哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(2)

2009-10-24 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

もしそうでないとすれば、身体内外の環境や過去の経験記憶だけではなく、なにか現在の私自身に固有の気持ちや考えというものがまずあって、それが私の行動を引き起こしている、ということになる。どちらが正しいのか?いや、どちらが正しいかという問題ではなくて、これはものの見方の違いなのかもしれない。

もしそれが、ものの見方の違いであるならば、拙稿としては簡単に分かりやすいほうに理論を作ってみたい(こういう考え方を哲学では「オッカムのかみそり」などという)。自動的に身体は動く、とするほうが、私自身に固有の気持ち、という概念は使わないですむので理論は簡単になる。たしかに私たちの直感では、私自身に固有の気持ちや考え、というものがあるような気もしますが、その問題は後で考えることにして、ここでは仮に、そういうものはない、として話を進めてみましょう。

拙稿がこれから使おうとしている仮説によれば、私が私の気持ちや私の考えだと思っているものは、身体周辺の環境から受ける視覚、聴覚、嗅覚など五感のほか身体内部から感じ取る体性感覚、内臓感覚などからくる信号を受け取り、それらに対応して記憶として保存されている過去の学習経験やシミュレーションが再生され、それらから自分の身体の現在の状態を推定し、またこれからの動きを予測して、それを自分の気持ちとして受け取っているものである、となります。

朝起きると眠い。身体がだるい。夕べ夜更かしが過ぎた。ベッドから出たくない。この気持ち。この怠惰な気持ちはどこから来るのか?

やはりこれは身体が眠っているからでしょう。身体が眠っているのに、予定時間にあわせて起きだしててきぱきと動こうとするとこうなる。心では、早く身支度しなくては、と思っていても着替える気分にならない。身体が抵抗している。自律神経系が眠っているわけです。

こういう場面、私の気持ちは私の身体の状態から来ている、と分かる。

すこしでも眼を覚ますために、コーヒーを沸かして飲む。私はコーヒーを飲みたいから豆をひいてコーヒーを沸かすのでしょう。別にコーヒーを沸かさずに、冷蔵庫からアイスティーを出して飲んでもいいわけですが、なぜか、今朝の私はコーヒーを沸かしている。なぜかな?

私の身体が熱いコーヒーを欲しているらしい。その証拠に、一口含んだとき、思わず「おいしい」とつぶやいてしまった。特にこの淹れたての、スターバックスのエスプレッソはおいしい。しかし、いまなぜそれがおいしいのか? そこは答えられない。身体がそれをおいしいと感じるから、というだけ。

他人がこの私を見ていたら、どう思うか? 朝は忙しいのにわざわざ豆をひいてコーヒーを沸かしている。一口飲んで「おいしい」とつぶやいてにやりと笑う。こいつはよほどコーヒーが飲みたかったらしい、と思いますね。このことは、自分で自分を観察しても同じでしょう。私はよほどコーヒーが飲みたかったらしい、と自分自身、思う。

コーヒーを飲みたかったからコーヒーを沸かしたのか? それとも、コーヒーを沸かしたからコーヒーを飲みたかったのだと思ったのか?

起き上がってもまだ眠い。そういう状況で、身体が反射的に動いていつのまにかコーヒーを沸かそうとしている。朝の状況では、よくあることです。家族はまだ起きてこないし、毎朝している同じことの繰り返しだし、という状況だと、こういう行動はほとんど無意識で行われている。こういう場合、私は、コーヒーを飲みたかったからコーヒーを沸かしたのか? それとも、コーヒーを沸かしたからコーヒーを飲みたかったのだと思ったのか? という問題です。

拙稿で採用している先の仮説によれば、私が私の気持ちだと思っているものは、自分で自分の身体の動きに関する情報を感じ取って、その情報からその心を推定して分かるものである。そうであるとすれば、私は、コーヒーを沸かした自分の身体の動きを感じ取って、そこから自分というこの人間はコーヒーを飲みたかったのだと推定したわけです。つまり、他人がコーヒーを沸かして飲もうとしているのを私が見て、その情報からその人はコーヒーを飲みたいのだと私が思うのと同じ仕組みで、私は自分という人間の気持ちを推定する、ということです。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(1)

2009-10-17 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

(21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?  begin) 

 21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?

飛騨の山奥にキコリがいました。オノで木を切っていると、黒い毛むくじゃらのサルのようなケモノがこちらをうかがっています。キコリは、襲ってくるかもしれない、と思いました。するとケモノは言葉をしゃべって、「襲ってくるかもしれない、と思ったな」と言いました。キコリは化け物が出たと思って、逃げ出したくなりました。するとケモノは「化け物が出た、逃げ出したい、と思ったな」と言います。キコリは、あまりの不気味さに何も考えられなくなって、意味もなくオノを振るって木に切りつけました。オノは節目に当たって、木の破片が飛び出し、ケモノの顔に当たりました。ケモノは「思わぬことをするやつは怖い」と言って、逃げていったそうです。サトリという化け物の話です。

私の気持ちが、筒抜けだったら気味が悪い。

だれにも知られたくないこの気持ち。

そう。しょせん私の気持ちは私にしか分からないもの。

と、私たちはいつも思っている。

だが、と考えてみましょう。私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? そして私はなぜ他人の気持ちが分からないのか? 

私はなぜ、他人の気持ちが分からないのに自分の気持ちは分かると思うのか?

この、私が私の気持ちだと思っているこれは、本当に私の気持ちなのか? まさか他の人の気持ちじゃないですよね。他の人の気持ちは私に分かるはずがないから、これは私の気持ちに違いない。しかし、なぜ私は、他の人の気持ちが分からないのか? 

そんなことはあたりまえだろう、と読者はお思いになるでしょう。自分で自分の気持ちが分かるのはあたりまえ。他人の気持ちが分からないのもあたりまえでしょう。それはまさにそのとおりなのですが、なぜそうなのか、その理由は? と問われると、私たちはうまく答えられない。科学者は答えられるのか? 答えられません。心理学者は答えられるのか? 答えられません。哲学者なら答えられるのか? ぜんぜん答えられません。

私たちは、自分の気持ちというものが分かる。当然のことです。ですが、ここでは、仮にそこから疑ってかかってみましょう。

私たちは、本当に自分の気持ちが分かっているのか? 気持ちが分かるということは、いったいどういうことなのか? という疑問を、拙稿本章では、考えてみたいと思います

自分で自分の気持ちを見つめることを、心理学や哲学などの言葉では、内観といいます。その、内観とは何か、と正面から質問されると、実は、心理学でも哲学でも、明快な答えはできません。実際、内観というものが存在するか否か、は現代哲学の論争になっています(二〇〇九年 ピーター・カルーサーズ『私たちはどのようにして自分の心を知るのか:読心法とメタ認知との関係)。内観は存在しないという理論によれば、人間は他人を外部から観察してその心を推測する(心の理論を使う)場合と同様の仕組みを使って、自分の心というものを観察して自分が何を考えているのかを推測している、ということになります。

昼食にネギラーメンを選んだのは、本当にそれをモヤシラーメンより食べたかったからなのか?それとも、メニューの中で、「ネギラーメン」という文字が「モヤシラーメン」という文字よりも目立つ場所に書いてあったからだけなのか?

その「ネギラーメン」という文字が、たまたま目玉のふらつきによって、はじめに眼に入ってきて、つい読んでしまったからではないのか?読んでしまったので「ネギラーメン」とつぶやいてしまったからではないのか?「ネギラーメン」とつぶやいた拍子につい「おいしそうだな」と付け足してつぶやいてしまったからではないのか?

私はネギラーメンが食べたい、と思い込んでいるのは、もしかしたら、自分の考えではない別の理由でついネギラーメンを選んでしまったからそう思い込んでいるだけなのではないだろうか? 大学を選ぶときも、就職先を選ぶときも、マンションを選ぶときも、手術を受ける病院を選ぶときも、そういうものなのかもしれない。

そうだとすると、自分の考えとか自分の気持ち、とかいうものは、いったい何なのだろうか? そんなものは実は存在しないのではないだろうか?という疑問が出てきます。

心理学の実験によれば、似たような見掛けの(実は同一商品の)四足のストッキングを並べられて、好きなものを選ばせられると、被験者は右手に近いところに置かれたものをとる傾向が強い。しかし、それを選んだ理由を問われた被験者の答えは、全員が、自分の好みを選んだ、というものになる。被験者は「こちらのほうがソフトな感じで好きなのよ」などと答えるのです(一九七七年 リチャード・ニスベット、ティモシー・ドカン・ウィルソン『分からないことまでしゃべってしまう』)。

そして私たちは、いったん自分で口にしてしまうと、それが自分の考えだと信じて疑わない。それはしかし、私たちが、「自分の口がそれをしゃべったということは、自分がそれを考えたからに違いない」と思い込んでいるからかもしれない。人間にはどうもそういう傾向がある。シュプレヒコールとか、軍隊の命令復唱とか、そういう原理を利用したものでしょう。

人間は考えてから考えたとおりに動く、と私たちは思っています。コーヒーを飲もうと思ってコーヒーを飲む。ミルクを飲もうと思って、ミルクを飲む。あたりまえですね。

では、生まれたばかりの赤ちゃんはミルクを飲もうと思ってお母さんのおっぱいに吸いついているのか? どうも赤ちゃんは自分がミルクを飲もうとは思っていないようです。赤ちゃんは何も思わず、ただおっぱいに吸いついている。

人間以外の動物を観察すると、その動きは考えて動いているようには見えない。子牛は母牛の乳房から牛乳を飲もうと考えて乳房を吸うのか? 蝶々は、蜜を吸おうと考えて花にとまるのか? インフルエンザウイルスは増殖しようと考えて人体に侵入するのか? どうもそうではない。自動的にそう動くように生物の身体が作られているだけでしょう。

人間だけがコーヒーを飲もうと思ってコーヒーを飲む。どうもおかしいですね。

人間の動きも、ほかの生物と同じように、身体が自動的にそう動くように作られているからそう動くのではないか? すくなくとも、そうだとするほうが話は簡単です。拙稿本章では、いちおう、この考え方を仮説として採用してみます。私たちの行動は、私たちの身体の具合だとか身体内部の状態、過去の記憶、それと、いい匂いがするとかいう身のまわりの環境からくる感覚だけで無意識に機械的に決まってしまう。 そのたびに少し違う行動をとったとしても、それは機械的なゆらぎのようなものにすぎない。とりあえず、そういうことだとしましょう。 

そして、そうして機械的自動的に決まった自分の行動を見て、私たちは、後から理由をつけて自分で決めたことにしているのである、としましょう。 

もしそうであるとすれば、私が自分の気持ちだと思っているものは何なのだろうか?

自分の気持ちというものは、私たちの身体がどう動くかを自分で観察することから逆にさかのぼってその原因として想像されるもの、ということになる。あるいは、身体が動く前であっても、これからどう動いていきそうか、というシミュレーションから来る予測を使って、その原因となりそうな気持ちを想像して、それを私たち自身の気持ち、と思い込む。

その気持ちをその行動を起こす原因となる欲望、意志あるいは意図と思い込む。そういう仕組みが私たちの脳には備わっていることになる(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。

逆に言えば、欲望、意志あるいは意図といわれるものは、そういう仕組みで現れてくる錯覚の一種である。先ほど仮に設けた拙稿本章の仮説を進めれば、そういうことになる。

しかしさて、本当に、そうなのでしょうか?

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私はなぜ息をするのか(20)

2009-10-10 | xx0私はなぜ息をするのか

たとえば、私の身体に対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ひいきのサッカーチームに対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ペットが死んでしまったときの私の悲しさは、目に見えるこの現実世界の中にはない。私の背中のこの痒いところからくるイライラ感は、目に見えるこの現実の物質世界にはない。こういうものは、この現実の物質世界とはあまり関係がない。この現実世界よりもずっと大きな世界にある。いや、大きな世界にある、というのは正確な言い方ではない。こういうものは、人々と共感することがむずかしい。共感できないものは世界ということもできない。

それは比喩や想像を使って人々と共感できるような架空の世界といえるものでもない。ただ、私の身体がそれをかなり強烈に感じる、というだけのことです。人と共感できないものは、言葉で語ることは不可能というしかない。言葉で語れないものを語ろうとすれば、かならずおかしな表現になる。

たとえば認知科学で、自分だけしか感じられないと思われる生々しい感覚そのものの存在を問題にする議論がある(クオリア論など、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出、一九八二年  フランク・ジャクソン随伴現象クオリア』既出)。「私が感じている赤色は、あなたが感じている赤色とは違うかもしれない」という問題などです。赤色を感じるときの感じとは何か? 私たちが人と共感できることは、赤色という色は赤い、と言葉で言えることだけです。赤色の感じについて言葉で語れることはそれしかない。赤色の感じそのものについては、私たちはうまく語れない。

語れないことを語ろうとすると、この世には科学で説明できない不思議なものが存在することになってしまう。人とは通じない感じがあるとしても、それを言葉で言うことはできない。実際、人と共有できないけれども感じられるという物事はたくさんあります。

そういうものを安易に語ってはいけない。言葉で語れないものを語れると錯覚するところから、私たちは間違ってくる。先にも繰り返し述べましたが、人生の問題、さらには哲学の難問題は、言葉で語れないものを言葉で語ろうとするところから起こっている。自分の動きを人(仲間集団)の目で見取ろうとするから、それらは起こってきます。

それでも、こういうものは、目に見える現実世界よりも重要ではないとはいえない。まして、こういうものは、語れないからという理由で無視すべきだ、などと考えてはいけない。ここらへんに気をつけないと、またさらに別の間違った哲学にはまりこむ。

現実よりも大きなものがある。現実よりも深いところで現実を作り出しているものがある。それは、すべての存在とすべての現実とそれ以外のすべてを含む。それは(拙稿の見解では)、現実を作り出している私たちの身体の動きでしょう。人(仲間の人間)の身体と共鳴して動くそれ(拙稿の用語で運動共鳴)がすべてを作り出している。そこから出発しなおすことで間違った哲学から抜け出すことができるのではないか、というのが拙稿の予想ですが、いかがでしょうか?

私はなぜ息をするのか?

私はなぜ私が息をすると思うのか?

それは、私の身体が人の身体と共鳴して息をするからである。

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(20 私はなぜ息をするのか? end

→(21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?)

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私はなぜ息をするのか(19)

2009-10-03 | xx0私はなぜ息をするのか

さて、最後にまた本章のテーマに戻りましょう。

私はなぜ息をするのか?

私はなぜ私が息をすると思うのか?

それは私たちの予測装置がそれを予測するからである。息をする運動を意識するから、私は私が息をすると思う。息をすることを言葉で言えるから、私は私が息をすると思う。息をする身体という物質の変化を科学で表現できるから、私は私が息をすると思う。

私は息をする。それは私が感じ取る現実である。つまり、私たちの身体に備わった(それぞれの)予測装置がうまく働くとき、その装置に乗って動き回る経験を指して、私たちは、(それぞれの)「現実」というのでしょう。

ここで重要なことは、このような現実の作られ方を私たちは直感ではまったく感じ取ることができない、ということです。複数のいろいろな現実が現れることがある、ということも直感では感じられない。それらの現実がときには矛盾することも、私たちの直感は感じ取れない拙稿19章「私はここにいる」)。むしろ私たちの直感では、現実はただ一つしかない。そして完結している、と感じられる。

私たちにとって現実は、はっきりとここにそれがある、としか感じられません。逆に言えば、そうでなければ困ったことになってしまう。現実が唯一でなければ、私たちは確信を持って身体を動かすことができませんからね。

私たちは、自分が感じる内部感覚や感情を、目の前に見える現実世界の一部であるように見える私たち自身の身体という物質に貼り付けて感じ取る。この身体という物質がそれらの内部感覚や感情を発生している、と感じる。内部感覚や感情ばかりでなく、見えるものも聞こえるものも、自分のこの身体という物質が感じている、と思っています。たしかに、感情が高ぶって涙が出るのはこの目だし、その目をつぶればものは見えない。この耳をふさげば音は聞こえない。

しかし結局、(拙稿の見解では)それはそういう理屈でそう思うのではなく、身体でそう感じる。つまりそういう運動感覚シミュレーションがうまく物事を予測できるから、私たちの直感はそう感じるように学習した。運動出力と感覚入力がうまくシミュレーションにあわせ込める。そのマッチングのシミュレーションに使える物質世界の対象物を、私たちは、自分の身体と思う。そうしてとらえた自分の身体を使いこなす感覚が身についてくる。使いこなしていく自分の身体に慣れ親しんできます。

幼児のころから慣れ親しんできたこの身体を、いつのまにか私たちは、お気に入りのゲームの主人公のように、ひいきのサッカーチームのように、愛玩するペットのように、愛するようになる。

私たちは、お気に入りのゲームの主人公の動きを、ひいきのサッカーチームの動きを、そして愛玩するペットの動きを注目する。そうすると、それが何をしようとしているかが予測できる。その予測によってそれがしようとしていることを、それの欲望と感じる。その、お気に入りのゲームの主人公の、ひいきのサッカーチームの、そして愛玩するペットの、欲望が、私たちの欲望になる。それと同じ仕組みで、私たちは私たちの身体の欲望を私たちの欲望と思い込む。そしてその身体がするであろうと予測される行為を私たちの意志と思う。

目に見える自分の身体を、ペットのように愛する。それを世界の中心と思うようになる。そうして、客観的で冷たい無機質な物質でできている身の回りの現実と生臭い自分の身体が発する感情との間のギャップに悩んだりする。それを高尚なことだと勘違いすると、間違った哲学になります。

テレビに向かっていくら声援を送っても、それとは無関係にチームは負けてしまう。ペットをどこまでも愛したとしても、それは生物体として、自然に死んでしまう。自分の身体という物質を、私たちがどこまでも愛したとしても、やはりそれは生物体として、自然に死んでしまうのです(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。客観的な物質世界の現実は、私たちの内部の感情とは無関係に動いているからです。そのことは、私たちはよく知っている。大人になった人間は、それを知りすぎるほど知っています。

それでも、それにもかかわらず、やはりそういうとき、私たちはやりきれないむなしさを感じることがある。目の前のこの現実が、なにかうそっぽい幻のようなものに思えてくる。こういうとき私たちはだれもが、この目の前にある客観的世界だけが唯一の現実だという間違った哲学に冒されている。

私たちの身体がその一部になっていると思えるこの客観的現実世界は、(拙稿の見解では)実は私たちの身体が作り出している。人間の身体が仲間の動きと共鳴することで映し出されてくる現実という虚構の世界です。

そのことに私たち自身は気がつくことがない。自分の身体のこの仕組みを私たちは自覚できない。しかしもしそうであるとすれば、この現実世界全体は私たちの身体の一部分としてある。それは私の仲間の運動や感覚と共鳴して私の身体が感じ取る世界の存在感です。これは私たちの身体の一部分であって、すべてではない。実際、この現実世界は、私たちの身体が感じ取る物事の小さな部分でしかない。

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