますね。これは便利です。私というその人間がこれからどう動けばどんなことになるか、予想しやすい。実際、そうしてみると生活がうまくいく。特に、人間関係つまり社会生活がうまくいきます。それで人類は「私」をそういうふうに使うようになった。現代人の私たちはいつも声を出さない独語を使って自分の行動を計画し、他人から見えるはずの「私」というシミュレーションを運転するようになったわけです。

世界の中におかれている「私」という人物像を運転して、仲間と社会を作っていく。社会というドラマの中で「私」という配役を演じながら、また観客としてそれを見ている。ドラマの観客のようにキャラクターである「私」の演技をみまもり、ナレーターのように行動を解説し、ゲームのプレイヤーのように「私」を操縦して、人生というゲームをプレイしていく。そういうふうに私たち現代人は生きるようになった。

こういう「私」の使い方は、便利です。(拙稿の見解では)数万年前から人類は、脳内で「私」という錯覚を作り出して言葉に表し、上手に使ってきた。これは、石斧と同じように生活に不可欠な道具になったわけです。石斧が刃物になり、旋盤になり、レーザーカッターになったように、「私」の使い方も技術的に進歩していく。道具が高度に発展してすばらしく便利になると、私たちは道具に依存しすぎて、道具を使っているのか使われているのか、分からなくなるようなところがありますね。たとえば現代人は、睡眠時間以外はいつも携帯電話を握っている。私たちは携帯電話に奉仕し、そのシステムを稼動させるために生きている、と見ることもできる。同じように私たち現代人は(動物や原始人と違って)「私」という錯覚に奉仕し、その錯覚を生成する神経システムを稼動させるために毎日を生きているわけです。

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私はなぜあるのか(1)

2007-10-13 | x2私はなぜあるのか

12  私はなぜあるのか?

 

この世の中に私が存在することは明らかです。鏡で見なくても、私が私だと思っている物質のかたまり、つまり私の肉体、がここにあることは間違いありません。

しかし、本当に、ここにあるこの人体は私なのでしょうか? 

こんなあたりまえのことを疑問に思う人は少ないでしょう。ばかな質問としか思えませんね。

「私のこの身体は、本当に私なのかしら?」とボーイフレンドに言ってみましょう。そろそろ別れたいときにはいい方法ではありませんか?

さて、まじめに答えるのもばからしいですが、あえて答えるとすれば、「私が思うとおりにこの手足は動くし、頬っぺたをつねれば痛いから、この手足と頬っぺたは明らかに私だ」

しかし、実は、これは答になっていません。

「このパソコンの印刷アイコンをクリックすればそのプリンターが動くから、そのプリンターは、このパソコンのプリンターだ」という言い方に似ています。しかしせっかくそう言っても、プリンターの指定設定を変えてしまえば、ネットワークに繋がっている別のプリンターが印刷を始めるだけです。どのプリンターも量産品だから同じ構造をしている。そのうちのひとつだけが、たまたまこのパソコンの印刷指令にしたがうからといって、それがこのパソコンの一部だ、といえるか?

この世界にある同じようなたくさんの人体のうちの一つが、たまたま私の思うように動いて、その眼球に仕込んであるビデオカメラの位置から撮影しているような画像を私が感じられるように送ってくるからといって、なぜその身体が私なのか? なぜ、私が今考えていることや感じていることのすべてが、その人体の中にある脳の活動だといえるのでしょうか?

この物質世界の中で、私の手足がどこにあるか、目をつぶっていても分かります。自分の身体のすべての骨、筋肉、皮膚がどこにあるか分かる。正確にいえば、動かせる骨と骨格筋はどこにあるか分かる。ものに触れる皮膚はどこにあるか分かる。これは体中に張り巡らされた感覚神経系からの神経信号が脳幹、視床から大脳皮質頭頂葉などで変換されながら伝達されてできる身体姿勢感覚です。

それで体内感覚で感じられる私の身体を、目で見えるこの物質世界にあるこの自分の身体にぴったり対応させられる。客観的空間に身体感覚を投射できるわけです。これは赤ちゃん時代に、ベビーベッドの上で手足をバタバタさせてめちゃめちゃな運動を繰り返すことで修得した、脳の機構でしょう。

脳に作られたこの機構によって、私たち人間は、この物質世界にある自分の人体を自由に動かして運転している気になっているのです。

鏡に映る私も私と分かるし、写真やビデオに写る私も、間違いなく私と分かります。他人の視線がこちらに向けられた瞬間、その人の心に写っている私の姿が、想像で分かります。

そういうものを、私だと思ってずっと生きてきたから、そう思うのです。それに、それを私だということにしておけば、だれとでも話が通じる。だから、ここにあるこの私らしい身体が、私が感じていること、考えていること、を作りだしているに違いない、という気がします。

しかし、本当にそうでしょうか?

私のこの肉体といっても、ただの物質です。他の物質に比べて特別に神秘的な仕掛けになっているはずはありません。他の人体と比べて、全然違う、というほどの特徴があるわけではない。世の中にある人間の身体は、性別、年齢も違えば、それぞれサイズやプロポーションや肌の色も違いますが、基本的な構造はどれもそっくりです。他の人体のどれかが私でも、なんの不思議もないはずです。ある人体の筋肉が私の思うように動いて、その両目の奥の位置からのぞいた映像で周囲の風景が見える、とすればどうでしょうか? その人体の感覚器官が感知した感覚信号をすべて私が感じられるなら、まったく問題なく、これが私だ、ということになってしまう。よくできた遠隔操作ロボットでは、バーチャルリアリティの技術を使って、運転者がロボットになりきった気持ちで運転できます(二〇〇五年  『遠隔通信、テレイマージョン、テレイグジスタンス』)。こういう技術がもう少し進めば、何千キロも離れた外国の町においてある人間そっくりのロボットに乗り移ったまま、そのロボットの身体を使ってご飯を食べたりセックスしたりして、食欲や性欲を満足させられるでしょう。インターネットのバーチャル空間を実際の世界で実現できるわけですね。

現在の技術はまだそこまでいっていませんが、いずれはこういうものが実現するでしょう。こういうものが原理的に成り立つということは、人間の身体というものは、その人自身とは一対一に対応する必要はない、ということです。逆に私の視点から言えば、私の運動指令と視覚映像と体性感覚等の感覚との関係が、全体としてあるひとつの人体を原点としているように感じられて、それがいままでの経験記憶と違和感なくつながっていれば、その人体を私の身体だ、と私は感じる。今改めて考えてみても、それ以外に、ここにあるこの人体が私だ、と私が感じる仕組みはなさそうですね。

次のようなSF的設定を考えてみましょう、私のこの身体が、眠っているうちに異星人に手術されてしまって、脳は異星人の宇宙船のカプセルに移されてしまいました。脳の代わりに頭蓋骨の中に無線送受信機を埋め込まれた私の身体は地球上の私の家に戻されますが、運動神経と感覚神経を無線機に接続されて、宇宙船内に置かれたカプセル内の脳と電波回線でつながっています。そのとき、自分の家のソファに座った私が目の前のリンゴをむいて食べて、おいしいと感じても、それは宇宙船にあるカプセルの中の脳がそういう神経活動をしているということではありませんか? そういうときも、この人体が私なのでしょうか? さらに、異星人が、ますます実験熱心になって、私の記憶を消去してから、私とは別の人間、X君の頭蓋骨の中にさっきの無線送受信機を移設したらどうなるでしょうか? 私はX君に乗り移ってしまって、その肉体を自分だと思うようになるわけです。だって、記憶は全部X君の持っていた記憶データに置き換えられているし、周りに見える風景は、X君の両眼で見ている風景だし、私がつねって痛い頬っぺたはX君の頬っぺたなのです。そのX君が、まさに、今この私だと思っている肉体なのかもしれません。そんなばかな! と笑い飛ばすSFマンガの世界です。

しかし、そうでないという証拠はありません。異星人にそういう変なことをされていない、という保証はありません。私たちの経験から推定すると、その確率は無視できるほど小さいだろう、と思えるだけです。

このここに見える私らしき肉体が、私がいま感じているすべてのことを感じているのか、考えていることを考えているのか、あるいはそうでないのか、知ることはできない。私の脳の神経細胞を一つ一つ顕微鏡で見ても、だめです。ここにあるこの人体の脳というその物質が何かを感じているらしいことは分かっても、それが、私のいま感じていることなのかどうか、決して分かりません。私たち人間は、この物質世界を感じることはできますが、この物質世界の中をいくら探しても、今自分がこの世界を感じているその仕組みは見つからないのです。

話がここまでくると、「この世界に、私というはっきりしたものは存在しない」と言っても、驚く人は多くないでしょう。

奥さん(または旦那様または恋人)が不機嫌そうな声で「それで、あなたは何なの?」と聞いてきたときに、「私? 私というようなはっきりしたものはこの世界に存在しないのではないだろうか?」と言ってみましょう。奥さん(または旦那様または恋人)の声は、急にやさしくなって、「うん、うん」と言ってくれるでしょう(あるいは、張り飛ばされるかもしれませんが、そうなっても筆者の責任ではありません)。

昔の哲学者が書いた「私は考える、故に、私は存在する」(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』)という文章が、後世の人々を混乱させました。「私は考える」で文章を終わりにすべきでした。あるいは、せいぜい「私は考える。故に私は存在する、と言えるか? いや、言えないかもしれないな」くらい気が弱そうな文章にしておけばよかった。

「私は存在する」などと自信がありそうに言い切ったから、その後三百年以上、哲学は混乱したのです。近代数学の創始者であり、歴史上一番偉そうな哲学者が「故に私は存在する」などと宣言して、しかも後世の哲学者たちがそれをありがたそうに(もとはふつうのフランス語で書かれた文なのに、後世の学者が好んでコギトエルゴスムとラテン語で書くので、よけい偉そうに聞こえる)教科書に仕上げたからいけない。まじめな人は、人間の脳のどこかに「私」に当たる物質構造が存在している、と思ってしまうのはしかたないでしょう。

この言葉の混乱は現代にまで根強く残っています。混乱が整理できないうちに科学がどんどん発展してしまったために、かえって事態は悪くなった。科学の信頼性が増してきた分、物質世界の存在感はますます強くなる。現代人にとっては、目に見える物質世界だけが唯一の現実として確固として存在しているわけです。そういう現代人の感覚を身につけている私たちが「私は存在する」という言葉を聞くと、すぐ現実の物質世界との関係を考えてしまう。そうすると、その意味がますます不可解に思えてくるわけです。

この問題は、物質世界に通暁しているはずの現代の科学者を特に悩ませています。実際、「私」あるいは「自我意識」にあたるものは脳のどこに存在しているか、と悩んでいる脳科学者がたくさんいます。脳の奥底に、私が感じていることをとりまとめている小人(ホムンクルスといわれる)がいる、と感じてしまうらしいのです。まじめな哲学者や科学者は、「私は存在する」という文章を間違いないと思い込んでしまうので、「私」という仕組みが脳のどこかに物質構造として存在するはずだ、と考えてしまうのですね。科学者も科学者でない人も、この(心身問題とよばれる)問題が解明できなければ科学はまだまだ未開拓の学問だ、と言いたくなってくる。科学者が首をひねる問題は哲学者の領域だというわけで、ここでがんばろうと思う哲学者も多くなってくるわけです。

しかしこの辺から、近代現代の哲学はおかしくなっていきました。また同時に、現代科学も、経済や軍事などに実用的ではあるけれども、生や死や自我、という個人の人生で一番大事なことを解明できない片手落ちの学問だ、と思われてしまうようになったのです。

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苦痛はなぜあるのか(3)

2007-10-06 | x1苦痛はなぜあるのか

さて、他人が物質に何かをしている光景を見て私がはっきりと感じられるものは、その物質がその人の視覚にどう見えるか、聴覚にどう聞こえるか、触覚にどう触れるか、ということです。その物質が人間の場合、つまり、私以外の人間が、第三の人間に何かしているのを私が見て、私が感じられることは、やはり、第二の人から見て、第三の人がどう見えるか、その声がどう聞こえるか、その身体に触るとどう感じられるか、くらいなものです。第二の人が第三の人の苦痛をどう感じるか、第三の人の心をどう感じるか、ということは私には、ぼんやりと分かるような気もしますが、実ははっきりとは感じられません。

人間が人間を見て直接分かることは、こんな程度です。慧眼の士は人心の奥を見抜く、とはいわれますが、それは、いかに優れてはいても、経験と理論による推測であって直接の感覚ではないでしょう。こういう事情から、人間がこの世界で自分の身体以外のことで、直接はっきりと分かることは、基本的に視覚と聴覚と触覚で感じられる物質現象だけから作られている。自分だけでなく、だれが見てもそう見える、と思われるものごとは、物質現象だけです。そういうものが、この世、つまり現実世界だ、と私たちは思っている。

視覚と聴覚と触覚でだれもが感じられると思われるものごとだけから私たちの脳内に作られた模型が物質世界だとすると、そこに含まれるものは当然、私が感じるもの全体ではなく、その一部分でしかありません。つまり、私の感じる自分自身の、あるいは他人の、苦痛、かゆみ、物質の存在感、感情、あるいは命、心、というようなものは目に見えず、耳に聞こえず、手で触れません。視覚と聴覚と触覚で、だれもが同時に感じられて、指差せるようなものごとではない。これらは、だから、物質世界から見ると錯覚でしかない。こういうものの存在感は、主観的には、私たちはそれぞれ身体の内部でかなり強く感じられますが、客観的には、だれとも共有できる物質世界の中にはないことも明らかです。だから、苦痛やかゆみなどの主観的感覚を客観的な物質世界の中で探そうとすると、いくら科学を極めてもどうしても見つからないのです。

客観的な物質世界には、命や心が存在しないのと同じ理由で、苦痛も存在しない。本人が苦痛を感じるというときに活動している神経機構が、物質としてのその人の脳の中に存在する、ということだけが物質世界での事実です。他人の脳の神経機構が苦痛を感じているらしい化学変化を示すところを顕微鏡で見ることができたとしても、私たちは、他人の苦痛そのものを感じることはできない。

たしかに、他人の表情や声色や、傷からの出血などの具合から、直感的に他人の苦痛を感じ取る神経機構が、私たちの脳には備わっているらしいという科学的証拠はある。しかし、その神経機構の感度も個人差があるらしく、鈍感な人と敏感な人の差はかなりありそうです。

その棘が痛い、と感じたとき、本当にそこにある棘が痛いのか? 隣の人に聞いてみた場合に「そうだよ。その棘は痛いよ」と言ってくれれば、その棘は、やはり痛いのだな、と思えばよいわけです。「刺されたことがないから分からない」と言われてしまえば、もう、その棘が痛いと言っても人には通じない。その棘が痛い、という言葉の意味はないことになります。隣の人がどう言うかによって、棘は痛かったり、痛くなかったりする。このことは、痛みというものが、棘という物質のなかにあるものではないことを示している。つまり痛みは物質に含まれているものではないのです。

では、自分の手が痛い、と感じたとき、本当に手が痛いのか? 目に見えるその右手が痛いのでしょうか? 切り傷があって血が出ているし、皮膚も赤くなっている。触ってそこを押してみるとずきんと痛みを感じる。どう見ても、明らかに目に見える右手の傷が痛んでいるらしい。

でも、痛みを感じているのは右手そのものではないでしょう? その証拠に麻酔によって右手から脳に来る神経信号を遮断すると痛みは感じられなくなる。では、痛みは脳にあるのか? 脳細胞を顕微鏡で見てもはっきりと痛みを示している物質は見えない。ある種の神経伝達物質が分泌され一群の脳神経細胞が活動していることが、その手の傷の痛みだ、ということになるのでしょうか? そう言われれば、そういう気がしてきます。でも、それは、手の傷を見て、ここが痛い、と思うことと同じでしょう? 身体のその部分から痛みが発生している、といわれれば、そこから痛みが来るような気になる。それは暗示によってそう思うだけです。実際、私の肉体、私の脳、という物質のどこかに、今感じているこの痛みが、本当にあるのか? 

そういう気がする、というだけでしょう。そういう気がすると、私たちは物質に痛みがあるように感じる。バラの棘に痛みがある。自分の手の傷に痛みがある。脳の神経細胞の活動に痛みがある。どれも暗示による錯覚といえる。そういう気がするというだけです。

私は間違いなく苦痛を感じる。けれどもその苦痛は、この物質世界にはない。私が感じるものが、すべて、この世界に存在しなければならない理由などないわけです。むしろ私が感じるものの一部分だけが、この物質世界を作っている。特に視覚と触覚と聴覚で、私がそこにあると感じるものだけが、仲間の人間と一緒にそれを観察することができてその存在感を明らかに共感できることで、この物質世界を作っているのです。

バラの棘が痛い、ということで話が通じれば、棘に苦痛がある。手の傷が痛い、ということで話が通じれば、手に苦痛がある、ということです。それは苦痛が物質世界に投影された錯覚です。同じように、脳が苦痛を感じる、ということで科学者の間で話が通じるとしても、それは物質世界に投影された錯覚について、話し合っているのです。

「あの人に苦痛がある」という言い方の意味は、「私が苦痛を感じるようにあの人も苦痛を感じるのではないかと私は感じる」ということでしょう? そして、「(話し手が聞き手に向かって)あなたも私も、それぞれ自分の身体で感じられる苦痛を、お互いに理解できるということにしましょう。その上で、あの人も同じような苦痛を感じていると想像しましょう」、という暗黙の了解を求めている。もちろん、私たちがいつも、こんなふうに論理的な図式を意識して言葉を使っているわけではありませんが、無意識の直感で人の苦痛の表情を見て取り苦痛を感じ取ると同時に、こういう図式を暗黙の前提として「あの人に苦痛がある」という言葉を発するのです。聞き手も同じ前提を直感で理解していて「あの人に苦痛がある」という言い方を受け取る。このような会話をしているとき、私たちは必ずしも、この物質世界のどこかに苦痛という実体が存在する、といっているのではありません。スムーズに話を通じさせるために、言い換えれば、その苦痛が想像できるということの共感を共有するために、「苦痛がある」という便利な言い方を使うことにしているのです。

世界の捉え方と言語のあり方との関係を厳しく観察した二十世紀の哲学者たちは、苦痛をよい例題として自説の議論展開に使いました。たとえば、苦痛そのものの存在とは関係なく苦痛という言葉は使われる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出)という考えや、苦痛を感じるということは、感じている人間の脳(あるいはロボットの電子回路)などの状態ときっちり対応しているのではなく、その物理的システムの具体的仕組みだけからは説明しきれない上位の機能として捉えるべきだ(一九八八年ヒラリー・パトナム 『表現と現実』既出)、という考えなどが、現代哲学の考え方を代表しています(これらの考えの筋道は拙稿の論法と似ていますが結論は違うので注意→第13章で存在について拙稿の見解を述べる予定)。

「苦痛は人体のどこに存在するか?」と聞いてしまうと、私の人体も脳も含めてこの物質世界には苦痛は存在しない、という答えになる。苦痛は、人体のどこかの部分にそれが存在するという言い方をするときには意味がなくて、ある人が(主体として)それを感じる、というときにだけ意味があるわけです(一九六九年 ダニエル・デネット『説明の個人および部分個人レベル』)。

ほかにも苦痛に関して、現代哲学では、いろいろ面白い論議がされています。たとえば、苦痛という素朴な心的表現を避けてうまく別の言葉で表現することで、苦痛を客観的に捉えようという試みが、研究されています。「苦痛」といわずに「苦痛があるようにみえる行動を起こすもの」ということにすれば、それは脳のある物質的状態を指すから、そうやって苦痛を物質現象として決め付けられる(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』既出)とか、いやそれはだめだ、気違いとか火星人がする苦痛のような行動は脳の状態が違うだろう(一九八〇年 デイヴィッド・ルイス『狂人の苦痛と火星人の苦痛』)とか、興味深い諸説があります。ちなみに筆者の見解は、苦痛とみえる行動に対応する(脳状態など)物質現象が決め付けられるかどうかというような議論は重要ではなく、その(自分のも含む)人体の変化として観察する私たち観察者の脳機構がそれを苦痛と感じることが重要であり、それ(苦痛と思えること)が苦痛の意味だ、というものです。

私たちが苦痛と言っているものは、この客観的物質世界には存在しないという意味で、錯覚というべきものです。私たち人間は、人の表情や声色など運動の外的な表れ方と自分自身の内部感覚とを手がかりにして、それが存在しているかのごとく言葉で言い表すことで、(前述の心や欲望と同じように)その錯覚を共有し便利に使っているわけです。(存在については、次次章で拙稿の見解を述べる予定)。

11  苦痛はなぜあるのか  end

12 私はなぜあるのか?

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