哲学の科学

science of philosophy

宇宙人はいるか(2)

2017-04-30 | yy57宇宙人はいるか

近年、宇宙望遠鏡の性能は急速に発達していて、同時に地上望遠鏡を組み合わせて観測精度を上げる技術が大発展していますから、超遠方の小さな地球型の惑星も今後、次々と発見されていくと予想できます。
地球に似た惑星が多く発見されれば、それらのいくつかには、地球と同じように生物が存在するだろう、という予想は自然にでてきます。まさにこの予想に向けてNASAの宇宙望遠鏡計画は進められています(米連邦議会で予算が認められやすい説明であるからですが)。

興味深いことに、一九九〇年代半ばに太陽系以外の惑星系がはじめて発見されるまでは、大多数の科学者は地球外生物など空想の産物である、と考えていたことです。筆者は現役のころ、小学生向けの学習漫画の原作(二〇〇〇年 岩田勉「宇宙人に会いたい」)で、宇宙人は遠い宇宙空間でどんどん星間移住をして増殖しているだろう、と書いたことがありますが、編集者(天文出身の人でした)に異端学説と疑われるのではないかと心配でした。
その当時、といっても二十年前ですが、子供はもちろん宇宙人の存在を信じていました。大人も、科学者や知識人など以外の一般の人の多くは、宇宙人やUFOはたぶん本当だ、と思っていました。今もそうでしょう。問題は、知識人です。
実際、この宇宙に人類のような存在は我々以外にいないという思い込み(We-are-alone仮説という)を信じている科学者や知識人は今でも多くいます。

はたしてその通りなのか?広い宇宙に人類のような種族は、私たち地球人類以外にいないのでしょうか?
全然いない?そうとも思えます。しかし一方、いるに決まっている、という説も説得力は十分ありそうです。しかも数百種、あるいは数万種もいるのではないか、という空想もなんとなく納得もできてしまいます。
質問するのは簡単ですが答えることは、はてしなくむずかしそうな難問です。
拙稿本章ではこの問題について考えてみようと思いますが、すぐに答えが出そうにない問題であることは分かっているので、まあ、どう考えればよいかを考えてみましょう。











自然科学ランキング
コメント

宇宙人はいるか(1)

2017-04-22 | yy57宇宙人はいるか

(57 宇宙人はいるか begin)




57 宇宙人はいるか?  地球外知性の存在論

NASAの宇宙望遠鏡(Spitzer)により、みずがめ座の中にある極低温赤色矮星を周回する惑星系(TRAPPIST-1)が発見されました。この発見が注目される理由は、それらの惑星のうち三個が地球に似て液体の水を表面に保持している可能性が高いからです。地球以外の惑星で液体の水が発見されれば歴史上初めてとなります。
NASAの天体観測部門は巨大な宇宙望遠鏡を次々に打ち上げて、一九九〇年代半ばから系外惑星(太陽系以外の惑星系の惑星)の発見を続け、その数は年々急増しています。二〇一七年現在、確定された発見数は千を越え、来年頃には数千を超えると予想されます。
発見される系外惑星は、まず木星のようにガスでできた大きなものばかりで、地球や火星のように岩石が主成分の惑星は小さすぎて発見されにくいという結果になっています。









自然科学ランキング
コメント

マシンガンとスマートフォン(7)

2017-04-20 | yy56マシンガンとスマートフォン

生活はいちおう安定していて明日のパンに困るということはないが、夢中になって個人力を駆使するほどの機会がないのはむなしい。スマートフォンを使って意見や気分を表現することはできるがそれで個人力が発揮できることは、あまりないように思えます。
有名人やスターであればツイッターやフェイスブックでますます個人力を伸ばしそれを駆使して多くの人々に影響力を及ぼすことができますが、無名の個人の発信では、スマートフォンへの書き込みも知人以外に読んでくれる人はいないでしょう。
結局、個々人が同等の能力を持たされているかのように見えるスマートフォンも、それによって個人力を発揮できる人は少数の有名人のみ、ということになります。大多数の無名の人々は少数者の個人力に影響されるだけのフォロワーになるという構造は、政治的権力や金力の格差と変わらないように見えます。
大多数の個人がスマートフォンを使いこなすという現代社会最近の現象は、しかしながら、個人力の極端な偏在を防ぐという効果を持っています。特定の集団が持つ個人力の突出に対して、個人力のその源泉構造への懐疑、否定、修正の意見が次々とインターネット上に表明されることで、虚偽のあるいは有害な個人力の効果が減殺されていきます。
たとえば政治家への批判、テレビ有名人への批判、私的あるいは公的企業の管理者経営者への不満、問題発言への批判、超富裕層への課税強化提案、などがスマートフォンを通じた意見として湧き出てきます。これらは突出した個人力を保持している人々を抑え込む圧力となっています。
不特定多数の意見、狭い意味では世論と呼ばれるこれら批判、評価、評判のようなものは、個人力発揮への抑制的圧力となっていますが、その個人力の源泉がどこにあるかによって、圧力の効力はかなり違います。
まずマスコミに依拠するスター、セレブ、タレント、評論家、著作家、言論人などは、視聴者、読者に嫌われると売り上げが減る、という直接的影響によって強い圧力にさらされています。スターたちよりもさらに、マスコミの構造自体がそれら不特定多数の批判によって脅威にさらされるので、記事や番組編成の権限を持つマスコミの幹部、社員エリートたちもまた、スマートフォンの書き込みが怖い、という一種の抑制装置になっています。
政治家、官僚、公的組織の管理者、経営者などもまた、スマートフォン、インターネットの書き込みが、人事的な圧力に変換される可能性を怖がります。
一方、世界にビジネスを展開し、海外との取引が利益の大半を占めている私企業のトップなどは、日本語のマスコミやスマートフォンの書き込みなどの評判に関する怖さの感受性は半減しています。マスコミに載ることなどほとんどない著名でない超富裕層は、圧力をほとんど感じない、という実態でしょう。
超富裕層の個人力が影響を受けるとすれば、それはマスコミ、政治家などを通じた課税強化政策など、間接的圧力によります。そのような圧力は政治力ではあっても個人力ではありません。マスコミに名を知られていない超富裕層、たとえば金持ちランキングで千位から一万位くらいの層は、個人力を阻害される場面が少ないという意味でスマートフォンの攻撃にさらされない個人力のサンクチュアリ、ともいうべき領域にいます。

マシンガンの瞬間的破壊的な個人力。スマートフォンの広域的継続的な個人力。あるいはマイカーあるいはパーソナルコンピュータが備えるように見える個人力の自由な行使感覚。いずれも現代人が信じ込みたがり、依存したがる個人力の象徴ではありますが、現実にその実力は思うほどではない。それらは、現代の社会構造の中で、多数の個人力を実際に強化する道具となるよりもむしろ互いに競争し牽制しあって少数の顕著な個人力の突出を抑制し、結果的に非個人的な組織力を強化する、というアイロニカルな社会的機能を持つ、ともいえます。

マシンガン、スマートフォン、マイカー、個人用コンピュータ機器。今日、個人が使いこなせる優れた機械が簡単に手に入ります。しかしそれらの道具は、現代社会の構造の中で、個人力を拡大するかのように見える一方、それを抑制する装置でもあります。組織力に依存しながらも個人力を憧憬し、しかし構造的に個人力から疎外され続ける現代人は、それでもそれらしか頼る道具がない現実の中で、それらを身体から離すことはできないでしょう。■






(56 マシンガンとスマートフォン end)





Banner_01

コメント

マシンガンとスマートフォン(6)

2017-04-07 | yy56マシンガンとスマートフォン


現実の権力者たちがオルテガの本を読んで真のエリートに改心するはずもないので、実際は、個人力を持たない大多数の大衆ならびに個人力は大いに持っているものの精神的には大衆でしかない偽エリートの組み合わせで現代社会は成り立っているのでしょう。
真のエリートは教科書の中にしかいません、というニヒルな見方ですが、残念ながら大体当たっているようです。もちろんノーベル賞に値するほどの立派なリーダーや尊敬すべき有名人はいないことはありませんが、ごく少数のそれら孤立した精神的貴族に動かされるほど現代社会とそれを構成する大衆は腰が軽くありません。
現代社会の中で絶望的に個人力を失っている多数の一般人から見れば、真のエリートであろうが偽のエリートであろうが、有名人で個人力、つまり人におよぼす大きな影響力を持っていそうな少数の人々は、憧憬の対象であると同時に嫉妬の対象であるので好きでもあるが大嫌いでもあるのです。そんな人のきれいごとの教えに従うのは嫌という感情が強くあります。
エリートやそれらセレブのスキャンダルがマスコミで執拗に追及され、人々がそれを熱心に視聴する現象は、たしかに正義活動でもあると同時に大衆的なエンターテインメントでもあることは否めません。
古代ローマの詩人は、市民にはパンとサーカスを(panum et circensus)与えておけば十分である、と揶揄しましたが、このサーカスとは円形競技場に大観衆を集める競馬(戦車競走)や格闘技(剣闘士対猛獣)など娯楽スポーツ見物のことです。
個人力を持てない一般市民はテレビやスポーツ紙、週刊誌の提供するエリートやセレブの活躍に興奮し、同時にしばしばそれら有名人たちのスキャンダルを話題にし、あきれたり真相を追及したりして正義感を満足させ同時に娯楽スポーツ見物として楽しむ、という見方でしょう。
ローマ帝国の繁栄と平和がこのような大衆の生き方を産んだとすれば、現代先進国の繁栄の結果生まれた社会状況はそれに似ているところがあるのかもしれません。








Banner_01

コメント

マシンガンとスマートフォン(5)

2017-04-02 | yy56マシンガンとスマートフォン


さてそういうことで、世界全体の個人力の総和が一定であると仮定すると、個人力を発揮する側の格差を問題にすることができます。
マシンガンを持った人の個人力は大きい。しかしふつう勝手にマシンガンを発砲するわけにはいきません。たいていは軍隊を統率する隊長の命令で兵士は動きます。その場合、兵士の個人力はあまり大きいとは言えないでしょう。
軍隊は最高指揮官の命令で動く。最高指揮官は国家のトップです。そうであれば大統領とか国家主席が巨大な個人力を持つことになるはずです。また大会社のトップ、大株主、会社オーナー、超富裕層の人々は、権力と財力で人に大きな影響力を発揮しますから、当然、個人力が高い。有名人、セレブも個人力が強い。
問題は、現代のこれら個人力の大きな人々がごく少数しかいない。つまり、集中している、少数寡占の状態になっていることです。世界の個人力の総和が一定であるとすれば、そこで少数寡占状態となれば大多数の人々は個人力を奪われた状態にあることになります。

現代経済の問題点として、富の偏在と格差、と言われていますが、それと表裏をなす形で、個人力の偏在と格差、があります。貧困層や中間層から見て、超富豪の存在は羨望と嫉妬と絶望の感情を呼び起こしますが、それと同じように、個人力のない大多数の人々から見ると、著名人、セレブ、大組織幹部、経営者管理者などへの個人力の極度な集中は、現代社会において経済的不満にも勝る虚無感、絶望感を醸成しているといえます。
富の偏在と個人力の偏在は、現代社会において似たような構造を呈していますが、詳細に見るとかなり違いがあります。超富豪の存在は、そうでない人々にとってそれを思い起こす機会はあまりなく、話題に上るときは羨望と嫉妬を喚起しますがそれは抽象的なものでしかありません。一方、個人力の偏在はマスコミやインターネットを通じて大多数の人々に階層の存在を日常的に感知させます。慢性的な虚無感無力感を与えるという意味で、個人力の偏在は、現代人の社会意識に深刻な影響を与えていると思われます。

現代思想の潮流の中で、大衆とエリートの相克、というようなテーマで繰り返し理論化されてきた現代社会構造のとらえ方があります。大衆の反逆(一九二九年 ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」)という概念は、現代の民主主義・資本主義社会の分析として頻繁に引用されます。この概念の基本テーマは、大衆は社会体制維持に関心も責任も持たずしたがってそれに責任を持てるエリート層が必要、という理論を下敷きにしています。
個人力という観点から見れば、個人力を持たない大多数の人々が大衆であり、個人力を集中的に保持している少数者層がエリートということになるでしょう。しかしオルテガが描いたように、権力を持つ少数者の中にも社会維持に実は関心のない精神的大衆が多く存在して社会を腐らせているところに現代の病根がある、という理論があります。
中国共産党のトップが汚職腐敗幹部の摘発に躍起になっているというニュースを読むと、どの国でも健全なエリート層の維持はなかなかむずかしそうだという気がします。







Banner_01

コメント

文献