哲学の科学

science of philosophy

物質の人間的基礎(3)

2013-12-28 | xxx7物質の人間的基礎

科学理論から推測すれば雪は白かった。だから雪に覆われた地域では保護色として白い表皮を持つ恐竜が進化しただろうとも推測できます。しかし変温動物の恐竜は雪の中では動けないでしょう。そうすると白い恐竜は存在しなかったのか? こういう議論ならば科学者も参加してくれるでしょう。しかし拙稿がここでしている議論は、もう少しややこしい。

「雪は白い」と言える世界が、私たちが住んでいる世界です。しかし、無色の結晶の粉末が可視光線を波長によらず一様に反射するような物理法則に従っている世界では、かならず「雪は白い」と言えるのか? 物理法則は同じであっても人間がいない世界では、そうはいかないのではないか?「雪は白い」と言う人間がいない世界は私たちが住んでいる世界と同じなのか、いや同じではないのではないか、という問題です。

 たとえば、人間が住んでいない南極にも雪はある。というよりも、雪しかない。その雪は白いのか?

 愚問に聞こえますね。

 行ってみればすぐ分かる。現代では犬ぞりなど使わずに、飛行機で簡単に行けます。間違いなく、そこの雪は白いでしょう。

 しかし、行ってみなくても、そこの雪は白いに決まっているではないか、と思えますね。それは科学理論によってもそうであると分かりますが、それ以前に直感でそうに決まっていると思えます。

まあ、そういうことにして、先に進みましょう。

それでは、火星の南極にあるらしいとされている雪は白いのか?

これは愚問でしょうか?

H2O

固体の粉末は白い。故に火星の雪も白い。そうは言えますが、ちょっとすっきりしない気がしませんか?

次にこういう話はどうでしょうか? 海王星の軌道の外側に、2004年に発見された準惑星ハウメア の表面は望遠鏡の分光分析で白色と観測されています。反射率から推定すると雪のような氷の結晶らしいとされます。この雪(らしい物質)は白いのか?人間は、まず遠い未来であっても、たぶん、この天体には、地球から遠すぎるので、着陸できないでしょう。そういう天体の雪は白いのか?

「ハウメアにおいて、雪は白いと言えるか?」こんな質問をされた場合、惑星科学者、あるいはSF愛好家以外の人は横を向いてしまいたくなるでしょう。直感では想像するのもむずかしい。科学理論を援用すれば、仮にそこに人間を置いた場合、その人間は視覚で白を感知するはずである、と推定されるが、それをもって「ハウメアにおいて雪は白い」と言ってもよいのでしょうか。科学者は、たぶん、そう言ってよい、というでしょう。一方、科学者ではないふつうの人は、そういう分からない話は聞きたくないと思うでしょう。

初めて名前を聞いただけの天体に関して仮にそうであるとしても、それを知って私はどう動けばよいのか?もしそうでないとすれば、私はどうすべきなのか?どうにも関係はありそうにありません。

ほとんどの人にとって準惑星ハウメアの表層における雪状の物質はこのような話として存在しています。ほとんどの人にとってハウメアの雪は、要するに、どうでもよい物質です。取るに足らない話です。しかし、地球上あるいは宇宙の、どの物質についても、物質というものは、たいてい、このような話としてしか存在できないのではないでしょうか?

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物質の人間的基礎(2)

2013-12-21 | xxx7物質の人間的基礎

たとえば「雪は白い」という表現形式は、ふつうに聞けば、客観的事実だといえる。客観的事実であればそれは科学的真実である。雪は可視光線を波長によらず一様に反射するから白い。

雪は白い、ということが真実であると私は知っている。なぜ知っているかというと、私自身が雪を見るといつも白いと感じるからであり、また、だれもがそう感じると私が感じるからである。しかしそれだけではない。次のように理論によっても、雪が白いことがわかる。

つまり、雪は氷の結晶の粉末である。氷は透明である。雪に限らず無色透明な結晶の粉末は白い。無色の結晶の粉末は可視光線を波長によらず一様に反射するから白い。

しかし、可視光線を波長によらず一様に反射する物はなぜ白いのか?それは人間の視覚はそういう光を白と感じるようにできているからである。あるいは、そういうような光を感じる場合、それを(日本語では)白という言葉で表すからである。

絶望するとなぜ頭の中が真っ白になるのか?人間はだれでもそうなのか?吹雪に閉じ込められて遭難した時の記憶を生まれる前の記憶として持っているからなのか?白はなぜ涼しいのか?なぜ清潔なのか?

白は清潔な感じがする、というのは真実なのか?アンケートを取れば90%の人の人はそのとおりと答えてくれます。しかし90%の人がそう感じるならばそれは真実なのか?

人類が誕生する遥か昔、恐竜が大絶滅したころの時代に降った雪も白かったのだろうか?私たちの常識では、当然、雪は白かったはずです。しかし、なぜそう言えるのか?

恐竜たちが「雪は白いね」と(恐竜語で)語り合ったということはないでしょう。「今朝、白い雪が降った」と(恐竜語で)日記に書いた恐竜はいませんでした。雪の反射スペクトルを測定した恐竜はいませんでしたし、観測結果を発表する学会もありませんでした。

恐竜の時代も雪の成分や構造は今と同じはずです。そうであれば、太陽光の反射スペクトルも同じ、つまり水が固体として結晶した場合、その構造の粉末は可視光線を波長によらず一様に反射するから、私たち人間が見れば白色に見える。このことをもって、過去のその時代でも雪は白かったというべきなのか?という問題です。

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物質の人間的基礎(1)

2013-12-14 | xxx7物質の人間的基礎

37 物質の人間的基礎 begin

    37 物質の人間的基礎

ここに物がある。

物があるということは、単に、物があるからだ、と思えます。ここに物があるのは、しかし、ここに人間がいるからでしょう?

人間がいなければ物質はない。いや、そういう言い方をすると、人間原理 に過ぎない、と叱られそうなので、「人間が物質を感知しなければ物質に関する会話はない」と言い換えます。

人間が物質を感知しなければ物質について語る者はいない。言語を使う者は人類だけですから、人間がいなければ何事に関しても語るものはいない。当然です。

言語を使えなければ何に関しても会話はない。当然、物質に関する会話もない。物質に関する会話がなければ世界は語られない。物質に関する会話がなければ科学はない。結局、人間がいなければ物質はないのと同じである、と言いたい。これは言えるでしょう。

言い換えれば、人間の身体がなければ世界や科学という言葉は意味がありません(拙稿章「この世はなぜあるのか?」 )。

人間がいなければ物質はないという考えは、しかし、あまり一般的ではありません。そんな話はふつうしません。たいていの人は、そういうような会話は聞いたことがないでしょう。公開の場で言ってみても、空気がしらっとなりそうです。

「人間がいなければ物質はありませんね。そう思いますか」と面と向かってしつこく聞いてみても、賛同しないという人が多いでしょう。特に科学者は賛同しません。科学は人間の主観に影響されるものではなく、自然を客観的に捉えたものでなくてはならない、と多くの科学者は信じています。

人間がいない無人島にも、珊瑚礁は存在する。人類がいなかった一億年前にも恐竜は存在した。人間が入れない原子炉の炉心にもプルトニウムは存在する。と科学者は言い、ふつうの人は、それはそうだろう、と思う。

しかし、と拙稿は言う。人間がいなければ物質に関する会話もない。物質に関する会話がなければ世界は語られない。人間がいない無人島では、珊瑚礁は語られない。人類がいなかった一億年前には恐竜について何も語られなかった。人間が入れない原子炉の炉心でプルトニウムを触りながら何かを語る者はいない。それらの場では、物質について何も語られない。語られないものは、ないと同じである。結局、人間がいなければ物質はないのと同じである。

科学は客観的物質現象を記述するから、人間の身体があろうとなかろうと、どうであろうと科学の真実は変わらない、という考えが常識ですね。確かに近代科学はそのような常識の上に作られています。このような近代科学の世界観は近代哲学に基礎をおいています。

近代哲学によれば、人間が記述する世界の描写は、人間の感覚によって捉えられる現象だけを源泉としているから、人間の感覚の外側にある生の物自体については表現することができない(イマニュエル・カント純粋理性批判 』既出)。

物自体そのものは表現できないけれども言語や数学を使って物自体と矛盾のない表現形式を作ることはできる。世界の物自体と矛盾なく表現されている形式を真実という。その真実を法則として理論化したものが科学だ、という考え方です。

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目的の起源(12)

2013-12-07 | xxx6目的の起源

人は人の動きに目的を見る。人の行動は、しかし、ほとんどは無意識の反射で構成される動作、さらに多くは仲間の動きに誘発される共鳴運動、あるいは、詰将棋やテストの答案を書くときのように意識的に計算された計画行動、の組み合わせで実現する。それでも、言葉でそれを語るとき、すべては目的を目指す行動として、人はそれを語る。

私たちがいつもする日常会話、テレビ、新聞、文学、社会経済理論、科学論文あるいは学説などでは、人は目的を実現するための方策を比較検討し、結果を計算して最適な方策を実行する、ということになっている。たしかに人間は、場合によっては、やればそのような予測の計算はできます。

その予測計算された計画の実行を、しかし、実際に実行する場合は少ない。

コンピュータが人間よりも正確に迅速に実行できる最適化計算。詰将棋。試験答案。王より飛車をかわいがったりしない冷徹な戦略。最大利益ビジネス戦略。そういうものは現代人が思っている理想化された目的行動ですが、極めてまれにしか実際の人間の動きにはならない。人の行動のほとんどは無意識の反射か、仲間の動きに誘発される共鳴運動の連鎖、あるいはそれに触発されるルーティン的行動です。

実態がそうであっても、人間は、その他人あるいは自分の行動を目的の追求と見る。そう観察する。そう観察するように人間の身体ができているからです。

人間が使う目的追求という行動様式は、もともと集団の動きへの(意識にのぼらない)共鳴追従にある。しかし私たち現代人はそれを、個人の内面に発生するものとして語る。

そのように目的を語りあう私たちの会話の起源は、自分たちの行動を目的追求の図式として観察する私たち人間の身体構造にある。またそれを個人的目的の追求という図式で語る語り方は、階級制社会のエリート層から始まり、資本主義社会での個人間競争によって定着した歴史上新しい人間観からきているといえます。■

36 目的の起源 end

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