哲学の科学

science of philosophy

存在は理論なのか(2)

2011-03-26 | xx5存在は理論なのか

理屈ではそうです。しかし人類が滅亡した後の世界というものはどんなものなのか? 地球人そっくりの宇宙人が生きている世界はどんなものなのか? 想像するのがむずかしい。いやその前に、そういうものを想像するということに意味があるのか? 疑問ですね。

人類が滅亡しないとしても、現在生きている私たちがみんな死んでしまっているはずの千年後の世界さえ想像するのはむずかしいですね。千年後といえば、子も孫ももちろんいなくなっているし、自分の血筋が残っているかどうかも、まず分からないでしょう。

だいたい私と何の関係もなくなってしまう世界というものは、存在しているとしても、何の意味があるのか? 日本が全滅してしまったら、日本語を話す人がだれもいなくなってしまったら、世界が残っていても意味がない。そう思う人は多いでしょう。極端に言えば、千年後はもちろん、私が死んでから三十年後の世界などあってもなくてもまったくどうでもいい。いや明日のことでも、大災害に遭遇して自分も家族も全滅してしまったら、その後に世界が残っていてもいなくてもそんなことはどうだっていい。そう思っている人は案外多いのではないでしょうか?

私たちは、この世界が終るか終らないかに、実は、それほど関心があるわけではないのかもしれない。こう考えてくると、世界が終るという怖そうな言葉は結局、たいした意味がない、と言わざるを得ない。それなのになぜ、私たちは、世界が終るという言葉で何かを感じることができるのか? たしかに、世界がなくなるという感じは分かるような気がする。それは、この現実世界が今ここにある、という事実に対して私たちが何らかの神秘感を感じるからだと思われます。

それは私たちが実は、この世界が続くと確信する根拠を持たないからではないでしょうか? あるいは私たちが、この世界が今ここにあることの根拠を知ることができないからではないでしょうか? 

この世界はなぜあるのか、なぜこうであるのか(拙稿24章世界の構造と起源)?

世界がいつまで続くのか私たちは知ることができない、知ることができないけれども知らなくてもいいや、と思っている。いや、皆がそう思っているのだからそれでいいじゃないか、と思っている。世界はいつまでも続くということでいいじゃないか、と思っています。そういうことにしておこう、と思っています。

世界がなぜ続いているのか、私たちは分からない。分かる必要などないのかもしれない。そんなことは、実は、私たちの毎日にとってはどうでもいいことだ、と思っています。そう思うしかない、と思っています。しかしまた、そう思うしかないということは、言葉ではっきりいえば、それは神秘だ、ということになります。

私たちは、世界がある,ということ自体を神秘的だと感じる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)。私たちは、この世界がなぜあるのか知らない。だから、この世界がなぜ終わらないのかも知らない。そしてそれは、たぶん、どうでもいいことなのかもしれない。ただ、その意味が分からない。そうであるから私たちは、世界が終る、という言葉に神秘を感じる。

ここに世界があるのはなぜか?

ここに私がいるのはなぜか?

神秘といえば、それ以上の神秘はないように思えますね(拙稿23章「人類最大の謎」)。

この神秘は科学を使っても哲学を使っても、人間にはとても解けそうにありません。この神秘を解明しようとして真正面から攻めていくと宗教や古典哲学が作れる(そしてもちろん、神秘は解けない)。少し引いて問題の構造を脇から分析すると近代哲学が作れる(そして、やはり神秘は残る)。この問題の構造を表現する言語や論理を研究し始めると、現代哲学が作れます。

いずれにしろ、拙稿ごときが真正面から話をはじめても、これら伝統的な哲学をさらに深めることなどできるはずがありません。そこで拙稿ではこの際、脇のまた脇に引いてみることにしましょう。つまり、この問題を話題にするにあたって、私たちはなぜこれを神秘と思うのか、という観点に問題をすり替えてみます。

なぜ私たちは世界が続くということを神秘と思うのか?そしてなぜその神秘の謎を解けないのか?そしてなぜ私たちは、それがたぶんどうでもいいことだ、と思っているのか?

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存在は理論なのか(1)

2011-03-19 | xx5存在は理論なのか

25 存在は理論なのか? begin

25 存在は理論なのか?

もう飽きられて下火になったようですが、二〇一二年の冬至に世界が終るという予言が、二、三年前からインターネットで出回っています。マヤ文明のカレンダーがその時点で終わりになっているという説から発想された理論らしい。このマヤ理論に重ねられて、ニビルという名の謎の惑星がその日に地球に衝突するという予言がインターネットに広まっていて、NASAに問い合わせが殺到したそうです。NASAのビデオで回答したディヴィッド・モリソン博士は「お金儲けのためにデマをインターネットに流す人たちのおかげで若者が深刻に悩んでいる。自殺した人もいる」と怒っていました。

世界が終る。すごい言葉です。大げさな、でも怖そうな感じがする。まあ、真剣な顔をしてこんなことをいう人に会ったら、その人が怖い。

そういう人は、しかし、いつも出てきます。必ずしもお金儲けのためや、世間を怖がらせて愉快になるという人たちばかりでもない。大地震や津波や洪水や噴火に遭遇すると「世界が全部おかしくなった。もうおしまいだ」と思いたくなる。そういう感覚は、実は、私たちだれもが感じることがあります。

終末、最後の審判、世界の終り、というような言葉にひかれる感覚を私たちだれもが持っているようです。宗教の経典や聖書にそういう言葉があるのは、それがある種の強いイメージを引き起こすからでしょう。

しかし、世界がなくなる、とか、おしまいだとかいうこのような言葉は結局、何を意味しているのでしょうか? この言葉を言っている人に聞いても、おそらく意味はよく分からないでしょう。では全然無意味な言葉なのでしょうか?

そうだとも思えないところもある。どういうことなのでしょうか?

拙稿としてはその辺に興味がある。しかしまじめな顔をしてこんな話をするのはちょっとむずかしいところもあります。

現代人の常識では、世界というものは突然終わるようなものではない。世界が終る、という言葉は何を意味しているか、まったく分からない。あらためて考えると、まずおかしな言葉だと感じられます。どう考えてよいのか、さっぱり分からない。こういう場合は、ふつうまじめな顔をしてそれについて語ってはいけません。皆が困ってしまうからです。

ところが、そういうことを無視して、さらにまじめに無理やりに深く考えてみると、これはまったく無意味な言葉だと言い切ることもできないかもしれない、と思えてきます。私たちがこの言葉から何かを感じることはたしかにあります。世界が終るという言葉は、非論理的な言葉ではあるとしても、詩人の言葉のように、何かを人に強く感じさせるようなものがある、というべきかもしれません。

世界というのは、そもそも、いつか終わるようなものなのでしょうか? 私が死んでも世界は終わらない。日本が全滅しても世界は終わらない。たとえ地球に謎の惑星が衝突しても世界が終るとはいえませんね。

そういう場合でも人類は滅亡しないかもしれない。少なくともだれかが生き残っていれば世界は続く。地球上の人が全滅しても三人くらいがロケットに乗って火星に移住できるかもしれません。燃え上がったソドムの町からロトと娘たち三人が逃げだしたように、ロシアの三人乗りロケット(ソユーズ)で男と女三人は宇宙ステーションへ脱出できるでしょう。また住めるようになったら地球へ帰ってくる。遺伝子多様性が心配だというならば、三万人分くらいのDNAを持って行ったらどうでしょうか?

いや、人類が滅亡したとしても、あるいは、すべての生物ごと地球が破壊されたとしても、世界が終るとはいえないのではないでしょうか? 太陽系が消えても、宇宙には他の惑星系が千兆個以上はある。その中には人間そっくりの宇宙人もいるかもしれない。いや、確率的には必ずいます。それも何万種といるでしょう。

それらの宇宙人(地球外知的生命体というべきでしょうか)が人間と似たような神経系を持っているとすれば、私たちと同じように世界を見ているでしょう。科学も持っているでしょう。相対性理論も量子力学も知っているはずです。地球人が拙稿のような文章を書いていることは知らないでしょうが、その宇宙人も筆者が使っている日本語と似たような言語を使ってこれに似た文章のようなものを書いているはずです。それらの宇宙人にとっては世界は続いている。つまり宇宙全体が消えない限り世界は終わらない。

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世界の構造と起源(22)

2011-03-12 | xx4世界の構造と起源

補足として、最後に、拙稿本章で述べたこのような(世界の構造と起源の)考察が実生活にどう応用できるのかを、ちょっと考えてみましょう。

まず世界の二面構造のうち、どちらが正しいのか? 目的論的な側面と因果論的な側面と両面があることは分かった。しかし実際私たちは毎日の場面場面でどちらかを選んでいるわけです。その場合、どちらが正しいと思えばよいのか? つまり、どちらを採用すればよいのか?

うまく栄養供給システムにつながることができるような現実を正しいと感じるように私たちの身体が作られているという拙稿の見解によれば、その人がその場面でおかれた環境によって正しい現実は違ってくるでしょう。太古の人類にとっては、目的論的な世界が明らかに正しかった。現代の私たちにとっては、残念ながらそう簡単にはいかないでしょう。

人間関係にますます依存する現代人は、無意識のうちに目的論的認知機構を高度に発達させています。一方、現代人はまた深く科学に依存して生きています。

人と忙しく会話する場面では目的論的に身体は反応していくものの、それだけが現実とは思えない。自然を観察しまた自分自身の身体を観察すれば、因果論的な物質世界が結局は正しい現実としか思えないと感じる。そこで現代人は二重生活をすることになる。クリスマスに聖歌を歌って正月に初もうでとか、上着にネクタイを締めているが下着はフンドシとか、私たちはそのおかしさをあまり自覚しないが改めて考えてみるとおかしいですね。

社会がますます緊密化してくるため、現代人はますます人間関係に依存し、言語に依存し、社会的自我の防衛に忙しくなる。この面で(自他の目的や意図を見分けて人間関係を操作するために)目的論的感覚をますます磨く必要がある。一方、科学が発達し医学が発達し、現代人は自分の身体をはじめとする地球上の物質を冷静にコントロールする必要も高まってきます。この面では(科学医学技術を使いこなす)因果論的センスを磨きあげる必要がある。

しかし個人の能力にはすぐ限界があります。それで周りの人々と助け合う能力がますます必要になってきています。科学を勉強する暇がなくても、よい医者と友達になるとか、組織を作って科学者を雇うとか。つまり場面場面に合わせてじょうずにふるまっていく。目的論も分かる、因果論も分かる、という顔をすればよい。実際、かしこい人はそうしています。家の中ではフンドシひとつでいるほうが楽でよい。しかし外に出たら何食わぬ顔をしてネクタイを締めてきちんと装っていく。そういう生き方が現代人にはますます必要になっているのではないでしょうか?

以上の拙稿の見解は、もちろんひとつの理論にすぎません。世界のチキン―エッグ問題、つまり世界が先か私が先かの問題、あるいは世界の構造と起源の問題に対応する理論は他にもいくつも考えられるでしょう。たとえば、すべては神様がなさっていることだから私たち人間は理解できるわけがないのであってそれでよいのだ、という理論もある。いずれ科学がすべてを解明するまで待つしかない、という理論もある。人生などすぐ終わってしまうのだから、めんどうなことは考えずに、元気いっぱい直感で動いているほうがうまくいくのだ、とか、いろいろな理論があります。

しかし私たち現代人の実際の人生に応用しようと思うと、どの理論も少しずつあやしいところがありそうです。どこかで破けてしまうような気がする。拙稿としては、あやしい理論ばかりの中では比較的シンプルなわりに破けにくそうな理論として、ここに述べたものをお勧めします。

(24 世界の構造と起源  end

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世界の構造と起源(21)

2011-03-05 | xx4世界の構造と起源

さきに述べたように、私たち人間は生まれつき、目的論による世界の見方と因果論による世界の見方と二つ(あるいはそれ以上)の認知機構を備えているようです。それらは互いに矛盾する認知システムを採用していて、それらにもとづいて作られる私たちの実用的理論は、互いに矛盾している。私たちはその矛盾に気がつかない。

現在の人類が使っているこの二つ(ないし複数)の認知機構は、どのように進化してきたのでしょうか? 人類発達史の観点から推測してみましょう。

人類は(拙稿の見解では)、言語の獲得より以前から主に目的論・意図的行動による世界の認識(反自然主義)を使って協力行動を行っていたと考えられます。この目的論を使う世界認識は十数万年前ぐらいからの言語の発展によって客観的現実世界を作り出していきます。一方、この言語発展のすぐ後を追うように狩猟採集あるいは農業手工業の技術が高度に発展する過程で因果論による世界の描写(自然主義)もまた洗練されていき、こちら側からも客観的現実世界の存在感を作り出していった、と推測できます。

時代とともに因果論は洗練されてきて、生産技術となり物質をコントロールする科学の基礎となり、客観的にはこれが正しい世界観であるとみなされるようになってきました。こうして客観的現実世界は目的論による側面と因果論による側面との二面性を持つようになります。

また言語の獲得と同じくらい古く目的論からアニミズムが発生しましたが、そこからさらに発展した宗教は部分的に因果論を取り入れながら論理化されてきました。(キリスト教に代表される)一神教では、創造主が作った被造物の内部に神秘はない(被造物は創造主が作った因果論に支配されている)というような因果論的な教義を普及させます。このように(少なくともキリスト教においては)パラドックスともいえますが、宗教が発展することで科学の基礎が作られてきました。

歴史の事実として科学は大発展し、科学知識を身に付けた現代人の多くは、ついに、世界全体は目的も意図もなく因果論により過去から未来へと物質の法則に従って自然に流れていく構造を持つ、と思うようになりました。現代人の常識では、目的論・意図的行動を見るのは自分や他人など人間の意図的あるいは意識的行動に限定して適用されるだけになってきています。

さて本章ではここまで、私たちがここに見ている客観的現実世界はなぜ存在するのか、そしてその現実世界はなぜ目的論的に、また同時に因果論的に現れているのか、なぜこのように矛盾する二面的な構造を持っているのか、などについて(かなり長々と)述べてきました。いろいろ脇道にそれすぎて話が分かりにくくなっている恐れがありそうです。そろそろ、このへんで要約して本章の話を終わりにしようかと思います。

本章の趣旨を要約すれば、他の動物と違って私たち人類は客観的現実世界の存在という認識を仲間と共有することによって仲間との緊密な協力を維持できるような脳神経系の仕組みを進化させた、ということです。私たちが今このように感じとっている現実世界は、実際、これをこう感じとることによって私たちが仲間と緊密にうまく協力して効率よく栄養供給システムにつながることができるようになっている。この事実から得られる結論として、この現実世界は人類進化の結果できあがった人類の身体相互間に作られる集団的認知機構(拙稿の用語では運動共鳴という)によって存在している、といえる。それが、私たちがここに感じとっている現実世界の起源といえます。

こうして人類は、仲間と協力して生活に必要な物事の動きを予測するための認知機構として、人間ならだれにとっても客観的なこの現実世界が存在するという理論を作り出した(存在の理論)。

人類のこの認知機構は、まず仲間の人間や動物の運動を予測し、目的と意図を持ってそれら意図主体が動いている、という目的論的な図式を作り出す。この図式により世界を描写し仲間と協力するために、[]というものがこの世界に存在するようになった([]の理論)。またこの図式を土台として言語が獲得された。

目的論のこのような発展に並行して、人類は狩猟採集・農業・工業の技術を高度に発展させる過程で、(目的論的な図式とは独立に)因果論による現実世界の描写(自然主義)を大いに使いこなして、自然の動きを正確に予測する方法を身に付けた。それが現代の科学的世界観に発展している。人類が共有する現実世界は、このように目的論的な側面と因果論的な側面との、互いに独立した(無関係な)二つの起源から発展した(互いに矛盾した)二面的な構造を持っている。

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