哲学の科学

science of philosophy

「する」とは何か(6)

2011-08-27 | xx6「する」とは何か

私たち人類は、太古の昔に、「~する」という図式の言葉を発明し、現代にいたって完全な科学を獲得しました。ここに述べたようにこの二つの世界は相容れないところがありますが、私たちはそれを気にせずに、場面場面でどちらをも便利に使っています。物事の認知を共有するために私たちが発明して使っている表現法には、言語や科学のほかに種々あります。たとえば絵画。絵画表現は言語に翻訳できず、逆に言語表現を絵画で表すことはできない。マンガ、アニメ等も同じように独自の表現世界を作っていますね。

音楽もまた独自の表現世界です。言語に翻訳できない。もちろん逆に言語表現を音楽で表すことなどできません。数学もまた日常言語に翻訳できない。(古典述語論理 など)論理学の言葉を使えば翻訳できるといえるかもしれませんが、いずれにせよ、自然の言語表現を数学やコンピュータ言語に翻訳はできません。

人類の言語表現を数学で描写しきろうとしても不可能です。本質的に数式しか分からないコンピュータには人間の言葉は分からない。ロボットもこれが分からないから、ロボットは人間と違う。人間と同じ意味で言葉が分かるようなロボットが作れたら、それは人間の一種ですね。

まあ、人間の脳神経系のシミュレーションができる高性能コンピュータを内蔵するロボットを作れれば、それは人間と同じ感性を持つでしょう。今の科学知識と技術水準では無理です。

ちなみに人間とロボットとの大きな格差は、現在作られているロボットの動きをみればすぐ分かります。それらの機械の動きは、あまりにも鈍重ですね。感情がない無脊椎動物のようです。運動共鳴 ができないので、仲間(他のロボットというよりも人間)の動きが読めない。空気が読めない。そのため何が現実で、何が現実でないのか、も分かりません。逆に人間はだれもが、やすやすと仲間の動きを読み、空気を読み、現実がどうなっているかを見分けます。

人が何かをしようとしていることを、私たちはやすやすと、正確に予測できる。だれかがどう動いてくるか、今の動きから次の動きを読める。それは相手の動きが自分の身体の動きのように感じられるからです。人間の身体はそうなっている。協調して仲間と一緒に同じような動きをするように私たちの身体ができているからです。

そうして仲間のだれでもが感じ取っている世界の現実が分かる。皆が感じているはずの世界に自分の感覚を埋め込んでいるからです。自分は皆が感じ取っているこの現実世界を感じているのだ、と私たちは思い込んでいます。つまり私たちは無意識のうちに、客観的現実の存在を感じ取ることができる。自分の身体がその客観的現実の内部に置かれていると感じる(拙稿第6章「この世はなぜあるのか?」 )。現実の状況を読み取ることができる。それが人類の運動共鳴機構です。

人類はこうして、客観的現実を感じ取ることができるようになったがゆえに、科学を作り出し、現代科学の描写する物質世界を理解するようになりました。仲間が感じる現実の物質変化が読み取れるから科学を理解できる。そうして科学理論によって予測される物質変化を現実と感じることができる。

私たち現代人は、科学の理論による予測を現実と感じ取って、自分たちが身体で感じ取っている身の回りの客観的現実と重ね合わせるようになりました。つまり、自分がいま感じ取っている感覚は科学が描くような世界がここにあるからそれを感じ取っているのだ、と思うことで、私たちは自分の身体を科学の理論に埋め込んでいる、といえます。気象学による天気予報を聞いて午後の外出を決める。原子力発電所事故による放射能の拡散予測を見て、飲食物の安全性を心配する。現代人は科学による予測を使わなければ毎日の生活ができません。

しかし、科学の描写する物質世界と私たちが身体で感じ取る現実とはもともと違う。さらに私たちが日常会話で話題を交し合う客観的現実はまた、そのどちらとも違う(拙稿19章私はここにいる」 )。

私たちは、「~する」という図式の言葉をこれらのいずれの世界を語る場合にも使う。違和感を持たずに使っています。そういうことでいいのか? そもそも「~する」という図式の言葉は何者なのか? 私たちが毎日何気なく使っている言語というものは、いったい現実を正しく表すことなどできるのか?

この辺があやしい、ここら辺が私たちの哲学、私たちの世界観、私たちの人生観、が混乱する原因ではないのか、と拙稿は考えます。

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「する」とは何か(5)

2011-08-20 | xx6「する」とは何か

最近の数千年、つまり歴史時代から現代にいたる私たちの農耕・産業文明は言語や絵画を基礎として物質世界を精密に描写する独自の表現法を発明しました。科学です。特にニュートン力学以降から発展した現代科学では、自然にできあがった人類の言語とは違う表現法で世界の変化を予測します。現代物理学は、空間と時間をパラメーターとして分布する関数を記述する数学、たとえば偏微分方程式や積分関数を使って物質世界を描写します。物理学を基礎とする化学、地学、生物学などもまた基本的には電子や分子など物質現象を表現する数学関数の巨視的特徴を記述する専門用語を使わなければ表現できません。

現代物理学の表現では、ある時点で世界がある状態(境界条件)であると、その後は方程式を計算する(積分する)ことで世界の状態変化が決まる。この方法は言語による記述とは違って精密で全域的な描写ができますが、だれが何を考えて状態を予測し状態の変化を引きおこしているのかさっぱり分かりません。世界は自動的に推移していくだけで、だれかが何かを思うことで変化するものではありません。

現代科学が使っているこの表現法では世界の内部にある主体の運動を予測するような「~する」という図式の言葉は使えません。そういう図式の意味が出てきません。つまり現代科学は、本質的に、ふつうの日常語では記述できません。逆に、私たちの日常語表現(たとえば「あるものがあることをする」という表現)を現代科学の表現法に翻訳することは原理的に不可能です。

科学の中でも生態学などでは、動物の行動などを記述する場合、「オスはメスを求めて繁殖地へ向かう」などという「あるものがあることをする」という表現形式を使っての観察結果が描写されます。しかし、科学としての生態学では、動物の行動という現象も生物体を構成するDNAなどの分子の物理的運動あるいは化学的反応から生成されているという原理を前提にしていて、そのうえでの簡略表現として、たとえば動物の神経系筋肉系の遷移の結果としての生態行動を描写するという態度を堅持しています(たとえば一九五三年 バラス・スキナー 『科学と人間行動』既出)。

一方、私たちの日常会話では「オスはメスを求めて繁殖地へ向かう」という言い方を素直に字句通り受け取って理解できてしまいます。メスを求めるオスの心情がよく分かる。私たちは動物の生態を小説のように読める。この場合に、DNA分子の分離結合エネルギーなど想像もしませんね。

つまり、「~する」という図式の言葉を使う私たちは、現代科学の描写する物質的世界とはまったく違う世界を感じ取って生きている。私たちは「~する」という言葉が分かることによって、現代科学が描く物質世界とは違う世界が分かる動物になっています。運動共鳴 によって仲間が動くことの意味が分かる。何かが何かをしようとしてする、ということが分かる。それが人間の感性です。

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「する」とは何か(4)

2011-08-14 | xx6「する」とは何か

私たち人間は、ある場面での自分の身体運動の興奮をその場面の状況とともに記憶できます。おそらく多くの哺乳類、あるいは鳥類も、これができるのでしょう。動物の観察からその証拠を見つけることができます。それらの動物の中でも特に人間は、自分の身体運動ばかりでなく他の人間あるいは物事の運動や変化をも仲間との運動共鳴を使って記憶できます。これが物事の概念を作り、さらには言語の基礎になっていきます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

ある状態にある物事にある運動を加えると状態が変化する。リンゴは食べるとなくなる。「状態」*「運動」=「別の状態」。これは変化です。「状態A」*「運動X」=「状態B」という法則が見つかる。この法則を知っていれば、「状態A」のとき「運動X」を実行すれば「状態B」が出現すると予測できる。また「状態A」*「運動Y」=「状態C」という法則も見つかります。生活の上で頻度が高く出現するこういう法則をいくつか学習しておくと生存に有利な場合があるでしょう。人間はこのような法則を学習して身体に刻み込んでいく能力を進化させました。人間以外の種々の動物がこのような法則を学習する能力を持っていることの観察実験例は動物生態学の研究でよく知られています。

自分の身体が運動することで、環境つまり身の回りの世界の状態が変わる。その変化に身体がどう反応するかを知ることで変化した後の状態を予測することができます。ある種の動物は、こういうような運動による環境・状態の変化の法則を予測する能力を進化させた、と考えられます。人類もそう進化したのでしょう。

赤ちゃんにお母さんが「ワンワンよ」と言い、赤ちゃんが「ワンワン、ワンワン」と叫ぶとき(赤ちゃんとお母さんとの間の)運動共鳴が起こる。それにより状況変化の予測の共有が可能になる。この仕組みを使えるようになった人類は、仲間どうしの緊密な協力が可能になる。それは人類の増殖につながったでしょう。そうして人類の間に広まった仕組みが言語といわれるシステムです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

人類においてはこのように認識共有が言語機構の基盤であると同時に、言語機構がまた認識共有を支えています。人類は、世界の状態変化に関する予測をこのように共有することで緊密な協力行動の能力を獲得し、その結果、(拙稿の見解によれば)生存圏を地球全域に拡大していくことが可能となりました。

赤ちゃんが犬を見て「ワンワン、ワンワン」と叫び、ニュートンが落下するリンゴを見て「リンゴに地球の引力が作用する」と論文に書く。これらの現象はどれも、世界の状態変化に関する予測を仲間と共有するという同じ仕組みで起こる人間の言語活動です。

仲間との間で運動共鳴が起こり、それにより状態変化の予測の共有が起こる。現実世界がどう変化していくかの予測を仲間と共有する。これによって人類特有の客観的現実の存在感がつくられます。私たちの身体が(赤ちゃんの場合)犬、あるいは(ニュートンの場合)地球引力になったと仮定してその身体で吠える、あるいはリンゴに作用することを考える。そうすれば何が起こるのか、今の状態がどう変化してどういう状態になるのか予測する。話し手である私は聞き手であるあなたと一緒にそれを予測したい。予測を共有したい。ワンワンがワンワンすることによって状況はワンワン状態に至る、という客観的現実の予測をしたい。あるいは、リンゴに地球引力が作用するからリンゴは落下状態になる、という客観的現実の予測をしたい。そういう場合に、私たちは(赤ちゃんの場合)「ワンワン、ワンワン」あるいは(ニュートンの場合)「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を発する。

「~する」という言葉はこのように使われます。

話し手と聞き手が共有していると感じられる客観的現実世界の中で、あるものがあることをする。そうすると、客観的現実は、ある状態から別の状態に変化が起こる。逆に言えば、世界のある状態から別の状態に変化が起こるとき、あるものがそれを予測してその結果ある動きをすることを客観的現実として予測する場合に「あるものがあることをする」という言葉が発せられる。

話し手と聞き手が、仲間として一緒に、その変化を予測して互いに共有するために「~する」という言葉は使われています。これが言語一般の構造を作っています。つまり人類の言語は、客観的現実世界の中であるものがあることをしようとしてその結果を予測したうえでそれをすると、ある状態から別の状態に変化が起こる、という図式で物事を表現する(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

実際、人類の言語というものは、それ以外の表現法は使いません。これは(拙稿の見解では)、人類の言語が仲間との間での運動共鳴とそれによる結果予測の共有という仕組みの上に作られているからです。仲間とともに物事の変化を予測し、それを共有して集団としてしかるべく行動する。そうすることで人類は仲間との緊密な協力行動を行う能力を獲得し、地球全体に広がっていきました。

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「する」とは何か(3)

2011-08-06 | xx6「する」とは何か

ニュートン力学とリンゴの話はこれくらいにして、もっと単純な、言語の原型とも言える、幼児語を研究してみましょう。一歳の赤ちゃんが犬を見て「ワンワン、ワンワン」と叫んだとします。大人語に翻訳すれば「犬がいる」、あるいは「幼児と同じくらいの大きさで四足で歩く動物的なものがいる」「この動物的な物体はワンワンと鳴くだろう」、あるいは「ワンワンと鳴く動物が現れた」などとなるでしょう。

この時、赤ちゃんは実際のところ、何をしているのか?

犬に注目していることは間違いありませんが、なぜこういう言葉を叫ぶのか?それは赤ちゃんだけを観察していてはよく分かりません。赤ちゃんの周りはどうなっているか?お母さんがいます。お母さんはたいていの場合、こういう状況では「ワンワンね」とか「ほらワンワンがいるよ」と赤ちゃんより先に言葉を発している。赤ちゃんはお母さんの声を聞きながら、時には顔を見上げながら「ワンワン、ワンワン」とワンワンについて何事かを叫ぶ。

つまり赤ちゃんとお母さんは、仲間として、犬の出現に対応している。犬の出現によって自分たちのまわりの状況が変化し、その結果これから自分たちに関係のある何かが起こってくる。何が起こっていくのか? それを仲間(この場合お母さん)と一緒に予測しようとしている。そういう場合に、赤ちゃんは「ワンワン、ワンワン」と叫ぶ。

「ワンワン、ワンワン(ワンワンがワンワンする)」という幼児語は、こう使われます。赤ちゃんとお母さんは一体となって犬の身体になっている、二人一緒にその犬になってワンワンと吠える気持ちになっている。その犬がワンワンと吠えようとしている気持ちがよく分かる。

その犬はワンワンと吠えることによって状況がしかるべく変化することを予測してワンワンと吠えるに違いない、と思えます。赤ちゃんは、そういう犬の気持ちが自分の気持ちになっている。そしてワンワンと吠えることにより(たとえば自分はこわい犬であるということを証明することができるだろうと予測したうえで)ワンワンと吠える犬の気持ちになっている。身体がそのように動く気持ちになっている。

赤ちゃんにとっては自分の身体のこの反応が犬の概念を作っていきます。その概念に関連した運動の予測を行う。たとえばワンワンと吠える場合の発声運動の予測です。その予測が記憶されます。

この場合、発声運動を実行する場合に身体がどう反応するかの予測に伴う神経活動の記憶が赤ちゃんにとっての犬の概念となっています。そういうふうに身体が反応するとき、「ワンワン、ワンワン」という言葉が出てくる。言葉はそうして発生する。逆に言えば、その言葉を聞く聞き手は話し手の身体内部で起こっているこのような身体反応を(運動共鳴によって)感じ取ることができるからその意味がそれと分かる(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

赤ちゃんは「ワンワン、ワンワン」と叫ぶとき、自分がそれに注意を向けて興奮しているのが分かっています。目の前に犬がいる場合、犬の姿が視界の中心に来るように目玉と顔と身体をしかるべく回旋する。目を見張る。指さす。よだれも出します。犬の存在と関連する自分の身体のその興奮を記憶しているからお母さんが次の日に犬を指さして「ワンワン、ワンワン」と赤ちゃんに言いかけるとき、すぐに昨日と同じ神経回路を使って興奮することができて「ワンワン、ワンワン」と叫ぶことができるようになっている。身体が反射的に反応するその興奮が「ワンワン、ワンワン(ワンワンがワンワンする)」という幼児語の内容です。その身体反応がその言葉の意味である、といえます。

「~する」という言葉の意味はそういうことでしょう。人間は、犬が吠えるのを見聞きしたとき、ある一連の身体反応を起こす。その身体反応は、個人差はあるけれども、共通に理解し合える。そこに共通の運動共鳴が起こる。その共鳴に対応して(拙稿の見解では)言語は作られています。

赤ちゃんは犬の鳴きまねをする。赤ちゃんにとっては、鳴きまねではなくて、犬として鳴くことそのものです。そのときの自分の身体運動の興奮を記憶する。それが「ワンワンする」ということです。それが赤ちゃんの内部に作られる犬の概念となります。

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