哲学の科学

science of philosophy

耄碌頭巾(5)

2023-11-25 | yy92耄碌頭巾


後期高齢者にまでなれば身体のほうが正直。運動不足と筋肉衰弱の悪循環で動くのが億劫になります。気力は体力の上に成り立つ。つまり、ものを考えることも面倒になります。それが認知症の進行を加速する原因になっています。
Senex dormit 老人は居眠りする。覚醒している必要を感じないから眠くなる。すべての必要を忘れる。飲み食いも忘れたりします。これで熱中症になる前に気づかずに脱水症状になり、ますます眠くなります。
老人は居眠り運転の危険が大きいからドライブはやめたほうが良い。と言って免許返納すれば外出が減ってますます運動不足になるリスクもある。安全運転装置の普及、あるいは無料コミュニティバス、低額タクシーとか、住居地近隣の商店街、安全な遊歩道などの有無が重要になります。
老人福祉はコストがかかります。これを賄うために国が経済成長を続ける必要があるでしょう。しかし成長するほど格差は広がる。富裕層は増えるが怒りっぽい老人も増える。福祉が行きわたる割に幸福感は行きわたりません。自分は不幸だと思う人はかえって増えたりします。
エコノミストのいう原油高による実質賃金伸び悩み(植田和男「日本の経常収支、高齢化の影響これから」【日経2023/2/12】)がマスコミ世論を盛り上げ政治の流動性を作る。しかしその後ろで、後期高齢者は年金の範囲内で細く長く生活できればよし、として静かに生きています。
諸外国も後を追ってくるでしょうが日本の高齢者人生はその最先端。給料に長寿の生活維持費、年金と医療費を足せば日本人の生涯消費額は世界最高の人生です。大体の人はこれを知っているから老人の不満は爆発しません。結局は追ってくる時代が問題を飲み込んでいくでしょう。













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耄碌頭巾(4)

2023-11-18 | yy92耄碌頭巾



時代の感性もあります。世界はもうすぐ終わる。平家滅亡のころは末世思想の時代で、将来はつまらない世の中になるばかり、との厭世観が流行っていました。
摂関院政の最終期、貴族文化の権威は地に落ちていきます。今様を舞う白拍子が末世の残照だったでしょう(梁塵秘抄)。神秘主義と耽美主義の時代でもありました。
テレビやインターネットのデマゴーグが言うように、現代のこの時代、生活利便性と福祉はピークを打ち少子高齢化で今後は衰退しかない、というならば、若者と同時に老人もニヒルになってくるのは仕方ないでしょう。

これは末世なのか?
三四郎(一九〇八年)の広田先生のペシミズムは(漱石のペシミズムですが)日露戦争の勝利の直後でも日本は「滅びるね」と言っています。
日本衰退論。太平洋戦争敗戦後、日本では知識人の常識になっています。マスコミの人々の時代感覚もこれを底辺に作られているようです。

反対意見は少数派です。人口はピークを打つがGDPは鈍化しながらも右肩上がりは永久に続く。世界も日本もますます豊かになり平和になっていく、という拙稿の予想(拙稿84章「幸福な現代人」)のほうがまともそうです。しかしペシミズムが好きな老人としてはそう思いたくない。
自分の後で真の時代が来るというのは不愉快。自分が終わるころ世界も終わると思いたい、という感覚があります。












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耄碌頭巾(3)

2023-11-11 | yy92耄碌頭巾



老人のニヒリズム。
老化に伴い脳細胞が劣化萎縮して神経回路が円滑に回転しなくなります。老人性認知症といわれるこの現象は医学的に脳の劣化が原因となっていますが、そればかりではない。
個人と社会との関係の変化。退職、離職、病気、家族別居、孤独、など。所属喪失、役割喪失の環境変化を受けると、人は脳を使いたいという意欲が減退してくるところが大きいようです。
老人はニヒルになる。もう何も考える必要がない。わざわざ理解する必要がないものばかりになってくるからです。
Nihil sub sole novum 天ヶ下新たなること無し(旧約聖書伝道の書1.9)。
年を取ったからニヒルになるわけではなく、人生のゴール、あるいはゲームオーバーに達したからもう世の中に興味がない、という思いがあります。
見るべきものは見つ(一一八五年壇ノ浦で平知盛入水自害の際のつぶやき「平家物語」) 
終わりを達観すれば若くして老熟できます。

夏目漱石は耄碌頭巾の俳句を作ったとき明治三二年(1899年)三四歳でした。達観しています。逆に言えば、いくら年齢を重ねてもダメな人はダメ。耄碌キャップをかぶっていてもその意味が分からない。












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耄碌頭巾(2)

2023-11-04 | yy92耄碌頭巾


自動車など古くなるとあちこちの部品が故障してきます。修理交換してもほかのところが壊れる。劣化が止まらない。結局あきらめて車全体を買い換えるしかありません。
人体も同じでしょう。しかし自分の身体は買い換えるわけにもいかない。壊れた身体と一緒に墓場に入るしかないと諦めます。

いやしかし、老化して耄碌するほうが人格として優れている、という人もいます。むかしは老人が賢くてえらい、という思想がありました。中国語で小学校の先生を老師とよびますが、この思想の名残りですね。
老人は若者より賢い。これはかつて常識でした。

老いぬる人は精神衰へ淡く疎かにして感じ動く所なし。心自ら静かなれば無益のわざを為さず身を助けて愁なく人の煩ひなからん事を思ふ。老いて智の若きにまされる事、若くしてかたちの老いたるにまされるが如し。(一三四九年頃 吉田兼好 徒然草百七二段)

 知識経験が深まるとたいていのことは経験済み、となる。賢者になると丸くなる、角が取れる、見ても聞いても感動しなくなる、驚かなくなる。
それは言葉を換えれば、耄碌ともいえます。尊敬語では老成。軽侮語では耄碌。認知症。ボケ。
老人は自身の認知症が嫌いです。無視したい。だが認めざるを得ない。しかし目をそらすばかりではありません。
ボケを利用してとぼけたりもできます。またもともとニヒルが好きな老人は、耄碌を自身がますますニヒルになることの言い訳にしたりします。











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