私たち人類は、太古の昔に、「~する」という図式の言葉を発明し、現代にいたって完全な科学を獲得しました。ここに述べたようにこの二つの世界は相容れないところがありますが、私たちはそれを気にせずに、場面場面でどちらをも便利に使っています。物事の認知を共有するために私たちが発明して使っている表現法には、言語や科学のほかに種々あります。たとえば絵画。絵画表現は言語に翻訳できず、逆に言語表現を絵画で表すことはできない。マンガ、アニメ等も同じように独自の表現世界を作っていますね。
音楽もまた独自の表現世界です。言語に翻訳できない。もちろん逆に言語表現を音楽で表すことなどできません。数学もまた日常言語に翻訳できない。(古典述語論理 など)論理学の言葉を使えば翻訳できるといえるかもしれませんが、いずれにせよ、自然の言語表現を数学やコンピュータ言語に翻訳はできません。
人類の言語表現を数学で描写しきろうとしても不可能です。本質的に数式しか分からないコンピュータには人間の言葉は分からない。ロボットもこれが分からないから、ロボットは人間と違う。人間と同じ意味で言葉が分かるようなロボットが作れたら、それは人間の一種ですね。
まあ、人間の脳神経系のシミュレーションができる高性能コンピュータを内蔵するロボットを作れれば、それは人間と同じ感性を持つでしょう。今の科学知識と技術水準では無理です。
ちなみに人間とロボットとの大きな格差は、現在作られているロボットの動きをみればすぐ分かります。それらの機械の動きは、あまりにも鈍重ですね。感情がない無脊椎動物のようです。運動共鳴 ができないので、仲間(他のロボットというよりも人間)の動きが読めない。空気が読めない。そのため何が現実で、何が現実でないのか、も分かりません。逆に人間はだれもが、やすやすと仲間の動きを読み、空気を読み、現実がどうなっているかを見分けます。
人が何かをしようとしていることを、私たちはやすやすと、正確に予測できる。だれかがどう動いてくるか、今の動きから次の動きを読める。それは相手の動きが自分の身体の動きのように感じられるからです。人間の身体はそうなっている。協調して仲間と一緒に同じような動きをするように私たちの身体ができているからです。
そうして仲間のだれでもが感じ取っている世界の現実が分かる。皆が感じているはずの世界に自分の感覚を埋め込んでいるからです。自分は皆が感じ取っているこの現実世界を感じているのだ、と私たちは思い込んでいます。つまり私たちは無意識のうちに、客観的現実の存在を感じ取ることができる。自分の身体がその客観的現実の内部に置かれていると感じる(拙稿第6章「この世はなぜあるのか?」 )。現実の状況を読み取ることができる。それが人類の運動共鳴機構です。
人類はこうして、客観的現実を感じ取ることができるようになったがゆえに、科学を作り出し、現代科学の描写する物質世界を理解するようになりました。仲間が感じる現実の物質変化が読み取れるから科学を理解できる。そうして科学理論によって予測される物質変化を現実と感じることができる。
私たち現代人は、科学の理論による予測を現実と感じ取って、自分たちが身体で感じ取っている身の回りの客観的現実と重ね合わせるようになりました。つまり、自分がいま感じ取っている感覚は科学が描くような世界がここにあるからそれを感じ取っているのだ、と思うことで、私たちは自分の身体を科学の理論に埋め込んでいる、といえます。気象学による天気予報を聞いて午後の外出を決める。原子力発電所事故による放射能の拡散予測を見て、飲食物の安全性を心配する。現代人は科学による予測を使わなければ毎日の生活ができません。
しかし、科学の描写する物質世界と私たちが身体で感じ取る現実とはもともと違う。さらに私たちが日常会話で話題を交し合う客観的現実はまた、そのどちらとも違う(拙稿19章「私はここにいる」 )。
私たちは、「~する」という図式の言葉をこれらのいずれの世界を語る場合にも使う。違和感を持たずに使っています。そういうことでいいのか? そもそも「~する」という図式の言葉は何者なのか? 私たちが毎日何気なく使っている言語というものは、いったい現実を正しく表すことなどできるのか?
この辺があやしい、ここら辺が私たちの哲学、私たちの世界観、私たちの人生観、が混乱する原因ではないのか、と拙稿は考えます。