哲学の科学

science of philosophy

自分・ごっこ(2)

2016-09-25 | yy53自分・ごっこ

幼児はバナナを耳に当てて「もしもし、はい私です」と言っています。バナナは電話機ではないから電話ごっこの最適な道具になる。バナナ電話によって、幼児は電話する大人の現実に憑依します。そうすることで現実世界を獲得する。現実の捉え方を学びます。
幼児は警官ではないから警官ごっこに夢中になれる。その幼稚園児が、仮にそのまま(身体が大人サイズになって)警察官に採用されて制服を着て交番に立つことになってしまうとすれば、すぐ嫌になって警官の真似事をやめてしまうでしょう。
警官ごっこをしたことがない幼児が、そのまま現実に警官になってしまうと、警官とはどういう現実かという現実世界を獲得することができないからです。
自分が何をしているのか分からない。だれでも、自分が何者か分からないまま、分からないことをさせられてもすぐに嫌になるものです。幼児のうちに警官ごっこをして、おもちゃのパトカーを動かしながら「わるもの、まてえ」と叫ぶことで警官という存在の現実に憑依し、その現実世界を獲得し、それを言語として獲得できます。

言葉が完全ではない幼児は、ごっこによって現実を理解する。ごっこを利用して言語を習得します。 このことから、ごっこが現実の模擬であるように言語は現実の模擬であって模擬でしかないことが分かります。
私たちは現実そのものをつかみ取ることはできないが、言語でそれを模擬することによって現実と交流することができます。逆に言えば、私たちは言語で模擬できるものを現実と思っているのであって、人間にとって、それ以外に互いに通じ合う現実というものがあるわけではありません(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。







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自分・ごっこ(1)

2016-09-19 | yy53自分・ごっこ

(53 自分・ごっこ begin)




53 自分・ごっこ

幼稚園児の遊び。一日中、何かのごっこをして遊んでいます。警官になり、パトカーになり、地下鉄になり、切符販売機になり、ホームドアになる。ときどき幼稚園児になり先生と手をつなぎます。
言葉でいえるものは、それになりきって身体を動かしてみる(拙稿では、憑依という)必要があるからです。幼稚園ではおうちごっこをし、帰宅すると幼稚園ごっこをする。幼稚園では、おうちの経験をおうちごっこで言語化し、おうちでは、幼稚園の経験を言語化する。
それが言語システム認知(特に時制、仮定法、他者視点)の習得に必要な成長過程となっています。

小学校二年生くらいになると、ごっこ遊びをしなくなります。身の回りのことを、言葉で言い表せるようになります。つまり言語によって、子供は、現実世界を理解する、現実感覚を獲得する、といえます。身体で感じ取る経験を言語化することで現実を認知するルーティンを獲得した、といえます。
成長過程での言語習得は、単なる記憶量の増加ではなく、現実世界の認知が完成する過程と捉えることができます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 - 哲学の科学Ⅳ)。

言語を話す人間以外の動物、二歳以下の幼児、猿などは身体で感じ取った経験に直接もとづいて行動します。言語を使う人間は違います。言語化された現実世界を身体の中に保持し、その世界の内部で行動を作り出します(拙稿24章「世界の構造と起源」)。
言語による現実世界に住む大人は、もう、ごっこはしません。社会人は社会人ごっこをしているではないか、サラリーマンは実はサラリーマンごっこをしているだけだ、というような、社会批評的な、シニカルな言い方がありますが、誤解を招く表現です。まじめにごっこ遊びをすることができるのは、言語習得過程の幼児しかいません。猿もごっこ遊びはしない。人間の大人もしません。
自分はサラリーマンごっこをしていると思っているサラリーマンもいるかもしれません。その人は、サラリーマンは仮の姿であって自分の正体は違う、と思っているのでしょう。たとえば自分の正体はニートであるとかオタクであるとか思っている人かもしれません。サラリーマンは、ごっこ遊びだよ、と言いたくなるでしょう。しかしそれは幼児のする真正のごっこ遊びではありません。本音を隠すあるいは他人の前で偽装するという、必要な場合大人であればだれもがするあたりまえの行動です。
幼児がする真正のごっこ遊びは偽装ではなく、現実への憑依です。大人がする現実を真似ることで、現実に生きる大人に憑依する。そうすることで現実を獲得していくことが幼児の成長です。






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私はなぜ新聞を読むのか(7)

2016-09-10 | yy52私はなぜ新聞を読むのか


毎日の新聞は、もしかしたら、私たちの身体器官の一部を作っているのかもしれません。ヒツジは新聞紙を食べて血肉を作る。私たちは新聞紙を目の前に広げて、世界を透かし見ているつもりなのかもしれない。その内容は日々変わる。日々変わらなければなりません。そうでなければ、私たちはそれを新鮮な現実として読むことができない。
私たちの身体は、毎日世界の現実を観察している必要があります。その必要のために新聞を読む。新聞を読まなければ、テレビを見なければならず、あるいはインターネットで人々と情報交換を続けなければなりません。
世界が目まぐるしく動いているから私たちがそれを知らなければならない、というよりも、目まぐるしく動く世界を知らなければならない身体を私たちが持っているから、世界が目まぐるしく動くのではないでしょうか?
毎日の新聞を見ながら、なぜ毎日の新聞はいつも同じページ数であるのか、日曜日は分厚くなるものの、なぜ平日は同じニュースの量なのか、と疑問に思うことがあります。世界の作り出すニュース量は毎日一定なのか、毎日同量の重要事件が起こっているのか?
それとも、私たちが必要とするニュース量が毎日一定なのか?羊が食べる毎日の新聞紙の量のように、毎日読むべき記事の量は、ほぼ一定であるのだろうか、と思います。

私はなぜ新聞を読むのか?羊のように毎日、一定量のそれを身体に取り入れる必要があるから、ではないでしょうか?

蛇足ですが、新聞を読んでいるとき不思議な感覚が起こることがしばしばあります。楽しく読んでいるにもかかわらず、記事の途中で新聞をおいて、他の用をしたくなる。コーヒーをつぎ足しにキッチンに行きたくなるとか、エアコンの温度設定を変えたくなるとか、爪切りをしたくなるとか。
新聞を読む時間が長すぎていけない、と自分で思うのでしょうか?実はいつの間にか、つまらなくてその行為に退屈してしまう、ということかもしれません。それとも、人々が懸命に書いているものを、あまりにも気楽に流し読んでいることへの、かなり微かである、罪悪感のようなものを感じるからかもしれない、という気もします。■









(52 私はなぜ新聞を読むのか? end)











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私はなぜ新聞を読むのか(6)

2016-09-03 | yy52私はなぜ新聞を読むのか


新聞は、ふつうあまり意識しませんが、美しさがあります。それが身体感覚を引き付ける魅力となっています。紙面がビジュアルに美しい。長い伝統で洗練されてきているからでもあるし、改良されたフォントやカラー精細画像など現代技術を上手に取り入れてきているからでもあります。
また、新聞の文章は美しい。プロの記者、文筆家、ライターたちが競って美しい文章を書こうとするからです。新聞はそういう仕組みで作られています。
美しい言葉は読んで気持ちがよい。くわしく言えば、これらの文章は紙面に印字されたときにもっとも美しく見えるものが選ばれています。目にやさしい。ここちよい。これは新聞を読む楽しみになっています。
もうひとつ重要なことは、これらの文章が新鮮である、という点です。新鮮であるに違いない、と感じられる、ということです。
書かれたばかりのものを読める、という感覚があります。これは筆者が今日書いたとか、昨日書いたらしいとかいう感覚でもありますが、実は、実際に書かれた時期が決定的なのではない。多くの読者が、今初めて目にしている、と思えることが重要でしょう。実際、過去の古典文学が引用されていることも多い。しかし私たちは、今、多数の人々の一人として、みないっせいに、同時にそれを目にしている。そうであれば、これは新鮮です。

皆で同じものを見ている。これが重要。今見ている理由は人それぞれ違うかもしれない。情報を必要としているから、という理由。ひまだから。気持ちいいから。自分で優雅だと思うから。などなどが理由なのでしょうが、皆で同時に同じものを見ているということが最も重要です。
皆同じものを見ている、という感覚は人間の身体が常に必要としているものです。このことによって、現実を感じられる(拙稿24章 世界の構造と起源)。そうであれば、新聞は現実を映しています。
テレビも現実を映している。インターネットも現実を映しているかもしれない。友達とする世間話は、もちろんその背景の現実を痛感させます。
それが私たちの生きる環境です。その中で、ある人々は新聞に現実を感じる。かなり多数の人々でしょう。










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