試行錯誤でいろいろな哲学や理論や信仰が作られていきました。それらはだんだんと洗練され、自然現象や人間行動をうまく説明し、正確ではなくてもかなりの精度で予測し、不安な人々が頼りにしたくなる程度には役に立った。それらが使う言葉と理論は、それぞれの文化の中の法律や儀式や制度や書式や文学を通じて人々に浸透して行った。人々が安心して使いやすく覚えやすく、使うと便利なものに進化していった。仲間と楽しくやれて癒しと安息を感じられて、大きなものに保証されているような、使うと気持ちが安らいで、もうやめられなくなるような、そういう理論が生き残り、普及していった。そういうものが人間の脳神経系の動きにぴったりと共鳴するからです。
「何事もじっと我慢すれば、そのうちきっとよくなるよ」とか、「強く希望すれば、どんな夢もいつか必ず実現する」とか、「思い切ってやれば、うまくいくものだ」とか、何の根拠もなくても、そう言われると人間は元気が出て、癒される。
ちなみに、生き方理論というか、人生成功哲学の講演などでよく言われる「自分は運が良いと信じて前向きに生きる人が成功するのだ」という世の中の法則は、たしかに経験的には正しいようです。ただし、この法則が言っていることは、実は、前向きに生きる人の中のごく一部の人が成功して、ますます前向きを続け、残りの失敗した人たちは前向きに生きることをやめたりする、というだけのことですけれどもね。
まあ、シニカルに言えばこう言える一方、別の真実としては、自分を信じて懸命に生きることの他に人生の幸福があるわけはありません。若い人に、それを教えることは大事でしょう。
ところで、人間はなぜ幸運を求めるのか? 世渡りに成功したとはいえない筆者も、こういう運不運の問題にはとても興味があります。人間はなぜおみくじや宝くじを買うのか?あるいは買わないのか?実に興味深い。しかし、この話を始めると元に戻れなくなりそうなので後まわしにしましょう(後の章で詳述)。
さて、この手の生き方理論で、きわめつけは、「この大きな権威にひれ伏して身をゆだねることでしか、君たちは幸福になれない」というものです。こういう言葉に抵抗できる人は少ない。
ちなみに、権威にひれ伏す、という行動は人間だけの話でなく、哺乳類の古い神経機構の働きで起こるようです。そういう神経系を持った者が多くの子孫を残せたからでしょうね。群行動をする哺乳類の多くの種では、社会的地位の高い個体に出会った低位の個体は、子犬のように、頭を下げたり高音で鳴いて挨拶したりするという行動の観察が報告されている。そのとき、上位の個体のほうは頭をそらしたり低い声で応答したりする。なんだか、会社のエレベーターで上役と会ったときみたいですね。確かに、偉い人にはなるべく高い声で挨拶したほうが覚えがめでたくなりそうな感じがします。筆者も現役の頃、もう少し頭を低くして声を高く出していればもう少しは出世できただろうに、と悔やまれます。
学校の先生とかインテリっぽい大人は「権威にへつらうな」と教えるし、もっと偉そうな宗教家は「ひたすら祈りなさい」とか言っている。どっちが正しいのか。いずれにしろ、人間は権威に盲従したくなるような神経回路を持っているようです。その証拠に、それに働きかける理論は、社会的権威、あるいは宗教的権威など、立派な錯覚を作り出して成功しています。
実際、世界中でそういう錯覚にもとづいた理論、哲学、思想、信仰、文化、文明がいくつも作られて、権威をもって人々に共有されている。それらは互いに境界を接し越境して競合し、人間の集団の間の反目と対立を増幅していきった。暴力や戦争、粛清や魔女狩りがそうして発生したのです。
物質を指す言葉のほうは、こういう事態を避けることができた。
科学の理論の違いで学者たちが対立することはあっても、殺し合いはしませんね。
戦争というものが起こる原因を武器や兵器に利用される科学が犯人であるかのように言う人がいますが、間違いだと思います。暴力や戦争を起こす原因は、物質を表わす言葉を扱う科学よりも、物質を表さない言葉を扱う哲学に近いほうから流れて来るのではないでしょうか。確かに科学は物質についての人間の力を強大にしましたが、それを何に使うか、それを決めるのは物質を表わさない言葉で語られる哲学のほうです。科学は、いわば盲目的に、人間の力を強めていく。それは、物質を表わす言葉を磨き上げて、物質世界の法則を極めていけば必ずそうなる。
ルネッサンス以降、西洋文明の人々は、物質ではない概念を扱う哲学を発展させると同時に、物質を表わす言葉をも磨き上げた。自然哲学と称して物質についての観察、実験、記録、を重ね、物質世界の法則を明らかにしていったのです。近代科学の開祖といわれる自然哲学者が、今から四百年以上も前に語った「科学[知識]は力である(スキエンティア ポテンティア エスト{ラテン語} 一五九七年 フランシス・ベーコン『聖なる瞑想 異端の論について』)」という言葉は、現代の科学の発展を正しく言い当てたといえる。
彼らの後継者たちによる自然の観察と実験、それにもとづいた仮説検証から帰納的に築き上げられた研究成果は近代物理学、近代化学や進化論、工学などを生み、すばらしい自然科学を築き上げた。それらは産業革命を実現し、さらに十九世紀から現在にかけてますます発展し、ほぼ完璧に物質世界を説明し、もうすこしで世界を征服できそうな完全性にまで近づいている。
西洋の哲学者たちは、物質世界を理論化していく自然科学の目覚しい成功に感銘を受けた。そしてその成功が、次には、旧来の神学や哲学に破綻をもたらしていく可能性に気づいた。もともと論理をつめていくルネッサンス以来の西洋文明の哲学が科学の成功をもたらしたのに、そのおかげで今度は、(自然)科学以外の哲学の領域(仮に人文哲学、と言うことにしましょう)が科学と矛盾していくことがはっきり見えるようになってしまったのです。
「科学万歳」、「科学万能」と叫びたくなります。しかしそれでは何も考えていない理系バカみたいに見える恐れがあるので、「人類の科学依存が過ぎるのはいかがなものか」とか、「科学の限界を知らない人類の傲慢は自然の神秘に報復されるだろう」とか言っておくほうが利口に見えるという気がします。しかし筆者がバカに見えるか利口に見えるかにかかわりなく、何と言おうと、科学の進歩には実際かなわない、いずれ科学の一人勝ちは抑え切れない、という気がします。
科学は、自然現象を原子やエネルギーに還元して数値で表わしてしまう。このコーヒーカップもこのパソコンも、この机も、私の人体も脳も思考も、人情でさえも、時間と空間に分布する数値の羅列で説明しきってしまいそうです。科学の見方では、この世は力学の方程式で表わされる四次元時間空間(時空という)の上のベクトル関数でしかない。これら数値の羅列で表わされる物質とエネルギーがどう組み合わさると、人文哲学が思考の対象としている「存在」とか「意識」とか「自我」とか「正義」とかができてくるのか。さっぱり分かりませんね。科学者は答えてくれません。どちらかというと、哲学者がこれに答えるべきだ、と人々は思っています。
十九世紀から二十世紀にかけて、このような自然科学と人文哲学の乖離に苦しんだ新世代の哲学者たちは、その原因を既存の哲学が使う言葉のあいまいさにあると気がつきました。そこで彼らは、伝統的な哲学の言葉を否定し、数学や科学のように厳密で限定された特殊な言葉遣いを作って哲学を再構築しようとした(言語学的転回などという)。
これらの仕事は、今まで使われたことのないまったく新しい概念を作ることで、日常的な言葉にまとわり付いている宗教や古い社会体制の権威をも振り払っていく効果があった。そのために当時の西洋文明の知識人たちに歓迎され、文学、芸術、啓蒙、教育、社会批判、イデオロギー、政治運動、などにひろく応用された。
この面では新しい哲学は成功した。西洋諸国の知識人の間の教養として定着し、神学に取って代わってアカデミーにおける最高の学問としての地位を獲得した。しかし一方で、この新しい哲学運動は、西洋哲学をますます悲劇的な袋小路に追い込んでしまった。
目で見れば分かる物質だけを扱う科学と違って目に見えない直感的な存在感の共有に依存せざるを得ない人文哲学は、どうしても直感に伴う曖昧さの侵入を防ぐことができない。そこに哲学者たちは論理の破綻を見てしまう。そこで再び混乱が始まる。対立する論敵を論破して学派の勢力を守るために、ますます特殊な言葉と特殊な論法を作って論争を発展させる。それらを統合するためにさらに新しい言葉と論法を作り出し、哲学を立て直そうとする議論も表れる。そうして際限なく現代哲学は難解になっていく、という悪循環が始まった。
ちなみに直感的な存在感を極力排除する方向に全力を傾けた哲学の一派は、形式論理の研究に徹底し、数理論理学や現代数学の基礎論になっていき、それはそれで成功した。間違わない哲学を作ることに成功したのです。たしかに、数理論理学や数学は矛盾のない形式的な体系を作ることには成功しましたが、その分ふつうの人々の悩みからは遠く離れてしまった。「円周率は存在するか?」という問題に日夜悩まされている人は少ないでしょう。
ふつうの人が日ごろ気にしてしまう言葉は、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」というようなものでしょう。こういう、目に見えないものを表わす人間にとって最も存在感がある、印象の強い言葉は、科学では説明できないが最も重要であり根源的なものだ、と思われてきた。円周率などと違って心に響く存在感がある。この世の神秘的な、神聖な、崇高な、あるいは尊厳のあるものを表現しているという気がする。しかもこういう言葉を使いこなすことによって私たち現代人は社会を維持し、互いにつきあい、そして個人の人生を生き抜いていく。