ビーグル号がイギリスを出港する時、地質学者でもあるフィッツロイ艦長はダーウィンに、当時出版されたばかりの新刊学術書を渡してくれました。「地質学の基本原理:過去の地球表面の変化を現在作用中の変化原因によって説明するための試案として」というまわりくどい副題の論文でした(一八三〇年 チャールズ・ライル 「地質学の基本原理:過去の地球表面は現在と同一の原因によって変化してきているとする説明の試案として Principles of Geology: being an attempt to explain the former changes of the Earth's surface, by reference to causes now in operation」)。
地球表面は超絶的な長期にわたる非常に緩慢な作用を継続的に受け続けた結果、現在の姿となったのであって、瞬時の天変地異や大洪水などで一挙に無から生じたものではない、という学説でした。聖書の天地創造説を否定するようなちょっと危ない感じの学説です。ビーグル号で大西洋を渡る間、若いダーウィンがこの本を読み続けていたと想定すると、南米での調査意識に相当な影響を与えたと考えられます。
地質の過去の変化は地層の断面に物質的に残り、生物の過去の変化は化石に残るとともに形質遺伝として子孫の形体と生態に物質的に残る。地質を変化させる熱や圧力や水化作用は場所によって異なるから場所によって岩石の生成結果は違う。生物を変化させる要因も場所によって違うだろう。生息場所が違う生物が交流して混血しない、できない、という条件があれば、場所によって異なる形質が遺伝として徐々に蓄積され、種の分化が起こるのではないだろうか?
退屈な遠洋航海の間、ダーウィンはフィッツロイ艦長にこんな話をしていたのではないでしょうか?
ガラパゴスを離れて二五年後、ダーウィンは「種の起源」を出版します。
神学生であったダーウィンは神による世界創造を信じていました。聖書によれば、生物の各種は、天地創造の日から変化せずに現在のように存在していたはずです。もしそうではない、と言ったら、聖職者たちは石を投げつけるでしょう。前掲「種の起源」の序文がくどいような弁解で始まっているのを読むと、ダーウィンの躊躇がよく分かります。しかしそれだからこそ、当時の読者はその理論の説得性を感じ取ったのでしょう。
長い時間の間には、生物の形体と生態は変化し、種は分化して祖先とは違うものとなる。この理論が正しいとすれば、人間をはじめ現在の生物すべてが過去には現在とは違う形体と生態であったことになります。しかも分化を遡れば、似た種の生物は共通の祖先を持つことになります。
無限に近い過去にまで遡ればすべての生物はただ一種の祖先から分化したことになる。実際、「種の起源」の最終章(14章 結論)でダーウィンは全生物の共通祖先の概念をちらっと述べています。
「したがって類推により私は、おそらく、かつて地球に存在したすべての有機体はあるひとつの原初的形体を祖先とするのではないか、と推論せざるを得ない。それはその中に生命がはじめて息づいた存在である(訳筆者)」
ちなみに、現代生物学では、この共通祖先概念は最初の生物ではなく、何度かの絶滅と変遷の後、現生生物全体系図の根になった生物体として最終世界共通祖先LUCA:Last Universal Common Ancestorと呼ばれています。
一八二六年夏、英国軍艦ビーグル号は南米マジェラン海峡で水路の測量をしていましたが、艦長プリングル・ストークスは最果ての世界での激務に(孤独が原因と言われているが)うつ病に陥り拳銃自殺してしまいました。後任に任命されたロバート・フィッツロイ(一八〇五年―一八八五年)はフェゴ島の住民をイギリスに拉致し宣教師として訓練しました。教育に成功した彼らをフェゴ島の教化に使うため、フィッツロイは、一八三一年一二月二十七日にビーグル号を南米に向けて出帆させました。
フィッツロイ艦長は、世界の果てでの調査航海では、艦長の孤独が艦を危険に陥れる可能性があると考え、艦長の僚友となり得る学究の紳士(メイト)を求めました。フィッツロイは若手の地質学者であったので、若手の博物学者であるチャールズ・ダーウィン(一八〇九年―一八八二年)が同船することになりました。
実は、若いダーウィンはケンブリッジ大学神学部の卒業生で、博物学は趣味で勉強していただけでしたが、著名な博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズロー(一七九八年―一八六一年)の紹介があったので、艦長の友人という肩書で乗船できたということです。
ビーグル号は海岸線の水路測量を進めながら南米東岸を南下します。停泊するたびにダーウィンは上陸し、南米沿岸の動植物を採集し標本を作り、スケッチし、詳細な記録を作成しています。
一八三四年九月一五日から一〇月二〇日まで、ビーグル号はガラパゴス諸島に停泊しました。この地での動物観察でダーウィンは進化論の着想を得た、といわれています。
実際、「種の起源」(一八五九年 チャールズ・ダーウィン「生存競争における適者保存あるいは自然淘汰の作用による種の起源について」 Charles Darwin, M.A. On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life,1859)の序文は次のような記述ではじまっています。
「博物学者としてのビーグル号乗艦時、私は南米の生物分布とこの大陸における過去から現在に至る生物の地質学的関係についてのある事実に感嘆した。これらの事実は、偉大な哲学者たちが神秘中の神秘と呼ぶところの、種の起源に関するなんらかの光明を投げかけているように私には思われた。一八三八年の帰国後、この疑問に関して、それに向かうすべての事実を辛抱強く蓄積し熟考することによって何かが見いだせるのではないか、という発想が私の中に湧き起こった。その後五年の研究を経て、私はこの課題に関しての仮説をまとめ短いノート類を作ることとした。それらを一八四四年にその時点で適当と思われる結論のスケッチにまで拡張したが、その後今日に至るまで私はこの課題を営々と追求してきた。細かな私事を述べるに至ったが、出版を決心するまでに私が急がなかった理由を弁解するためとして許されるのではないかと思う。(訳筆者)」
「種の起源」の出版が当時、狭い博物学の学界だけでなく一般社会、あるいはヨーロッパ中の知識階級に衝撃を与え、さらに現代にいたる科学全般の基本原理の一つとなっていったことから見れば、ダーウィンが慎重であったことも当然と思えます。
しかしビーグル号航海時、本当に進化論の発想が若いダーウィンの中に芽生えていたのでしょうか?
ガラパゴス諸島でダーウィンが書きつけた観察ノートは三四ページにわたり、いかに精力的にこの若い博物学者がこの未知の世界を駆けまわって地質と生物の有様を探査したかが表れています(二〇〇六年 ゴードン・チャンセラー、ランダル・ケインズ「ガラパゴスにおけるダーウィンの野外ノート Darwin's field notes on the Galapagos」。
この航海によってダーウィンがどこまで進化の概念に迫れたかは歴史家の間でも諸説ありますが、彼の興味が単なる新種発見だけでなかったことは明らかです。ダーウィンの研究を指導したヘンズローは生物の地理的分布を重要な研究テーマとしていて、ダーウィンには、特に南米と周辺島嶼との各種生物の変異の実態を観察し記録するように、と指導していました。
ガラパゴス諸島は南米大陸から九〇〇キロとかなり離れているため大陸から漂着あるいは飛来する生物はまれであるとされていて、ダーウィンがのちに「種の起源」で論じた地理的隔絶による種の分化の好例を示しています。当時の博物学界での重要なテーマは新種の発見であったため、採集した標本が新種であるのか、亜種であるのか、変異個体にすぎないのか、大きな論点になります。
違うように見えるけれど同種だ、とか、いや個体差にすぎない、とかいつも大論争が起こっていて、ダーウィンも巻き込まれていたのでしょう。
ガラパゴス諸島は若い(五百万年前くらいにできた)活火山で噴火など変化が激しい、という点にもダーウィンの地質学的興味は向いていました。地質や地形は変化する。そうであれば生物の種も長い時間をかけて変化するのではないか、というアイデアが生まれたでしょう。また当時、ハレー彗星が地球に大接近していました。天空もまた変化する、という観念が当時の科学者の間にはあった、と想像できます。