もしそうでないとすれば、身体内外の環境や過去の経験記憶だけではなく、なにか現在の私自身に固有の気持ちや考えというものがまずあって、それが私の行動を引き起こしている、ということになる。どちらが正しいのか?いや、どちらが正しいかという問題ではなくて、これはものの見方の違いなのかもしれない。
もしそれが、ものの見方の違いであるならば、拙稿としては簡単に分かりやすいほうに理論を作ってみたい(こういう考え方を哲学では「オッカムのかみそり」などという)。自動的に身体は動く、とするほうが、私自身に固有の気持ち、という概念は使わないですむので理論は簡単になる。たしかに私たちの直感では、私自身に固有の気持ちや考え、というものがあるような気もしますが、その問題は後で考えることにして、ここでは仮に、そういうものはない、として話を進めてみましょう。
拙稿がこれから使おうとしている仮説によれば、私が私の気持ちや私の考えだと思っているものは、身体周辺の環境から受ける視覚、聴覚、嗅覚など五感のほか身体内部から感じ取る体性感覚、内臓感覚などからくる信号を受け取り、それらに対応して記憶として保存されている過去の学習経験やシミュレーションが再生され、それらから自分の身体の現在の状態を推定し、またこれからの動きを予測して、それを自分の気持ちとして受け取っているものである、となります。
朝起きると眠い。身体がだるい。夕べ夜更かしが過ぎた。ベッドから出たくない。この気持ち。この怠惰な気持ちはどこから来るのか?
やはりこれは身体が眠っているからでしょう。身体が眠っているのに、予定時間にあわせて起きだしててきぱきと動こうとするとこうなる。心では、早く身支度しなくては、と思っていても着替える気分にならない。身体が抵抗している。自律神経系が眠っているわけです。
こういう場面、私の気持ちは私の身体の状態から来ている、と分かる。
すこしでも眼を覚ますために、コーヒーを沸かして飲む。私はコーヒーを飲みたいから豆をひいてコーヒーを沸かすのでしょう。別にコーヒーを沸かさずに、冷蔵庫からアイスティーを出して飲んでもいいわけですが、なぜか、今朝の私はコーヒーを沸かしている。なぜかな?
私の身体が熱いコーヒーを欲しているらしい。その証拠に、一口含んだとき、思わず「おいしい」とつぶやいてしまった。特にこの淹れたての、スターバックスのエスプレッソはおいしい。しかし、いまなぜそれがおいしいのか? そこは答えられない。身体がそれをおいしいと感じるから、というだけ。
他人がこの私を見ていたら、どう思うか? 朝は忙しいのにわざわざ豆をひいてコーヒーを沸かしている。一口飲んで「おいしい」とつぶやいてにやりと笑う。こいつはよほどコーヒーが飲みたかったらしい、と思いますね。このことは、自分で自分を観察しても同じでしょう。私はよほどコーヒーが飲みたかったらしい、と自分自身、思う。
コーヒーを飲みたかったからコーヒーを沸かしたのか? それとも、コーヒーを沸かしたからコーヒーを飲みたかったのだと思ったのか?
起き上がってもまだ眠い。そういう状況で、身体が反射的に動いていつのまにかコーヒーを沸かそうとしている。朝の状況では、よくあることです。家族はまだ起きてこないし、毎朝している同じことの繰り返しだし、という状況だと、こういう行動はほとんど無意識で行われている。こういう場合、私は、コーヒーを飲みたかったからコーヒーを沸かしたのか? それとも、コーヒーを沸かしたからコーヒーを飲みたかったのだと思ったのか? という問題です。
拙稿で採用している先の仮説によれば、私が私の気持ちだと思っているものは、自分で自分の身体の動きに関する情報を感じ取って、その情報からその心を推定して分かるものである。そうであるとすれば、私は、コーヒーを沸かした自分の身体の動きを感じ取って、そこから自分というこの人間はコーヒーを飲みたかったのだと推定したわけです。つまり、他人がコーヒーを沸かして飲もうとしているのを私が見て、その情報からその人はコーヒーを飲みたいのだと私が思うのと同じ仕組みで、私は自分という人間の気持ちを推定する、ということです。