哲学の科学

science of philosophy

私にはなぜ私の人生があるのか(10)

2010-05-29 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

そういう人生を、私たちは自分の人生だとして生きている。それが自分自身だと思えば、泣いたり笑ったりしながらも懸命にその役割を果たしていきます。たまに振り返れば、そこに人生の記憶ができている。同じような人生を送る人はたくさんいるだろう、と思いながらも、自分の人生はこの身体に刻み込まれている。これは自分にとってかけがいのない大事なものだ、と思えます。

人々がこうして、社会に合わせて、それぞれの人生を過ごしていくことで、社会は保持されていく。逆に、この仕組みがうまく働くような社会だけが存続していける。そうでない社会はつぶれてしまって、結局は、うまく仕掛けが働いている社会に置き換えられてしまいます。それで、今ある社会は、このようにうまく働いている、と納得できます。

私の身体に備わっているこの人生保持機構は、こうして私を支えると同時に、もっと大事なこととして、私が属している社会を支え、しいて言えばさらに人類の存続を支えている、といえます。

それにしても、人生保持機構(筆者の拙い造語ですみません。改良案あれば教えてください)はよくできた仕組みです。進化の妙とはいえ、数千試合の自然淘汰トーナメントに勝ち続けることによって洗練されたとはいえ、人類の人生保持機構の性能は精緻を極める、と筆者は思います。どういう仕組みで人生保持機構は動いているのでしょうか? 興味深い謎ですが、今の科学の限界を超える問題です。この問題の解明に立ち向かうことができる次世代の科学者がうらやましい。むずかしいけれどもかなり楽しい仕事に違いありません。

たとえば生殖機能ひとつをとっても、人類の場合、その仕組みはどうなっているのか? 子供を産む、という意思決定問題を、自分の人生の問題として、私たちはどう解決しているのか? 人口問題あるいは少子化問題と昨今騒がれている社会問題よりずっと深い次元で、人類の生存の謎である、といえる。

動物の場合、オスとメスが出会い、栄養状態が良く性ホルモンが分泌されている周期において嗅覚などがうまく働くと、反射的に交尾姿勢を取るように神経系が稼働する(二〇〇五年 ドナルド・ファフ『枢神経系におけるホルモン駆動機構は哺乳動物行動の解析を促進する)。

哺乳類の場合、メスの背筋が緊張して腰が突き出る。その結果、自動的に交尾プロセスが進み、受精、着床ののち、一定時間経過すると子宮内で胎児が発育し、内分泌系が回転して自動的に出産が起こる。

人間の場合はそうではない。いい匂いがする異性が近づいてきても反射的に交尾姿勢を取る人はまずいないでしょう(一九九七年 ヘレン・フィッシャー『哺乳類の生殖における性欲、魅力、および執着』)。男も女も、自分の人生の問題として熟慮した上で結婚して子を産んだり、あるいはもっと深く熟慮した上で結婚しないで子を産んだり、する。

子供ができることをしていながら子供ができることを想像もしない、という人はあまりいないでしょう。人間がそういうことをする場合、そこでは、人生保持機構が必ず働いている、といってよい。

子供ができるかもしれないことをすれば、来年は赤ちゃんと共に暮らすことになるだろう、と想像する。結婚していない場合それはまずいかもしれない。その後、数年後には小学生の親になる。数十年後には次世代の家族ができているだろう、と想像できます。親兄弟など周りにいる人生の諸先輩を見れば、そういうことは容易に分かります。

それを望まなければそれを避ける行為をする。ということは、人類は、当人たちが長い人生を展望して親になるという人生進路を選んだ場合だけ生殖機能が稼働するような仕掛けになっている動物である、ということです。やはりこれは動物の生殖機構として、ちょっと、変わった複雑な仕掛けですね。

なぜこんな複雑な仕掛けを持った人類が、地球において、繁殖にこれほど成功したのでしょうか? 人間は、人生保持機構が働くために、何年も先の人生を想像して決断しなければ子を産めない、判断によっては生殖行為を避けたりする。そんな余計なことをしている動物は、単純にさっさと交尾して出産していく他の動物に生存競争で負けてしまうはずです。

人類がかように繁栄しているという事実からみれば、人生保持機構が働くことで、少なくとも、そういう機構がない(何とか原人など)他の原始人類に負けないような仕掛けになっていたはずです。ということは、人生保持機構が、動物としての人類の生存繁殖を促進するように進化発展してきたから、と考えるべきでしょう。

つまり、私たちが自分の人生の問題として結婚や職業や社会的地位を求めて悩んだり努力したりすることは、動物としての生殖行動の一種として行われている。ところが、動物の生殖機構はすべて、それぞれの生存環境に適応するように進化した反射運動の組み合わせで構成されている。人間も動物の一種にすぎないとする考えをとれば、私たちが悩んだり努力したりしている思考や行動は、動物として適応進化した反射運動の組み合わせで構成されている、ということになります。

哲学を科学から考える立場をとっている拙稿としては、この考え方を進めてみたい。すなわち「人生保持機構の働きは、動物の反射運動と同じ仕組みの神経系活動の組み合わせで構成されている」と言ってみたい。

このような考え方は世間常識とはだいぶ違っています。科学者の間では、ある程度の賛成が得られるとは思いますが、まだまだ確立された理論ではない。しかしここでは議論を分かりやすくするために、仮に、言い切った形で書いてみましょう。

つまり、私たちが自分の人生を考えて、何年も先のことである結婚や就職や出世や資産形成のために、毎日学校に行ったり友達と付き合いを切らさないようにしたり勉強したり身体を鍛えたりダイエットしたりアルバイトしたり貯金したりするのは、実は、熟慮した結論としてそれが正しい行動だと分かったからそうしているということではない。むしろ私たちのこれらの行動は、理論とはあまり関係なく、動物がくしゃみをしたり、あくびをしたり、よだれをたらしたりするのと同じような自動的な反射の組み合わせで身体が動いてしまうことから起こっている。私たちは、私たちの身体がいつの間にかそう動いてしまうのを見て、私たちは自分の人生を考えた結果このようなことをしているのだ、と思い込んでいる。

右のような言い方をすると「なんだ。それではまるで、本能だけで動いている動物のようじゃないか。人間は動物と違って理性があるから、考えて動いているのだ」という反論が来そうです。だが、それって、本当にそうなのですか? と拙稿としては聞き返してみたい。

「動物は本能で行動する。人間は前頭葉が発達しているから理性で行動する」という理論が昔から当然のように言われています。筆者はこの理論を疑っています。そもそも本能とは何か、理性とは何か、だれもが何となく分かっているように思っていますが、実は(拙稿の見解では)科学としては、さっぱり分かっていない(二〇〇五年 マーク・ブランバーグ『基礎的本能:動の創生[邦訳:本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源]』)。そもそも、本能というものは存在するのか? 理性というものは存在するのか? そこからして怪しい。

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私にはなぜ私の人生があるのか(9)

2010-05-22 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人それぞれの人生が絡み合って、世の中というものを作っている。こういう社会の構造を私たちは概念として持っている。このような社会観、人生観が人類の特徴です。

このような社会と自分の人生との関係において湧き起る感情に動かされて人間は行動する。その結果、家族は増え社会の力は強まる。そうすることで現生人類のゲノム(DNAコード)は、他の人類との競争に勝ち続けて地球全体に拡散していった。逆に言えば、家族を増やし社会の連携を強化する方向に役立つような社会観と人生観、およびそれを作り出すような人生保持機構、が進化適応によって人類の脳神経系の中に定着した、といえます。

それぞれの個人についてみれば、生まれてから乳児、幼児、幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生、未婚青年、既婚青年、子育て世代、壮年期、中年、老年、と人生の階段を上っていく(滑り落ちていくという見方もあるが)。一方、現時点での社会を構成している人々を見渡せば、一人ひとりは、それぞれ乳児、幼児、幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生、未婚青年、既婚青年、、子育て世代、壮年期、中年、老年の姿をしている。各世代の人々がそれぞれの人生を生きています。

世の中には、いろいろな年齢層の人々がいる。たがいに深く関係しながら生きています。世代のたて糸の模様をずらしながら織り上げる織物のようです。人は年上の人々の生きざまを見ることで、人生空間の中での自分の位置を知り、次の段階の自分の人生モデルを目の前に見ることができる。未婚独身青年は既婚者を見て、また子育て世代を見て、自分の将来を予想する。実際、私たちは、現時点の社会で見ることができる先輩たちの具体的な人生モデルを見ることで抽象的な自分の将来像を描いている。

私たちはいつも自分の年齢を意識して人生を考える。それは、各世代のあるべき姿とというものを映し出す人生のモデル(キャラクターというべきかもしれない)が私たちの社会的行動を決めているように思えるからでしょう。実際、人の行動に対する集団的社会的感情は、人生のモデルについて、年齢、性別、社会的位置などによって区分けられた個々のカテゴリーに対応して現れるように見えます。

たとえば、現代の都会に住む二十五歳前後の未婚女性の人生というモデル概念があって、そのキャラクターのふるまいはいかにあるべきかが、もう決められている。それを外すことは、かなり面倒です。社会の空気圧を感じることになる。ふつう私たちは、空気圧にはあまり逆らわないから、社会に決められた人生を、いちおうは受け入れることになります。

こうして私たちは、社会、家族あるいは仲間集団が作り出している空気に合わせて人生のモデル・キャラクター役割を演じることになる。意識して演じるのではなくていつのまにか演じている。これがうまくいけば、自然に人生を過ごしていけます。時々は、いろいろな事情が生じて、しかたなくそのモデルからはみ出る。それでもそこにはまた別の人生モデルが用意されていたりします。

人は一人で生きているわけではない。家族や仲間と作る集団の中で生きる。むしろ集団の中の一人として動いていくことで、人生が作られている。集団の運動の中に私たちの人生がある、といえる。集団の中で動くことは、そこで割り振られたモデルを演じることになる。人間の身体は(拙稿の見解では)無意識のうちにそうなるように作られている(協調性)。そうしてそれらモデルに合わせて毎日を生きることで人生は展開していく(モデルにしがみつきながら人生を滑り落ちていく、という表現もあるが)。家族や仲間の間で、社会の中で、そう動いていく自分の行動を見て、私たちはそれを自分の人生だと思っています。

実際、割り振られたモデルに合わせずに人生を過ごすことはできません。なぜならば私たちは社会が自分を何と思うかを自分が感じ取ることによってしか、自分というものを見つけることはできないからです。社会には皆が認める人生モデルがいくつか用意されていて、それのどれかを人々に割り振っていくことしかできません。逆に、社会によって割り振られるモデルに合わせて生きることを、私たちは人生だと思っている。それは文化と歴史によって違う。けれども大雑把に言えば、どの国でもどの時代でも人間社会が備える人生モデルは同じようなものです。

どこの言語にも、お父さん、お母さん、男、女、子供、老人といった言葉があるように、それは決まっている。お父さんでも、父上、パパ、親父、おじさん、おっさん、というように少しずつニュアンスが違うモデルがあるが、いずれにせよ、社会にそれらモデルが用意されているから、私たちがそれを自分だと思うことができる。国によって時代によって、モデルの表現は違う。職業もモデルを表す。日本などには、名刺が人生モデルを表す文化があるといえる。昔は髪型や服装がモデルを識別する文化もあった。世界には、話し言葉がモデルごとに違っていたり、姿勢まで違っている文化もあった。人生のあり方がそれで決まっていた。

ちなみに現代社会で、人生モデルの数はいくつあるか? 人間の数だけある、ともいえるし、数種類しかないともいえる。アンケート記入欄のチェック項目によくあるように、性別男、年齢層三十代、職業会社員、妻子あり、という程度の区別でも百種類くらいに分かれる。実際に私たちが思っている人生のモデルはもう少し細かい区別をしているようです。しかし、社会が認める人生モデルの数は皆がすぐ分かる程度の数にならざるをえないから数万種類という多数にはなりえません。また現代は、よくもあしくもモデルが流動的になってきている。互いに確信しているモデルが食い違っていて話が通じないことがよくあります。そういう事情を考えると、人生モデルの数は数百から数千種類くらいあるとすればよいでしょう。一億人の人口でも、数千種類に分類すれば、一種類当りは平均数万人くらいです。つまり日本だけとっても、私と似たような人生を歩んでいる人は一万人はいるだろうということになります。

さて、私たちは社会から割り振られた人生モデルを、ふつうあまり疑問を感じずに受け入れて暮らしています。そういう生き方はつまらないと思いますか? それでは、ためしに、思い切って人生を乗り換えてみましょう。まあ、一番簡単な方法は、三億円の宝くじを買うことですね。

しかし、若い人にこう言ってはなんですが、自分で仕掛けた乗り換えはまず成功しないものです。その上、その乗り換えに成功したとしても、やはりいつの間にか、もう一つの割り振られた人生になっていることに気づく。自分で乗り換えたと思っても、その乗り換えた後の人生を自分の人生だと思うことによって、それは、やはり社会に割り振られたものになってしまうからです。

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私にはなぜ私の人生があるのか(8)

2010-05-15 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

だれもが互いの人生経験を理解できるはずだ、という理論は、しかしながら、虚構ですね。実際には現実の人間は、自分の人生経験さえ実はよく理解できない。まず記憶がしっかりしていないから経験を経験として保持していません、現に筆者など歳をとったからか、万力屋でネギラーメンを食べたのは昨日だったのか一昨日だったのか記憶が定かでない。刑事にアリバイを聞かれたら「記憶にありません」と答えるしかありません。

そういうことだから、夕食のネギラーメンという経験は実際に存在していたのかどうか、事実はあいまいで不確かなところがある。しかし、「記憶にありません」と答えるとき、人はうつむいたり、頭を掻いたりする。何らかのやましさを感じる。あるいは感じなければならない、ことになっている。これはなぜなのか?

それは私たちの社会が、各人の過去の行為というもののはっきりとした存在を土台として成り立っているからでしょう。それは虚構である。けれども、この虚構の上に、人間の社会は成り立っている。このような社会の成り立ち方は(拙稿の見解では、)私たちの身体の構造によって現われてくる。人類特有の身体‐社会関係の相互作用であるといえます。

私たちの感覚では、私たち一人ひとりが自分自身の人生を持っているのはあたり前です。人間はだれもが、自分自身そのものであると思える人生を持っている。しかしそう思うのは、それが私たちの身体に埋め込まれた神経系構造の表現であるからでしょう。進化によってこのような身体構造を備えるようになったから、現生人類はこのように緻密な社会を作り出して繁栄することができた。だから私たちは一人ひとりが自分の人生を持っている。

人生という虚構は(拙稿の見解では)、人類が仲間と作る社会構造を支える身体的機構として脳神経系に発生した。拙稿では人生を人間の行動の基準として保持する仕組みを人生保持機構と呼ぶ。この機構の発生プロセスについて、拙稿のこれまでの議論を整理すると、次のようになるでしょう。

1.  人間仲間との運動共鳴によって、私たちは、客観的世界の現実感を感じ取る拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

2.  客観的世界の中での他人の身体運動を感じ取り、そこに意識的行為とその目的と意図を感じ取ることで他人の存在感を作り出す(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」10章「欲望はなぜあるのか?」)。

3.  仲間の集団的視座に憑依して、そこから見た自分の身体がなす行為を客観的に感じ取り、その感覚を記憶する(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。

4. 仲間の集団的社会的視座からの客観的な(集団的社会的評価の)感情を伴った自分の行為の記憶を自分の人生として蓄積する。

拙稿の見解では、私たちが思っている自分の人生というものは、このような四層構造をなしている。それぞれの層の活動は、無意識のうちに自動的に実行されるので、私たちはこれらが自分の身体の中で起こっている現象であることに気がつかない。ただ折に触れて自分の人生を感じ取ることがある、というだけです。

第一層から第三層までは、人間が世の中や自分というものをどう見ているか、の仕組みです。最後の第四層が人生というものをどう感じ取っているか、の仕組みになります。ここでいう、「仲間の感情を伴う行為の記憶」、が(拙稿の見解では)人生という概念の特徴といえるでしょう。

ここで、「仲間の集団的社会的視座」というのは、実際に自分の行動を観察している人がそばにいる場合のその視線のことを言っているのではなく、むしろ自分が想像で感じる他人の視線です。自分の人生にとって重要な行動をするとき、実際はだれも見ていない場合が多い。それでも、そういうときこそ自分自身を見つめている仲間の視線を想像で感じている。あるいは、少なくとも記憶のなかでは、後ろの高いところから客観的に見つめられている自分の姿がある。

そして「集団的社会的視座からの感情」が重要です。仲間が自分に対して持つ感情、あるいはそれについて自分が抱く感情、というものです。私たちは、自分の仲間が自分の行為を見てどういう気持ちを抱くか、について敏感です。そうしないと仲間から浮いてしまう、仲間の空気に溶け込めなくなってしまう、という恐れがあるからです。その恐れはふつう無意識的なものです。

いつの間にか、私たちは自分の行動を仲間の空気に合わせている。自分が空気を読めていない、浮いている、と感じるとヤバイと感じる。こういう感覚は、これは考えてそうなるというよりも、身体がいつの間にかそう動いていくことで感じ取れる。自然にそうするしかないようになっている、あるいは私たちは、そうなっていることにも気付かないで生きている、ということでしょう。

人間は生まれつき(拙稿の見解では)、仲間の空気に合わせて行動するような身体になっている。モラルやマナーやルールやファッションに従うという気持ちもここから来る。文化や政治信条やイデオロギーや宗教信仰などもこの延長にあるのでしょう。これは人類の脳神経系が、仲間との緊密な協力関係を維持できるように進化した結果と思われます。

私たちは、生まれながらにして、仲間が恐れるものを恐れる、仲間が欲しがるものを欲しがる、というような身体になっている。そうであれば、逆に、自分の感情が動くことを感じ取ることによって、仲間の集団的社会的感情というものを感じ取ることができる。

実際、私たちが他人の、あるいは仲間の感情を感じ取るしかたは、言葉ばかりではなく、身体がそれに応答して同調し共鳴することで感じる。マスコミや友達が言う言葉で間接的には理解できるものの、それだけでは弱い。結局は自分の感情が、他人の、あるいは仲間たちの感情に同調するところを感じ取ることで仲間の気持ちを直感的に理解しています。逆に言えば、そういう集団的社会的感情というものが存在するかのように私たちがふるまうということは、社会の存在感をそのように感じ取る仕組みが人間の身体にあることを示しているのでしょう。

そうして感じ取れる仲間の集団感情というものに照らしてみたところの、過去から未来にわたる自分の行為の評価が(拙稿の見解では)、人生というものを構成している。

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私にはなぜ私の人生があるのか(7)

2010-05-08 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人間は、仲間の人間が過去にした行為を覚えていて、それに対して後で何かをする。何日も前、あるいは何年も前の行為に対応して応答行為をする。借りを返したり、仕返ししたり、お礼したり、報酬を与えたり、罰を与えたり、好感を持って仲間に加えたり、憎しみを持って排除したりする。

人間以外の動物も、仲間との相互干渉の経験の結果、相手を警戒したり、恐怖を感じたり、安心を感じたりするらしい。犬や猫を見ると、そんなようです。しかしそれは相手の個々の行為を記憶しているのではなく、繰り返しの刺激に対応して条件反射が作られているだけといえる。

つまり人間以外の動物は、相手が何をしたから後で何をする、というような過去のエピソード経験に対応する応答関係は作らない。鶴の恩返し、というような事例はお伽噺であって実話ではありえない。

動物を擬人化すれば、それらのキャラクターは、とうぜん、人間としての動きをします。猿蟹合戦の猿のように、蟹の食料を奪った猿はそれを記憶している蟹に復讐される。この復讐行為が行われるためには、まず、蟹は猿がしたことをしっかり記憶しなければならない。蟹と猿が擬人化されているこの寓話の中では、当然、彼らは人間のように他人と自分の行為をしっかり記憶している。

このように、他人の行為を記憶するにはどんな方法があるか?

たとえば「猿が私の握り飯を奪った」という文を作って手帳にメモしておくことがよいだろう。あるいは、ブログやツイッターに書き込むとよい。あるいは、口で言いふらしておく。言いふらすことで仲間の集団的記憶として保持することができる。こうすれば、猿の不当行為の記録は保存される。

言葉を使わないとだめなのか?そんなことはないでしょう。絵を描いて残すことができる。あるいは、現場で証拠写真を取る。さらにビデオで録画録音をしておけば、もっと信憑性があがる。握り飯を握り締めている蟹の手から力づくで握り飯を引き剥がそうとしている猿の手と身体の動きをしっかり映像に撮る。これは証拠になる。記録になります。「奪う」という行為概念が表現されている。

猿が力づくではなく、言葉で言いくるめて柿の種と交換した場合、その映像だけでは不当行為になるかどうかむずかしい。この辺が、事件後の裁判で蟹が検事に追及された部分でしょう。

まあ猿蟹の話はともかく、人間の身体は、過去の時点で他人と自分が行った行為を記憶している。それは言語表現あるいは断片的なビデオ映像のような形で思いだすことができる(エピソード記憶という)。あるいは、匂いや触感や痛みなど身体感覚を伴う想起が起こる。あるいは、物体の画像として思いだす。屈辱感や幸福感などの感情を伴う体感で思いだす。あるいは、言葉で思いだす。「死ぬかと思った」という独り言のような言葉ですね。自分が言ったその言葉を覚えておける。一方、人物の印象、物事の意味合い、言葉の意味、といった繰り返した経験の蓄積によるイメージはまた違った種類の記憶(意味記憶という)を作っています(二〇〇九年 スタンレー・クライン、レダ・コズミデス、シンシア・ガンギ、ベツイ・ジャクソン、ジョン・トゥービー『進化とエピソード記憶:エピソード想起の社会的機能の分析と提示』)。

意味記憶のほうは身体で覚えているという言い方ができる。繰り返し経験したことに身体が反応する記憶を再生することで身体の筋肉や自律神経系が無意識に動いていく。恥ずかしい言葉を思いだすと顔が赤くなる、というような反応です。仲間と同じ経験を繰り返すことで仲間と意味記憶を共有することができる。意味記憶の共有が言語の語彙を作っています。言葉の意味というものは辞書で決まっているのではない。拙稿の見解では、その言葉を聞いた時の身体の反応がその言語を使う仲間と共有できていることで、その言葉の意味が決まる。

さて、拙稿本章で問題にしている人生の記憶に関しては、エピソードの記憶が重要です。いつ、どこで、だれと、何をどうしたか、という記憶の集合が人生だといえるからです。ここで重要なことは、自分の人生の記憶は、自分の行為に関するエピソードであっても主観的な感覚経験そのままではなくて、他人の視座から見た自分の行為から成り立っていることです。

認知科学の知見によれば、エピソード記憶と呼ばれる記憶を持つことが明らかな動物は人間だけです。この記憶機構が他人の視座から自分の行動を見るという客観性を必要とするとすれば、当然、自己中心世界しか持たない人間以外の動物は、エピソード記憶を持つことはできないことが納得できます。また、このことから人間以外の動物は人生(動物生?)という概念を持たないことが明らかであると思われます。

だから、(人間以外の)動物の世界には芥川賞はない。芥川龍之介もいない。テレビも学校も、やっていけない。人生を問題にしなければ、そういう商売も成り立たないでしょう。

人間だけがここまで明瞭な人生保持機構を持つことは、人間の社会生活が互いの人生の認知を基盤として成り立っているからです。つまり、人類は進化によって優秀な人生保持機構を脳内に備えるようになり、その結果、緻密な社会を形成できるようになって大繁栄した。そして社会の生産性が上がり、緻密さを増すに従って、ますます高度な人生保持機構が適応進化した。その結果、現代人の私たちは、それぞれの人生を生きることを目的として生きる、という存在になったわけです。

逆に言えば、人間の社会というものは、それぞれの人が互いにいつ何をしたかをしっかり記憶してそれを集団として共有している。その集団共有された記憶にもとづいてその後の行動を起こしていくことで保持される構造になっている。それぞれの個人について見れば、過去の行動の記憶全体が人生を作っている。また現在の時点で社会全体を見渡せば、それぞれの人生を生きようとして行動する各人の行動が相互作用することで社会の現状を作っている、といえます。

大事なことは、社会を構成しているすべての人が記憶を共有しているということです。実際には、ひとりひとりが直接経験する記憶は個々まちまちで断片的ですが、互いに情報を交換することで、記憶を共有することができる。それができるはずだと、皆が思っている、ということが重要です。

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私にはなぜ私の人生があるのか(6)

2010-05-01 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

ちなみに、最近の認知心理学では、人間には自分の客観的評価をしっかり記憶しておく特別の記憶機構がある、という仮説が提唱されています(二〇〇二年 スタンレイ・クライン、ケイス・ローゼンダール、レダ・コズミデス『社会認知神経科学 自我の分析)。

人生保持機構は(拙稿の見解では)、他人の人生も自分の人生も、基本的には同じように認知し記憶する仕組みになっている。それは客観的な視点から、特に社会との関係でのその人生の位置づけを決めている。つまり私たちが持つ人生保持機構には、社会という記憶空間の内部でのその人生の軌跡のようなものを認める機能があるようです。

自分の人生というものは、自分という個人に付属している個人的なものである、と私たちは思っている。しかし拙稿の見解では、自分の人生は自分のものというよりも、むしろ、はじめから他人のものである。正確に言えば、それを一個の人間の人生であると他人が認めてくれて、はじめてそれは人生として成り立つ。

芥川龍之介『或阿呆の一生一九二七年 )』にしても、それを読む読者がいるから小説として成り立つ。龍之介がそれを書いて、そのままゴミ箱に捨ててしまえば、その小説は存在しない。完璧主義だったらしいこの作家ならやりかねない、と思えます。そうなってしまえば、フィクションの主人公である「或阿呆」氏も存在しないことになる。小説家が書いたものは、その後私たちが読者になって、それを他人の目で小説として読まなければ小説にはならない。

人生も、だれかが、他人の視点から、それ全体を見通さなくては人生とはいえない。この場合、自分自身が他人の目になって自分の人生を見通すこともできる。しかしいずれにしても客観的な普遍的な他者の視点で見通すことが必要です。

この人生は、生きた甲斐のあるうらやましい人生だな、とか、無意味な哀れな人生だったな、とかいう冷静な評価が必要です。それは他人による、あるいは少なくとも他人になり代わった自分による、客観的な評価でなくてはならない。そういう客観的なものとなって、はじめてそれは人生といえるわけです。

ドラマの主人公に感情移入する場合について、近代哲学の創始者の一人である大哲学者はこう書いている。かわいそうな幼い王子様のドラマが成り立つためには、王子はかわいそうでなければいけないが、その囚われの王子がかわいそうなのは、自分が囚われていることに気づいていない幼児の視点ではなく、その子供の将来が過酷な運命にあることを知っている観客の視点ではじめて感じられることである(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論』既出)。王子の人生の意味を知っているのは王子自身ではなくて、客観的な観察者としての観客だということです。

ここは、拙稿の見解からしても重要なところです。自分の人生というものは、それが自分の人生だと思うから意味がある、というものではない。だれの人生であろうとも、まずそれを遠くから眺める観察者の視座から見たときに意味がはっきりするものだ、ということです。むしろ、自分でない他人の人生に、はっきりした意味があるから自分の人生にも同じように意味がある、といえる。

芥川龍之介は、『猿蟹合戦』という題で短編を書いている。小説家は、猿に復讐を遂げた後、死刑になった蟹とその一族の顛末を書いた。

著作権はもちろん時効になっているから書き出し部分を抜粋しましょう。

蟹の握り飯を奪った猿はとうとう蟹に仇を取られた。蟹は臼、蜂、卵と共に、怨敵の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも好い。ただ猿を仕止めた後、蟹を始め同志のものはどう云う運命に逢着したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお伽噺は全然このことは話していない。
 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。
 しかしそれは偽りである。彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、ことごとく監獄に投ぜられた。しかも裁判を重ねた結果、主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、怪がの念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない事実である。(一九二三年 芥川龍之介『猿蟹合戦』

この短編を読んだ人は、蟹の人生について何がしかの感傷を持つことができる。蟹は猿がしたことを恨んだから復讐した。蟹たちは、自分たちの復讐行為は正義だと信じていたでしょう。しかし裁判所は蟹がしたことを悪事と見なしたから死刑にした。意外と現実はこんなものだ、リアルだなあ、とも思える。人生の不条理を感じる人もいるでしょう。

いずれにせよ、ある者がある事をした行為について、それを他の者が記憶していて、それに対応して何事かをしかける。特に私たちの関心を引き付けるのは、ある者がした行為に対して仲間の皆が集団的にある態度を取って反応する場面です。社会のモラルというか、空気のようなものです。その人の行為を、皆が記憶していて集団的社会的にそれに対応した行為を返す。

この形をとって裁判所は蟹を死刑にした。人間が語る物語はこういう形をとって語られる。拙稿としては、この形に、人生の秘密がある、と言いたい。私の人生とは、私のものというよりも、他人のものであり、むしろ社会のものである、という仕組みでできているのではないか?

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