goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学の科学

science of philosophy

「する」とは何か(10)

2011-09-24 | xx6「する」とは何か

私たちは予測にまず言葉を使います。リンゴが落下するとき「リンゴが落下する」と言って、それが地面と衝突して傷つくことを予測します。それは物理方程式を積分することで予測できる物質現象ではあっても、私たちは積分計算などせずに、目や耳でその現象を見聞きし、あるいはその現象を想像し、自分の身体がそのときどう反応するかを知れば、リンゴが落下してその結果どうなるかが直感で分かります。

それを言語で「リンゴが落下する」と語ることで、私たちは、その結果を予測できます。仲間の皆が「リンゴが落下する」という言葉を聞いてどう反応するか、それを知っていることで、私たちはリンゴが落下するということがどういうことなのか分かる。その予測を使って私たちは行動する。そう行動することが、リンゴが落下するということがどういうことなのかを知っている、ということです。そのように物事を予測して行動することが私たちの生活を作り、それが私たちの現実を作っている、といえます。

そうであれば、「リンゴが落下する」という言葉で表される世界、つまり何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界、が私たちにとっての現実であって、物理方程式の積分によって展開される科学理論の世界は、現実の背景に現れる影のようなものでしょう。

科学が描く物理方程式は現実を予測するための理論の一つではあっても、私たちが感じ取る現実そのものとはいえません。私たちの感じ取っている世界は、何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界です。たとえそれが拙稿の見解(拙稿19章私はここにいる」

)に述べるように、私たちの身体の反応が作り出す、いわば作られる現実ではあっても、私たちの身体にとってはそれ以外に現実はない、と言うべきでしょう。

私たち人類は(拙稿の見解によれば)、人類固有の身体反応が作り出す現実を運動共鳴により共有していて、その内部で生き、その内部で語り合い、その内部で死んでいく。科学が描く物質世界は、人類が感じ取る現実の推移を予測する理論の一つではあるが、それは結局は、人類固有の身体反応の上に作られた理論であって人類を超えて普遍的なものとはいえない。したがって物質世界が実在するかどうかに関しては、私たち人類の身体が、それ(物質世界)が実在するかのごとく反応する、という以外には根拠がない(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )と言わざるを得ません。

「~する」という図式の言語を使って語り合っている限り、私たちの科学も哲学も世間話もすべての議論は、私たちの身体のつくりに依存した人類限りのこの現実世界の内部でしか通じない、と言わざるを得ないでしょう。

私たち人間は、物体が加速されるとき(たとえばリンゴが落ちるとき)、あるいは物事が変化するとき、それを感じ取るのに、「~する」という図式の言語を使う。その物が私たちの仲間であるがごとく、その物がその内部に私たちと同じ感情を発生しているがごとく、その物が意図をもってその運動を加速しているがごとく、私たちの身体は感じ取る。

「する」とは何か? それは私たち人間にとってのすべてである、といえます。

(「する」とは何か?  end)

Banner_01

コメント

「する」とは何か(9)

2011-09-17 | xx6「する」とは何か

拙稿の見解によれば、「~する」という図式を使う私たちの日常言語(自然言語)が表現できる世界だけが現実である、ということになります。もしそうであれば科学が描くような構造を持った物質の世界は、現実そのものとは違うことになります。科学が描く物質の世界は、私たちの身体が運動共鳴することで理解できるような言語に翻訳されて初めて現実になる、といえます。

たとえば、地球重力は、それが作用してリンゴを落とすことによって現実になる。DNA分子の分離エネルギーは、それが作用して受精卵から赤ちゃんを作り出すことによって現実になる。原子炉燃料が発生する核分裂エネルギーは冷却水(あるいは周辺物質)を加熱することによって現実となる。逆にいえば、「~する」という図式を使う日常言語によって翻訳されなければ、科学が描写し予測するような物質の変化は(拙稿の見解では)、私たちがここに感じ取っているような現実と見なすことはできない、といえます。

科学が描く物質世界と私たち人間が感じ取る現実との関係は、光と影のようです。光があるから影がある。影があるから光があると分かる。物質が実在するから私たちがそれを感じ取ることができる、ともいえる一方、物質は、私たちの感性がそれがあると感じるからある、ともいえる。

どちらが光でどちらがその影かは決め付けることができません。私たちの知識が足りないからそれを決めつけることができないのではなくて、そういう問題は、そもそも問題になっていないといえます。いずれにせよ、私たちは(プラトン以来)洞窟の壁に映る影しか見ることができないし、その洞窟から脱出することは決してできない、というべきでしょう。

物質世界がすべてだとすれば(「~する」という図式を使う)私たちの言葉は意味がないし、私たちの言葉に意味があるとすれば物質世界は私たちが知ることができる物事のすべてではない(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

物質世界を私たちが知っているのは、ふつう言葉を通してであるので、物質世界がすべてであるということはありえません。なぜならば、「~する」という図式を使う日常言語が表現できる世界が現実であると思っている私たちにとってはこの言葉の意味を説明できない科学理論による物質世界は(すべてであるどころか)特殊な狭い世界でしかないからです。一方、私たちにとっての物質世界は、日常言語で表現できるような際立った物質現象を含む日常の光景であるので、衛星搭載放射計や電子測定器でしか観測できないような、言葉で説明しても意味がはっきりとは分からないような、科学が対象とする物質現象のすべてを含むものではありません。つまり科学が描くような物質世界と、私たちがふつうの会話で話しているような世界との共通部分はあまり大きくない、ということでしょう。

それにもかかわらず私たちは自分たちが物質の世界の中で生きていると思っています。私たちの身体は細胞でできた物質であって、私たちが住んでいる環境は地球という惑星である、と思っている。そういう物質でできている世界は(拙稿の見解によれば)「~する」という図式を使う日常言語で表現できる世界、つまり私たちが仲間とともに住んでいる世界とは、かなり別の世界です。

私たちは、「~する」という図式を使う日常言語が表現できる世界に生きています。毎日、仲間とともにそういう言語で語り合い、一人で考えるときもその言葉で物事を考えている。そのように言葉を使える世界をだれとも共有できる現実と思って生きています。まさに、私たちはその世界に生まれ、その中で死んでいきます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」 )。

この世界とは別に、科学の描くような原子や素粒子やビッグバンの世界があると思うとしても、そんなものはないと思うとしても、私たちにとってはつまるところ、どちらでも構わないわけです。

私たちの世界では、何かが何かを「する」ことによって推移していく。私たちにとっては、次の瞬間に、あるいは一時間後、あるいは明日に、だれが(あるいは何が)何をするのか、その結果何がどうなるのか、それを予測することが重要です。仲間と気持ちを通じあって、それについて語らって、それを予測し、仲間とともに予測を確認していく。そういうことに私たちの毎日の関心のほとんどが集中しています。私たちは、科学とかかわるとしても、物質現象の変化をもそうして、何かが何かを「する」ととらえて、予測に使います。

そういう予測のために私たちは物質現象に関心があるのであって、科学理論を完璧化するために物質現象について知りたいと思っているのではありません。

一部の科学者を除いては、私たち人間は、今後私たちが影響を受けると予測される何かが何かをするということにだけ興味がある。そのために科学も利用するし、科学ではない占いや皆のうわさや直感、霊感などなどいろいろな予測を使って毎日の生活に役立てています。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(8)

2011-09-10 | xx6「する」とは何か

科学の表現方法は物質現象を正確に予測することができる点で非常に優れていることは事実ですが、そのことが私たちの日常生活に直接あらわれることはほとんどありません。科学者の実験や理論の中で科学的表現方法は強力な道具となっていますが、それがふつうの人々の生活に影響するまでには実用化あるいは商品化の複雑な過程が必要です。それ以前の段階では、通常、科学の表現は日常生活では直接には感じられません。

一方、日常生活の場面で使われる日常言語は、人の行動を予測する場面で直接に強力な働きをします。人間関係の変化を予測する場合など、日常言語は簡潔に的確な表現をしますが、そこに科学を使っても全く歯がたちません。コンピュータを使って人間関係の予測計算をしようとしても、とても実用にはならないでしょう。コンピュータに人の心は分からない。コンピュータに小説を書かせることができないことは直感でも分かります。

人間の感性を計算で予測しようとする場合、仮に科学理論を駆使して方程式を全部書き出せたとしても、膨大な計算量になってしまうため結論を出すことは実質的に不可能だからです。

小説家でなくとも、私たちは日常的にやすやすと人の心を予測することができます。その場合、「彼女は嫉妬する」とか「彼は嫌がるだろう」とか短い言葉で的確に表現できます。この短い一行で描写される現象を、科学理論の方程式で書き出せたとしても数億本の連立方程式になるでしょう。それをすべて数値積分していったら計算時間が何百年もかかってしまいます。「~する」という図式を使う日常言語は、このような場面で人間行動を予測するときにその能力を最大に発揮する道具だといえます。

次世代のコンピュータ開発者は、もしかしたら、「~する」という図式を使うソフトウェアを発明してデジタル機械に埋め込むことができるかもしれません。デジタル機械は人間の動作や表情を観測してそれを「~する」という図式で表現する。デジタル機械自身、自らの動作を観測してそれを「~する」という図式で表現することもできる。その時には、コンピュータやロボットは人間関係を読み、人と心が通じ合う会話をするかもしれませんね。

人類という動物種が進化の過程で発生させた「~する」という図式の日常言語(科学用語では自然言語という)は、人類にとって実用的で素晴らしい性能を持つ道具となっています。この道具は私たち人間の行動を取り囲む環境になっています。まさに、私たち人間は、「~する」という図式を使う日常言語の内部に埋め込まれて生きています。科学が描写する物質世界などは、(科学者以外の人々にとっては)日常言語を使う場合の例示や比喩の種になる程度の役割しかない、といえます。

このことを強調した言い方をすれば、日常使われる言語とそれを支える感性が(拙稿の見解によれば)人間にとっての現実の姿であって、私たちの身体を取り巻くこの物質世界は現実の背景に現れる影のようなものだ、といえます。私たち現代人はだれもが、ここに手で触れる物質世界が科学によって描写されるような構造を持って現実に存在している、と思っていますが、そのことも結局は私たちがそういう理論を信じている、ということでしょう(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )。

たしかに現代の科学理論が描く物質世界はその中に私たちが感じ取っている現実をうまく埋め込むことはできる。しかしそうではあっても、その理由で科学理論の描きだす世界だけが現実だ、ということはできません。他にも私たちが感じ取っている現実をうまく埋め込む理論はあり得ます。たとえば、すべては神様のなせる業である、とか、すべてはバーチャルリアリティである、とか。それらの理論の中で現代科学理論が一番シンプルである、というだけのことです(一九一二年 バートランド・ラッセル『哲学の諸問題第2章 物質の存在 既出)。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(7)

2011-09-03 | xx6「する」とは何か

私たちの身体は(拙稿の見解によれば)仲間の動作を目で見て、あるいは耳で聞いて、無意識のうちにその運動に共鳴を起こす。その運動共鳴を使って物事の変化を予測し、その結果を知って、学習し記憶する(拙稿4章「 世界という錯覚を共有する動物(5)」)。そのとき私たちは、運動共鳴を使って認知する物事の変化を「~する」という図式の言葉で表します。

逆に言えば、私たち人類は、仲間との運動共鳴によるこういう集団的な認知の仕方でしか世界を知ることができません。人間は、運動共鳴による認知を表す「~する」という図式の言葉を使って世界の変化を予測して社会生活を維持する動物に進化しました。私たちがこうして感じ取っている現実世界は、このように進化した人間の身体が集団的に作り出しているもの(表現型)である、といえます。つまり(拙稿の見解では)、この現実世界は、人間が運動共鳴によって身体を動かし、仲間と協力して集団活動を行いやすいように作られたものである、といえます(拙稿24章「世界の構造と起源」)。

私たちが感じ取っているこの現実世界は(拙稿の見解によれば)、このように「~する」という図式の言葉で表せる物事だけから作られている。逆に、そのように作られていることから、この世界は「~する」という図式の言葉で表すことができる。何事も仲間との間で運動共鳴を使って通じ合う私たち人間は、当然、こういう言語を使うことですべてに関して通じ合うことができます。そうして、そうであるから私たちは私たちの言語で世界のすべてを語ることができる、と思っています。

一方、現代科学が描く物質世界の像は、私たちの日常言語とは明らかに違うにもかかわらず、私たちが感じる日常的な現実の変化をよく予測できます。科学の予測を日常の言葉で表した言い方を私たちはよく使います。たとえば「月は月一回地球の周りを回る」といいます。当然その場合、「~する」という図式の言葉で表現されます。しかしこの言語表現では月の位置、速度の変化を正確にあらわすことができない。正確な予測には、やはり数学表現が必要になってしまいます。

「~する」という言語の図式では、時空間に連続的に広がる物質の時間的空間的に連続な変化を正確に予測することはできません。この図式では、特に際立つ変化だけを取り上げて表現することしかできないからです。たとえば「地球の周りを回る」という言葉になる。

科学の描く物質世界は時空間に隙間なく連続に広がっているにもかかわらず、私たち人間が現実の物質現象として身体で物質変化を感じ取る場合には、「あるものがあることをする」という言語の図式を使って、特に際立つ変化だけを、ピンポイントで感じ取ることしかできません。もっと正確に言えば、私たちが感覚器官を使って仲間どうしの運動共鳴を作り出すことによって共通に感じ取ることができるような物質変化しか言語では表現できません。「~する」という言語の図式にあてはめられるような変化現象。それだけが私たちにとっての現実、ということになります。

たとえば、DNA分子が周辺の分子と分離結合を繰り返して受精卵が発生分化する物質過程も、「発生分化する」という言葉だけで表現する限り、胚が胎児になり分娩される、という際立つ現象だけを、きわめておおざっぱに描写することになります。同じように「~する」という言語の図式は、「雨が降る」、「地震が起こる」、「原子炉が爆発する」など際立つ現象を小さな情報量で表現することはできるが、その現象が起こるまでの周辺の変化からの連続的な影響を定量的に表現することはできません。それを描写し現象を定量的に予測するには科学理論を数学的に展開して数値による描写を使うしかありません。

科学の対象を表現する場合、このように科学が正確に詳細に描写する世界像を、日常言語では、おおざっぱに翻訳して分かったように説明することしかできないように見えます。

確かに科学は正確に連続的に物事を表現ことが得意であるのに、日常語はピンポイントでおおざっぱな言い方しかできません。こういうと、科学的表現が優れていて日常言語の表現能力が劣っているように思われますが、その見方は実は不公平です。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(6)

2011-08-27 | xx6「する」とは何か

私たち人類は、太古の昔に、「~する」という図式の言葉を発明し、現代にいたって完全な科学を獲得しました。ここに述べたようにこの二つの世界は相容れないところがありますが、私たちはそれを気にせずに、場面場面でどちらをも便利に使っています。物事の認知を共有するために私たちが発明して使っている表現法には、言語や科学のほかに種々あります。たとえば絵画。絵画表現は言語に翻訳できず、逆に言語表現を絵画で表すことはできない。マンガ、アニメ等も同じように独自の表現世界を作っていますね。

音楽もまた独自の表現世界です。言語に翻訳できない。もちろん逆に言語表現を音楽で表すことなどできません。数学もまた日常言語に翻訳できない。(古典述語論理 など)論理学の言葉を使えば翻訳できるといえるかもしれませんが、いずれにせよ、自然の言語表現を数学やコンピュータ言語に翻訳はできません。

人類の言語表現を数学で描写しきろうとしても不可能です。本質的に数式しか分からないコンピュータには人間の言葉は分からない。ロボットもこれが分からないから、ロボットは人間と違う。人間と同じ意味で言葉が分かるようなロボットが作れたら、それは人間の一種ですね。

まあ、人間の脳神経系のシミュレーションができる高性能コンピュータを内蔵するロボットを作れれば、それは人間と同じ感性を持つでしょう。今の科学知識と技術水準では無理です。

ちなみに人間とロボットとの大きな格差は、現在作られているロボットの動きをみればすぐ分かります。それらの機械の動きは、あまりにも鈍重ですね。感情がない無脊椎動物のようです。運動共鳴 ができないので、仲間(他のロボットというよりも人間)の動きが読めない。空気が読めない。そのため何が現実で、何が現実でないのか、も分かりません。逆に人間はだれもが、やすやすと仲間の動きを読み、空気を読み、現実がどうなっているかを見分けます。

人が何かをしようとしていることを、私たちはやすやすと、正確に予測できる。だれかがどう動いてくるか、今の動きから次の動きを読める。それは相手の動きが自分の身体の動きのように感じられるからです。人間の身体はそうなっている。協調して仲間と一緒に同じような動きをするように私たちの身体ができているからです。

そうして仲間のだれでもが感じ取っている世界の現実が分かる。皆が感じているはずの世界に自分の感覚を埋め込んでいるからです。自分は皆が感じ取っているこの現実世界を感じているのだ、と私たちは思い込んでいます。つまり私たちは無意識のうちに、客観的現実の存在を感じ取ることができる。自分の身体がその客観的現実の内部に置かれていると感じる(拙稿第6章「この世はなぜあるのか?」 )。現実の状況を読み取ることができる。それが人類の運動共鳴機構です。

人類はこうして、客観的現実を感じ取ることができるようになったがゆえに、科学を作り出し、現代科学の描写する物質世界を理解するようになりました。仲間が感じる現実の物質変化が読み取れるから科学を理解できる。そうして科学理論によって予測される物質変化を現実と感じることができる。

私たち現代人は、科学の理論による予測を現実と感じ取って、自分たちが身体で感じ取っている身の回りの客観的現実と重ね合わせるようになりました。つまり、自分がいま感じ取っている感覚は科学が描くような世界がここにあるからそれを感じ取っているのだ、と思うことで、私たちは自分の身体を科学の理論に埋め込んでいる、といえます。気象学による天気予報を聞いて午後の外出を決める。原子力発電所事故による放射能の拡散予測を見て、飲食物の安全性を心配する。現代人は科学による予測を使わなければ毎日の生活ができません。

しかし、科学の描写する物質世界と私たちが身体で感じ取る現実とはもともと違う。さらに私たちが日常会話で話題を交し合う客観的現実はまた、そのどちらとも違う(拙稿19章私はここにいる」 )。

私たちは、「~する」という図式の言葉をこれらのいずれの世界を語る場合にも使う。違和感を持たずに使っています。そういうことでいいのか? そもそも「~する」という図式の言葉は何者なのか? 私たちが毎日何気なく使っている言語というものは、いったい現実を正しく表すことなどできるのか?

この辺があやしい、ここら辺が私たちの哲学、私たちの世界観、私たちの人生観、が混乱する原因ではないのか、と拙稿は考えます。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(5)

2011-08-20 | xx6「する」とは何か

最近の数千年、つまり歴史時代から現代にいたる私たちの農耕・産業文明は言語や絵画を基礎として物質世界を精密に描写する独自の表現法を発明しました。科学です。特にニュートン力学以降から発展した現代科学では、自然にできあがった人類の言語とは違う表現法で世界の変化を予測します。現代物理学は、空間と時間をパラメーターとして分布する関数を記述する数学、たとえば偏微分方程式や積分関数を使って物質世界を描写します。物理学を基礎とする化学、地学、生物学などもまた基本的には電子や分子など物質現象を表現する数学関数の巨視的特徴を記述する専門用語を使わなければ表現できません。

現代物理学の表現では、ある時点で世界がある状態(境界条件)であると、その後は方程式を計算する(積分する)ことで世界の状態変化が決まる。この方法は言語による記述とは違って精密で全域的な描写ができますが、だれが何を考えて状態を予測し状態の変化を引きおこしているのかさっぱり分かりません。世界は自動的に推移していくだけで、だれかが何かを思うことで変化するものではありません。

現代科学が使っているこの表現法では世界の内部にある主体の運動を予測するような「~する」という図式の言葉は使えません。そういう図式の意味が出てきません。つまり現代科学は、本質的に、ふつうの日常語では記述できません。逆に、私たちの日常語表現(たとえば「あるものがあることをする」という表現)を現代科学の表現法に翻訳することは原理的に不可能です。

科学の中でも生態学などでは、動物の行動などを記述する場合、「オスはメスを求めて繁殖地へ向かう」などという「あるものがあることをする」という表現形式を使っての観察結果が描写されます。しかし、科学としての生態学では、動物の行動という現象も生物体を構成するDNAなどの分子の物理的運動あるいは化学的反応から生成されているという原理を前提にしていて、そのうえでの簡略表現として、たとえば動物の神経系筋肉系の遷移の結果としての生態行動を描写するという態度を堅持しています(たとえば一九五三年 バラス・スキナー 『科学と人間行動』既出)。

一方、私たちの日常会話では「オスはメスを求めて繁殖地へ向かう」という言い方を素直に字句通り受け取って理解できてしまいます。メスを求めるオスの心情がよく分かる。私たちは動物の生態を小説のように読める。この場合に、DNA分子の分離結合エネルギーなど想像もしませんね。

つまり、「~する」という図式の言葉を使う私たちは、現代科学の描写する物質的世界とはまったく違う世界を感じ取って生きている。私たちは「~する」という言葉が分かることによって、現代科学が描く物質世界とは違う世界が分かる動物になっています。運動共鳴 によって仲間が動くことの意味が分かる。何かが何かをしようとしてする、ということが分かる。それが人間の感性です。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(4)

2011-08-14 | xx6「する」とは何か

私たち人間は、ある場面での自分の身体運動の興奮をその場面の状況とともに記憶できます。おそらく多くの哺乳類、あるいは鳥類も、これができるのでしょう。動物の観察からその証拠を見つけることができます。それらの動物の中でも特に人間は、自分の身体運動ばかりでなく他の人間あるいは物事の運動や変化をも仲間との運動共鳴を使って記憶できます。これが物事の概念を作り、さらには言語の基礎になっていきます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

ある状態にある物事にある運動を加えると状態が変化する。リンゴは食べるとなくなる。「状態」*「運動」=「別の状態」。これは変化です。「状態A」*「運動X」=「状態B」という法則が見つかる。この法則を知っていれば、「状態A」のとき「運動X」を実行すれば「状態B」が出現すると予測できる。また「状態A」*「運動Y」=「状態C」という法則も見つかります。生活の上で頻度が高く出現するこういう法則をいくつか学習しておくと生存に有利な場合があるでしょう。人間はこのような法則を学習して身体に刻み込んでいく能力を進化させました。人間以外の種々の動物がこのような法則を学習する能力を持っていることの観察実験例は動物生態学の研究でよく知られています。

自分の身体が運動することで、環境つまり身の回りの世界の状態が変わる。その変化に身体がどう反応するかを知ることで変化した後の状態を予測することができます。ある種の動物は、こういうような運動による環境・状態の変化の法則を予測する能力を進化させた、と考えられます。人類もそう進化したのでしょう。

赤ちゃんにお母さんが「ワンワンよ」と言い、赤ちゃんが「ワンワン、ワンワン」と叫ぶとき(赤ちゃんとお母さんとの間の)運動共鳴が起こる。それにより状況変化の予測の共有が可能になる。この仕組みを使えるようになった人類は、仲間どうしの緊密な協力が可能になる。それは人類の増殖につながったでしょう。そうして人類の間に広まった仕組みが言語といわれるシステムです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

人類においてはこのように認識共有が言語機構の基盤であると同時に、言語機構がまた認識共有を支えています。人類は、世界の状態変化に関する予測をこのように共有することで緊密な協力行動の能力を獲得し、その結果、(拙稿の見解によれば)生存圏を地球全域に拡大していくことが可能となりました。

赤ちゃんが犬を見て「ワンワン、ワンワン」と叫び、ニュートンが落下するリンゴを見て「リンゴに地球の引力が作用する」と論文に書く。これらの現象はどれも、世界の状態変化に関する予測を仲間と共有するという同じ仕組みで起こる人間の言語活動です。

仲間との間で運動共鳴が起こり、それにより状態変化の予測の共有が起こる。現実世界がどう変化していくかの予測を仲間と共有する。これによって人類特有の客観的現実の存在感がつくられます。私たちの身体が(赤ちゃんの場合)犬、あるいは(ニュートンの場合)地球引力になったと仮定してその身体で吠える、あるいはリンゴに作用することを考える。そうすれば何が起こるのか、今の状態がどう変化してどういう状態になるのか予測する。話し手である私は聞き手であるあなたと一緒にそれを予測したい。予測を共有したい。ワンワンがワンワンすることによって状況はワンワン状態に至る、という客観的現実の予測をしたい。あるいは、リンゴに地球引力が作用するからリンゴは落下状態になる、という客観的現実の予測をしたい。そういう場合に、私たちは(赤ちゃんの場合)「ワンワン、ワンワン」あるいは(ニュートンの場合)「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を発する。

「~する」という言葉はこのように使われます。

話し手と聞き手が共有していると感じられる客観的現実世界の中で、あるものがあることをする。そうすると、客観的現実は、ある状態から別の状態に変化が起こる。逆に言えば、世界のある状態から別の状態に変化が起こるとき、あるものがそれを予測してその結果ある動きをすることを客観的現実として予測する場合に「あるものがあることをする」という言葉が発せられる。

話し手と聞き手が、仲間として一緒に、その変化を予測して互いに共有するために「~する」という言葉は使われています。これが言語一般の構造を作っています。つまり人類の言語は、客観的現実世界の中であるものがあることをしようとしてその結果を予測したうえでそれをすると、ある状態から別の状態に変化が起こる、という図式で物事を表現する(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

実際、人類の言語というものは、それ以外の表現法は使いません。これは(拙稿の見解では)、人類の言語が仲間との間での運動共鳴とそれによる結果予測の共有という仕組みの上に作られているからです。仲間とともに物事の変化を予測し、それを共有して集団としてしかるべく行動する。そうすることで人類は仲間との緊密な協力行動を行う能力を獲得し、地球全体に広がっていきました。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(3)

2011-08-06 | xx6「する」とは何か

ニュートン力学とリンゴの話はこれくらいにして、もっと単純な、言語の原型とも言える、幼児語を研究してみましょう。一歳の赤ちゃんが犬を見て「ワンワン、ワンワン」と叫んだとします。大人語に翻訳すれば「犬がいる」、あるいは「幼児と同じくらいの大きさで四足で歩く動物的なものがいる」「この動物的な物体はワンワンと鳴くだろう」、あるいは「ワンワンと鳴く動物が現れた」などとなるでしょう。

この時、赤ちゃんは実際のところ、何をしているのか?

犬に注目していることは間違いありませんが、なぜこういう言葉を叫ぶのか?それは赤ちゃんだけを観察していてはよく分かりません。赤ちゃんの周りはどうなっているか?お母さんがいます。お母さんはたいていの場合、こういう状況では「ワンワンね」とか「ほらワンワンがいるよ」と赤ちゃんより先に言葉を発している。赤ちゃんはお母さんの声を聞きながら、時には顔を見上げながら「ワンワン、ワンワン」とワンワンについて何事かを叫ぶ。

つまり赤ちゃんとお母さんは、仲間として、犬の出現に対応している。犬の出現によって自分たちのまわりの状況が変化し、その結果これから自分たちに関係のある何かが起こってくる。何が起こっていくのか? それを仲間(この場合お母さん)と一緒に予測しようとしている。そういう場合に、赤ちゃんは「ワンワン、ワンワン」と叫ぶ。

「ワンワン、ワンワン(ワンワンがワンワンする)」という幼児語は、こう使われます。赤ちゃんとお母さんは一体となって犬の身体になっている、二人一緒にその犬になってワンワンと吠える気持ちになっている。その犬がワンワンと吠えようとしている気持ちがよく分かる。

その犬はワンワンと吠えることによって状況がしかるべく変化することを予測してワンワンと吠えるに違いない、と思えます。赤ちゃんは、そういう犬の気持ちが自分の気持ちになっている。そしてワンワンと吠えることにより(たとえば自分はこわい犬であるということを証明することができるだろうと予測したうえで)ワンワンと吠える犬の気持ちになっている。身体がそのように動く気持ちになっている。

赤ちゃんにとっては自分の身体のこの反応が犬の概念を作っていきます。その概念に関連した運動の予測を行う。たとえばワンワンと吠える場合の発声運動の予測です。その予測が記憶されます。

この場合、発声運動を実行する場合に身体がどう反応するかの予測に伴う神経活動の記憶が赤ちゃんにとっての犬の概念となっています。そういうふうに身体が反応するとき、「ワンワン、ワンワン」という言葉が出てくる。言葉はそうして発生する。逆に言えば、その言葉を聞く聞き手は話し手の身体内部で起こっているこのような身体反応を(運動共鳴によって)感じ取ることができるからその意味がそれと分かる(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

赤ちゃんは「ワンワン、ワンワン」と叫ぶとき、自分がそれに注意を向けて興奮しているのが分かっています。目の前に犬がいる場合、犬の姿が視界の中心に来るように目玉と顔と身体をしかるべく回旋する。目を見張る。指さす。よだれも出します。犬の存在と関連する自分の身体のその興奮を記憶しているからお母さんが次の日に犬を指さして「ワンワン、ワンワン」と赤ちゃんに言いかけるとき、すぐに昨日と同じ神経回路を使って興奮することができて「ワンワン、ワンワン」と叫ぶことができるようになっている。身体が反射的に反応するその興奮が「ワンワン、ワンワン(ワンワンがワンワンする)」という幼児語の内容です。その身体反応がその言葉の意味である、といえます。

「~する」という言葉の意味はそういうことでしょう。人間は、犬が吠えるのを見聞きしたとき、ある一連の身体反応を起こす。その身体反応は、個人差はあるけれども、共通に理解し合える。そこに共通の運動共鳴が起こる。その共鳴に対応して(拙稿の見解では)言語は作られています。

赤ちゃんは犬の鳴きまねをする。赤ちゃんにとっては、鳴きまねではなくて、犬として鳴くことそのものです。そのときの自分の身体運動の興奮を記憶する。それが「ワンワンする」ということです。それが赤ちゃんの内部に作られる犬の概念となります。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(2)

2011-07-30 | xx6「する」とは何か

引力という私たちだれもがよく知っている仕組みがあって、それがリンゴという対象の状態を変える、ということでしょう。状態を変える、つまりこの場合、リンゴの速度を加速する、ということです。

こういう場合、なぜ私たちは「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を発するのか? それは、目の前のリンゴがその結果これからどうなるのか、について言いたいからでしょう。この場合、リンゴは地面に落ちていく。そのことを言いたい。なぜそれを言いたいのか? 話し手はそれを言うことで聞き手と一緒にリンゴがどうなるかという予測を共有したい、と考えられます。

しかし、この場合、予測の共有だけが発言の目的ではないでしょう。実際、しゃべっているうちに、予測を共有する暇もなく、リンゴは地面に落ちてしまう。言葉など発しなくても一緒にリンゴの状態を見ていれば、それは分かる。それなのになぜわざわざ言葉にして発言するのか?

目の前でリンゴが落ちていくときに、「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を語る人は、ふつう、あまりいないでしょう。この言葉を語ったアイザック・ニュートン

は、だから変わった人だった。だいたい、目の前でリンゴが自然に枝から離れて落ちていくのを目撃した読者はいないのではないかと思います。

それでは、どういう場面でこの言葉は語られるのか?初等物理学の授業で先生がニュートン力学を語る、という場面が最もありそうですね。熱心な先生ならばポケットマネーで八百屋からリンゴを買ってきて教壇において説明します。「リンゴに地球の引力が作用する。一方、リンゴにはこの机の表面の抗力が重力と同じ大きさで反対向きに作用しているから釣り合って動かない。つまりリンゴは机の中にめり込んでいかないわけです」とか講義するでしょう。

学生のほうは「何だ。机に置いてあるリンゴが動かないのは当たり前じゃん。それをめんどうくさい理屈で言っているだけだ」と思う。目に見えない地球引力の話など嘘っぽいところがある。身体で感じられません。でも、授業が退屈でまっすぐ背筋を伸ばして座っているのはつらい。椅子が固いからお尻が痛くなってくる。それらの身体感覚が地球引力の作用からくるのだと言われれば、こっちの話は分かるような気がする。身体で分かります。

地球引力は物を下に押し付ける作用をする。そういう作用をいつでもどの物に対してもしている。だから支えがない物は落ちるし、机などに置かれている物は机の表面に支えられている。宇宙ステーションの中で物が浮いている映像を見ればよく分かります。地球引力が作用しないと宙に浮かんでいるという状態は変わらない。地球引力が作用すると状態はしかるべく変わる。作用しないとリンゴは宙に浮かんでいる。作用するとリンゴは落ちる。

地球引力は作用すべきときには作用する。作用すべきでないときには作用しない。地球引力が作用する場面を見れば、私たちはそれが作用すべきときに作用しているのだと思います。つまり地球引力は、自分が作用すべき場合か、そうでない場合かを知っている、と私たちは思っています。

私たち人間は実は、次のように思っています。つまり地球引力は、自分がリンゴに作用するとその結果リンゴが下に向かって加速されることを予測したうえでリンゴに作用する。こういう状況理解のもとに「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉は使われることになっています。

つまり「リンゴに地球の引力が作用する」というとき、私たちは、無意識のうちに、地球の引力がリンゴに作用しようとして作用する、と思っているのです。私たちの身体が地球引力になったと仮定してその身体でリンゴに作用することを考える。その結果何が起こるのかを予測する。今の状態がどう変化してどういう状態になるのか、その結果を予測したうえで行動に移す。

「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉の話し手である私は聞き手であるあなたと一緒に、地球引力になり代わって地球引力がこれからリンゴに何をするのか、その結果どうなるのかを予測したい。そういう場合に、私たちは「リンゴに地球の引力が作用する」という言葉を作りだして発声する。そういうものが(拙稿の見解によれば)人類の言語です。

Banner_01

コメント

「する」とは何か(1)

2011-07-23 | xx6「する」とは何か

(26 「する」とは何か?  begin

 26 「する」とは何か?

哲学はなぜ間違うのか、について筆者は長々と(数年間にわたって)論じているわけですが、そこでいろいろな切り口がでてきています。切り口の一つは、哲学を語る言葉に問題があるのではないか、という疑問です。哲学に限らず、言葉を使って世界を語る、世界経済を語る、あるいは世間話とか科学の世界とかを語る場合、私たちは、本当のところ、何をしているのでしょうか?

拙稿本章では、言葉を使うということは何をすることなのか? そこらへんを少し詳しく調べてみましょう。

私たちは「何が何する」という形の言語を使う。この形はどういうことなのか? そもそも、「何かをする」と言う、とはどういうことなのか?

たとえば「私は息をする(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)」 このとき「する」とは何をすることなのでしょうか?

「する」とは何でしょうか? なぜ私たちは「する」という言葉を使うのでしょうか?

この問いは、自然科学では、もちろん発されません。心理学でも、言語学でも、人類学でも、発されることはない。哲学でも問題にされません。学問をするということ、言葉を使って語るということは、もうすでに「する」を始めてしまっているからです。私たちは、口を開いた瞬間、すでに息を「する」とか話を「する」とかいうことを始めているわけですから、「する」とは何か、という問いを発する機会はもうなくなっているのです。

拙稿本章でも、こうしてもう議論の開始を「する」ということを始めてしまっているということからすれば、「する」とは何かと問う資格はすでにないと言わざるを得ません。

まあ、しかし、自説に甘い拙稿としては、そう厳しいことは言わずに、するすると、あいまいなところから始めてみましょう。

さて、「~する」という言葉はどのように使われているのでしょうか?

私は息をする

私は生存する

私は息をするから、その結果、生存する

私は運動する。私は肩と上腕の伸筋を収縮する。その結果、私は挙手する

月に地球の引力が作用する。その結果、月は公転する。月は地球の周りを一月に一回周回する。月は地球方向に垂直な方向に秒速一キロメートルで進行する。その遠心力と地球の引力が釣り合うので月と地球とは一定の距離を維持する

リンゴに地球の引力が作用する。その結果、枝を離れたリンゴは地面に落下する

私たちは性交する。その結果、私たちのDNAは結合して受精卵が発生する。受精卵は分裂し分化して人間を発生する。人間は胚から胎児、幼児を経て成人へと成長する。脳が発達する結果、精神機能が発達する

このように「する」という言葉は、いろいろな場面を描写するために使われています。まことに便利な言葉です。もっとも基本的な日本語である、といえるでしょう。しかし、私たちはふつうこの言葉の意味を考えません。「する」とはどういう意味なのか?まったく意識されずに使われているのが実情です。

AはXという行為をする。AはXという行為をしようとしてXという行為をしたのか?それともAはXという行為をしようとしないにもかかわらずXという行為をしてしまったのか?

リンゴに地球の引力が作用する。地球引力は作用しようとして作用したのか?それとも、作用しようとしないにもかかわらず作用してしまったのか?そもそも、引力というものは作用しようとしたりしようとしなかったりするものなのか?変な話になってきます。

実際的な話をすれば、リンゴに地球の引力が作用するということは、リンゴの速度が地球重心の方向に1秒で秒速9.8メートルだけ加速されるということですね。こういうことを表現するのに、私たちは「地球の引力が作用する」という言い方をする。

Banner_01

コメント

文献