人類の身体の構造が、拙稿のいうように、本来、集団的に動くものとなっているとすれば、まず無意識のうちに集団の目的に追従して、私たちの身体は動いていく。そう動いていく自分の身体を意識するとき、私たちはそこに個人的目的を推測し、次にそれを追求して自分を操縦していく。
たとえば、短いスカートが流行すれば、自分もなぜか理由もなく短いものを履きたくなる。次には短いスカートを履くことが自分の目的であると思う。この頃には、なぜ自分にはそれが必要なのかについて、はっきりした理論ができている。それを実行するための準備行動を既に開始している。たとえば素足が見えてしまうので肌の手入れをする。エステティックサロンに行く。以前には高価と思ったその料金も当然と思えてきます。こうなるとこの人がミニスカートを履くという行動は個人的目的によるものといえるでしょう。
またたとえば現代社会では、社会を支える政治経済システムに適材適所の人材を供給して社会の機能を維持再生産していく必要性を皆が認めている。マスコミでも毎日そう言っているし、学校の先生も組織の幹部も村の長老も誰もが、そう言います。そういう空気の中で、職業を持って社会人になることを個人的目的として子供は育ち、勉強し、学校を卒業すると当然、就職して生計を稼がなければならないと思われています。なぜ就職しなければいけないのか、などと問うことが最近はマスコミでも行われたりしていますが、これは議論をおもしろくする必要がある企画者たちの活動によるところが大きいと思われるので、実際に就職しないことを積極的な目的とする人が増えているということではないでしょう。
私たちがなぜこういう話をしているのか、あらためて考えてみると、個人が自分の行動を決める、と思うところからきている。私たち現代人は、自分がしているほとんどすべての行動は、自分が持っている個人的目的を追求するために行っているのだ、と思っています。しかし、拙稿の見解によればそれは間違いということになる。
個人的目的というものが人間行動の基礎であるとすることは間違いです。目的というものは、そもそも、個人的なものではなくて、集団的なものであったものが、現代においては取り違えられている。現代においては、目的はまず個人的なものでそれが特殊な場合にだけ集団的なものとなる、と思われています。たとえば、オリンピックを成功させたいという個人的目的を持つ人が多数集まると、それは集団的目的となる。しかし、狩猟採集社会でのある集団、たとえば狩猟採集部族の集団が熊祭を成功させたいと思うときは、それはまず集団的目的でしょう。
現代人と狩猟採集民とのあいだに、目的の持ち方について、そのような大きな違いがあるのでしょうか?
拙稿の見解では、現代においても過去においてと同様に、人間の行動はほとんど、仲間の動きに誘導されて目的もなく身体が動いていくことが積み重なってできている、と思われます。ひとりで動くときも(身体に埋め込まれている)記憶が呼び出す仲間の動きに追従している。部分的には目的を追求してなされる(と本人が自覚し記憶しているような)行動があるが、そのほとんどは、本人が思うほど個人的な目的ではなく、仲間と共有する集団的目的の追求からきています。
そうであるにもかかわらず、人が人を見るときは、特に現代では顕著に、その行動に個人的目的を見るようになっています。そのように個人的に生きる人間のモデルを普遍的であると思い込んでいます。
現代人が人の行動の本当の要因を個人的目的として見とってしまうところから、目的というものが個人的なものと思われることになる、と思われます。