そういう人生を、私たちは自分の人生だとして生きている。それが自分自身だと思えば、泣いたり笑ったりしながらも懸命にその役割を果たしていきます。たまに振り返れば、そこに人生の記憶ができている。同じような人生を送る人はたくさんいるだろう、と思いながらも、自分の人生はこの身体に刻み込まれている。これは自分にとってかけがいのない大事なものだ、と思えます。
人々がこうして、社会に合わせて、それぞれの人生を過ごしていくことで、社会は保持されていく。逆に、この仕組みがうまく働くような社会だけが存続していける。そうでない社会はつぶれてしまって、結局は、うまく仕掛けが働いている社会に置き換えられてしまいます。それで、今ある社会は、このようにうまく働いている、と納得できます。
私の身体に備わっているこの人生保持機構は、こうして私を支えると同時に、もっと大事なこととして、私が属している社会を支え、しいて言えばさらに人類の存続を支えている、といえます。
それにしても、人生保持機構(筆者の拙い造語ですみません。改良案あれば教えてください)はよくできた仕組みです。進化の妙とはいえ、数千試合の自然淘汰トーナメントに勝ち続けることによって洗練されたとはいえ、人類の人生保持機構の性能は精緻を極める、と筆者は思います。どういう仕組みで人生保持機構は動いているのでしょうか? 興味深い謎ですが、今の科学の限界を超える問題です。この問題の解明に立ち向かうことができる次世代の科学者がうらやましい。むずかしいけれどもかなり楽しい仕事に違いありません。
たとえば生殖機能ひとつをとっても、人類の場合、その仕組みはどうなっているのか? 子供を産む、という意思決定問題を、自分の人生の問題として、私たちはどう解決しているのか? 人口問題あるいは少子化問題と昨今騒がれている社会問題よりずっと深い次元で、人類の生存の謎である、といえる。
動物の場合、オスとメスが出会い、栄養状態が良く性ホルモンが分泌されている周期において嗅覚などがうまく働くと、反射的に交尾姿勢を取るように神経系が稼働する(二〇〇五年 ドナルド・ファフ『中枢神経系におけるホルモン駆動機構は哺乳動物行動の解析を促進する』)。 哺乳類の場合、メスの背筋が緊張して腰が突き出る。その結果、自動的に交尾プロセスが進み、受精、着床ののち、一定時間経過すると子宮内で胎児が発育し、内分泌系が回転して自動的に出産が起こる。
人間の場合はそうではない。いい匂いがする異性が近づいてきても反射的に交尾姿勢を取る人はまずいないでしょう(一九九七年 ヘレン・フィッシャー『哺乳類の生殖における性欲、魅力、および執着』)。男も女も、自分の人生の問題として熟慮した上で結婚して子を産んだり、あるいはもっと深く熟慮した上で結婚しないで子を産んだり、する。
子供ができることをしていながら子供ができることを想像もしない、という人はあまりいないでしょう。人間がそういうことをする場合、そこでは、人生保持機構が必ず働いている、といってよい。
子供ができるかもしれないことをすれば、来年は赤ちゃんと共に暮らすことになるだろう、と想像する。結婚していない場合それはまずいかもしれない。その後、数年後には小学生の親になる。数十年後には次世代の家族ができているだろう、と想像できます。親兄弟など周りにいる人生の諸先輩を見れば、そういうことは容易に分かります。
それを望まなければそれを避ける行為をする。ということは、人類は、当人たちが長い人生を展望して親になるという人生進路を選んだ場合だけ生殖機能が稼働するような仕掛けになっている動物である、ということです。やはりこれは動物の生殖機構として、ちょっと、変わった複雑な仕掛けですね。
なぜこんな複雑な仕掛けを持った人類が、地球において、繁殖にこれほど成功したのでしょうか? 人間は、人生保持機構が働くために、何年も先の人生を想像して決断しなければ子を産めない、判断によっては生殖行為を避けたりする。そんな余計なことをしている動物は、単純にさっさと交尾して出産していく他の動物に生存競争で負けてしまうはずです。
人類がかように繁栄しているという事実からみれば、人生保持機構が働くことで、少なくとも、そういう機構がない(何とか原人など)他の原始人類に負けないような仕掛けになっていたはずです。ということは、人生保持機構が、動物としての人類の生存繁殖を促進するように進化発展してきたから、と考えるべきでしょう。
つまり、私たちが自分の人生の問題として結婚や職業や社会的地位を求めて悩んだり努力したりすることは、動物としての生殖行動の一種として行われている。ところが、動物の生殖機構はすべて、それぞれの生存環境に適応するように進化した反射運動の組み合わせで構成されている。人間も動物の一種にすぎないとする考えをとれば、私たちが悩んだり努力したりしている思考や行動は、動物として適応進化した反射運動の組み合わせで構成されている、ということになります。
哲学を科学から考える立場をとっている拙稿としては、この考え方を進めてみたい。すなわち「人生保持機構の働きは、動物の反射運動と同じ仕組みの神経系活動の組み合わせで構成されている」と言ってみたい。
このような考え方は世間常識とはだいぶ違っています。科学者の間では、ある程度の賛成が得られるとは思いますが、まだまだ確立された理論ではない。しかしここでは議論を分かりやすくするために、仮に、言い切った形で書いてみましょう。
つまり、私たちが自分の人生を考えて、何年も先のことである結婚や就職や出世や資産形成のために、毎日学校に行ったり友達と付き合いを切らさないようにしたり勉強したり身体を鍛えたりダイエットしたりアルバイトしたり貯金したりするのは、実は、熟慮した結論としてそれが正しい行動だと分かったからそうしているということではない。むしろ私たちのこれらの行動は、理論とはあまり関係なく、動物がくしゃみをしたり、あくびをしたり、よだれをたらしたりするのと同じような自動的な反射の組み合わせで身体が動いてしまうことから起こっている。私たちは、私たちの身体がいつの間にかそう動いてしまうのを見て、私たちは自分の人生を考えた結果このようなことをしているのだ、と思い込んでいる。
右のような言い方をすると「なんだ。それではまるで、本能だけで動いている動物のようじゃないか。人間は動物と違って理性があるから、考えて動いているのだ」という反論が来そうです。だが、それって、本当にそうなのですか? と拙稿としては聞き返してみたい。
「動物は本能で行動する。人間は前頭葉が発達しているから理性で行動する」という理論が昔から当然のように言われています。筆者はこの理論を疑っています。そもそも本能とは何か、理性とは何か、だれもが何となく分かっているように思っていますが、実は(拙稿の見解では)科学としては、さっぱり分かっていない(二〇〇五年 マーク・ブランバーグ『基礎的本能:行動の創生[邦訳:本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源]』)。そもそも、本能というものは存在するのか? 理性というものは存在するのか? そこからして怪しい。