哲学の科学

science of philosophy

神仏を信じない人々(11)

2014-07-19 | xxx9神仏を信じない人々

ここで問題は、先に挙げた疑問、「現世的な関心が強くなれば宗教は不要になるのかどうか」に戻ってきます。現世ですることに忙しく、また楽しくて人生に疑問など持つ気になれなければ宗教は必要ないでしょう。そうでない場合に人は孤独になり、不安になる。そのとき宗教があれば、神仏に祈りたくなる。問題を単純化すればそういうことになります。

仲間とともに忙しく楽しい人生をおくっている人々が多数となれば宗教は必要ではなくなる、と言えるようです。そのためには社会が安定し経済が盛んになり科学が普及し、多くの人が不条理のない人生を享受できるような現世が実現することが必要です。先進国ばかりでなく多くの国でこのような社会になっていけるならば、宗教の必要はほとんどなくなるでしょう。

現代でも多くの国では宗教が多数の人々の日常生活に浸透しています。もし仮にこれらの国で宗教を必要としない社会システムが実現したとしても文化として浸透した既存宗教は形骸化しながらも二世代か三世代、つまり百年の単位で存続するでしょう。したがって今世紀中は先に述べた世界の宗教分布はあまり変わらないと予測できます。その後は(拙稿の見解によれば)、世界全体の社会の変化が宗教の状況を変えていくことになるでしょう。

もし仮にそうなるとしても、そのように宗教を必要としなくなった社会に住む人々が全員、宗教とまったく無関係になるわけではありません。現代の日本のように、習俗や習慣として冠婚葬祭、年中行事、しぐさ、あるいは、ことわざ、慣用句などに伝統的な宗教の名残は残るでしょう。また、入学式、卒業式、歓送迎会、年始挨拶、病気見舞いなど、挨拶、儀式の形をとって、幸運祈願、厄除けなど伝統的な神仏の加護を祈る集団的行為も、形態は変化するとしても、衰退することはないかもしれません。これらは人間が仲間との行動を共有し共鳴させるための仕組みとして必要であり続けるからです。

いずれにしろ、神仏を信じない人々が多数を占める社会であっても、それが安定して生産性の高い社会であり続けるためには、過去の時代からある現世的な社会機構だけではなく、伝統的宗教が担ってきた社会的機能のいくつかの部分を代替する新しい社会機構が出現しなければなりません。

それはたとえば、集団の結束を維持するための儀式、挨拶、冠婚葬祭、墓地、過去帳を管理する専門家集団、福利厚生を管理する専門家集団などです。神仏を信じない人々といえども、あるいは神仏を信じない人々であればこそ、これらの機能を保持する堅固な所属集団に守護されることを必要とします。

逆にそのような集団に属すことができないまったくの孤独な環境にある人は、神仏を信じないまま生活することはできないでしょう。

(39 神仏を信じない人々 end)

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神仏を信じない人々(10)

2014-07-12 | xxx9神仏を信じない人々

問題は、ともに生きる仲間がいない場合、たとえば仕事を失った場合、家族と離れてしまった場合、あるいは病気や障害で皆と同じ行動ができなくなった場合、人は孤独になり、元気を失い、誠実さも失いがちです。そのとき神様あるいは仏様に救いを求めることができれば希望を持てるでしょう。

人はいま自分が孤独でない場合でも、孤独な人生を知らないわけではありません。だれにも顧みられない生活を想像すると不安です。エリートのように理想や野心、あるいは金銭欲、出世欲に駆られ、毎日現実の中で戦い抜いているか、あるいは社交や趣味に忙しいか、あるいは家族の生活を支えて忙しい人々はそういう不安は感じることがありません。戦う戦場もなく、強い欲望も野心もなく、社交や趣味の仲間もなく、守らなければならない人もいないような無目的で孤独な人だけがこの不安を持つ。そういう人の割合が人口の中でごく小さければ社会としては無視しておけばよい。しかしこれが二割とか三割以上になったら社会は不安定になります。

そうであるとすれば未来社会の大きな問題は、戦うエリートや社交や家族で忙しい人々以外の、だれにも顧みられない孤独な人々の割合がどこまで大きくなるか、です。いつの時代でも、出世したりお金持ちになったりする人々は少数でしかありません。地位や富を求めて無我夢中で生涯戦い続けられる人々は、多くはないでしょう。あるいは趣味や社交、子や孫の教育、蓄財、社会奉仕などに夢中になれる人々がどの程度いるかという問題です。

現代社会では、大家族が少なくなり、核家族や単身者が多数を占めるようになっています。一緒に住む家族がいない人は孤独になりやすいでしょう。電話や電子メールで別居している家族兄弟や親しい友人といつも話せる人は、単身生活であっても孤独は感じない場合があります。しかしいずれにせよ、過去の大家族や親戚付き合い、村落共同体の時代に生きていた人々に比べれば現代の都市生活者は孤独です。

自分が毎日懸命に生き続けなければならないよりどころはどこにあるのか?神様あるいは仏様が教えてくれないとすれば、だれに教えてもらえばよいのか?分かりません。

そういう感覚を持つ孤独な人たちは、ちょっとしたストレスに耐えられないおそれがあります。学業、就職の失敗や失職、職場や家族の人間関係の軋轢、経済的破綻、慢性的な病気、うつ病、さらにはテレビ、新聞が報じる犯罪や戦争や疫病の心配などにも強いストレスを感じてしまいます。

神仏を信じている人々は、これらのストレスに弱くありません。神仏に見守られている人は、辛いことがあっても嫌なことがあっても、うつ病になったり自殺したりせずに、しっかりと安定した精神状態を保って生き抜いていくことができます。かつて宗教の盛んな時代には、このように神仏のおかげで孤独な人々も救われたでしょう。大多数の人々は神仏に祈ることを通じて種々のストレスから逃れることができた結果、社会の生産性は維持されていたと思われます。

そういう観点からは、現代人が神仏を信じられないということは困ったことだ、といえるでしょう。しかしこれまで述べてきたように、宗教の衰退は、(皮肉なことですが)かつて大宗教を持ちそれを基盤として安定した社会の形成と経済の発展に成功した先進国に共通の現象ですから、グローバリゼーションとともにますます世界的に広く進んでいくと思われます。

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神仏を信じない人々(9)

2014-07-05 | xxx9神仏を信じない人々

一応そうであるとして、次の問題は、この先、将来、人々がますます無宗教となっていくとすれば、それで現代社会は長期的に発展できるのか、いや発展しないまでも持続可能であるのか、という疑問がでてくるということでしょう。神仏を信じないという傾向がこの先も強くなるばかりであるとすれば、次の世代、さらに次の次の世代では、人々の心持ちがどうなっていくのか、という問題です。

まず、現実に徹して人生のゲームを勝ち抜いていこうとする少数のエリートたちは、無宗教のままで問題なさそうです。この人たちは毎日仕事あるいは社会的地位の維持向上のために戦略を練り作戦を実行して、成功したり失敗したりしながら力いっぱい人生を戦い抜いていきます。毎日の競争、戦いが生きがいであり自己肯定の拠り所となっています。

その人生の最後には失敗、敗退、あるいはせっかく手にいれた富や社会的地位が陳腐化してしまう失望を味わうこととなったり、落ちこぼれて社会から消えていったり、高齢化や病気や事故で死んだり廃人になったりして無宗教であるための苦しみを味わうのかもしれませんが、そういう場合は社会へ及ぼす影響が消えるので社会にとっては障害になりません。したがってエリートたちが神仏を信じないとしても、社会がおかしくなる心配はいりません。

一方、戦いを生きがいとするエリートではなくふつうの人として毎日ふつうに勤めを果たしている人口の大多数は、神仏を信じられないとなると、価値観がよく分からない長い人生を生きるのが不安、退屈、あるいは元気が出ない、という気分におちいる恐れがあります。誠実に生きている自分の姿を神様や仏様がお見通しだ、と思えばこそ、誠実に生きるはげみになるというものです。だれも自分の行動を見てくれない、覚えていてくれない、となると、明日の不安を抑えて淡々と誠実に毎日を生きる気がしなくなってくるでしょう。

生産人口の多くが、毎日元気よく働けないとなると社会は甚大な機能低下に苦しむこととなります。もし無宗教が原因でそのような社会的悪影響が生じるとすれば、国境を越えて政治経済がグローバルに連結している現代世界では、宗教が衰退していく先進国ばかりではなく、地球上すべての人々にとって大問題となるおそれがあります。

毎日元気よく働き誠実に生きている私の姿を、神様あるいは仏様が見ていてくれなくては困る。神様たちでなくても、少なくとも仲間が皆認めてくれなくては困ります。毎日協力して働いている仲間たちが私が一緒に働いていることを必要としているに違いない、と思えるとき私たちは誠実になり、元気よく働ける。昔の人達が生きていたころ、それは間違いありませんでした。皆が神仏を信じていたし、互いに仲間の働きを必要としていました。現代でも一緒に働いている仲間たちは互いに互いを必要としています。

一緒に働く、一緒に遊ぶ、一緒に学ぶ、一緒に食事をする、という仲間がいつもいる場合、宗教はあってもよし、なくてもよしというものになるでしょう。

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神仏を信じない人々(8)

2014-06-28 | xxx9神仏を信じない人々

キリスト教をはじめとする偉大な宗教の下に発展した近代文明は科学と経済を成功させて現代に至った結果、皮肉なことに、個人や社会に対する宗教の影響力を最小化しつつあります。人々は、豊かになり知識を増し幸せになるにつれて神仏を信じなくなる。現世を楽しみつくす方向に個人も社会も向かっていくようです。

現代人は、毎日の生活でやるべきことはだいたい決まっている。不確実なことは多いけれどもそれらがなぜ不確実なのか、どのように不確実なのかは、よく分かっています。科学も世の中の常識も、学校で習ったことや書物やマスコミの情報や、なによりも仲間と語り合うことで、現代人は現実の有様について自分の知識に自信を持っています。いくらかは不思議なこともある。しかしそれらの神秘は人間の叡知の限界であろうと言われているらしい。そうであれば、神秘に関心を持つ必要はない。毎日の生活には困らないだけの知識は持っているから、それ以外のむずかしい話は知る必要がない、と思っているようです。

昔から哲学者たちが語っているような人生と世界に関する深淵な難題。愛とか死とか、真実とか真の幸福とか真の正義とか、あの世とか人生の意義とか、宇宙とか時間とか、それはたしかに、まことに神秘ではある、とは思うもののそういうことは考えても答えが見つからないに違いない、と思っています。

そういう答えは分からないままだれもが人生を終えていく。人生がそういうものであれば自分もそうであるしかない。諦めといえば諦めですが、別にそれが残念という程の気もしません。そういうことはそうしておけばよい、と思っています。

こういう現代人は実は多い。自分は無宗教である、とあからさまに言うのは気が引けるけれども、実は神仏に頼って生きているわけではない、ということでしょう。このような人々は現代の科学と経済を下敷きにした現代の常識の上で安心して社会生活をいとなんでいます。周りの仲間、知り合いも皆そうです。その生活感覚から、このような考えを持っているのでしょう。

ちなみに、そのような現代の科学と経済を育んだ近代文明は、その源流に遡れば、中世の宗教的環境から生み出されたものです。そうであれば、宗教は中世におけるその大いなる発展の結果、はからずも、自らを必要としない現代文明を作り出してしまった、という歴史のパラドックスを見ることができます。

さて、現代社会においては、そういうことであるとすれば、神仏を信じない人々が多くなり、宗教を必要としない社会構造がすでに実現している、といえるようです。実際、現代社会は宗教がなくても維持されるのでしょうか?

そのような現代社会に住む個々の現代人も、神仏を信じないままで毎日を過ごし人生を終わっていく人が多くなっていくことになります。もしかすると大事なことが分からないまま死んでいくことになる個々の現代人は、残念な人生だとか、可愛そうだとか、精神的に不幸だ、ということになる。

しかし個々人に関してはそういえるかもしれないけれども、社会全体としてはうまく現状を維持していくことができる。それが現代社会である、といえるようです。

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神仏を信じない人々(7)

2014-06-22 | xxx9神仏を信じない人々

いや、商売繁盛を祈って神社に奉納などする社長は大勢いますから、ビジネスマンが宗教を信じていないとはいえません。まあしかし、会社による奉納や祭事への寄付なども社交や社内行事の一環だったりもします。どこまで宗教的行為であるかは定かでありません。社運を祈って毎朝声明や賛美歌を唱えるとなれば本物でしょうが、日本ではそういう例はあまりないようです。ようするに、ビジネスに熱心な人々は特に宗教を必要としているようには見えない、といえるでしょう。

では次に、ビジネスなど経済活動にはほどほどの熱意しか持たずにのんびりと楽しく趣味や生活を楽しんでいる人々はどうか?最近の若い人には生活エンジョイ派が多いようです。こういう人たちの中には寺社巡りなど好きな人もいます。占いやおみくじや魔除けのペンダントなども買う。彼らは宗教を必要としているのでしょうか?

こういう人たちに、神仏を信じているか、と問えば、信じているという答は出ません。しかし、まったく信じていない、という答にもならない。この世に神仏というようなはっきりしたものがあるとは感じられないけれども、現実とは違うなにか神秘的なものが人生の裏にはあるような気がする、と答える人は多い。運不運など神秘的に決まってくるような気がする。運命には逆らうことができないという気がする。時の運とか巡り合わせというようなものがある、と思う。そういう感覚のようです。

ビジネスに熱心な人々、あるいは生活に熱心な人々、あるいは淡々と日々を送っている人々、それぞれの中に神仏を信じているとはいえない、つまり無宗教に分類される人々がいます。そういう人たちに共通の特徴は、宗教に関心が薄いというばかりでなく、心から神仏を信じている人に対する違和感を強く持っているということです。いわば、自分は宗教よりも現実の現世を信じていたい、という考えを持っているようです。

宗教的であれば現世的ではなくなる。だから宗教には違和感がある、というところでしょうか?現世を肯定したい。天国や彼岸を語って現世を幻と観るような宗教的世界観はきらいだ、と思っているところがある。現世の他には何もない、ということでよい、と思っているのでしょう。現世の他になにか神秘的なところ不可知なところは残るにせよ、知ることができないものは知りたくもない、それよりも今のこの世界だけを相手に生きていきたい、ということでしょう。

我が世誰ぞ常ならむ、とは言われても、だからといってこの世に生きる自分以外に存在感のあるものがあるとは感じられない、という感覚は分かりやすい。現代人のすなおな、主観的感覚でしょう。

このように現世に執着する衆生を宗教の世界に誘い込むために、各宗教は古代から苦心を重ねてきました。古来の聖書経典は、現世だけではだめなのだ、という説得に満ちています。宗教家は哲学を語り、メメントモリ(死を想え)と唱えます( 拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。しかしなかなか現世的な大衆を説得するのはむずかしい。若い男女は今日を楽しみ明日の風を顧みない

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神仏を信じない人々(6)

2014-06-14 | xxx9神仏を信じない人々

神仏を信じてはいないけれども、けっこうきちんと毎日の生活を送っている現代人たち。そういう人たちは、宗教を必要としないのでしょうか?たとえば、宗教が問題としているような魂の救済、あるいは生老病死からの解脱などの必要を感じないのでしょうか?私はどこから来てどこへ行くのか、私は何者なのか、というような、タヒチでゴーギャンが悩んだような、人生の疑問はないのでしょうか?

いろいろなアンケートなどでこういう質問をする調査が、いくつもなされているようです。神仏を信じていない人々がするそれらへの回答は、様々な表現でなされています。

宗教で問題とされるような疑問は持ったことがない、あるいは、そういうことを考えたことがない。考える暇がない。考えても納得のいく答えが得られないことを知っているから無視している。毎日なすべきことをする。したいことをする。というような答えが帰ってきます。

表現はいろいろですが、この人たちはようするに、答えが得られないことを考えてもしかたがないからしない、と思っているようです。もっと先にすべきことがあるので、そちらをする。先にすべきことはいくらでもあるので、結局、永久に宗教に関係する問題は考えることはない。ということでしょう。

この人たちは、宗教に関係するむずかしい問題には簡単な答がないことをよく知っています。なぜよく知っているのか?新聞やテレビや書物で見聞きしているからでしょう。またそういう話題について家族や仲間と話していてだいたいの見当がつくのでしょう。現代の世の中では情報通信が十分発達していて宗教に関係するむずかしい問題についても学者やマスコミのあいだでの評価がすぐ手に入ります。科学者も含めた最高の知識人たちが語っていることを知ればもう十分でしょう。つまり宗教に関係するむずかしい問題には簡単な答がないことが分かるのです。

ところで、分からない問題を後回しにすることは良いとして、先にすべき人生の優先課題とはなんでしょうか?生活を維持すること。お金を稼ぐこと。社会地位を維持すること?ライバルたちとの競争に負けて落ちこぼれにならないこと。仲間から嫌われないこと。軽蔑を買わないこと。なるべくなら尊敬されること。経済的、社会的に落ちこぼれないこと。人生を楽しむこと。享楽奢侈、あるいは勉学あるいは社交に励むこと。ようするに現世的な活動を徹底することです。

ちなみに現世的という語を英語ではセキュラーという。語源のラテン語サエクラリス(saecularis)の原義 は、「時代的」であるが、キリスト教の時代になり転じて「俗世的」となった。俗世的、世俗的、現世的の対語は聖的、宗教的でしょう。現代人は過去の人々に比べてより現世的になっている、といえますが、宗教の衰退との因果関係はどうでしょうか。人々が現世的になったから宗教が衰えたのか?宗教が衰えたから人々が現世的になったのか?

これは裏返せば、どのような条件で宗教が盛んになるのか、という設問にもなりますが、いずれにせよ、拙稿本章としてまず興味深い問題は、現世的な関心が強くなれば宗教は不要になるのかどうかです。たとえば、ビジネスなどの成功を奪い合う戦いにしのぎを削っている人は、宗教にまったく関心を持たないのでしょうか?

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神仏を信じない人々(5)

2014-06-07 | xxx9神仏を信じない人々

日本や欧米でも、ほんの数十年前、一九六〇年代くらいまでは、宗教もある程度はしっかりしていたし、伝統的なカルチャー、慣習などが人々を律する規範として働いていました。男は学校を出たら社会に出て働き、三十くらいまでに結婚して妻子を養う。女は家事を見習ってから二十代で結婚し子を産み育てる。そうすることに理由などなく、そうすべきでした。

その頃は今日から振り返ってみれば、就職、結婚、育児に関して伝統的なカルチャーからくる社会規範がしっかりと社会に根付いていた、といえます。それら人生に関する規範も現代は変化してきています。実際、親たちが疑問もなくそうしてきたことを子の世代はしません。

しかし一方、興味深いことには、昔の規範を守らなくなってきた若い人達が、自堕落になっているとか、享楽的あるいは退廃的になっているかというと、そうではありません。朝はきちんと起きる。きちんと顔を洗い、歯を磨きます。清潔な服装を身につけて、遅刻せずに職場に出勤し、さぼったりせずに遅くまで仕事をする。旅行やスポーツを大いに楽しみますが、貯金もします。筆者などが観察するに、今の年寄りが若かったころよりも今どきの若い人たちのほうがまじめな生活を送っています。

昔の人たちが重要だと思っていたモラルや規範は、現代、薄れてきているけれども、人間のさらに根本的な生活の態度、姿勢というものは崩れていない。むしろ、しっかりしてきている、といえるようです。

人生で何が重要であるのか?昔の人と今の人は感覚が違う、とよくいわれるとおりなのでしょう。

伝統的宗教や聖人君子の教えが語ってきたところと違う感覚で、真摯に誠実に、現代人は生きている、ともいえます。神をも仏をも信じているわけではないけれども、また論語や人生訓を暗唱しているわけではないけれども、毎日なすべきことはよく知っている。人生の目指すべきところをしっかり語れるというわけではないけれども、今日することはよく分かっている。それが現代人の特徴なのでしょう。それでよいのか?それは間違いだと叱るべきなのか?意見の分かれるところです。

若い現代人の生活感覚に関して、特に興味を惹かれるところは、そういうことで困ったことになっているとか、かわいそうだ哀れだ、という論評が、知識人や老人からは発せられることがあるにしろ、若い人たちの間ではそういうことは問題にされていないように見えることです。

伝統的宗教や聖人君子の教えや家訓や人生訓などは知らない、知りたくもない、興味ない。ということでしょう。当然、神仏を信じることもありません。それがなにかいけませんか?とはあえて言いませんが、そんな感覚でしょう。

朝はきちんと起きる。きちんと顔を洗い、歯を磨く。清潔な服装を身につけて、遅刻せずに職場に出勤する。それは聖書経典や論語や人生訓を実行するからそうするのではなくて、そうするほうがしないよりずっと気持ちがよいからです。

あえて言えば、そういう理由でしている。熱心に仕事をし、もらった給料は大切にして、倹約し貯金もする。そうするほうが気持ちがよいのです。行列に割り込んだりしないし、財布を拾ったらすぐ届ける。そうするほうが安心で心が休まるからです。少しくらいお金や地位を入手する機会が少なくなっても、不快な気持ちになることを避けようとすると、そういう動きになります。

そういうことであるとすれば、こういう人たちの行動傾向は、マナーがよいといえばマナーがよい、モラルを守っているといえばモラルを守っているとも言える。しかし神仏の教えとは関係がないでしょう

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神仏を信じない人々(4)

2014-05-31 | xxx9神仏を信じない人々

そうであれば、宗教が教えていることはもっともだと思うはずですから、宗教の教えを受け入れても問題はなさそうにみえますが、実際は受け入れない。信者になりません。なぜでしょうか?

それは、モラル以外の面で、宗教が嫌いな理由があるのでしょう。たとえば、抹香臭いのはごめんだとか祈祷が嫌いだとか、神学や教条が信じがたいとか。権威主義的なところが怪しいと思う、とか。受け入れないということは、取り込まれたくない、ということでしょう。

芸術としては百済観音もミケランジェロのピエタも、バッハのマタイ受難曲も、この世のものとは思えない天上界の美を感じさせるとは思うものの、それだから宗教が正しい、とはいえないでしょう。

宗教が教えてくれるようなこの世やあの世の作られ方も本当かどうか知りたいとは思うものの、科学と矛盾するような話は信じられないし、宗教家が真実を知っているという話も本当と思えません。科学が解明できていないことはたくさんあるらしいし、いつまでたっても解明できないことも多いだろうけれども、そういうことは科学者以外の宗教家でも文学者でも哲学者でも解明できないように思えます。

不可知論というか、人知のおよばない、言葉で語ることができないところに人生の根本がある、と思いたくなる。その根本的なところは、知りたくないわけではないけれども、どうせ知ることはできないし、考え込んでも間違った結論しか得られないだろうから、考えようとは思わない。つまり実人生においては敬遠して捨てておけばよい。そう思っている人々がたくさんいるということでしょう。

無宗教であるが現実に徹する人々ではないとされる人々の中には、かなりの割合で、実質的に、このようないわゆる不可知論に与する人がいるようです。

人生の一番大事な所はだれにも分からない。神父さんにもお坊さんにも、先生にも学者さんにも分からないだろう。分かっているように言う人は間違えているか、知ったかぶりをしている。ということになります。

個人の人生でも、一番大事な所はだれにも分からない。永久に分からない。となると、今何をしたらよいかも分からない。昨日したことがよかったのかどうかも分かりません。私が死んだあとも永久に分からないということになります。倫理もモラルも確信できない。そういう点では何事に関しても自信を持つことができませんね。

そのような人が現代の日本や北欧では増えているのでしょうか?

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神仏を信じない人々(3)

2014-05-24 | xxx9神仏を信じない人々

神仏を信じているとは言えないが、いわゆるモラル、道徳心、公共心はしっかりとある人々。これらの人々は、暗黙のうちに身に付いた習慣、文化、嗜好、などから構成されるモラル、あるいは他人指向規範、あるいは伝統指向規範などに類するモラルを持っているのでしょう。そういう人々が多いとしても社会の規律はしっかり守られますから生産性の高い安定した社会を維持することは可能でしょう。

日本の例を見ても分かるように、安定した社会の維持という観点からは、無宗教な人々が多いことは致命的な問題ではなさそうです。ただし、宗教は社会の維持という機能だけを期待されているとは言えません。

個々の魂の救済、という表現が、宗教の役割としていわれます。個人の内面の問題、感情、精神的苦痛、幸不幸、運不運、人生の意義、あるいは人間としての理想的生き方、死後の世界への不安、など社会が立派であっても解決しきれないような悩みに対応する救済を宗教は用意するものと期待されています。

宗教は聖書経典、牧師僧侶の説教、教育、逸話、伝説などを通して個人の悩みに答えてくれます。それでは無宗教な人々は、これらの問題にどう対応しているのでしょうか?

まず、拙稿32章で議論した「現実に徹する人々」は、内面の悩みなど持たないでしょう。彼らはすべての問題を現実の問題として処理してしまうと思われます。

拙稿本章で興味があるのは、現実に徹することのないその他の人々です。この人たちは、宗教以外の手段でうまく内面の悩みを解決しているのでしょうか?

雑誌の占いを見る。インターネットを覗いて同じような悩みを持つ人の書き込みを読む。友達にメールする。話す。映画を観る。ゲームをする。やけ酒を飲む。パチンコに行く。海外旅行に行く。

教会や寺社に行く代わりに、こういうことですませるのでしょうか?

それとも、日頃の行いを正しく、モラルを守り誠実に生きていれば、不運を避けられて幸福が手に入る、と思っているのでしょうか?人のものを盗ったり、人を欺いたりして自分だけ料金を払わずに快適な列車にただ乗りするということはしたくない。真面目に働いてそれに見合うお金をもらえればそれで十分、と思っているのでしょうか?もしそうであれば、なぜ、そう思うのでしょうか?

神仏の教えに従っているというのでなければ、なぜそうするのでしょうか?

現実に徹する人々が考えているとおりであれば、現実には、個人が誠実にモラルを守るからといってそれがその人を幸福にするとは限らない。むしろモラルを守るコストをかけずに自分だけ抜け駆けし計略によって目的を達するほうが幸福を達成しやすい、となります。

現実に徹する人々のそういう考え方は、実は、現実に徹しない人々も知っていますが、そういう考え方は採らない。誠実に生きていることが大事であって、その結果として幸福になればよし、なれなくても残念でしたと諦められる。そういう考え方を持っているようです。そういう考え方は聖書経典あるいは説教で教えられたというよりも、若い頃からそう思っているようです。「人を信じて自分も信じられたい」というようなことをいいます。これも教えられたからそう思うというよりも、自然にそう思う、というようです。

こういう人々は宗教が教えるモラルを、はじめから納得しているということでしょう。宗教が教えているモラルを言葉で聞く前に、そのモラルが身についている、といえます。

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神仏を信じない人々(2)

2014-05-18 | xxx9神仏を信じない人々

日本ばかりではなく、世界中にこのカテゴリーに分類される人々は数多いようです。これらの、現実に徹する人々ではなくて無宗教の人々、はどういう人たちなのでしょうか? 拙稿32章では現実に徹した人々を研究してみましたので、本章ではこちらに興味を移して、現実に徹しないが無宗教である人々、を分析してみましょう。

これらの人々は、現実に徹する人々とはかなり違います。神仏を信じているとは言えないが、いわゆるモラル、道徳心、公共心はある。むしろかなりあります。家族や友人、仲間を大事にして、所属集団には献身的でもあり、知らない人にも親切です。交通ルールは守る。嘘をついて人を騙したりしない。財布を拾えば人が見ていなくても届け出る。

このような人々の行動規範は、無宗教であることと矛盾しているとはみなされていません。

日本人は恥の文化を持つ、という理論(一九六七年 ルース・ベネディクト「菊と刀 」)が米国の文化人類学者によって唱えられましたが、日本人自身も、自分たちの倫理感覚を、義理人情、あるいは、お天道様に恥ずかしくないように、というような言葉で表現しています。このような倫理観は宗教とあまり関係がないように観察されています。

拙稿32章で議論した「現実に徹する人々」は、宗教を無視し、モラルも無視しています。しかし、現実に徹する人々以外で宗教を無視するがモラルはかなり厳しく守る人々がいる。これは不思議な現象なのか?

そもそも宗教とモラルはどちらが先なのか?

道徳を教える教科書と道徳はどちらが先にあったのか?

倫理学と倫理はどちらが先にあったかといえば、倫理が先でしょう。少なくとも集団の規律を保つ規範がなければ社会は成り立ちません。社会集団の維持に必要なモラルは宗教よりも先にあった。さらにあとから法律や契約ができたといえるでしょう。むしろモラルを説明し教育するために宗教が現れた、といえます。

そうであれば、モラルを説明する必要がない場合には、宗教がなくモラルだけがある、という状況があり得る。一体、モラルというものは説明が必要なものなのか?子供にモラルを教える場合、黙ってぶん殴ればそれでも躾はできる。体罰はいけないとなると、口頭で教え諭すことになります。比喩、例え話、伝説、言い伝えなどいろいろ教えたくなるでしょう。そのとき聖書経典があればそれの一節を読み聞かせたりします。教育の道具として便利ではある。

聖書経典、あるいは神話伝説を使わずに、教え諭すこともできます。「人に笑われるよ」、「人が見ているよ」と日本人はよく言います。これをもって、日本は恥の文化だ、という説も生まれたのでしょう。他人指向規範ともいえます。

また「おじいちゃんの代から、こうやるものと決まっているのだ」とか、あるいは理由は言わずに「こういうときはこうするものとなっているの」と決めつけるやり方など、いろいろな場で実践されています。伝統指向規範と呼ぶことができます。

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