哲学の科学

science of philosophy

マンガは言語なのか(8)

2018-02-24 | yy61マンガは言語なのか

たしかにマンガは基本的にアナログな創作物で、デジタルな現代でそれが好まれるのは逆説的でもあります。アプリが蔓延するデジタル世界で、なぜ人生の一場面を絵柄にしたプリントに私たちは引き付けられるのか?人が引き付けられるものは、ある一人の物語であるからなのでしょうか?
現代、私たちはビッグデータの中のデジタルな一点でしかない。世界の中の数百万分の一、数億分の一でしかないでしょう。マクロに統計処理されアプリで操作されていることは誰もが感じています。それでも小さな個々の人生に私たちの眼は引き付けられる。
クローズアップされたマンガの表情に見入ってしまう。その快感に抗えないで、マンガのページをめくります。実にアナログな世界ですが、それがもともとの人間である、という気もします。

マンガは言語ではないとしても言語のような何かである。それは言語以前の、言語になれそうなものであったが結局は言語になれていない、それでも存在できる何かでありましょう。■





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マンガは言語なのか(7)

2018-02-17 | yy61マンガは言語なのか


鳥獣戯画の時代からマンガのようなものはあった、ということになると、現代マンガはそこからどこが進化したのか、というところを知りたくなります。
まずセリフがある。吹き出しがある。コマ割りがある。ストーリーがあったりします。演劇を紙の上に表現したもの、といえます。劇画といいますが、まさに劇を絵に描いたものです。その絵は、ある程度、写実的ではあるがダイナミックです。コマ割りを利用して時間軸を表現している。
まあ、鳥獣戯画に比べてストーリーや吹き出しやコマ割りがあるから現代マンガのほうが上級だと言いたいわけではありません。芸術としては逆でしょう。しかしエンターテインメントとしては、現代マンガの優れたものはたいしたものです。多くの人が心から楽しんでいる。夢中になってそれを読みたいと思っています。
優れた演劇もそういうものを持っています。人々は、人生の真実をそこに見て取れるから目を離せない。
現代マンガは、進化した種々の手法を用いて、演劇が与える快感のようなものを提供する。逆に言えば、マンガは、小説もそうですが、演劇が進化して紙の上に印刷できるようになったもの、ともいえます。演劇が提供する楽しみのうち重要なもの、たとえば人生のストーリー、がマンガには含まれている。
その他の魅力もあります。印刷物であるから書物のようにハンディである。つまり個人が携帯できる、展開のスピードを自由にコントロールできる、という点は大きな魅力です。
このようなメディアはマンガ以前にはありませんでした。ハンディな娯楽メディアは新聞や雑誌くらいだったでしょう。それらも文字の羅列でできていますから、マンガほど気楽でもありませんでした。今はスマート端末がありますが、身体への親和性という面で印刷物の代替となり得るかどうか、まだ確答できる段階には至っていないでしょう。
マンガは読むというよりも見る。それもテレビを見るよりも、自由です。好きなときに好きなペースで好きなものを見ることができます。オンデマンドビデオも、選択、早送りなど、コントロールはかなり自由ですが、マンガの自由度にはかないません。なにしろページめくりと視線走査で選択、速度制御、注意集中など自由自在です。










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マンガは言語なのか(6)

2018-02-10 | yy61マンガは言語なのか


マンガはフィクションでありファンタジーでありポルノである。とにかく現実ではなく理想であり、プラトンのイデアであり、イデアであるからこそ感覚に直接しみ込んでくる。そういうものが、もともと人間の感じ取る世界であるならば、マンガは読者にとって現実の物質世界よりもずっと本物の生々しい世界そのものを語っています。
マンガはなぜかくもリアルであるのか?デフォルメされた人物線描が実物よりも本物に感じられる。美人は美人に、悪漢は悪漢に、魅力、反感、すべてストレートに描かれている。そういう画法が、現代のプロフェッショナルな技術として確立されています。
人間の感覚神経系の内部で世界がどう表現されているのか、現代科学の観測方法では、解明の糸口も見つかっていません。たとえば人物の画像が、神経系の内部では抽象画のように要素分解されて記号化されているという仮説もあります。二次元の具象画の形式で神経系内部を流れているはずはありません。しかしその具体的プロセスにアプローチする方法は、現状では、皆無です。
もしその人物画像情報が記号化されているならば、マンガは記号化された情報の形態で提示されるほうが直接感覚に取り込みやすいはずです。ピカソの人物画のように側面と正面が混在しているほうがよくはないのか?あるいは象形文字のような記号で描かれたマンガがよいのではないでしょうか?
どうもそうではなさそうです。かなりリアルな画法がうけるようですね。ある程度デフォルメでかつまたある程度リアル、というくらいが多い。その程度は、写実主義絵画でもなくピカソでもなく、その中間よりすこしピカソ寄り、つまり浮世絵くらい、さらに言えば北斎くらい、というべきでしょう。









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マンガは言語なのか(5)

2018-02-04 | yy61マンガは言語なのか


マンガはその漫画家が描く世界へ私たちを連れ込んでくれます。連れ込まれて楽々とそこに浸りこむことができる。そこは非日常的ではあっても、いつも同じような光景が広がっています。その広がりを見る。ずっと見ていたい。終わっても次を見たい。それがマンガの魅力、おもしろさ、でしょう。

日本のマンガは今や世界一である、という。そうかもしれない、と外国のマンガを多く見たわけでもないのにそう思います。量ばかりでなく、質も高そうです。読者が多い。幅広い。読者はマンガを深く愛しているように見えます。
大昔の鳥獣戯画があり、江戸時代には北斎漫画がありました。現代マンガのほうが上だとは、とてもいえない。美的にも最高水準の芸術作品でしょう。省略の美か?現代マンガと同じ美とそのおもしろさを追求しています。
このような線描が、現実よりも現実を表現している。私たちは、世界を目の前に広げて見せてくれる創作物に目を見張っているのかもしれません。それは芝居や仮面劇を見る観客の快楽なのでしょう。
マンガは言語ではないが、言語が私たちに与えてくれると同じような快感を、安心感を、居心地の良さを、いつも提供してくれます。世界を分節化し、要素を再構成して、世界の構造を可視化してくれます。
可視化され、再構成された世界を透視できる安心感と快感。おとぎ話を読んでもらいながら眠りにつく幼児のように、いやむしろ、だれでもが、ゆりかごに揺られる乳児の時を過ごすことができる虚構の感覚装置ではないのか?









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