哲学の科学

science of philosophy

言葉は錯覚からできている(2)

2007-01-30 | 2言葉は錯覚からできている

試行錯誤でいろいろな哲学や理論や信仰が作られていきました。それらはだんだんと洗練され、自然現象や人間行動をうまく説明し、正確ではなくてもかなりの精度で予測し、不安な人々が頼りにしたくなる程度には役に立った。それらが使う言葉と理論は、それぞれの文化の中の法律や儀式や制度や書式や文学を通じて人々に浸透して行った。人々が安心して使いやすく覚えやすく、使うと便利なものに進化していった。仲間と楽しくやれて癒しと安息を感じられて、大きなものに保証されているような、使うと気持ちが安らいで、もうやめられなくなるような、そういう理論が生き残り、普及していった。そういうものが人間の脳神経系の動きにぴったりと共鳴するからです。

「何事もじっと我慢すれば、そのうちきっとよくなるよ」とか、「強く希望すれば、どんな夢もいつか必ず実現する」とか、「思い切ってやれば、うまくいくものだ」とか、何の根拠もなくても、そう言われると人間は元気が出て、癒される。

ちなみに、生き方理論というか、人生成功哲学の講演などでよく言われる「自分は運が良いと信じて前向きに生きる人が成功するのだ」という世の中の法則は、たしかに経験的には正しいようです。ただし、この法則が言っていることは、実は、前向きに生きる人の中のごく一部の人が成功して、ますます前向きを続け、残りの失敗した人たちは前向きに生きることをやめたりする、というだけのことですけれどもね。

まあ、シニカルに言えばこう言える一方、別の真実としては、自分を信じて懸命に生きることの他に人生の幸福があるわけはありません。若い人に、それを教えることは大事でしょう。

ところで、人間はなぜ幸運を求めるのか? 世渡りに成功したとはいえない筆者も、こういう運不運の問題にはとても興味があります。人間はなぜおみくじや宝くじを買うのか?あるいは買わないのか?実に興味深い。しかし、この話を始めると元に戻れなくなりそうなので後まわしにしましょう(後の章で詳述)。

さて、この手の生き方理論で、きわめつけは、「この大きな権威にひれ伏して身をゆだねることでしか、君たちは幸福になれない」というものです。こういう言葉に抵抗できる人は少ない。

 ちなみに、権威にひれ伏す、という行動は人間だけの話でなく、哺乳類の古い神経機構の働きで起こるようです。そういう神経系を持った者が多くの子孫を残せたからでしょうね。群行動をする哺乳類の多くの種では、社会的地位の高い個体に出会った低位の個体は、子犬のように、頭を下げたり高音で鳴いて挨拶したりするという行動の観察が報告されている。そのとき、上位の個体のほうは頭をそらしたり低い声で応答したりする。なんだか、会社のエレベーターで上役と会ったときみたいですね。確かに、偉い人にはなるべく高い声で挨拶したほうが覚えがめでたくなりそうな感じがします。筆者も現役の頃、もう少し頭を低くして声を高く出していればもう少しは出世できただろうに、と悔やまれます。

学校の先生とかインテリっぽい大人は「権威にへつらうな」と教えるし、もっと偉そうな宗教家は「ひたすら祈りなさい」とか言っている。どっちが正しいのか。いずれにしろ、人間は権威に盲従したくなるような神経回路を持っているようです。その証拠に、それに働きかける理論は、社会的権威、あるいは宗教的権威など、立派な錯覚を作り出して成功しています。

実際、世界中でそういう錯覚にもとづいた理論、哲学、思想、信仰、文化、文明がいくつも作られて、権威をもって人々に共有されている。それらは互いに境界を接し越境して競合し、人間の集団の間の反目と対立を増幅していきった。暴力や戦争、粛清魔女狩りがそうして発生したのです。

物質を指す言葉のほうは、こういう事態を避けることができた。

科学の理論の違いで学者たちが対立することはあっても、殺し合いはしませんね。

戦争というものが起こる原因を武器や兵器に利用される科学が犯人であるかのように言う人がいますが、間違いだと思います。暴力や戦争を起こす原因は、物質を表わす言葉を扱う科学よりも、物質を表さない言葉を扱う哲学に近いほうから流れて来るのではないでしょうか。確かに科学は物質についての人間の力を強大にしましたが、それを何に使うか、それを決めるのは物質を表わさない言葉で語られる哲学のほうです。科学は、いわば盲目的に、人間の力を強めていく。それは、物質を表わす言葉を磨き上げて、物質世界の法則を極めていけば必ずそうなる。

ルネッサンス以降、西洋文明の人々は、物質ではない概念を扱う哲学を発展させると同時に、物質を表わす言葉をも磨き上げた。自然哲学と称して物質についての観察、実験、記録、を重ね、物質世界の法則を明らかにしていったのです。近代科学の開祖といわれる自然哲学者が、今から四百年以上も前に語った「科学[知識]は力である(スキエンティア ポテンティア エスト{ラテン語} 一五九七年 フランシス・ベーコン『聖なる瞑想 異端の論について』)」という言葉は、現代の科学の発展を正しく言い当てたといえる。

彼らの後継者たちによる自然の観察と実験、それにもとづいた仮説検証から帰納的に築き上げられた研究成果は近代物理学、近代化学や進化論、工学などを生み、すばらしい自然科学を築き上げた。それらは産業革命を実現し、さらに十九世紀から現在にかけてますます発展し、ほぼ完璧に物質世界を説明し、もうすこしで世界を征服できそうな完全性にまで近づいている。

西洋の哲学者たちは、物質世界を理論化していく自然科学の目覚しい成功に感銘を受けた。そしてその成功が、次には、旧来の神学や哲学に破綻をもたらしていく可能性に気づいた。もともと論理をつめていくルネッサンス以来の西洋文明の哲学が科学の成功をもたらしたのに、そのおかげで今度は、(自然)科学以外の哲学の領域(仮に人文哲学、と言うことにしましょう)が科学と矛盾していくことがはっきり見えるようになってしまったのです。

「科学万歳」、「科学万能」と叫びたくなります。しかしそれでは何も考えていない理系バカみたいに見える恐れがあるので、「人類の科学依存が過ぎるのはいかがなものか」とか、「科学の限界を知らない人類の傲慢は自然の神秘に報復されるだろう」とか言っておくほうが利口に見えるという気がします。しかし筆者がバカに見えるか利口に見えるかにかかわりなく、何と言おうと、科学の進歩には実際かなわない、いずれ科学の一人勝ちは抑え切れない、という気がします。

科学は、自然現象を原子エネルギーに還元して数値で表わしてしまう。このコーヒーカップもこのパソコンも、この机も、私の人体も脳も思考も、人情でさえも、時間と空間に分布する数値の羅列で説明しきってしまいそうです。科学の見方では、この世は力学の方程式で表わされる四次元時間空間(時空という)の上のベクトル関数でしかない。これら数値の羅列で表わされる物質とエネルギーがどう組み合わさると、人文哲学が思考の対象としている「存在」とか「意識」とか「自我」とか「正義」とかができてくるのか。さっぱり分かりませんね。科学者は答えてくれません。どちらかというと、哲学者がこれに答えるべきだ、と人々は思っています。

十九世紀から二十世紀にかけて、このような自然科学と人文哲学の乖離に苦しんだ新世代の哲学者たちは、その原因を既存の哲学が使う言葉のあいまいさにあると気がつきました。そこで彼らは、伝統的な哲学の言葉を否定し、数学や科学のように厳密で限定された特殊な言葉遣いを作って哲学を再構築しようとした(言語学的転回などという)。

これらの仕事は、今まで使われたことのないまったく新しい概念を作ることで、日常的な言葉にまとわり付いている宗教や古い社会体制の権威をも振り払っていく効果があった。そのために当時の西洋文明の知識人たちに歓迎され、文学芸術啓蒙教育、社会批判、イデオロギー、政治運動、などにひろく応用された。

この面では新しい哲学は成功した。西洋諸国の知識人の間の教養として定着し、神学に取って代わってアカデミーにおける最高の学問としての地位を獲得した。しかし一方で、この新しい哲学運動は、西洋哲学をますます悲劇的な袋小路に追い込んでしまった。

目で見れば分かる物質だけを扱う科学と違って目に見えない直感的な存在感の共有に依存せざるを得ない人文哲学は、どうしても直感に伴う曖昧さの侵入を防ぐことができない。そこに哲学者たちは論理の破綻を見てしまう。そこで再び混乱が始まる。対立する論敵を論破して学派の勢力を守るために、ますます特殊な言葉と特殊な論法を作って論争を発展させる。それらを統合するためにさらに新しい言葉と論法を作り出し、哲学を立て直そうとする議論も表れる。そうして際限なく現代哲学難解になっていく、という悪循環が始まった。

ちなみに直感的な存在感を極力排除する方向に全力を傾けた哲学の一派は、形式論理の研究に徹底し、数理論理学や現代数学の基礎論になっていき、それはそれで成功した。間違わない哲学を作ることに成功したのです。たしかに、数理論理学や数学は矛盾のない形式的な体系を作ることには成功しましたが、その分ふつうの人々の悩みからは遠く離れてしまった。「円周率は存在するか?」という問題に日夜悩まされている人は少ないでしょう。

ふつうの人が日ごろ気にしてしまう言葉は、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」というようなものでしょう。こういう、目に見えないものを表わす人間にとって最も存在感がある、印象の強い言葉は、科学では説明できないが最も重要であり根源的なものだ、と思われてきた。円周率などと違って心に響く存在感がある。この世の神秘的な、神聖な、崇高な、あるいは尊厳のあるものを表現しているという気がする。しかもこういう言葉を使いこなすことによって私たち現代人は社会を維持し、互いにつきあい、そして個人の人生を生き抜いていく。

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言葉は錯覚からできている(1)

2007-01-28 | 2言葉は錯覚からできている

 2 言葉は錯覚からできている

人類が言葉のようなものをしゃべりはじめたころ、仲良く語り合う二人の未開人は気持ちのおもむくままに「あー」とか「おー」とか、適当な声を出していればお互いにうまく理解し合えた。二人の脳の神経回路の活動は相互に干渉し、共鳴し、同じような状態になって、ほぼ完全な相互理解ができていた。二人は実質的にひとつの脳で動いているようになり、うまく共同作業ができた。

現代人が「あー」とか「おー」とか言うだけで共同作業ができるのは、赤ちゃんどうしが遊ぶときとか、大人どうしだと、セックスのときくらいでしょうか。それ以外のほとんどの場合、人間と人間はきちんと言葉を介さずに協力はできません。

しかし悲劇的なことに、言葉を使えば使うほど人間どうしの相互理解はむずかしくなる。

まず話し手が言葉を使って、自分が今思い浮かべている何かを精密に指し示そうとすると、そう単純に相互理解はできない。

話し手が指し示そうとしているものを、聞き手は目で見るか、脳内で思い浮かべる。それがなかなか同じものを思い浮かべられない。

「ブラックホールがさ」

「え、何それ?」

「だから、ブラックホールがね」

「ブラックホール? 何のこと?」

「何でも吸い込んじゃうんだ」

掃除機みたいなもの?」

という具合で、言葉はうまく伝わらない。

目の前に見える物質については、それでも割合うまく行く。

言葉が通じない外国に行って苦労した人は分かるでしょう? イエス、ノー、オッケーくらいしか分からない。それでも、そこにあるものを指差せる場合だけ、なんとかカタコトで通じ合う。

「それそれ」

ボアソン?」

「そう、ドリンク。オッケー?」

「ヴヴドレボアソン?」

「イエス、イエス」

「ダコール」

とかぜんぜん通じそうになくても、目の前に並べられている清涼飲料水は買える。

未開人たちは身の回りの物質を指差しながら、表情や身振りで自分が何を感じているか表わし、同時に音声を出して「イヌ、イシ、アメ・・・」などと物質に音節列を対応させていった。そして次には、が子犬を産む場面で「イヌ、コイヌ、ウム」といい、石を二つに割る場面で「イシ、フタツ、ワル」といい、が雪に変わる場面で「アメ、ユキ、カワル」というなど、目の前で起こる物質の変化を目で見ながら身振りで表わし、音声で言い表すようになっていく。そのうちに語彙も増え、文法も精密になり、言葉の意味は正確になっていった。

物質に関する言葉は、お互いに目の前のその物を見ながら話せば何を言っているのかはっきり分かる。いろいろな物を指差して名づけ、繰り返し起こる物質現象を話し合えば話し合うほど、に関する仲間との相互理解は深まっていく。

それら物質現象に関する知識は蓄積され、それを表現する精密な言葉が発達し、それらは組み合わされて生活の知恵となり、一般常識となり、専門技術となり、ついには科学に発展し人類の繁栄に結びついた。

一方、物質を指さない「命、心、欲望、存在・・・」というような言葉は、だれもが重要なものだと思いながらも、目に見えず手でも触れない。「これが心というものだ。触って確かめろ」と言って指し示すことができません。それでしっかりした観察実験記録もできなかったために、精密になりようがなかった。

「これが私の心だ。触って確かめてくれ!」

「ああ、アッタカイ! 心というのは、こんなに暖かいものだったのね」

「そうだ。そこに君の顔が写っているだろう。私は君のことだけを思っているのだ」

「ああ、私の顔がこんなに大きく写っている。私のことを、こんなに強く思っていてくれるのね!」

 という調子で会話できれば、思いのたけが伝わって少女漫画のように相思相愛になれるはずなのですが、現実はこうはいかない。相手の心は目に見えませんから、人間の会話は、なかなか思うところを伝えられない。それは、心というものが、互いに目に見えないものだから伝えられないのです。

「命が一番大事」、「心が一番大事」、あるいは「欲望が・・・」などといつも言い合っていると、なんとなく気持ちが通じ合って具合が良いのですが、言葉のあいまいさ以上に、はっきり通じ合うということはない。

「命が一番大事って、どういうこと?」

 小学生なら、大人にこういう質問をしてもおかしくありません。まあ、いまどきの小学生はこういう質問をして、いかにも小学生らしく見せたい、という演技心(小学生は、ふつう、小学生を演じています。筆者が筆者を演じているように)もある。それでも何割かは、まじめに答えを知りたいという気持ちはあるでしょう。

大人は内心、困ったな、と思いながらも、いかにも自分は大人だからそういう質問にも答え慣れている、という顔をして答える。

「生きていることが一番いいってことさ。死んでしまったら何もできないだろ?」

それを聞いて小学生は「ふうん、そうなのか。分かった」と言う。そう言うしかない。答えてくれた大人の顔を見ればその意味が完全に分かっている、という自信に満ちた顔をしている。大人が自信たっぷりに答えてくれたことにそれ以上の答えがあるはずはない。子供は、

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哲学はなぜ間違うのか(6)

2007-01-21 | 1哲学はなぜ間違うのか

本題に戻ります。

言葉というものは、人間という動物が仲間と協力し合うための運動様式として有利だったから進化したものでしょう。他の動物に比べて、言葉を使える人類は飛躍的に緊密に、仲間との共同作業ができる。その結果人類は大いに繁殖したから、現在私たちが言葉を話している。つまり言葉は、人間という動物が集団で協力して物質世界の法則の中で生き抜いて子孫を増やしていくために有利だったから発達した脳の機能です。人類の言語機構は、鳥の翼の光のように、確かにすばらしい高性能の設計になっていますが、神秘でもなんでもない、物質の法則に従って現れた進化という生物現象のひとつの結果です。

しかし人間は自分たちが使う言葉を、特にそれを文字で書き記すようになってから、この世を超越した特別な存在だと思い始めた。さらに神聖なものだ、とも思うようになった。宗教は文字で書かれた聖書経典を神聖なものとして崇拝した。文字がなければ、世界の大宗教は成立できなかったでしょう。キリスト教などでは「はじめに言葉ありき」という考えから始まり、神的存在が何らかの言葉を発することでこの世や人類が創生されたとしたのです。

西洋哲学はこういう考えに拍車をかける役割を果たした。「人間は言葉(ロゴス)を有する動物である(BC三三〇年頃 アリストテレス『形而上学』)」として、言葉を絶対視することから哲学を始めた。

西洋の哲学者ばかりでなく、たとえば日本人も「話せば分かる」、「話してくれれば何とかしたのに」・・・というようなことをいつも言い合っている。人間はだれもが、言葉を、すべての物事に明快な意味を与えてくれるもの、絶対的なものとして信頼している。そうしないと、社会生活はなりたちません。

「言葉で話しても分かりあえるはずがない」、「話し合ってもどうにもならない」などと、友達に言ってみましょう。なんて危ないやつなんだ、と思われるでしょうね。こういう言い方をする人は反社会分子です。こういうことを言いふらす人とは友達にならないほうが無難です。

つまり結局、言葉にすっかり頼って生きているものが文明社会の、ふつうの人間なのです。

言葉を間違いなく使いこなせば、間違いなく世界を生きていける。正しい言葉で考えれば、人間は正しい考えを持つことができる。社会にどっぷりつかって上手に言葉を使いこなしながら生きていく文明人は、だれもがそう思うようになった。

未開人はそうではありません。自然の息づかいを言葉ではなく身体で感じ、それに対して言葉ではなく身体で応える。仲間の感覚を身体で感じ集団で行動する。未開人のリーダーは言葉で人々を説得はしない。身体で感じる自然の雰囲気を感じてリーダーは動き、その動きから漂ってくる雰囲気を人々が集団的に身体で感じて追従する。文明が発達する前、人間どうしの相互理解は言葉というよりも、言葉も使ったでしょうが、むしろ身体全体を使ってたがいの運動を共鳴させることだった。現代人も、雰囲気を読む、空気を読む、と言いますね。そのことです。もともと人間(というか霊長類)の脳神経系は、無意識に自動的に周りの仲間の運動を感じ取り、それに自動的に共鳴して自分の身体が動きだし、そうして仲間と交わるように進化してきた。空気を読む能力のほうが、本を読む能力より、先に必要です。人間は、言葉を使うようになる前から、もともと、空気を読む動物だった。そうでなければ、言葉など話せません。

文明人はもちろん、言葉や文書に頼る自分たちのやりかたが良いと思っている。

現代人、つまり文明人は、言葉による相互理解に皆がすっかり自信を持って暮らしている。互いに言葉を交わせば、相手の考えていることが分かると思っている。でも皆がそう思っているということと、実際に相互理解があるということとは違う。

私たちはなぜ言葉が理解できるのか? 言葉の意味を知っているからですか? 意味って何ですか? 辞書に書いてあるのが意味ですか? 辞書は言葉を言葉で説明してぐるぐる回しているだけでしょう。私たちのだれも、言葉の意味とは何かを知らない。人間は、意味とは何かを知らずに、意味が分かっていると思っている。このような状態の私たち人間が、世界の真理を解き明かすなどという大それたことができるのでしょうか?

言葉を使っているとき、話し手と聞き手はどのように相互理解をしているのか? 何を相互理解しているのか? お互いの脳で何が起こっているのか? これが実は、人間にはよく分かっていない。最先端の科学者も、偉大な哲学者も、まったく分かっていない。それをすっかり分かっているかのごとく錯覚して思い込んでしまう機構を人間の脳は持っている。まあ、そう思い込んでいるから、安心して生きているわけですね。

空耳(聴覚の錯覚)とか、聞き間違え、と言うのはよくある。薄暗いところでは枯れススキを人と見間違えたりするでしょう? 筆者も年をとって耳や目が悪くなったのに自分でそれと認めないので、このごろとみに聞き間違い見間違いをします。人の言っていることを三回に一回は聞き間違え、トンチンカンな答えをしているようです。向かうから歩いてくる人の顔などは、二回に一回は見間違えて、挨拶しそこなったりする。それでも、うまくごまかしながら、ふつうの人間のふりをして生きているのです。でも若い人どうしの会話も、それほどではなくても、いい加減に間違いを含みながら伝わりあうものでしょう?

それでいいのです。あえて言えば、人間が使う言葉は内容を正確に伝える必要なんかない。大体分かればよろしい。あるいは、もっと言えば、分かるような気がすれば、たいていの場合それでよい。錯覚でよいから互いに分かったような気持ちになって仲良く協力できればよい。それで人類は生き残れたし、それどころか、大繁栄したのですからね。意味なんかよく伝わらなくても、仲間を信頼し互いに力をあわせる気持ちが伝われば、それでよい。逆に、コンピュータ通信のように内容が正確に伝わったとしても、それで仲間と集団行動がうまくいかなければ何にもならない。仮に完璧に真理を伝え合えるすばらしい言語体系を持った人類の一族がいたとしても、真実を言い合い過ぎて団結できない人類は滅びていくから、その言語体系は現在残ってはいないはずです。

「どうもどうも」

「すみません。すみません」

「まあまあ、そういうことで」

「ウッソー? ほんと?」

「じゃあ、よろしく」

というようにわけの分からない言語表現を頻繁に使う民族が、世界一の経済社会を作っていたりする。

人間は、大いに錯覚を起こすことによって世界を滑らかに分かりやすくすばやく認知し、それに存在感を感じ、その錯覚による存在感を集団で共有することによって、お互いにうまく付き合っていけるようにできている。そういう便宜のために、人間の脳は錯覚による存在感をいつも簡単に作り出せる。

人間の脳は、壊れた陶器を補修する粘土状の充填剤のように、錯覚を作り出してギャップを埋め、断片を滑らかにつないで物事を分かりやすい形で存在させている。しかも陶器の正しい形など知ろうともせずに、どこかで見知った形、あるいは作りやすい形にさっさとつなぎ合わせて一丁あがり、として仕事を終えてしまう。

それで、人間どうしは、「ね、ぼくが言いたいこと分かるでしょう?」、「うん。分かる。分かる」という具合にうまく分かり合える。つまり、「うん。分かる。分かる」とうなずくことが、分かるということなのです。

原始時代はこれでよかった。

言葉は、人間が仲間と集団をつくって、この世界の法則を利用して生き延びるために役立った。しかし、こうして進化してできた言葉という粗雑な道具を、そのまま真理の探究に使おうとすると無理が起きる。人間の言葉は、真理の探究など、そんな高尚なことに使えるようにはできていない。なんとなく気持ちが通じ合うような気になって、仲良く協力する気持ちになれればそれでよい。そういう働きができるように、言葉は進化して来た。原始時代の生活に有利になるような機能を持った言葉だけが、私たちの身についている。素朴な原始生活に使えること以上の余計な機能は持たないほうが、原始時代を生き抜くには役立った。

私たち人類は、ついこの間まで、たった百世代くらい前、数千年前まで、その前の数十万年にわたってあまり変わらない原始生活を送っていた。動物の身体は鳥の翼のように、の光のように、その生活環境の中で有利な形態と機能に進化してくる。原始人のその生活にぴったり役立つように洗練された脳の機構が、私たち現代人にまで継承された言葉の土台を作っている。人間の言葉は、哲学や論争をするために発達したものではない。仲間と集団で狩猟採集生活を能率的にこなすための道具として進化したものです。このことを知らずに言葉を振り回すことは、とても危ない。

そこに、哲学の危険がでてくる。

また人間は、言葉を使って、目に見える物質世界を表現すると同時に、目に見えない主観的な、私たち自身の内部の感覚や感情的なもの、神秘的なもの、想像、願望など、つまり自分が感じるすべてのことを表現しようとする。

そのこと自体、進化で身についた人間の性癖です。自分が感じることはできるだけ多く、仲間と共有することが生存繁殖に有利だからです。自分が感じる大事なものを言葉でしゃべれば、仲間はちゃんと感じ取ってくれる、と思いたい。そう思えれば、この仲間とどこまでも一緒に行こう、という気になれる。特に、目に見えないもののほうが、人間にとっては大事なものと感じられる。目に見えなくても言葉で言えば、そういうものだって、仲間どうし分かり合えるはずだ。自分の中の奥のほうから湧き出てくる感覚や感情、神秘への恐れ、そういうものを何とか仲間に伝えたい。分かり合いたい。言葉で語りたい。その気持ちによって言葉が工夫され、表情、身振り、声音が工夫されて、ついには気持ちが通じると思えるようになる。

あなたと私の間で、本当に気持ちが共有されているのか? そこまでは、だれにも分かりません。分かり合えるような気がする、というだけです。でも、毎日、うまく気持ちが通じている、としか思えない。皆がそう思っていれば、そうなのです。

目に見えないのに人間のだれもが感じることは、人間にとって重要だからそれを感じる。そういうものは物質としての実体はないのかもしれない。それでも脳は粘土状の充填剤のように自由自在な形の錯覚を作り出せるので、実体がない存在感をいくらでも作り出せる。そもそも、原始人が生きていくためには、物質の実体だとか、世界の真の存在などあってもなくても、どちらでもよかった。仲間がみんなで協調して行動できるようになるような感覚感知ができれば十分です。そうなるように進化した感覚が現代人である私たちの現実感覚なのです。そうだとすれば、この現実が錯覚であろうとそうでなかろうと、人間どうしが共感できるというだけの理由で、これは現実であるわけです。

人間の言語は、そのように現実を作り出すための道具として発達した。言語は哲学を語る道具ではなく、空気を読み合うための道具だった。

人間は他人が感じている錯覚を敏感に共感する能力を持っていますから、実体のない錯覚の存在感を共感できてしまう。そうすると錯覚の存在感の共感にもとづいて、それに対応する適当な言葉が作られてしまう。座敷わらしとか、天狗とか、人魚とか、とか、悪魔とか、霊魂とかも、それです。

集団的な錯覚を作り出して、それを維持する脳のこういう仕組みも、原始時代には人々の団結に役立って、便利でよいことだった。天狗の存在を恐れて一族が団結できれば、それは生存繁殖に有利だった。

しかし、これは科学の時代の真理の探究には向かない脳の機構でしょう。科学者たちに向かって、いつまでも天狗を信じさせようとする哲学を主張するのも、いかがなものでしょうか。ここにも哲学が見捨てられていく危険がでてくる。

これらの危険に気づかないまま、命とか心とか、自分とか社会とか、愛とか死とか、感情に訴える神秘的で深遠に思える人生上の問題を、言葉だけを使って語りつくそうとするから、哲学は間違えていく。

人間の感情に響く言葉と、目の前に見えて手で触れる客観的な物質世界。この二つの関係は哲学を発達させて言葉を精密に磨き上げれば磨き上げるほど、また科学を発達させて物質世界の法則を精密に明らかにすればするほど、だんだんと分裂していく。現代哲学はこの問題の深刻さに気づいてはいますが、どちらに進めば脱出できるのか、見当が付かない。主観的に感じる内的世界も、結局は科学的アプローチで解明できるし、そうするしかない(一九六〇年 W・V・O・クワイン『言葉と対象』)とか、いや現代の科学的思考というものこそ、人間の感性を分断し文明を底なしの虚無に落し入れる元凶だ(一九八六年 A・J・マント『哲学的多元論の勝利?』)とか、意見は離れるばかりです。

本当に文明人のほうが未開人よりも、この世界を分かっているのでしょうか?

(1 哲学はなぜ間違うのか end

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哲学はなぜ間違うのか(5)

2007-01-21 | 1哲学はなぜ間違うのか

閑話休題、さてそろそろまじめに本題を展開しようと思います。だれでも実は分かっていることですが、言葉は万能ではありません。どんなに巧みな言葉遣いをしても、言葉はこの世のすべてを言い表すことはできないのです。

二人の人間が対面して会話する場合、聞き手は話し手の表情顔の赤さ鼻の穴の開き具合目の輝き目が死んでいる視線ふらつき声のピッチなど、細かい身体運動まで詳しく見聞きしている。そうすることで総合的に相手の存在感を感じる。これは目と耳の感覚神経を集中して、相手の脳内での運動神経系と感覚神経系の活動を感知する人類(および、もしかしたら、その他類人猿{ヒト科})に特有な、脳の認知機構の自動的な働きです。人間の言葉は、話し手と聞き手が共有するこの脳の機能、いわば人体の運動神経系の共鳴と感覚神経系の共感に基づいて作られているからです。

これら人間どうしの身体から身体への共鳴と共感の伝播は、日常会話などでは、たいていうまくいく。セックスの場合など、すごくうまく行く場合が多い。しかしいつでも頼りになるものではありません。セックスが終わってからお金の話をしたりすると、とたんに気持ちが全然伝わらなくなったりする。つまり、あいまいな話はよく伝わるのに、正確な議論、難しい概念、論理が入ると、言葉は急に伝わりにくくなる。たくさんの錯覚が入り込み、幻影が入り込み、想像が入り込み、嘘が入り込む。

最近はすっかり電子メールの時代になってしまいましたが、筆者は、メールはビジネス用件だけに使うようにしています。文字だけのやりとりでは、すぐ行き違いや誤解からけんかになってしまうからです。うっかり感情を込めたりすると、たちまち自己顕示自己陶酔のすれ違いになってしまったりする。言葉は危険です。まして顔が見えず声も聞こえない文字だけの文章は、非常に危険です。

言葉以外のコミュニケーション方法のほうが言葉よりも大事なことを伝えている場合が、たくさんある。視線表情手振り、身振り声の高低、ピッチなどです。

さらに身体を動かして共同運動を一緒にすることで人間どうしの相互理解が進むことは、だれもがよく知っている。たとえばセレモニー音楽合唱ダンススポーツゲーム会食などです。親分肌の先輩などが「こんど、一緒に飯を食おう」とかよく言いますね。たいてい、口で言うだけだったりしますが。まあ、人間どうし、お互いに社会的行動、お金のやりとり、集団内の序列、役割、性別、年齢、服装などを見れば、言葉以上に理解が深まることもよく知られている。

これら種々の身体運動、身体表現の共鳴、共感、状況認識の全体とともに、言葉は使われている。その結果相互理解がうまくいく(あるいは、そう思う) わけですが、人間はつい、それが言葉だけでなされたと思い込む。

たとえば、この文章が、無名の筆者が書いたものではではなくノーベル文学賞受賞者の最新話題作だと思ってください。一語一語が輝いて見えませんか? まあ、実際、筆者がそういう偉大な作家とは全然関係ないことをはじめから知っている読者諸賢に、そういう想像を強いても無理でしょうね。とにかく、読者が筆者を何者と思っているかによって、書かれた文の存在感はまったく違ってくるのです。

筆者の顔写真によっても、実は読む気がしてきたり、しなくなったりするくらいです。顔も知らない人が長々と書いている文章(たとえば、拙稿がそれですが)を、ふつう、読む気はしない。もともと人の話はその人の顔を見ながら聞く、という仕組みが人間の脳にできているからです。笑いながら語っているのか、眉間にしわを寄せながら語っているのか、同じセンテンスでも意味はかなり違ってくる。無意識のうちに、私たちは、話し手の顔つきの印象によって、その人の言うことを信用すべきかどうかを判断するのです。

今、この文章がコンピュータの人工知能によって書かれていることが分かったら、どう感じますか? 文章の中に人間の心を感じることもできなくなるでしょう? 人間は、文章を読むとき、無意識のうちに書き手の姿かたちを想像しながら読んでいる。知っている人の文章なら、当然、その人の肉体がこれを書いていることをイメージしながら読むわけです。

問題は、言葉を聞いたり文章を読んだりするとき、私たちは、話し手や書き手の見かけの肉体や身分などから自分が受けているはずの印象をしっかりとは意識せず、文章の中身だけで理解していると思っていることです。

言葉を使っている人間は、話し手も聞き手も、言葉が通じていないとは思いたくない。分かっている、言葉を使う相互理解は、言葉の中身によって一〇〇%成功している、と思いたい。

実は言葉の中身はよく理解できなくても、聞き手は話し手の声の調子を聞いて、あるいは身体の動きを見て、あるいはその言葉が発せられた場の雰囲気を想像して、あるいは過去の似たような経験から類推して、なんとかつじつまが合うような錯覚と想像を自分の脳で作って、それで言葉が理解できたことにしてしまう。

それは駄目なことではありません。実生活では、むしろ言葉で伝わらないものを話し手の声色表情や周りの雰囲気、あるいは相手の身分、立場で理解することが重要なのです。それら身体表現や状況、距離感による判断は言葉を理解することを補助する、とよくいわれる。しかし補助というよりも、言葉以外で伝わるもののほうが主役で、言葉のほうがそれを補助する役割を果たしていたりする。

筆者は若い頃から頭が固くて、言葉を聞くと、ストレートな意味だけを受け取ってしまうところがありました。

あるとき、事務所の廊下ですれ違った先輩から「あの部屋は空気が悪いですね」と、いわれました。あの部屋? ああ、私たちの仕事場のことかな、と思った私は「どうも、空気の循環が悪いものですから」と言い訳をしました。相手は「そうですよ。空気がよどんでいるようですよ。新人が不健康になってしまいそうですよ」と笑いながらいいました。私は「はい、ときどき空気を入れ替えては、いるのですが」と申し訳なさそうな顔を作って言い訳します。相手は「そうですよ。もっと思い切って、入れ替えしたらいかがでしょうか?」といい、私は「はい、そうしてみます」と従順な声で答えて、会話は終わりました。それで私は整備課に電話して、その部屋の換気扇を大型のものに交換してもらったのです。

私は、先輩の忠告のおかげで、部屋の隅に座っている若い新人の健康を守れたことに満足したわけです。先輩は、私の鈍感さに呆れて、もう人事異動の助言などはしてくれなくなりました。

この例はすこし極端ですが、こういう具合に話がすれ違い、それに互いに気づかないことは日常的にいつも起こっている。いつも会話を交わしていることで、皆がお互いに理解しあっていると思い込んでいる。それで社会生活はたいていうまくいく。それでうまく行くような社会制度、生活習慣の創設に、人類は成功している。成功した人間の集団だけが生き残ったからです。

まあ、このことを利用して、同じ話を裏表二通り、あるいは三通りに解釈できるように作って、外の集団と内側の集団で意味が逆転するような仕掛けを作っておくこともできる。ある地方では、人家を訪問した際に「お茶を召し上がりますか」と聞かれたらば、すぐ退出しないといけません。あとで何を言われるか分らないそうです。この手法を悪用して、ダブルスタンダード(全員に聞こえがよいきれいごとを言いながら、実際は、暗黙の了解で特権的少数者の利益のために動いていく仕掛け)が社会にはびこる。現代社会では、競争しあっているはずのマスコミがいつのまにかダブルスタンダードに加担していたりするので、油断がなりません。

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哲学はなぜ間違うのか(4)

2007-01-21 | 1哲学はなぜ間違うのか

欧米や日本での現代の哲学者は、もちろん、拙稿が提起するような言葉の限界に関する問題についても、近代西洋哲学の流れを汲む現代哲学の方法(分析哲学など)で心理や言語の理論として研究しています。それらはまたいろいろ魅力的な理論(たとえば、カテゴリー間違い論、意図問題、双子地球論メリーの部屋問題無限後退論など)を作り出しているので、いろいろかじることが好きな筆者などは、素人なりにそれらを論評してみたい誘惑にもかられます。しかし拙稿では、これらの諸説から引き出す議論はしないことにしましょう。それらについては専門家による良書が多くあるからでもありますが、哲学を遠く外側(裏側?メタ側?)から眺める拙稿の独自の見解は、既存の哲学の中身とは連結していないからです。

拙稿では、哲学の諸問題を哲学の伝統と歴史からひとまず切り離して、ずっと外側から自然科学を下敷きにして捉えていきます。存在論認識論というような深遠な概念から西洋哲学は始まりますが、筆者は、くしゃみ、あくび、居眠り、貧乏揺すりとか、血圧、動悸、冷や汗、あるいは空耳、座敷わらし、さらに複数の人間集団がする歌と踊りと芝居、またはゲームやセックス、など卑近な身体運動から、哲学という人間の集団活動を調べようと思っています。

つまり筆者は、哲学という活動を、生物としての人類の群集団が集団運動の共鳴によって共有する脳の錯覚の問題、とみなせるのではないか、という観点で考えています。

またこうすることで、哲学でいういわゆる解決されない諸問題、心身二元論心脳問題、認識論、存在論、独我論、自我問題意識問題主観客観問題などが、すべて解明できていくはずだ、という立場をとっています。

これら哲学の伝統的な問題は、現代哲学においても、「人間に自由意思はあるのか?」とか、「人間は、なぜ他人の心が分かるのか?」とか、「コンピュータに言語の意味は分かるのか?」、あるいは「意識とは何か?」、「クオリアとは?」、「意識のハードプロブレムとは?」などと形を変えて提起されている。これら現代哲学の諸問題といわれるものも、これらが人間の集団的な脳の錯覚の共鳴から生ずるものとして解明できる。人類の脳の働きが、なぜいまあるように進化したかを考えれば、これは自然に思いつく発想です。

しかし筆者が探した限り、国内にも国外にもこのような発想をきちんと展開した文献は見つかりませんでした。くしゃみとあくびと哲学の関係を論じた論文はありませんでしたし、歌と踊りと芝居、あるいはゲームとセックスが哲学になっていく発達理論も見つかりません。

たぶん、いまのところ、これは拙稿独自の見解なのでしょう。結局、拙稿はいわゆる現代哲学の流れとはかなり立場が離れてしまっているようです。また古典哲学、近代哲学などと呼ばれる過去の偉大な西洋哲学とも拙稿の見解はほとんど無関係と言わざるを得ないようです。

拙稿では、一般に哲学という人間の営みを、その外側、というか、裏側(メタ側?)から、生物学的かつ工学的に考えていくことになります。つまり哲学的問題に悩んでいる人間の肉体とその脳、の物質的メカニズムと情報処理システム、そして地球上にそれを生み出してきた群棲動物としての人間集団の生態とその進化のプロセスなどについて注目します。人間というシステムを、脳を含む人体を生存環境の中でいかに効果的に設計変更していくかというDNA(正確にはゲノム)繁殖戦略のゲームの解のひとつ、とみる見方です。いわば、典型的な科学的アプローチですが、この方法を人間の感情、認識、あるいは言葉という現象、科学そして哲学という現象、に素直に当てはめていくと、いままで解決不可能とみえた諸問題がすっきり解けていく可能性があります。

さらに科学的アプローチの対象を哲学という観察者の主観に絡んだ現象とすることから、ふつうの科学のアプローチを超えて、いわゆる主観客観問題に切り込んでいくことができる。つまり、自我問題のような観察者と観察対象との自己包含関係の問題を、自然に解決していけることが期待できる。これは科学全体を、観察者と観察対象の関係がつくる二元論の謎から解放し、精神と物質の両方の難問を同時に片付ける、という一挙両得を狙える可能性があります。

人間が、自分とは何か、とか、哲学の神秘、とかを考えるときと、目の前の物質の存在を考えるときとでは、脳の働きはどう違うか? そういう話をするとき、話し手と聞き手の共感はどう作られるのか? 一緒にご飯を食べているときやセックスしているときとは、どう違うのか? 協力して縄文式土器を作っているときや天体物理学の数式を語り合うときとは、どう違うのか? それらの脳機構はどう進化したのか? それらの哲学に関する行動や課題を表わす言葉は、人類の進化において、どのように発生したのか?

こういうテーマについて、筆者はこの十年来、(アマチュアとしては)かなり熱心に内外の人文系および自然科学の論文、研究書その他の文献を探しましたが、明快に議論を展開している文献は見つかりませんでした。たぶんその理由は、こういうテーマを学術研究の対象にするには方法論が未熟すぎるからでしょう。

この十数年、脳科学研究者の努力によって、fMRI(機能的磁気共鳴断層撮影)など電気磁気のコンピュータスキャニングで脳神経系の活動を脳の断層画像として記録する技術はかなり進歩してきましたが、まだまだ、神経活動を機能に対応できるほど微細にかつシステム的に観測する方法は開発されていません。新しい原理による測定装置が発明されて飛躍的に精密な観測がなされ、脳における言語活動などの総合的かつ具体的な作動メカニズムが科学として解明されるには、(かなり先になりそうな)次の時代を待たなければならないでしょう。

人間の知的活動と脳の作動機構との対応について、神経回路ネットワークの単位で実証的に研究する強力な方法は、実際、見つかっていない。現在のこのような状況から、この境界領域での仮説的なアイデアは、プロの研究者のまともな仕事には向いていないわけです。筆者も自分が若いプロの現役研究者だったら、たぶん拙稿のようなものは書かないでしょう。

そんなような理由で、拙稿が扱おうとしているこのテーマは、だれも興味を持たないということではないとしても、科学者の議論でも哲学者の議論でも、プロの仕事場からはこぼれ落ちる。結果として、職業研究の成果としての文献や報告となって世間の表には出てこない。

そこで筆者は、プロではなくアマチュアとして、ふつうの常識と現代科学の基礎知識(ネイチャーに載っている程度の確定した科学知識)だけにもとづいて、自分で考えて、書いてまとめてみることにした次第です。アマチュアはプロがするような論戦に勝つための格闘技や隙を見せない緻密な防衛技術には興味がない。かなり遠くの外側から、おおざっぱに眺めて楽しむだけです。自分が知りたいことだけを楽しんで調べるアマチュアの興味の対象は、全人格をかけて学問を職業として確立しなければならないプロの仕事とは、ある意味で、正反対ともいえる。

右に述べた理由で学術報告にするには程遠いテーマですし、アマチュアが形だけプロの真似をするのもおかしいので、拙稿は論文のような体裁はとりません。先哲の仕事を解釈して引き継ぐほどの義務もなし。プロのように、先輩学者を尊敬したり入れ込んだり、という姿勢を見せる必要もない。責任をもって準拠できるほど精読した哲学の書籍もないので、たまたま読んだ関連文献の名を参考としてあげることはあっても、それらを土台にした議論展開はしない。難解な哲学用語も使う必要がありません(というか、あまり知らない)。おかげで一般の読者には分かりやすい代わりに、プロの研究者には(もし光栄にも読んでもらえるとしても)かえって読みにくいものになっているはずです。

しかし有名な学説の解釈やそれにもとづいた展開をしないということは、学術的な権威からして何もない筆者が、過去や現代の大哲学者のブランドを全然利用できないわけです。大きな権威に保証されてブランド化された知識だけを信頼し、権威の裏書がない怪しげな情報は無視するという知恵は、人類が獲得した重要な知的能力です(インターネットの時代を生きるには必須の能力でしょうね)。拙稿の賢明な読者も、当然、そう考えるでしょう。良質の情報を効率よく得るためには、伝統的古典的知識を踏まえて語る世に名の通ったプロの学者が書いたものを読むべきです。正統的学問から外れた新しい言説などを信用しては危ないのです。

そういうことで、名も通っていないアマチュアが書いたものをまじめに読む気になるには大学者名のブランドや権威による裏書が絶対に必要、というのが筆者の持論だというのに、拙稿はこんなことで読者を獲得できるのでしょうか?

これは非常に困難な状況である、ということを筆者も心得ています。過去の学説を解説したり補足したりするというのでもない。まったく新しい学説を理論的に提起するというには実証的な方法論に欠けている。またプロではないので自分の楽しみが先に立ってしまい、話はすぐわき道にそれるし、理論展開もときどき興味本位の強引な飛躍が出てしまう。つまり学術理論としてみれば粗雑かつ未熟すぎて使えない。将来、もしかしたらなりたつかもしれない新しいアイデアを、ぼんやりと示しているというだけでしょう。

実際、筆者の経験からしても、こういう条件で書かれたものを読んで読むに値する情報が手に入ることは滅多にありません。読者の皆さんは、時間の無駄になることを覚悟して読むしかない、とお思いになるのが普通でしょう。

ですが、(ここまで、お読みになってしまったからには)願わくはその警戒を解いて、素直にご自分の直感的な常識に従って拙稿を楽しんでいただけませんでしょうか? あまり役には立たないかも知れないが、まあ面白い、という程度の話がひとつか、ふたつ、うまくすれば五個くらい、見つかるはずです。世間の常識から飛び離れた風変わりなアイデアなら、いくらでも見つかることを保証します。賛同していただけなくても楽しんではいただけるでしょう。たぶんごく少数の、そのような寛大な心を持った読者との出会いを切に願って、筆者は書いていきます。

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哲学はなぜ間違うのか(3)

2007-01-21 | 1哲学はなぜ間違うのか

さて、・・・古代ギリシアの時代から偉大な西洋哲学が始まります。(西洋哲学の歴史と過去の哲学者の業績がいかに偉大であったかについては、拙稿ではほとんど言及しません。正確に知りたい読者は市販の哲学入門書〔マンガもあります〕を買うか、なんとかペディアという無料のインターネット百科事典などで調べてください)

過去の哲学者は、言葉を自在に操って、人生の深遠な謎を研究した。

人生の謎は、次のような尊厳に満ちた言葉で言い表される。

命、心、欲望、存在、

言葉、自分、生きる、死ぬ、

愛する、憎む、幸福、不幸、

世界、人生、美、正義、

・・・・

深遠な響きを与える言葉たちです。昔も今も、世界中の人々が作る詩歌やポピュラーソング、少女漫画、伝承の物語、感動のテレビドラマのセリフなど、必ずこれらの言葉が使われている。人間はどこの国の人でも、こういう言葉を人生で一番大事な言葉だと思って生きているのです。

「人生、わずか五十年、最近では百年かもしれないけれど、不老不死のドラキュラたちに比べれば、夢か、幻みたいなものだよね。一度この世に生まれてきたということは、いずれはいなくなるということなのさ」と、幸若舞とかでも歌われている。日本人が大好きな歌ですね。

哲学は、こういう人生の根源であるような直感的にはっきりと存在感のある概念を議論の基礎に据えて出発した。

これは当然、正しい出発点である、と思えますね。

しかし、筆者の考えでは、それがそもそもの間違いです。

こういう言葉たちを、深く考えること自体が危険なことなのです。深く考えるほど、ずるずると、底なしの落とし穴に落ち込んでいく。近頃、若い人の間ではやっているらしい自分探しなど、一番いけません。人間をだめにするだけです。その理由は後で述べます。

むずかしい哲学の問題を考え抜いた過去の哲学者たちの努力は尊い、と思います。彼らは、本当の意味で、尊敬すべき善意の人たちだった。ただ筆者が少々いじわるに観察するところ、西洋近代(日本もたぶんその一部)の知識階級は大哲学者たちを真理を語る天才と思い込み、その学説を崇拝しすぎる嫌いがある。一種のフェティシズムですかね。かつて長老や高僧を崇拝した遺伝子がそうさせるのでしょうか。高僧がつかった風呂の水を飲めば、長生きするとか。あるいは、蒙昧な世間常識を打ち破って真理を語ってくれる天才的な個人、というものを渇望する気分がそうさせるのでしょうか? あるいは(先生、教授など)知識人と呼ばれる人々は、自分は頭が良いから難解に語られるその深遠な真理を理解できるのだ、と自分自身思い込みたいからでしょうか。そのためには、大哲学者は、至極難解な言葉を語る天才であるほうが好ましいわけです。 

しかし大哲学者たちはよく間違う。こういう人たちは真理の追究に熱心なあまり、根っこのところを、よく勘違いしてしまうのですね。

哲学者たちは、神秘的で深遠な言葉の中に、この世の究極の謎と真理の匂いを感じ、怖れ敬う気持ちを持ったのでしょう。そして、その謎と真理をなんとか解き明かしたい、と勇躍奮励して彼らの哲学を作っていったに違いありません。

哲学者たちはこれらの言葉の意味を深く考え抜き、言葉を使って理論を発展させた。そうすることで世界と人間の原理をどこまでも理解することができる、と人々に教えた。

その考え方に自信を得た人々は、言葉を洗練させ雄弁に語り合って、宗教を深め、哲学を確立し、正しい行いと間違った行いとをはっきりと区別した。それからその正義にもとづいて子供達を教育し、また法律を作った。同時に偉大な神が創造した偉大なこの宇宙を詳しく知るために自然科学を研究した。

特に早くから言葉を精緻に洗練させて実用的な法律、制度や近代科学を作り上げたのはヨーロッパの人々です。民主主義を発明し、広場での堂々とした議論を好んだ古代ギリシア人たちから始まる伝統でしょうか? ヨーロッパの知識人はギリシア哲学の古典を学び、理性に基礎づけられた自分たちの言葉に自信を深めていった。その磨かれた言葉や論理を万能と思い、それですべてが解明できると思っていたようです。

正しく言葉を使って知識を深め、正しい議論を進め、考え方を洗練させていけば、人間はだれもが全知全能の神に近づくことができる。何事も議論を尽くせば正しい結論に到達できる。言葉を使いこなして真理を追求して行けば、必ずこの世のすべては解明できる。どんな野蛮人でも外国人でも、人間ならばだれもが、言葉で文明に開化できる。人間はどこまでも進歩し、知識を高め文明を発展させ、ますます聡明になり幸せになっていく、と思っていたのでしょう。

その理想に燃えて、西洋の人々は言葉を洗練させ、はっきりした言葉の使い方を法律や制度や慣習として社会に浸透させた。言葉を徹底的に使いこなすことで哲学を磨き、キリスト教の神学を発展させた。

西洋哲学で理論武装した力強い言葉は、古い呪術的なものを破壊し、新しい力強いものを作る能力があった。それが正義を守る法律を作り、真理を表す科学を作り、生活に役立つ産業を作って世界中に広まり、アジア、アフリカ、アメリカ、と西洋文明の植民地を拡大していった。

ギリシアで発生し、ローマ帝国でキリスト教と融合して発展した西洋哲学が繰り出す力強い言葉に負けない文明はありませんでした。まず原始的な呪術を信仰していた北方のゲルマン人がキリスト教に改宗し文明化した。このギリシア・ローマ・キリスト教文明がヨーロッパ中に広がったから、現代それが、ヨーロッパ文明、つまり西洋文明と呼ばれている。この文明を身につけたスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、ロシアなどの各国は 次々と新世界やアジア、アフリカに乗り出して、西洋哲学で鍛えられたヨーロッパ言語で世界中の人々を説得し始めた。その説得は言葉と同時に銃火器も使い、カステラやコーヒーなど魅力的な物質生活の輸出もその文明の普及に威力を発揮しましたが、とにかくそれらは大成功し、この数百年の間に、西洋文明は人類全体のお手本となりました。

なぜ、世界の中で西洋文明だけが一人勝ちしていくのでしょうか? 明治維新いらい、西洋と東洋の間を行ったり来たりしながら合いの子のように生きてきた日本人は、ずっとこの謎に悩んできましたが、いまだにすっきりした答えは見つかっていないようです。

たしかに、科学や医学、産業技術のような実用的な知識ばかりでなく、法律、社会制度、金融、経済政策、思想、芸術、エンターテインメントなど現代の文明的なものは、残念ながら東洋からは少なく、多くが西洋から発信されている。つまり結局は、各国語に翻訳された西洋の言葉を使って、現代文明は表現され使いこなされている。それだけ西洋の考え方、その根底を作る西洋哲学、が世界中の人々に信頼されているのです。欧米から湧き出て地球全体に拡散するその流れは、現在、グローバリゼーションとも呼ばれている。

ところが、大成功したはずの西洋哲学が、二百年くらい前から、だんだんとおかしくなってきた。西洋哲学自身、百年ほど前からこの自らのおかしさに気づき始めた。実際、現代哲学や脳科学の研究者たちから、いろいろな形で近代西洋哲学への懐疑論が提起されている。しかし私たち現代人は、いまさら後戻りはできない。その哲学の上に築かれてしまった現代文明の重みのために、もう修正は難しいでしょう。

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哲学はなぜ間違うのか(2)

2007-01-21 | 1哲学はなぜ間違うのか

似たような話を歴史の中に見つけることができる。

かつては、間違った天地観あるいは天動説を人類全員が信じていた。

天動説というのは、別名、地球中心世界観といって、地球は不動で太陽や星が天空を回っているという考えですね。「世界は天と地からなり、太陽が東からのぼり西に沈む」という素朴な天地観をすこし数学的に発展させた考え方です。地動説(一五四三年 ニコラウス・コペルニクス 『天球の回転について』)が唱えられるまで、この天地観と天動説が世界中の常識でした。

地面が動いているわけはない。これは直感で分かりやすい。だれもその間違いを疑わなかったのです。

この天動説、つまり地球中心世界観は、間違ったまま人々に浸透した。地面を不動のものとして太陽や星の動きが観測され、ユークリッド(BC三二五年頃―BC二六五年ごろ)が集大成した幾何学を使って精密に記述され、宇宙の中心に不動な地球がある、という当時の天文学が作られた。天動説の精密な理論化による当時の天文学は、まず占星術に使われましたが、かなり正確に太陽や星の動きを予測計算できた。それを使って正確な暦が作られた。実用上、農業に不可欠な知識でした。また精密な時計を発達させ文明社会の発展に大いに役立ちました。

地動説を知らなかったからといって、十六世紀以前の人々の精神生活が、地動説が普及した後の十七世紀以降の人々のそれに比べて惨めだったかというと、そうでもなかった。当時の文学、絵画などを見ても、(すくなくとも上流階級の人々に限れば)むしろ私たち現代人よりも豊かな精神生活を営んでいた様子が想像できる。

地動説などあってもなくても、太陽は毎朝東から昇って西に沈み、夕焼けは美しかった。地動説など知らなくても昔の人々は直感で分かりやすい天地観や天動説のもとで、古代から中世まで十分豊かな文学、芸術や技術を作り出し、それにもとづいてかなり文明的な社会生活を発展させていた。

地動説が出てきて直接恩恵を受けたのは、天文学くらいのものでした。天動説では天空を不規則に惑いながらさ迷い歩く惑星が、地動説によれば太陽を焦点としてすっきりと美しい楕円運動をするようになったのです(さらに後年、アイザック・ニュートン{一六四二―一七二七}の力学によって地動説の理論的な美しさは完璧になった)。地動説の美しさに感銘を受けた当時の自然研究家は、望遠鏡など観測装置を発明して自然を精密に観測し始め、観測事実に基づいて自然法則を次々と発見し、占星術と別れて近代的な天文学と物理学を作り出した。最初は天動説の予測よりも悪い精度でしか天体の運動を予測できなかった地動説も、ガリレオ・ガリレイ一五六四―一六四二)やヨハネス・ケプラー(一五七一―一六三〇)の研究により、ついには精密な軌道計算式を確立して、航海術を飛躍的に発展させた。

ビートルズのヒット曲(一九六七年 ビートルズフールオンザヒル』)に歌われたように、自然研究家は、夕日を眺めて、地球の自転を体感したのかもしれません。自分の目の前に見える直感で感じる世界よりもずっと大きな宇宙があって、それ全体に通じる法則で目の前の光景を見直すとすべてが単純明快に理解できる。十七世紀の自然研究家は、そう思ったのです。ここから近代的な科学の芽が生まれてきた。精密な物理学や化学が作られ、科学は大きく育ち、それが応用されて産業革命が起こり、近代の西洋文明ができあがった。その結果、世界中の人々の生活が変化してきた。日本人の筆者が、毎朝おいしいコーヒーを飲めるのもそのおかげです。

しかし結局、地動説の影響が人々の生活を根本的に変えるまでには二百年以上もかかった。数十年の単位では、地動説は大多数の人々の生活には、たいした影響を与えなかったのです。

これと同様に、間違った西洋哲学は、古代から近代まで、西洋文明の繁栄に役立った。今現在の時点で、哲学の間違いがはっきり分かろうと分かるまいと、これから百年か二百年くらいの間は現代文明の繁栄が続くでしょう。

西洋哲学は言語の客観的な存在感を確立した。それを拡大することによって、まず宗教を発展させ、次に社会、経済を発展させ、同時に科学、技術を発展させる基礎的な手段を与えた。ところが、それらが十分に発展してしまった現代に至って、それらの生みの親である哲学は急にかつての輝きを失ってきた。

十六世紀、世界制覇の情熱に駆り立てられて発展した航海術のために天体観測の技術が洗練され、その観測事実によって天動説がほころびはじめたように、今日、経済に駆り立てられた科学技術の発展の前に旧来の哲学はほころんできている。ただ、人々の生活は、まだまだ変わらないでしょう。過去の哲学の上に発展した西洋文明に取って代わる新しいものは百年の単位では現れそうにないからです。

しかし、ほころびた哲学しか持てない現代人は、文明生活を楽しみながらも、なかなか満足した人生を終えられない。だれもが他の人間との相互理解に自信を失い、自身の存在感をもてあまし、よって立つ足元のモラルを失い、自己中心的なニヒリズムに陥っていくように見える。このほころびは、文明の足元がぐらついているかどうか、という出発点からの間違いで始まるのですから、つくろいようがない。当分現代人は、自分の足元で崩れていく哲学が見えても見ないようにして生きていくしかないでしょう。

それにしても、哲学はどのあたりから間違えてしまったのでしょうか?

筆者の考えでは、それは人々が「自分たち人間は言葉がはっきりと分かる。何事も言葉でしっかり説明すればお互いに理解できる」という西洋古典哲学以来の思い込みが過ぎたところからです。特に、言論を職業にする知識人、聖職者、教師、作家、思想家、哲学者たちが、それです。

こう言うと、世界中の人文系の人々を全員敵に回してしまいそうで、背筋がぞっとします。しかしあえて拙稿では、その恐ろしい危険を冒してみようと思います。筆者のいかほどでもない社会的生命など、あと惜しむほども残っていないことを思えば、怖いものなどありません。それに、拙稿を読む人はとても少ないでしょうし、それもたぶん、賢明で寛容な人ばかりと予想できます。その予想に甘えて、拙稿では、言論を職業にする人々をひっくるめて言語技術者、と少々侮蔑的な響きを持つ呼称を使って呼び捨てにします。そしてまた、その人たちが言葉を敬いあがめてそれらがあたかも客観的に存在しているかのように語り合うことで、哲学の間違いを(故意ではないにしても)隠蔽してしまった共犯者たちであると(僭越ながらこの筆者が)糾弾してみようかと思います。

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2007-01-21 | 0目次

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 table of contents

 

プロローグ 

prologue

 

目次 

contents

 

第一部 哲学はなぜ間違うのか

  why philosophy fails?

 

1  哲学はなぜ間違うのか?

  why philosophy fails?

 

2  言葉は錯覚からできている

  words are made of illusions

 

3  人間はなぜ哲学をするのか?

  why do humans do philosophy?

 

4  世界という錯覚を共有する動物 

  animal sharing an illusion of the world

 

5  哲学する人間を科学する

  science of doing philosophy

 

第二部 この世はなぜあるのか

       why is there the world?

 

6  この世はなぜあるのか? 

  why is there the world? 

 

7  命はなぜあるのか? 

  why is there the life?

 

8  心はなぜあるのか? 

  why is there the mind?

 

9  意識はなぜあるのか?  

  why is there the consciousness?

 

10 欲望はなぜあるのか? 

  why is there the desire?

 

11 苦痛はなぜあるのか? 

  why is there the pain?

 

12 私はなぜあるのか? 

  why is there me?

 

第三部 私はなぜ死ぬのか

 

        why do I die?

 

13 存在はなぜ存在するのか? 

  why does the existence exist?

 

14 それでも科学は存在するのか? 

  does science exist though?

 

15 私はなぜ死ぬのか?

  why do I die?

 

16 私はなぜ幸福になれないのか? 

  why can't I be happy?

 

17 私はなぜ幸福になれるのか? 

  why can I be happy?

 

   第四部 私と世界とのいかがわしい関係 

           a shady relation of I and the world

 

18 私はなぜ言葉が分かるのか? 

  why can I understand language?

 

19 私はここにいる

  I am here

 

20 私はなぜ息をするのか? 

  why do I breathe?

 

21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?

  why do I feel my feeling?

 

22 私にはなぜ私の人生があるのか?

  why do I have my life?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下 未定) 

 

(最新の目次→内容解説と抜粋 

 

              引用文献原題

                references

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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文献