ここで問題は、先に挙げた疑問、「現世的な関心が強くなれば宗教は不要になるのかどうか」に戻ってきます。現世ですることに忙しく、また楽しくて人生に疑問など持つ気になれなければ宗教は必要ないでしょう。そうでない場合に人は孤独になり、不安になる。そのとき宗教があれば、神仏に祈りたくなる。問題を単純化すればそういうことになります。
仲間とともに忙しく楽しい人生をおくっている人々が多数となれば宗教は必要ではなくなる、と言えるようです。そのためには社会が安定し経済が盛んになり科学が普及し、多くの人が不条理のない人生を享受できるような現世が実現することが必要です。先進国ばかりでなく多くの国でこのような社会になっていけるならば、宗教の必要はほとんどなくなるでしょう。
現代でも多くの国では宗教が多数の人々の日常生活に浸透しています。もし仮にこれらの国で宗教を必要としない社会システムが実現したとしても文化として浸透した既存宗教は形骸化しながらも二世代か三世代、つまり百年の単位で存続するでしょう。したがって今世紀中は先に述べた世界の宗教分布はあまり変わらないと予測できます。その後は(拙稿の見解によれば)、世界全体の社会の変化が宗教の状況を変えていくことになるでしょう。
もし仮にそうなるとしても、そのように宗教を必要としなくなった社会に住む人々が全員、宗教とまったく無関係になるわけではありません。現代の日本のように、習俗や習慣として冠婚葬祭、年中行事、しぐさ、あるいは、ことわざ、慣用句などに伝統的な宗教の名残は残るでしょう。また、入学式、卒業式、歓送迎会、年始挨拶、病気見舞いなど、挨拶、儀式の形をとって、幸運祈願、厄除けなど伝統的な神仏の加護を祈る集団的行為も、形態は変化するとしても、衰退することはないかもしれません。これらは人間が仲間との行動を共有し共鳴させるための仕組みとして必要であり続けるからです。
いずれにしろ、神仏を信じない人々が多数を占める社会であっても、それが安定して生産性の高い社会であり続けるためには、過去の時代からある現世的な社会機構だけではなく、伝統的宗教が担ってきた社会的機能のいくつかの部分を代替する新しい社会機構が出現しなければなりません。
それはたとえば、集団の結束を維持するための儀式、挨拶、冠婚葬祭、墓地、過去帳を管理する専門家集団、福利厚生を管理する専門家集団などです。神仏を信じない人々といえども、あるいは神仏を信じない人々であればこそ、これらの機能を保持する堅固な所属集団に守護されることを必要とします。
逆にそのような集団に属すことができないまったくの孤独な環境にある人は、神仏を信じないまま生活することはできないでしょう。
(39 神仏を信じない人々 end)