理屈ではそうです。しかし人類が滅亡した後の世界というものはどんなものなのか? 地球人そっくりの宇宙人が生きている世界はどんなものなのか? 想像するのがむずかしい。いやその前に、そういうものを想像するということに意味があるのか? 疑問ですね。
人類が滅亡しないとしても、現在生きている私たちがみんな死んでしまっているはずの千年後の世界さえ想像するのはむずかしいですね。千年後といえば、子も孫ももちろんいなくなっているし、自分の血筋が残っているかどうかも、まず分からないでしょう。
だいたい私と何の関係もなくなってしまう世界というものは、存在しているとしても、何の意味があるのか? 日本が全滅してしまったら、日本語を話す人がだれもいなくなってしまったら、世界が残っていても意味がない。そう思う人は多いでしょう。極端に言えば、千年後はもちろん、私が死んでから三十年後の世界などあってもなくてもまったくどうでもいい。いや明日のことでも、大災害に遭遇して自分も家族も全滅してしまったら、その後に世界が残っていてもいなくてもそんなことはどうだっていい。そう思っている人は案外多いのではないでしょうか?
私たちは、この世界が終るか終らないかに、実は、それほど関心があるわけではないのかもしれない。こう考えてくると、世界が終るという怖そうな言葉は結局、たいした意味がない、と言わざるを得ない。それなのになぜ、私たちは、世界が終るという言葉で何かを感じることができるのか? たしかに、世界がなくなるという感じは分かるような気がする。それは、この現実世界が今ここにある、という事実に対して私たちが何らかの神秘感を感じるからだと思われます。
それは私たちが実は、この世界が続くと確信する根拠を持たないからではないでしょうか? あるいは私たちが、この世界が今ここにあることの根拠を知ることができないからではないでしょうか?
この世界はなぜあるのか、なぜこうであるのか(拙稿24章「世界の構造と起源」)?
世界がいつまで続くのか私たちは知ることができない、知ることができないけれども知らなくてもいいや、と思っている。いや、皆がそう思っているのだからそれでいいじゃないか、と思っている。世界はいつまでも続くということでいいじゃないか、と思っています。そういうことにしておこう、と思っています。
世界がなぜ続いているのか、私たちは分からない。分かる必要などないのかもしれない。そんなことは、実は、私たちの毎日にとってはどうでもいいことだ、と思っています。そう思うしかない、と思っています。しかしまた、そう思うしかないということは、言葉ではっきりいえば、それは神秘だ、ということになります。
私たちは、世界がある,ということ自体を神秘的だと感じる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)。私たちは、この世界がなぜあるのか知らない。だから、この世界がなぜ終わらないのかも知らない。そしてそれは、たぶん、どうでもいいことなのかもしれない。ただ、その意味が分からない。そうであるから私たちは、世界が終る、という言葉に神秘を感じる。
ここに世界があるのはなぜか?
ここに私がいるのはなぜか?
神秘といえば、それ以上の神秘はないように思えますね(拙稿23章「人類最大の謎」)。
この神秘は科学を使っても哲学を使っても、人間にはとても解けそうにありません。この神秘を解明しようとして真正面から攻めていくと宗教や古典哲学が作れる(そしてもちろん、神秘は解けない)。少し引いて問題の構造を脇から分析すると近代哲学が作れる(そして、やはり神秘は残る)。この問題の構造を表現する言語や論理を研究し始めると、現代哲学が作れます。
いずれにしろ、拙稿ごときが真正面から話をはじめても、これら伝統的な哲学をさらに深めることなどできるはずがありません。そこで拙稿ではこの際、脇のまた脇に引いてみることにしましょう。つまり、この問題を話題にするにあたって、私たちはなぜこれを神秘と思うのか、という観点に問題をすり替えてみます。
なぜ私たちは世界が続くということを神秘と思うのか?そしてなぜその神秘の謎を解けないのか?そしてなぜ私たちは、それがたぶんどうでもいいことだ、と思っているのか?