ふつう動物は成長が止まるころから繁殖を開始する。繁殖に適した身体にまで成長すればなるべく早く繁殖を開始するほうが有利です。その場合、繁殖に適した環境にあることが必要になる。たとえば季節。食料、個体密度など。この生育条件が整う必要があるでしょう。また加齢により繁殖機能が衰えれば繁殖を停止してまもなく死ぬ。すべての動物がそうであるが、人類だけは少し違う。
人類の場合、家族システムの中で繁殖が起こる。婚姻関係の中で妊娠出産授乳育児がおこなわれます。人間の幼児は成長が遅く授乳育児に手間がかかる上に母子ともに高い栄養を必要とするからである、とされています。母親だけでは育児を担いきれない。狩猟あるいは農耕牧畜労働により栄養を供給する男が必要であり、家事育児の手間を提供する親族が必要です。母子に必要なそのサービスを担保するシステムが婚姻であり、家族である、となっています。
もし婚姻が人類の進化上必要なものであったとすれば、私たちの身体がそれを実現するようにできているはずです。婚姻をめぐる人類普遍の現象;異性愛、嫉妬、貞節、男女分業、財産共有、などは人類の身体に埋め込まれた形質から来るといえます。
婚姻を支える身体機構の基盤は、そうであれば、脳が大きく成長の遅い幼児の出現と共進化したものといえるでしょう。さらに男たちが従事する狩猟あるいは農耕牧畜による高栄養食糧の取得システム、つまり生産性の高い実用技術と社会組織が共進化したと推定できます。
これらの共進化が栄養供給と繁殖のサイクルを立ち上げた時期は、理論的には考古学上の旧石器時代にあたると推測できますが、石器にも化石人骨にも残らない婚姻生態の物質証拠を発見することは至難ないし不可能と思われます。ただ旧石器時代後期のホモサピエンスは現代人と同一の身体構造を持っていたと推定できるところから、そのころから現代と同様な婚姻生態が存在した可能性があります。
婚姻生態が動物としての繁殖生態として人間の身体に埋め込まれていると仮定すれば、動物一般の繁殖生態と同様に環境の限界いっぱいまでそれが推進されるはずです。つまり婚姻できる身体を持つ人間は間断なく婚姻して栄養取得システムを回転させ自動的に妊娠出産授乳育児が進行するはずです。その場合、人口は食料供給の限界にまで増加するという人口論が成り立ちます。少子高齢化などありえない。
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まず結婚という事象は結婚式の華やかさに象徴されるように人生の大イベントです。結婚式の後が重要、とよくいわれるように、男女の婚姻関係は生涯にわたるものとされています。通常同居する配偶者との間で妊娠出産育児が行われる。逆に配偶者以外の者との間でこれらが行われる場合は、例外的あるいは異常とされることになっています。
では、なぜそうされているのか?改めて問われると、ふつう私たちはすぐ答えられません。改めて問われることがないからでしょう。
結婚の実態は、地域や時代によってどう変化するのか?
社会学や文化人類学では、これは重要テーマの一つになっています。現代の日本の結婚状況や子育て状況など、社会学の研究テーマとして最良でしょう。しかし拙稿の興味はそこではありません。結婚する人々はその行為によって環境が変化するであろうことを予測し、その予測に従って身体をコントロールする。その態様に興味があります。
結婚によって人の周りの環境は大きく変化します。その変化の大きさは、人生で一番大きいというほどではないにしても、二番か三番くらいになるでしょう。例えば外国に移住することに比べられるほどです。たとえば嫁入りする女性は住居が変わる。住居が変わるだけならば引っ越しと同じですが、同居家族が変わる。日常生活のルーティンが全部変わります。すべて未経験ですが、失敗を繰り返すわけにもいきません。緊張が続きます。
新世帯を担う男性も大変です。子供が生まれて家族の生計が増えるうえ、経済的にも社会的にも破綻は許されません。確実に毎年の家計を支える責任を持たされます。緊張が必要でしょう。
結婚する前にこれらの環境変化は予測できます。それでも結婚したいか、結婚しなくて済むか?人は理論を述べる以前に、身体の反応として、直感でまず回答を迫られます。したいのか、したくないのか、身体はどう感じるのか?
年齢が深く関係するようです。晩婚化現象はそこから来るのでしょう。年齢はどういう仕組みで気持ちに関係してくるのでしょうか?
結婚適齢期という言葉があって、それはもう死語だという評論家先生の決まり文句にもかかわらず、人々の結婚年齢に深く関係しているようです。「もうXX歳だから」という理由で結婚を決意したりする。逆に「まだ○○歳だから」という理由で結婚を忌避したりします。年齢の近い人々が仲間であって、行動をともにしなければならないかのようです。
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(48 絶滅する人々 begin)
48 絶滅する人々
特殊合計出生率が2を割れば、人口は減っていきます。2012年の東京でこの数値は1.09でした。都道府県別で最低位です。県別で一位は沖縄で1.90ですが、二位となるとぐっと落ちて島根県1.68です。最近数年はさすがにこの数値は底を打って微増に転じていますが、出産年齢人口がすでに大きく減少しているので、出生数の減少は続きます。国の人口も高齢化し総数も減ってきます。
少子化問題の深刻さについては近年、政府をはじめ広くその原因と対策が論じられています。議論は多岐にわたっていますが、総じて少子化の原因として挙げられる現象は、女性の晩婚化、未婚化です。関連して欧米先進国と比した非嫡出子の抑制現象も論じられています。
出生数が減少を続けてもゼロになることはないので、日本が絶滅することはありません。しかし、ある家族は絶滅する。一族家系は断絶する。村落共同体も離散消滅するでしょう。
先祖代々のお墓はどうなる。男の子がいなければ苗字は失われる。そういうことは、現代日本人はおおかたあきらめていますが、それでも寂しい、いいのかなあ、という思いはあるでしょう。国が小さくなっていくことは寂しい。増え続ける高齢者はどうなっていくのか、国家財政の深刻さは論を待ちません。
困ったことである、と年寄りは嘆きますが、当事者の若い人たちにとっては、皆さんが絶滅する心配よりも、自身の境遇の心配が先であるのは当然でしょう。
おなかにいるうちはまだいいが、外に出た幼児は手を放したとたんに死んでしまう、という感覚はだれにでもあります。他の動物と違い人間の場合、母親一人だけで子育ては不可能です。問題の根幹はそこらへんにありそうです。
さて、少子化対策はこの国の最大課題であるので、毎日マスコミや言論界、インターネットで議論が続いていますが、拙稿本章では、正面の論題からはちょっと外れて、その裏というか根っこの又根っこのあたりのメタ的な論点に注目しましょう。つまり少子化はいったい種の滅亡となんらかの関連があるのか、あるいは、関連があるとしたらなぜ出生率の減少が今起こっているのか?動物として人類は、今、何をしているのか?その辺の話題をさぐっていきましょう。
若い女性が子を産まない、という現象は何であるのか?ふつう繁殖期の動物は交尾して出産する。それをしない場合を説明するには、理由が必要です。たとえば、オスとメスが隔離されている、とか、病気や外敵の存在によって交尾が妨害される、など。
人間の場合、妊娠出産は通常、結婚制度、あるいは家庭、家族、という社会体制の中で起こる。社会学、経済学、文化人類学などの学問のテーマになってきます。文学においても最大のテーマであり、少子化など社会問題になると政治のテーマにもなってきます。そういう事情で、議論はあちこちに飛び、だれもが参加できる分だけ、大衆的感情的な関心を呼びます。テレビや週刊誌の話題としても人気があります。
しかし拙稿としては、この問題においても、人間がその身体をコントロールする場合に環境変化の予測がどう働くか、という観点に関心があります。繁殖行動、つまり妊娠出産育児というきわめて人間的かつ社会的な現象において、私たちの身体はどのように制御されているのでしょうか?
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私たちは偽善者に操られるのは不快でたまりません。ほかの方法で操られるほうがまだましだ、と思えるところもあります。
たとえば金で操られる。現金を十分払ってくれればコントロールされてもよいかな、と思ってしまう。偽善を使わないで人間をコントロールする仕方は、お金のほかにも、たとえばマシンガンを使ってコントロールする仕方とか、セックスを使ってそれをする方法とか、宗教やイデオロギーや集団いじめを使ってそうする方法などがあり、実際歴史上、あるいは現代でもある地域では、よく使われています。
偽善を嫌うあまり、ほかの術策にはめられてしまう。独裁政治はしばしばそうして現れる。正義は偽善を排除できるが、偽善はなかなか正義を排除できません。
偽善者を避けられない世の中ならば、そういうものと割り切って、善意と偽善を峻別しないでやっていけないものでしょうか?まあ、できそうにありませんね。昔から今でも、人々は偽善者を見つけては憎む。それは、私たちの身体が、たぶん、善人を好み悪人を憎み、グレーゾーンからも鋭く偽善者をかぎ分けようとし続けるように作られているからでしょう。
偽善者にも悪い偽善者と善い偽善者がいる。善い偽善者は偽善者であることを見抜かれない。ばれない。ばれない偽善者は善人としてふるまうから、善人と同じことをするはずです。されるほうから見れば善人と同じことをしてくれる人ならば善人にしてもらうのと同じように幸せになるでしょう。それならばそれでもよいではありませんか?
しかし残念ながら、こういう考え方は私たちの身体に合わない。身体の直感は偽善のにおいをかぎ分け、弾こうとします。であるからして、ばれない偽善者も存在を許されません。
私たちの身体の作りがそうであるならば、社会をうまく維持していくためには、皆が善人になろうとしなければなりません。皆が善人である、いちおうそうである、としなければなりません。実際、それが現実のこの社会なのです。
きれいは汚い。汚いはきれい(一六〇六年頃 ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」Macbeth (1.1. 11-12))。■
(47 偽善する人々 end)
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さらに柔らかい準公的機構として学会、同好会、親睦会、町内会、教会、NPOなどの任意団体や非営利公益法人などがあり、これらも個人とみなす場合、おおかたは善人です。その実体的な組織構造は官庁など公的官僚組織と同様の仕組みで機能しますが、構成員にとっては生活をかけたフルタイム業務ではないので効率は低く非常事態にはふつう機能しません。
しばしば組織代表と事務局長などがフルタイムあるいは生活や人格がかかるコミットをしており、組織の行動は、その二人ないし三人の個人的資質に大きく影響されます。官僚組織としては柔らかい分だけ、ときとして偽善者の様相を呈する危険は、官庁や大きな企業など正規の官僚組織に比べると大きいといえます。
私たちは偽善者にだまされるのはいやですが、いくら用心しても、偽善は見抜けない場合が多い。逆に、偽善者のように見えても実は善人であるという場合も多いようです。私は見抜ける、と思っている人こそ、よくだまされる、間違える。
また私たち自身が偽善者と疑われることもあります。社会的な活動をしていればそれは避けられません。それを気にしすぎるとまたおかしなことになる。ある程度、鈍感にしていられる必要があります。
偽善者を警戒しすぎても、私たちはうまくやってはいけません。社会は基本的には、善意を支えにすることで成り立っている。善意のリーダー、善意の仲間が多くいて現実に対処していくのが永続する社会です。偽善を排除する仕組みを維持する必要がありますが、それは社会の善意を守るためであるので、偽善者を殲滅して正義の勝利を徹底することが目的ではないでしょう。
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