哲学の科学

science of philosophy

目的の起源(11)

2013-11-30 | xxx6目的の起源

人類の身体の構造が、拙稿のいうように、本来、集団的に動くものとなっているとすれば、まず無意識のうちに集団の目的に追従して、私たちの身体は動いていく。そう動いていく自分の身体を意識するとき、私たちはそこに個人的目的を推測し、次にそれを追求して自分を操縦していく。

たとえば、短いスカートが流行すれば、自分もなぜか理由もなく短いものを履きたくなる。次には短いスカートを履くことが自分の目的であると思う。この頃には、なぜ自分にはそれが必要なのかについて、はっきりした理論ができている。それを実行するための準備行動を既に開始している。たとえば素足が見えてしまうので肌の手入れをする。エステティックサロンに行く。以前には高価と思ったその料金も当然と思えてきます。こうなるとこの人がミニスカートを履くという行動は個人的目的によるものといえるでしょう。

またたとえば現代社会では、社会を支える政治経済システムに適材適所の人材を供給して社会の機能を維持再生産していく必要性を皆が認めている。マスコミでも毎日そう言っているし、学校の先生も組織の幹部も村の長老も誰もが、そう言います。そういう空気の中で、職業を持って社会人になることを個人的目的として子供は育ち、勉強し、学校を卒業すると当然、就職して生計を稼がなければならないと思われています。なぜ就職しなければいけないのか、などと問うことが最近はマスコミでも行われたりしていますが、これは議論をおもしろくする必要がある企画者たちの活動によるところが大きいと思われるので、実際に就職しないことを積極的な目的とする人が増えているということではないでしょう。

私たちがなぜこういう話をしているのか、あらためて考えてみると、個人が自分の行動を決める、と思うところからきている。私たち現代人は、自分がしているほとんどすべての行動は、自分が持っている個人的目的を追求するために行っているのだ、と思っています。しかし、拙稿の見解によればそれは間違いということになる。

個人的目的というものが人間行動の基礎であるとすることは間違いです。目的というものは、そもそも、個人的なものではなくて、集団的なものであったものが、現代においては取り違えられている。現代においては、目的はまず個人的なものでそれが特殊な場合にだけ集団的なものとなる、と思われています。たとえば、オリンピックを成功させたいという個人的目的を持つ人が多数集まると、それは集団的目的となる。しかし、狩猟採集社会でのある集団、たとえば狩猟採集部族の集団が熊祭を成功させたいと思うときは、それはまず集団的目的でしょう。

現代人と狩猟採集民とのあいだに、目的の持ち方について、そのような大きな違いがあるのでしょうか?

拙稿の見解では、現代においても過去においてと同様に、人間の行動はほとんど、仲間の動きに誘導されて目的もなく身体が動いていくことが積み重なってできている、と思われます。ひとりで動くときも(身体に埋め込まれている)記憶が呼び出す仲間の動きに追従している。部分的には目的を追求してなされる(と本人が自覚し記憶しているような)行動があるが、そのほとんどは、本人が思うほど個人的な目的ではなく、仲間と共有する集団的目的の追求からきています。

そうであるにもかかわらず、人が人を見るときは、特に現代では顕著に、その行動に個人的目的を見るようになっています。そのように個人的に生きる人間のモデルを普遍的であると思い込んでいます。

現代人が人の行動の本当の要因を個人的目的として見とってしまうところから、目的というものが個人的なものと思われることになる、と思われます。

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目的の起源(10)

2013-11-23 | xxx6目的の起源

農耕牧畜社会では人口密度が上がり、富の蓄積と分業が進んだ結果、急速に階級制の支配構造が発達しました。少数の支配階級が農民、牧畜民を支配する社会構造です。支配階級である王侯貴族は、権力、富、名誉、子孫の安全などを人生の目的として日夜努力するようになったでしょう。それらの人生目的は仲間と共有するものであるというよりも王侯貴族の間で競合して奪い合うものであったといえます。歴史上の王侯貴族がそのような個人的な人生目的を持っていたことは、歴史資料からも明らかです。

個人的な人生目的は仲間と共有するものではありません。例えば権力的地位、あるいは領土など、むしろ奪い合うものであったりします。戦いや競争が正当化されるエリート階級のあいだでは仲間と共有せず個人的に戦いとるべき目的は、当然、自尊心にかかる人生の重要事項です。そのような状況では、個人的目的を強く意識した行動が全面に出てくることになります。そのことが、中世など階級制社会でのエリート階層の人々のあいだで、個人的目的が意識され、言葉に現れ、語られるようになった理由でしょう。

 

近代以降の産業社会では、ブルジョア階級が前時代の王侯貴族のように個人的目的を追求するようになりました。逆に言えば、むしろ、産業革命以降の時代では、王侯貴族でない人々でも個人的目的を追求し社会の上層階級を形成できるようになったのでブルジョア階級が出現した、と言えます。いずれにせよ、現代の資本主義社会では、個人間の競争に勝つ程度によって権力、富、名誉、子孫の安全など人生において個人が獲得できるものが確実に大きくなる仕組みになっている、と思われています。

個人的目的を追求して社会的競争に勝つ。目的行動はそのためになされる、と思われるようになったのでしょう。この時代から現代にかけて、知識人、言論人など社会の表層で言葉を語る人々の間で、目的行動というものは、いつでも、個人的目的を下敷きにしているはずだ、という認識が常識になってきます。

そういう現代の常識のもとで、集団的目的を目指す行動というものは、まずそれを良いことであるとする場合には、個人主義を克服した賛美すべき協調性だとか、絆だとか、一致団結だとか言われ、新しい人間関係や政治革新が期待できるものであるとか、論じられます。また、それが悪いことであるとする場合には、愚かな群衆行動であるとか、あるいは極端な理想主義を信奉する教条的過激集団の行動であるとか、あるいは偽善的な人々が個人的目的を隠蔽するための見せかけのパフォーマンスである、というような見方がなされるようになります。

拙稿の見解によれば、これはパラドクシカルな現象であって、人類史数万年にわたって、もともと圧倒的に集団的なものであった目的行動が、最近のたかだか数百年においてそれから派生してついには多数派となった個人的目的行動にとってかわられてしまったために、先祖伝来の集団的目的行動が、個人間の人間愛的連携とか一致団結とか、群衆行動とか、異常なものとして呼ばれるようになってしまった、といえます。

 

 

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目的の起源(9)

2013-11-16 | xxx6目的の起源

そもそも、拙稿の見解では、目的というものは、仲間と協力して連携行動をとるために生まれてきた。仲間と共有すべきものが目的です。目的というものは、そもそも、個人的なものではなくて、集団的なものでした。

そうであれば、個人的な人生の目的という概念は、はじめから矛盾を含んでいる。人工的な匂いのする概念に思えます。個人の人生というものが語られるようになったのは、歴史上古いことではなさそうです。古代ギリシアの叙事詩などに英雄の人生が歌われていますが、現代人のいう人生の目的というような概念が当時あったかどうか、はっきりしないようです。

個人が主人公になる文学とか演劇とか、伝記とか新聞記事とかが書かれるようになったのは、数百年前以降、つまり中世から近世にかけてです。それも中世初期の頃に書かれたものは訓話や王侯貴族聖人列伝のたぐいだけです。いずれにしろ、個人的な人生の目的というようなものは、せいぜい数千年前以降に考えつかれるようになって、さらにそれらが顕著に語られるようになったのは、数百年前以降、つまり近世以降になって、それらは、はっきりと語られ書かれるようになったようです。

昨今、人生の目的は定まりにくくなった、というよりも、もともと人類の伝統において人生の目的などというものはそれほどはっきりしたものではなかった、という言い方の方がより現代的今日的である、といえそうです。

目的を追求する行動は、言語発生以降の人類に特有な行動であって、しかも個人的に人生の目的を持つなどということは、ここ数千年、西洋文明から始まって世界中に広まった歴史的産物といえそうです。もしそうであれば、人生というゲームの目的をしっかりと見定めていなければならない、と教えられてきた私たち現代人の生き方というものもいかがなものか? そもそも伝統的な人類の生き方とは少し違うのではないでしょうか? (近代的な)目的志向のこういう生き方自体、すこし古くなってきたのかもしれない、という気がしてきます。

個人的な人生の目的ではなく、仲間と共有する目的、人間集団としての目的を追求するとき、私たちは最も生き生きと生きることができるのではないか?人類の身体はそのように作られている、というのが拙稿の見解です。

目的というものを使って計画的な行動を遂行することは、人類に特有の行動様式です。集団として目的を共有し、役割を分担し、自分たちの身体を道具として使いこなして、効率的な行動をする。そうして高い確率で栄養供給システムにつながり、繁殖に成功する。それが人類の特徴といえます。

近代以降の文明社会では、個人的な人生の目的が人間の行動を決めているように見えますが、これは人類の普遍的な行動様式というよりも、農耕牧畜から発生した文明社会特有の行動様式というべきでしょう。狩猟採集の時代には集団的なものであった目的という行動様式から、農耕牧畜の時代には、個人的な目的という行動様式が派生してきた、といえるようです。

狩猟採集社会における目的志向行動は仲間と共有する目的を追求するものであった。狩猟採集行動に関する目的を仲間と共有しない個人が仮にあったとしても、その人は獲物の分け前にも預かれず、子供たちも仲間に受け入れられなくなるなど生活に困る可能性が大きいでしょう。狩猟採集社会では人々の専門技術、作業用具、生産装置、行動パターンなどの個人間の違いはあまりなかったと思われます。またたとえ、ある個人がすぐれた技術あるいはすぐれた道具を持っていたとしても、その人は仲間の集団行動の中でしかその能力を発揮することはできなかったでしょう。だれであろうとも、そういう状況では仲間と目的を共有する行動しか取れません。そうであるとすれば、狩猟採集社会において、個人的人生の目的を持つということは、やはりあまり一般的ではなかったと推測できます。

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目的の起源(8)

2013-11-09 | xxx6目的の起源

いずれにしろ、私たち人間は、原始時代もそれ以降も現代に至るまで、少なくとも直感としては、目的論を使って物事を見取っている。私たち人間は万物の変化に目的を見る。万物というよりも人間が関心のあるような物の変化や運動に関して、人間は、まず、目的を読み取ります。

 

「XXが○○したくて○○する」という言語様式は、私たちが関心のある事物の変化を表現するときに使います。人間のように心があるものは目的を持って行動する。逆に目的を持っているように動くものは心を持っている。心とはそういうものです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」 )。そういう動きをする者たち、つまり言語で表現されるとき主語になるような者たち、人間、動物、擬人化されたもろもろの物事、そういう者たちの動きを、私たちは言語を使って互いに語り合うことができるし、記憶することができます。

 

 

 

 

私たちは自分自身、目的を持って何かをしている、と思っています。意志を持って行動しているからには、その行動の目的を持っているはずだと思われます。そうであれば、人間は目的を持って毎日を生きている。特に人生の目的を持って毎日を生きているはずだ、と思われます。

 

しかし、人生のその目的ですが、現代は、それを語ることがちょっと面倒な状況が多くなっているようです。二十一世紀の私たちは、これまでの人々とちがって、その人生の目的を語ることがむずかしくなっている、と言われます。

 

その理由は分かるような気もします。かつて人生の目的は、正しく人生を生きることだった。結婚して子を産み育てて、出世して、金持ちになって、職業において成功し、あるいは大事な勝負に勝つことでした。皆そう思っていました。皆ではなくとも大多数の人々はそう思っていました。しかし二十一世紀の現代人である私たちは、それらの正しいことが正しいことなのかどうか、いささか自信がなくなってきたようです。

 

現代社会は複雑になってきているからどう生きるべきかが分かりにくい。しかしそればかりではない。現代はその上、良くも悪くも、何もかもが相対的で自由であるような気がする。結婚してもよいがしなくてもよい。子を産んでもよいが産まなくてもよい。出世してもよいがしなくてもよい。金持ちになってもよいがならなくてもよい。成功してもよいがしなくてもよい、勝負に勝ってもよいが勝たなくてもよい。

 

そうであれば、人生の目的は定まりにくいでしょう。

 

 

 

 

 

 

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目的の起源(7)

2013-11-02 | xxx6目的の起源

さて、拙稿の見解では、人間にとって世界はまず目的論 的に意図的行動によって推移していくような構造を持っている。目的を持って意図的に推移している世界あるいは人々、社会に対して、私たちはおおいに感情を働かせて、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりしながら、毎日を暮らしている。そういうような世界に私たちは生きている、と私たちは思っています。

それは、人類の文明以前の原始生活においてまさにそうでしたが、文明のまっただ中に生きている私たち現代人も、同じように、そう思っています。

原始生活においては、仲間の人間や敵や獲物や家畜や猛獣の動きに対してそれらの持つ目的を読み取りながら必要な対応行動をとることによって、うまく栄養供給システムにつながることができたからでしょう。現代においても、私たち人間は、仲間の人間や敵の人間や獲物としての人間や家畜や猛獣に似た人間たちを相手に彼らの目的を読み取りながら、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりして毎日の生活を維持しています。

原始時代の宗教は、あらゆる物事に神性を感じとるアニミズムからはじまっています。人類は、自分たちが感じとれるすべての存在を、まずは目的と意図を持った人間的な存在として感じとり、自分たちがよく知っている性質を持って動いているに違いないと思い込む性向があるようです(一七五七年  デイヴィッド・ヒューム 『宗教の自然史』)。

ところが、このような宗教と相容れない、人間の感性にそぐわない理論が現代では大きな存在となっています。科学です。

現代科学に代表される因果論は目的論とは相容れない。科学によれば、人間の身体を含む万物は物質の法則による原因と結果の関係だけで推移していく。世界は人間の喜びや苦しみに全く無関心に動いていく、という見方しかしません。ここから科学は非人間的だという感覚が生まれてくるのでしょう。

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