本章をまとめてみましょう。
私たち人間の身体は、ここに間違いなく現実世界があるかのように感じ取る。ここに現実世界があると全面的に確信する。周りの仲間の動作や表情を見取ってそれが間違いないと確信する。そういう身体になっています。こういう身体であることが人類の進化上有利だったということでしょう。
また一方、私たちはときに、自分だけの感覚、感情あるいは自分だけが持っている知識や考えなど、自分の内面の存在を感じ取ります。自分の内面を自分だけが感じられるものだと感じます。私たちの身体はそうできています。ここはそういう身体であることが人類の進化上また有利であったと考えられます。
人類としての進化の結果(拙稿の見解では)、私たちの身体はこのように、その場での便宜のために、ある場面では現実の存在感を作ったり、また別の場面ではそれと関係なく、内面の存在感を作ったりします。
つまり私たちは、だれもが感じられるものとしての現実と、自分一人だけが感じられる内面とが、当然のごとく、ふたつとも存在する、と感じています。無意識のうちにそう感じるように身体が作動します。そしてまた、私たちは私たちの身体がこのように作動していることを自覚できず、現実と内面が矛盾していることもなかなか自覚できません。ふつういつもは現実がすべてだと思い、ときには内面がすべてのようにも思い、その矛盾に気づきません。
客観的現実世界と個人の感じる主観的内面とが両方ともに存在すると感じられることの矛盾は(拙稿の見解では)、近代的個人の自覚と内省を作り出すことで社会の近代化に寄与したといえますが、現代にいたって、客観的現実の存在感が極限にまで強くなってきたために、個人的内面の存在感が、かえって、個人の孤独感,疎外感を生みだしている、といえます。
現代社会においては、人間としての生活上、いろいろな場面で現実を絶対的に確信し、それに対応して生きることが、まずは有利です。人々と言葉で語り合えば、この現実だけをますます確信することができます。一方、人生においてまれにある場面では、現実に背を向けて、言葉を拒否してでも、自分の内面に深く沈み込む生き方が有利でしょう。人間の身体は、進化の結果、状況に応じてどちらにも適応するようにできあがっています。
現実の客観的な物質世界が個人の内面を作っているのでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っているのでもありません。現実だけが存在している(唯物論)といっても、あるいは内面だけが存在している(独我論)といっても、どちらも矛盾から逃れられない。また現実と内面が両方とも存在しているという二元論は明らかに論理矛盾になっています。
古来、哲学をはじめ科学、文学ばかりでなく私たちの日常会話をも混乱させてきたこれらいずれの考え方も、存在という言葉、あるいは存在感という感覚、に引きずられて間違いに陥っているといえます。むしろ、人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう。
本章で言いたかったことは、そういう人類特有の身体のつくりが、私たちがこうして現実の中に毎日を生きている理由である、ということです。■ (22 私はなぜ現実に生きているのか? end)