哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ現実に生きているのか(13)

2012-12-31 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

本章をまとめてみましょう。

私たち人間の身体は、ここに間違いなく現実世界があるかのように感じ取る。ここに現実世界があると全面的に確信する。周りの仲間の動作や表情を見取ってそれが間違いないと確信する。そういう身体になっています。こういう身体であることが人類の進化上有利だったということでしょう。

また一方、私たちはときに、自分だけの感覚、感情あるいは自分だけが持っている知識や考えなど、自分の内面の存在を感じ取ります。自分の内面を自分だけが感じられるものだと感じます。私たちの身体はそうできています。ここはそういう身体であることが人類の進化上また有利であったと考えられます。

人類としての進化の結果(拙稿の見解では)、私たちの身体はこのように、その場での便宜のために、ある場面では現実の存在感を作ったり、また別の場面ではそれと関係なく、内面の存在感を作ったりします。

つまり私たちは、だれもが感じられるものとしての現実と、自分一人だけが感じられる内面とが、当然のごとく、ふたつとも存在する、と感じています。無意識のうちにそう感じるように身体が作動します。そしてまた、私たちは私たちの身体がこのように作動していることを自覚できず、現実と内面が矛盾していることもなかなか自覚できません。ふつういつもは現実がすべてだと思い、ときには内面がすべてのようにも思い、その矛盾に気づきません。

客観的現実世界と個人の感じる主観的内面とが両方ともに存在すると感じられることの矛盾は(拙稿の見解では)、近代的個人の自覚と内省を作り出すことで社会の近代化に寄与したといえますが、現代にいたって、客観的現実の存在感が極限にまで強くなってきたために、個人的内面の存在感が、かえって、個人の孤独感,疎外感を生みだしている、といえます。

現代社会においては、人間としての生活上、いろいろな場面で現実を絶対的に確信し、それに対応して生きることが、まずは有利です。人々と言葉で語り合えば、この現実だけをますます確信することができます。一方、人生においてまれにある場面では、現実に背を向けて、言葉を拒否してでも、自分の内面に深く沈み込む生き方が有利でしょう。人間の身体は、進化の結果、状況に応じてどちらにも適応するようにできあがっています。

現実の客観的な物質世界が個人の内面を作っているのでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っているのでもありません。現実だけが存在している(唯物論)といっても、あるいは内面だけが存在している(独我論)といっても、どちらも矛盾から逃れられない。また現実と内面が両方とも存在しているという二元論は明らかに論理矛盾になっています。

古来、哲学をはじめ科学、文学ばかりでなく私たちの日常会話をも混乱させてきたこれらいずれの考え方も、存在という言葉、あるいは存在感という感覚、に引きずられて間違いに陥っているといえます。むしろ、人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう。

本章で言いたかったことは、そういう人類特有の身体のつくりが、私たちがこうして現実の中に毎日を生きている理由である、ということです。■

(22 私はなぜ現実に生きているのか? end)

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私はなぜ現実に生きているのか(12)

2012-12-29 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

目に見えて耳に聞こえる現象を仲間と一緒に感じ取りそれを現実と呼ぶとすれば、そのように呼ばれる現実は、当然、先に挙げた三条件を満たすことが分かります。

つまり、仲間と唯一の現実を共有できる時間と場所だけにおいてそれが現実であることを感じ取れることから、そうでない時間と場所においてはそこに唯一の現実があるとしても間違いとはいえない。したがって次の条件が成り立つ。

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

また仲間どうしが同じと感じるものだけを現実とするので、

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

また当然、仲間とともに①と②が確信できると感じられるものだけを現実とするから

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

という三条件が成り立ちます。

 

このように感じ取れる現実は、理論化されて科学の対象ともなり、自然の法則に従う理論的な物質世界として描写することができ、また社会現象として理論化され確率的な予測を可能とします。毎日の経験により、そういう現実を確認することで、私たちはますます現実に対する信頼感を強め、現実世界の存在感の中で安心して生きていくようになります。

 

ここに現実世界がある。あるいは言い換えれば、私たち人間の身体は、絶対ここに現実世界があるかのように感じ取る。ここに現実世界があると全面的に確信する。こういう事実があります。

私はなぜ現実に生きているのか?

その答えはこれです。

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私はなぜ現実に生きているのか(11)

2012-12-22 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

できません。目に見えて指さすことができるものを語ることから成り立っている科学は、結局は、目に見えないもの、指さすことができないものをきちんと語ることはできない。人の内面は、科学の対象外です。

文学や科学と毎日、接している私たちは、それらがあたかも自由自在にすべてを語っているかのように受け取っています。それは文学者や科学者ばかりではなく、マスコミ、学者、先生たちの語り、書き物、あるいは世間話での会話で、私たちはいつも、言葉で語り合える、自分たちが共有できる現実だけがすべてと思いこんでいるからです。人と人が通じ合う、そういう場では、すべては現実の中にあるとして語られます。人間の使う言語というものがそのように作られているからです。

人が言葉を使って自分の内面について考えるとき、たとえば「自分は何者か」、あるいは「自分は死ぬとどうなるのか?」と思うとき、それは内面のことを語っているように聞こえても実は現実から作られた空虚な比喩の言葉です(拙稿12章「私はなぜあるのか?」拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」 )。こういう言葉には意味があるかのように聞こえても、実は、はっきりした意味はない。そこには言葉が作り出す空虚な幻影しかありません。

言語で語れることは、目で見たり耳で聞いたりできること、あるいはその上に作られる理論、または比喩、でしかないことを忘れてはいけません。

身体の奥の奥からくる内面の感覚や感情は言語にできない(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。言語は(比喩で語る以外)内面を語ることができない。逆に言えば、個々人の内面を語れないからこそ、言語は、だれにも共有される現実を語ることができて社会生活の上でまさに実用的になり得る、といえます。

たとえば文学者、あるいは科学者が文章、あるいは科学の方程式で、自分の内面を表現できないことにいらだちを感じても、それは文学が拙いからではなく、科学が未発達であるからでもありません。あるいは哲学者が、意識とは何か、自分とは何か、と煩悶したところで(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラス ハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由 ] 』)それが宗教や哲学の深淵であるということでもありません。単に、人類の言語が内面を表現する道具として進化したものではなかった、というだけでしょう。言語が土台とする現実はすべてを包含する必要がなかった。それ故に、現実の内部に私たちの内面あるいは意識あるいは自我というものはありません。

私たちの身体は、場面場面での便宜のために、現実の存在感を作ったり、またそれと関係なく内面の存在感を作ったりします(拙稿23章「人類最大の謎」)。客観的な現実の物質世界が個人の内面を作っている(唯物論という)のでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っている(独我論という)のでもありません。人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

たとえば、仲間と仕事をする場面では、仲間が感じている現実を、私たちは、同じように客観的に感じ取って行動する。一人でリラックスしている場面では、現実を意識せず、人を意識しないし、自分の内面をもあまり意識しない。強い感情や自分の感覚に違和感を覚えて自分を内省するときは、自分の内面をはっきり感じる。というように、場面によって私たちと現実との関係は変わる(拙稿19章「私はここにいる」 )。私たちが客観的に現実を感じ取るときは、実際毎日の大部分の時間がそれですが、仲間と行動を共にしていて、自分だけの内面をほとんど問題にしないときです。

 

私たち人間の身体は、仲間と協力するために現実を作りだす、といえます。

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私はなぜ現実に生きているのか(10)

2012-12-16 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

私たちの身体は、進化の結果、生きていくのに必要な、あるいは便利な反射や感覚を自然と身につけるようになっています。社会を作り、人と交わり、言葉を使い、人と通じあうためには人と共有できる現実をしっかり確信することが必要です。必要であるから、私たちの身体はそれができるようにでき上っています。

だれもがそうであるから(拙稿の見解では)、皆で語り合っていればこの現実世界がしっかりとここに存在することになる、あるいは互いに影響し合っていればだれもがそう確信するような身体になっている、といえます(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。

そういう理由で、私たちにとってのこの現実世界は、ここにこうある。それ以外に、現実世界が存在する理由はありません。そうであれば(拙稿の見解では)、現実世界が私たちの内面を説明することができないのは当然といえます。

現実が内面を作っているのでもなければ内面が現実を作っているのでもなく、現実も内面もみな私たちの身体の中で作られたものだからです。しかも現実と内面は互いに無関係に作られています。現実は現実が作られる理由によって作られている。内面はまた、現実が作られる理由とは無関係な別の理由によって、作られています。

この話はしかし、このあたりから、やや面倒な話になります。この話が面倒になる理由は、私たちが私たちの身体の中で現実がどのようにして作られているのかを自覚することができないからです。また、私たちが感じるところの私たちの内面についても、それがどのようにして私たちの身体の中で作られているのかを、私たちは自覚することができません。たぶんその理由は、そのようなことを自覚することが生活上、何の利益にもならないからでしょう。さらに言えば、そのような自覚ができてしまうと、人間がふつうの社会生活をするうえで面倒なことがいろいろ起きてしまうからでしょう。

そういうことで私たちの身体は、なぜ私たちが現実の中に生きているように感じるのか、あるいはなぜ私たちは自分が内面の心を持つように感じるのか、自覚できません。つまり私たち人間は、そういう感性を持つようにでき上っている。そういうような感性の上にでき上っている現実世界のさらに上に作られている言語(自然言語)は(拙稿の見解では)、当然、個人の内面を語ることなどできません。

ちなみに文学は言葉で個人の内面を語る、といわれます。しかしそれは比喩で語られる内面の描写でしかありません。「胸が張り裂けるような悔み」とか「痛恨の極み」とかいう言葉を読めば、あああれのことかな、と内面の感情を想像できます。しかしそれは目に見える目の前の客観的な現物を指して言う言葉に比べると、それが何を言い表しているのか、正確に伝わるのかどうか、あぶなくあやしげです。

指さすことができないものを言い表そうとすれば、私たちはすぐ、言語の限界に突き当たります。文学は、結局は言語の限界を超えられません。

科学もまた言語を使って物質について語ります。たとえば脳について語る。自律神経系について語ります。科学は人の心、内面を語ることができるのか?

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私はなぜ現実に生きているのか(9)

2012-12-08 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

さてこの現実が実際に現実であるためには、現実の三条件、

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

が成り立たなくてはなりません。

これが成り立てば、私たちは現実に生きることができる。

実際、私たちはこの三条件をいつも満たしている現実の中に生きていると確信しています。だれもが、この現実の中で懸命に生きていこうとします。そうしなければ子孫を残すことができません。そういう生き方をするような身体に進化した結果、そういう祖先の子孫である私たちがここでこういう話をしているといえます。

そうであれば、現実と矛盾するようにみえる私たちの内面などはなるべく無視するほうが生活上有利であることになります。逆に、内面にこそ本当の意味があると思ってしまうと、内面を無視しなければならない現実は、無意味な虚無でしかない、そんな現実の中で努力しても空しい、となるでしょう。

どちらが正しい生き方なのか?

現実の中に生きるのか、生きないのか、それが問題だ、となる。

人は現実に生きるべきであって、あらゆる意味は現実の中にだけあるのだ、ということであるならば、私の心とか内面とかは、気にかける必要がない。私が何かを感じているとしてもそれは現実がどうであるかを察知するための情報収集でしかないから、その情報に対応して現実をどのように操作すべきか、ということだけが意味がある。現実とあまり関係のないことを私の内面が感じたとしても、そういう夢とか理想とか正義とか、プライドとか優越感とか劣等感とかトラウマとか、芸術とか哲学とか形而上学とか、などなどの空理空論は無意味というべきである。となります。

逆に、私の内面が感じることだけが意味があって、現実などは内面で感知することの一部でしかないのだから大して重要ではない、という考え方も、ちょっと変わり種ですが昔からあります。私がいい気持になれさえすれば現実はどうでもいいのだ、あるいは、私が死んでしまえば何もかも意味がない、私が死んだら世界などなくなると思えばよい、という極論も、現代人の間では案外、多くの共感を呼ぶでしょう。

現実と内面。客観と主観。身体と心。物質と精神。ニワトリとタマゴ、どちらが先か?

この問題。西洋では心身二元論などと言って大問題であることになっていますが、東洋では、たとえば心身一如、あるいは色即是空などと言って全然問題ではないということになっています。拙稿によればどちらも間違いです。

私たちが服を着て外で人と話すときは、自分の内面を出さないようにして、客観的な現実に対応して冷静に行動する。家に帰って服を脱いでいるときは、内面の衝動にまかせて気楽に動く(拙稿19章「私はここにいる」 )。私たちはだれも大なり小なり、そうです。人間の二面性ですね。

身体が蝶であるときは自分は蝶だと思い、身体が人間であるときは人間だと思う。日本で日本人と交わっているときはご飯がおいしいけれども、アメリカでアメリカ人だけと交わって英語を話しているとハンバーガーがおいしくなる。現実と戦えるときは現実に生きるけれども、戦えなくなると内面に沈み込む。私たちはこういうように、実は多重人格であり、日和見主義者です。

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私はなぜ現実に生きているのか(8)

2012-12-01 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

私が現実の中に生きている、ということが本当ならば、私の内面というような、だれもが見ることができる現象ではないものはわけの分からないあやしげなもの、ということになります(拙稿23章「人類最大の謎」 )。逆に、私が私の内面として感じているものが本当ならば、現実世界は私の内面によって作られた作り物、ということになります。どちらにしても常識に合わない。こういう話を人にしたら、おかしな人だと思われてしまいますね。

これはしかし(拙稿の見解では)、常識のほうが矛盾しています。

現実と内面が両方とも存在することの矛盾。客観的現象と主観的現象が両方ともあることの矛盾。私たち人間はこの矛盾をなかなか矛盾と感じないような感性を身に着けている。常識ではこの矛盾は問題にされない。そういう感性を持つように人類が進化したからでしょう。この矛盾は感じないほうが、社会生活には便利だからです。この矛盾を矛盾と感じてしまうと、まず言語が信頼できなくなる。社会も維持できません。人間どうしで話が通じなくなるからです。

筆者など、この矛盾を、ちょっとあるんじゃないかと思ってしまうので、今度は、人間どうし言葉が通じることが不思議に思えてしまう(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。これはちょっといけません。皆さんとぴったり意気投合ができなくなります。世の中うまくわたるためには、現実を身体の芯から信じられなくてはなりません。

現実は一つしかなくて、だれが感じても同じもので、だれもがその中で生きている、それしかない、と思えなくてはいけません。そうでないと、人間どうし話が通じない。社会も作れなくなります。

逆に言えば、社会がこのようにうまくいっているということは、人間だれもが現実を信じきっている、ということを表しています。

人生のほとんどの場面で人間は現実と内面との矛盾を感じない。けれどもひどい不幸にみまわれた時、あるいは人知れない孤独に陥った時、自分の死を身体で感じるとき、人は現実のあやしさに気づく。その場合、神秘感、宗教、自意識、自尊心、個人主義など、いろいろやっかいなものが芽生えてきます。

歴史上、大宗教の時代を経て近代現代にいたって、人々はこの矛盾に敏感になってきたようです。現実と内面との矛盾から始まる自意識、自尊心などから発展して、近代社会においては、自由主義、民主主義を生み、契約に基づいた社会関係、立身出世意欲、近代組織、科学などが生まれてくる基盤となっています。

その意味で、人類が近代社会を獲得する過程で、現実と内面、そしてこれらの間の存在の矛盾、というものが必要であった、といえます。

西洋近代のようにこの矛盾が適度に現れてくる場合、社会の近代化に寄与する。ところが現代にいたって、客観的な現実の存在感と主観的な個人的内面の存在感との矛盾が、極端にはっきりしてきています。こうなると、逆に、冷酷な現実から自分の内面だけを守ろうというニヒリズムやエゴイズムが芽生えてきます。これが蔓延すれば社会の基盤が危うくなる恐れがあります(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

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