哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ空間を語るのか(17)

2012-01-22 | xx7私はなぜ空間を語るのか

二十一世紀の現代科学理論による現実現象の予測能力は、近代以前の経典や伝承あるいは古典的科学にくらべて飛躍的に強力なものになっています。科学理論は分かりにくくなっているものの、その予測能力を利用して作られている現代技術文明、たとえばエネルギー、情報通信、医療技術などの成果を日々享受している私たち現代人は、現代科学の強大な存在感をよく知っています。

現代においては、つまり、科学が描く空間の実在感は、直感で理解しにくいという面で直接的には弱くなっている一方、多数の人々の生活の根幹を支えているという面で間接的には非常に強くなっている、ということができます。その理論が直感ではよく分からないところがあるけれども、素粒子から生物、地球、宇宙、と科学の理論を使ってスケールアップする私たちの空間は、間違いなく実在している、という感じです。

人と人が言葉で語り合う限り、あるいは目と目で語る場合も含め、人間どうしの間では、当然、空間は実在する。何の気なしに、ふつうに歩いている場合も、私たちにとって、ふつうに歩いて行けるということによって、当然、空間は実在しています。しかし逆に、そういうこと以外に空間が実在する根拠があるのかというと、それは、実はありません。

実在とか存在とかいう言葉の意味自体、(拙稿の見解では)私たちの身体が、それが存在するかのごとく反応するということ以上の意味を持たせることはできない(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」

)のですから、この空間もまたそのように存在しているとしか言えません。

科学がすべてを説明できるといっても、同じことです。説明される私たちが、それが説明できていると思う限りでそれは説明できる、というしかないでしょう。私たちがそう思えること以外にその根拠はありません。私たちがそう思うということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体がそのように変化しそのように動いていくということです(拙稿25章「存在は理論なのか?」

)。

その空間があると思ってそのように身体が動き、そのように空間が実在すると私たちが感じるということは事実です。あえていえば、私たちがそう思うことによって空間はそのように実在する、といえます。また逆に、私たちがそう思うようにしか空間は実在しない、ともいえる。

そうであるからこそ、私たちは毎日、空間についてお互いにそれをどう思っているのか、空気を読み合い、表情や動作で伝え合い、また言葉で語り合う必要があるのです。

(私はなぜ空間を語るのか? end

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私はなぜ空間を語るのか(16)

2012-01-16 | xx7私はなぜ空間を語るのか

原始の時代から人類は、空間を実在するものとして感じ取り、その中で互いの身体の位置と動きを認め合い、互いの位置と動きの過去を記憶し未来を予測し合うことで、狩猟採集生活において協力して社会を作ることができたと思われます。

現代では、空間を測定し数値で表し、それを用いて科学理論を作り実証することができます。現代の科学は全体の統一性と汎用性が高いことから、神話経典や俗説などに比べて(科学リテラシーがある人々にとっては)理論の実在感は極度に高くなっています。そのため、科学に組み込まれている現代の空間概念はまさに理性の先験条件(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判 』第二版既出)とみなさざるを得ないものとなっています。私たち現代人において、科学と整合するこの現実空間の存在感は過去の人々が感じ取っていたよりも、さらにずっと堅固なものとなっていると思われます。

しかしながら現代においても、空間の実在感が強く感じられる場合は人間の活動スケールの範囲内となっていることに注意する必要があります。逆にいえば、人間の活動スケールを大きく超える空間概念に関しては実在感が薄れていきます。

現代社会でも、日常生活や政治経済産業など大多数の人々にとって重要な人間活動は、人体のスケールで行われます。たとえば人体はふつうメートル単位の大きさで飛んだり跳ねたり物を投げたりします。数百キロメートル先を見て身体を動かす場面はあまりありません。また細かいほうでも、一ミクロンの精度で指や道具を動かす場面はあまりないでしょう。簡単な機械を使った場合、動きの範囲は、数キロメートル(鉄砲や飛行機を使う場合など)から数十ミクロン(拡大鏡操作など)くらいに拡張できますが、直感で大きさを感じ取れる空間はこのくらいが限界です。

このスケールの範囲で起こる物事は、直感でもうまく予測できます。私たちが感じ取る空間の中で起こる物事が予測できるということは、私たちの空間概念が現実的なものであり、実在する世界を認知しているからだ、と直感で感じられます。

私たちの身体がそのスケールに合った運動と集団行動をしているかぎり、(拙稿の見解によれば)人類の身体が作り出す空間概念が、そのスケールの近辺で物質の自然法則に関して統一性と汎用性が高いものとなっていることは、適応進化として納得できるものと考えることができます。それが空間の起源であり、限界である、というべきでしょう。

たしかに、人間のふつうの活動のスケールをはるかに超えたマクロの世界を扱う相対論、宇宙論、あるいはミクロの世界を扱う量子論、素粒子物理学の世界では、かならずしも人間が感じ取る空間概念が統一性あるいは汎用性が高いとはいえません。これらマクロ、ミクロの領域を取り扱う科学では、空間概念や自然法則が、私たちの日常感覚で理解できるものからだんだんと離れていきます。この事実は、私たちの空間感覚が自分たちの身体をスケールとして自然法則を感じ取るところからでき上がっていることを表している、といえます。

宇宙の果ての謎、宇宙の始まりの謎、素粒子の整合性の謎等はマクロの極限、あるいはミクロの極限で起こる現象に関する謎です。人間の生活スケールを大きく超えたマクロあるいはミクロの理論的な空間像が私たちに理解しにくいことは、私たちの身体がコントロールできる程度の空間的時間的スケールでの生活に適応して進化してきた私たちの脳神経系にとっては仕方のないことだ、と納得できます。

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私はなぜ空間を語るのか(15)

2012-01-08 | xx7私はなぜ空間を語るのか

このとき画家にとっては現実の空間はこういうものであった、ということでしょう。国王の視線に映る光景が重要である、自分の姿が国王の目にどう映るかが現実として重要であって、自分の目に実際に映る光景はそれに比べてあまり気にする必要はない。

画家は絵の鑑賞者たち、つまり王族や貴族、宮廷人たちとこのような空間を共有していることを主張したかった。自分は国王の肖像を描いているのですぞ、自分は王のために働いているのですぞ、と言いたい画家の気持ちがよく分かります。

この画家の伝記を読むと、本人としては卓越した画家であることよりも宮廷で出世することが重要であったと書かれています。まさにこの絵の視点は、宮廷で出世する人らしい空間認識を表している、といえるでしょう。

しかし改めて振り返ってみれば、実際に目に映る光景とは違った視点で自分の姿が見える情景を感じ取っているという、この画家のような空間の感じ取り方は、通常、私たちだれもが日常的に使っている空間認識ではないでしょうか?

人の目で見て自分がどう見えるか?それを知るには、自分の目に実際に映る光景を感じ取っているだけではだめです。自分の姿は自分の目には映りません。人の目に映る光景を想像することが重要です。人の目に映る光景には自分の姿が入っている。自分の顔や表情が見えているはずです。不動の空間の中に置かれている人物像として自分の姿がある。自分が置かれているそういう空間、そういう視点からの情景をいつも忘れずに感じ取っていることが重要です。せまい社会の中で上手に生きるためには特に重要でしょう。

空間というものは自分だけが分かればよいというものではありません。人が感じ取っている空間を感じ取ることが重要です。そうすることで、空間は客観的な現実となります(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」

)。

いま目に見えている空間が現実の空間であるということは、目に見えるそこの床や壁が不動の大地の上に置かれていることであり、この風景はこの風景として、自分ばかりでなく仲間の人間のだれもが見ることができ、その中を動き回ることができるものだということです。つまりこの空間は実像として実在するということです。

このように人も自分も皆が同じ空間を感じ取っていることが感じられるようになってはじめて、空間は不動でここにあって間違いなくその中に自分の身体がある、と感じられるようになります。

そしてはじめて人間は社会生活を営めるようになります。人と人がかかわり合い、語り合うための基礎として、明らかに言語の発生よりも先に、先験的に空間のありようを感じ取る神経機構はできていたはずです。この空間認知機構はかなり古くから哺乳類共通の神経回路として進化したようですが、人類の祖先においては、仲間の身体の位置関係を表現できることから空間認知の共有機構が進化し、それが言語の発生を導く役割を果たした可能性があります。

いずれにせよ、私たちは視覚や触覚で感じ取れる身の周りの空間を実在する実体として認知することができます。また私たちは言葉で語られる目の前に見えない空間をも想像することができ、それらについて自分以外の人たちがどう感じ取っているかも感じ取ることができます。そして人とその空間認識を前提としていろいろな物事を語り合うことができます。

そうであるから、空間は客観的なものとして実在し、私たちはその内部を動いていく自分たちの身体をまた客観的なものとして認めることができます。

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私はなぜ空間を語るのか(14)

2011-12-31 | xx7私はなぜ空間を語るのか

目の前にない空間について語ってみましょう。

広場から北を向くと石垣の上に瓦屋根と白壁の小さなお城のような建物(巽櫓)が見えます。そちらへ進むと建物は堀に隔てられています。堀は西からきて建物を内側にして北に曲がって掘られているので、堀(桔梗濠)の東側を北に向かって進むことができます。この道の東側には大噴水が見えます。堀を左手に見てそのまま進むと、すぐに堀を向こう岸に渡る通路があって大きな門(大手門)の前にお巡りさんが立っています。そちらに渡らないで堀を左に見たまま北に進みましょう。左手の堀(大手濠)はゆっくりと左にカーブしていきます。堀に沿って進むと左の堀に突き出した小さな公園のような土地があります。ここから堀は大きく左に曲がって西北西十時の方向に向かっていきます。

この堀を左手に見てさらに進みましょう。すぐに対岸に渡る橋(平川橋)が見えてきます。向こう側の門(平川門)にはお巡りさんが立っています。これを渡らずに濠を左手に見たままさらに進みます。今度は車道ごと堀を渡る橋(竹橋)が出てきますので、車道に沿って左の歩道を進みます。道は左に少し曲がって西南西八時の方向に進み、すぐに左側に堀(平川濠)が現れて道は堀に沿って進みます。対岸へ渡る橋(北桔橋)がありますが、渡らずに堀を左手に見て進みます。

道なりに進むと右手に大きな堀(千鳥が淵)とそれを渡る高速道路(首都高速)が見えます。左側に入る道はありません。今度は左にも堀(半蔵濠)が見えて両側が堀になっている道を進みます。大きな車道に出ますが、左の堀(半蔵濠)に沿って左に曲がると歩道は南に向かいます。左側が堀(半蔵濠)に沿った公園になっています。道に沿って進むと左に対岸に渡る通路があって大きな門(半蔵門)の前にお巡りさんが立っています。通路には通せんぼの柵が置いてあるので近づかずにこれを左に見て南に進みます。また堀(桜田濠)が左に続いているので沿って南下します。

道はゆっくりと左にカーブして南南東五時の方向になります。右手に立派な建物が見えます。さらに進むと右に壮大な建物(国会議事堂)が見えます。ここで左手の堀はゆっくりと左にカーブして東に向かいます。堀に沿って東に進むと左に大きな門(桜田門)が見えてきます。右手にも堀(凱旋濠)があるので隘路になっている道を通って門に行くとお巡りさんが立っていますが通ってもよいようで、そこを通り抜けます。通り抜けても左の堀(桜田濠)は門の左にずっと続いているのでこの堀の対岸には渡れません。堀を左手に見て進むとそこは出発点の広場(皇居前広場)です。

ここまで具体的に語ると空間がよく分かります。逆にこのくらい詳しく語らないとよく分かりません。歩いている人が進みながら目に見える光景を話しています。話し手の運動がよく分かります。空間を語ることは話し手が自分の動きを語ることでもある、といえます。

空間を人と共有する手段としては、言葉のほかに絵を描いて見せる、という方法がよく使われます。絵は描き手が手を動かして見たものを平面に写すことと思われていますが、これもまた人間が身体を使って人と空間を共有する行為でしょう。絵画を見る人には、それを描いた人の視線の動きと、それによる空間の捉え方が伝わります。

絵画に描かれる空間を見てみましょう。

十七世紀スペインの王女マルガリータと取り巻きの人々を描いたベラスケスの有名な名画(1656年 ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』)があります。

絵の内容については、美術史家のさまざまな学説がありますが、大方の解釈は、国王夫妻の肖像画を描く画家本人とアトリエを訪問した王女を描いた絵ということになっています。画面中央に王女マルガリータ、画面左にベラスケス自身が描かれています。この絵の特徴は、もちろん世界最高傑作といわれる画面の完成度、そして微妙な光線と質感を表現する画家の卓越した技術ですが、同時にまた視点の面白さがあります。この絵に描かれた光景は、画家がいま描いている肖像画の対象人物、つまり国王の視点から見たものとなっています。

スペイン国王の目は、当然、愛娘マルガリータに注がれている。そのことから、画面中央に位置する幼い姫の姿は窓からの光線でさらに目立つように明るく照らされています。画家は左端でカンバスに向かっている。右利きの画家はふつうカンバスを自分の右に置きますから、モデルからみるとカンバス裏側の右側から顔を出す。それで必然的に画家はこの画面の左に位置することになります。

そういうことを全部計算しながら、画家は、肖像画を描いている自分の肖像画を描いた。宮廷画家の仕事であるからには当然、この絵は国王を賛美し王位継承者であるマルガリータ姫の肖像を人々に賞賛させるために描かれたものでしょう。しかし素直に考えて、画家はこの機会に自分をアピールしたかったという動機を持っていたと推測できます。

画家は、国王の光栄ある要請を受けて仕事をしている自分を自分の目で見ています。このとき画家にとって現実の空間は、自分の目に映っている国王夫妻とその背景の空間ではなくて、自分の身体が置かれている自分の少し前から後方の空間であったはずです。国王夫妻の視点から見た空間が実像として描かれている反面、画家の視線が見ているはずの国王夫妻の立つ空間は後方の小さな鏡に映る虚像として描きこまれています。

私たちはふつう自分の姿を実像としては見ることができません。ところがこの絵では、自分の姿が実像となっている空間が描かれています。

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私はなぜ空間を語るのか(13)

2011-12-25 | xx7私はなぜ空間を語るのか

空間の中を動いていく人体。語り手、あるいは語り手の分身。それを少し離れて見ながら、その風景を語る。私たちはそういうことを他人の話として語り、また自分のこととして語る。いずれにしても、空間の中にある人物として他人を語り、あるいは自分を語る。それを語ることで私たちは気持ちを通じ合う。こういう仕方で、人は人と通じ合う。そうして私たちは空間を共有し、協力して社会を作っている、とみることができます。

私たちは、私たちの目に周りの景色が見えているから私たちは今自分がいる空間が分かるのだ、と思っています。私たちの目の位置に据えられているカメラからの映像を見るように周囲の空間が分かる、と思っています。しかし目の網膜に映る映像は、顔を動かすたびにずれていきます。それどころではなく、目玉を動かすたびにずれています。しかも目玉は一瞬も静止していなくてたえず上下左右に回旋しています。結局、私たちは網膜に映る映像から空間の存在を知るというよりも、はじめから、私たちの身体が不動の空間の中に置かれているのだということを知っている、ということです。空間が不動でなく絶えず揺れ動いていたら、船酔いになったり、長周期の地震に見舞われたときのように気分が悪くなったりしてしまうでしょう。

そういうことからも、空間というものは、どうも見えるということだけで分かるというものではない。私たちの身体が、はじめから自分の身体を置く枠組みとして不動の空間というものがあると思いこむようになっている、と考えられます。そうであるとすれば、私たちは無意識のうちに、はじめから身体を置くために求められている不動の空間として、いま目の前に見えているこの風景を当てはめているのではないでしょうか?

まず不動の空間があって、その中のどこかに自分の身体が置かれている。私たちはそう思っています。目が覚めると同時に不動の空間のどこに自分が置かれているのかを確かめる。ふつうすぐにそれは分かります。私たちは自分がどこにいるかすぐに分かる。たいていは家の寝室ですね。それから周りを見わたしながら身体を動かし始める。そうして私たちは空間の中を移動していきます。不動の空間の中を移動するので、自分が動いた分だけ身体の位置が変わっていく。位置を変えることが移動の目的です。空間の内部で自分が移動していく目的の位置が私たちにとっては重要です。

私たちはいつも、自分の身体が不動の空間のどこか(ふつう地球上のどこか)に置かれている、と思っています。だから自分の目にはこのように周りの空間が見えているのだ、と思っています。そしてこの空間はだれもが自分と同じように感じ取っている、と思っています。人と語り合うとき、私たちが置かれている共通の空間について、当然、聞き手も話し手とまったく同じように感じ取っているはずだ、と思えます。そしてその通りに話を進めることができることからも、当然その通りだと納得できます。

人と人が語りあうとき、話の前提としていつでも共通の空間があります。どの空間を話題にして話し合っているのか、会話する二人はいつも知っています。

二人の周りの空間について語り合う場合が一番シンプルです。一緒に目で見ながら語ることができます。目の前にはない遠い空間、あるいは想像上の空間についても、私たちはやすやすと、話し手と聞き手が同じ空間を思い浮かべながら会話することができます。そのような空間は言葉で語られ、また絵に描かれます。

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私はなぜ空間を語るのか(12)

2011-12-18 | xx7私はなぜ空間を語るのか

宇宙の中に地球があって、地球の上に私がいて、私の中に私の細胞があって、細胞の中に私のDNAがありDNAは炭素原子や酸素原子から構成されている、と私たちは思っています。これは正しい科学理論です。しかしその科学理論は、幾何学や微積分学や物理学から構成されています。それら数学や物理学は、空間、時間、運動という基礎概念から成り立っていて、そのいずれもが、結局は(拙稿の見解では)私たちの身体運動が作り出す運動共鳴によって作られています。

科学理論に私たちの直感を貼り付けて物事を予測すると、私たちの経験ではいつも正しく予測が実現する。そうであるから科学理論は実在する、と私たちには思えます。そういう意味では、科学理論は実在する。しかしそれら理論は人間の身体運動が作り出す運動共鳴にもとづいて認知されている。したがってそれらは人間と関係なく実在するとはいえません。人間が作り出す科学理論はたしかに実在する。それは、しかし、人間にとって実在する、というべきでしょう。

私たちがふつうに、いまここで目にしている風景は、当然、実在している、と思えます。そう思えなければこわくて一歩も歩けません。逆に、ある空間の中を私たちがこわがらずに歩いて行けるような場合、その空間は実在していると私たちは思っています。まあしかし、夢を見ているときも、その風景の中を私たちはこわがらずに歩いていますね。夢の中では、たしかに夢の内容が現実と思っているわけです。夢を見ている間は、私たちがそれを実在の空間と思っているかぎりでそれは実在している、ということでしょう。

私たちがいま目の前に見ている空間は、そのように実在しています、また、写真を見て、それに映っている風景はいまのこの空間ではないけれども、どこかに実在している空間だろう、と想像できます。絵に描かれた風景は、写真とは違ってだれかがどこかの風景を写生したか、あるいは想像で描いたものだろうと思えます。ありそうもない風景ならばそれは写生ではありません。想像の産物でしょう。ありそうな風景を描いた絵の場合、それは写生か、あるいは写生と見せかけるために画家が上手に作った画像だ、ということになります。

一方、言葉で語られる風景は、ふつう、フィクションです。特に文章で書かれた風景は、ほとんどフィクションと思ってよいでしょう。カメラやビデオが普及している現代に、それらの画像を使わずに、わざわざ言葉で語られる風景はたいてい創作されたものだろうと、推測できます。創作の目的は何か?その風景描写は、読者に何を訴えようとして書かれているのか?そちらのほうに私たち読者の関心は向きます。

近代文学に描かれた風景描写の一例を読んでみましょう。

                                                       

野に新しき停車場は建てられたり                                                        

便所の扉 風にふかれ            

ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。                                                         

烈々たる日かな

われこの停車場に来りて口の渇きにたへず

いづこに氷を喰まむとして売る店を見ず

ばうばうたる麦の遠きに連なりながれたり。

いかなればわれの望めるものはあらざるか

憂愁の暦は酢え

心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。

ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども

われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。

いま日は構外の野景に高く

農夫らの鋤に蒲公英の茎は刈られ倒されたり。

われひとり寂しき歩廊(ほうむ)の上に立てば

ああはるかなる所よりして

かの海のごとく轟ろき 感情の軋りつつ来るを知れり。

     (1925年 萩原朔太郎『新前橋駅 純情小曲集

日本語文語文の美しさを感じますね。風景の描写から始まる叙述を読んでいくうちに、点景のように描きこまれた作者自身の姿が見えてきます。それを見ていると、この風景を語っている作者の心情に導かれる仕組みになっている。作者の心情ばかりかその社会的境遇が、何となく分かってくる。名画のファーストシーンのようです。九十年前に描かれた文章であるのに、現代の小説、ドラマ、映画の原型ができている。百年近い昔、日本現代詩の創始者たちは、現代芸術の骨組みを作っていたようです。

空間の中を人体が動いていく。その光景が人の心を表す。戯曲のようでもあり、舞踊のようでもある。文章もこういうふうに人間を表すことができるようです。

この文章表現の例でも明らかなように、描写された空間の中には、かならず語り手の立ち位置があります。詩人はまず、自分の目に映る風景について語っている。その風景を見ている自分の気持ちを語る。それからそういう気持ちを感じている自分の姿について語る。そうなると、風景の中に自分の身体があります。自分を空間の一部として客観的にみている。この詩に限らず文章表現で空間を語る場合、語り手がどこを見ているか、語られる対象をどこから見ているか、語り手の立ち位置がある。

直接自分の姿を語る場合もあれば間接的に自分の立ち位置を語る場合もありますが、いずれにせよ、描写する空間の内部に語り手、あるいは語り手の分身がいます。

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私はなぜ空間を語るのか(11)

2011-12-10 | xx7私はなぜ空間を語るのか

現代人の私たちは、地球の裏側の国々を旅行したり、そこの人々と貿易したり交流したり、時には戦争したりした経験から、地球は丸いらしいと、直感でも、感じるようになっています。また、太陽系の図式を学んだり、「それでも地球は回る」というフレーズを聞いたりしているうちに、体感でも地球は回る、と思ってしまいます。しかし、もともとの人類の感性からは、大地は平らで堅くて浮動である、と感じられていました。現代では、そう感じる人々は、素朴な未開人や幼稚園児などくらいになってしまいました。

現代でも、ふつうの人々には、宇宙の果ては無限であって理解不可能な謎である、と思われていますが、拙稿の見解では、それが謎であるのは、人間の身体がユークリッド空間しか体感できないように進化してきたからです。

私たちは互いに語り合うことで、私たちが体感で感じ取っているこの空間を共有することができます。そうすることによってこの空間を客観的な現実の存在とすることができます。逆に、この空間が客観的な現実の空間であるということは、そのように私たちが共有できている空間であるということだ、といえます。

人間どうしが語り合う空間は、平らでまっすぐで、どこまでも延長できる3次元ユークリッド空間です。その中に私たち人間の身体がきちんと置かれていると感じられます。その図式の上で、私たち人間は空間について語り合います。逆にいえば、そういう空間だけを人間は感じ取ることができ、そういう空間についてだけ語り合うことができる、といえます。

私たちはそういう空間を語ることで互いに心を通じ合い、協力して生きていきます。逆に人類がそうして社会生活を送ることができるような空間が、私たちがここに感じ取っている現実の空間だということもできます。私たちにとって、そういう空間が私たちの家であり、国であり、地球であり、宇宙である、といえます。また同時に、その空間は私たちが、珊瑚虫の群生骨格のように、群棲集団として身体から紡ぎだした共有骨格である、ということもできます。

私たち人類は、仲間どうし互いの身体の動きを感じ取り合うことで、互いに感じ取っている空間を共通の一つの同じ空間であると感じることができます。そう感じることで、自分と仲間の身体がその空間の中のしかるべき位置に置かれていると感じています。それは、当然この現実の空間がこのように存在しているからだ、と感じられます。そう感じることで、人間は仲間と通じ合い協力し合って緊密な社会生活を送ることができます。そのように人類の神経系が進化したから、現在の人類がある、といえます。またその結果、このように現実の空間があり、その空間について互いに語り合うことができる、といえます。

人間は協力して空間の距離を測り、位置と方向を測り、物質の運動と変化を測り、時計を作って時間を測り、望遠鏡や顕微鏡を作ってマクロ、ミクロの物質変化を観測し、世界のすべての物事の変化を客観的に描写できます。この方法によって人類は科学を発展させ、宇宙や分子、原子の内部構造を記述しました。しかしこれら科学が描くマクロ、あるいはミクロな空間構造もまた、もともとは私たちの身体の運動が作り出す空間概念を運動共鳴によって共有化し、空間について語り合えるようになったことから作り出されてきたものといえます。

科学が描く物質世界もまた人間が言語によって共有化している空間概念ですから、私たちの身体が作り出しているものです。科学が描くこの宇宙は、人間と関係なく実在するのではないか? そういう質問が来そうです。

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私はなぜ空間を語るのか(10)

2011-12-03 | xx7私はなぜ空間を語るのか

私たちが空間を感じ取るとき、それは不動で初めからそこにあって、その中を自分たちの身体が動いていく、と感じます。空間がまずあって、そこに私の身体があって、他の人々の身体があって、その他のものたちがある、と感じられます。この感じ方は、仲間の人々の動きを感じ取ることで、またいろいろなものたちを見ること、触ること、それらを動かしたり、それらに動かされたりすること、などこまごまとした身体運動の積み重ねから感じ取れます。

その場合、私たちは自分たちの身体が細かく動いていることはあまり意識しません。たとえば私たちの眼球や顔はたえず動き回って身の回りの空間を見渡していますが、私たちは、ふつうそれを意識しません。ただ、周りの空間がある、と思います。

私たちが他人や自分の動きを予測するためには、人間というものは単純に自分が置かれている空間を知っているのだ、と感じ取る仕方が能率的です。空間は、当たり前に、感じられるとおりに、私たちの身体のあり方やその動きには関係なくただそこにある、と私も私以外の人間も感じているはずだ、と感じられます。私たちの身体はそう感じるようになっています。人類の身体はそのように進化してきました。

なぜならば、そうすると脳神経系で行う運動の予測計算が簡単になるからです。人間の眼球運動や顔の細かい運動をいちいち意識してその運動が生成する空間を計算するとすれば膨大な計算量となります。それよりも、空間はただそこにあって、その中にいる人間や動物ははじめからその空間を知っている、とするほうがずっと簡単に物事を予測できます。その程度の予測計算は生物の脳神経系で実行可能です。そうでなくて観測対象とする動物の細かい運動を全部インプットしてその動物の運動神経系のシミュレーションからその空間認知表現をリアルタイムで予測計算しようとすると超高速コンピュータでもそれほどの計算量はこなせないでしょう。

拙稿が述べている見解は、私たちの直感とは違います。拙稿の見解では、この空間ははじめからこのようにあるという考えは採りません。筆者ももちろん、直感では、この空間ははじめからこのようにある、と感じます。人とふつうの会話をするときも、そう感じたままで話を交わしています。しかし、直感は物事がそう見えるということであって、それがそのまま存在する物事を映していると思うのは間違いです。

さて、直感とは違う拙稿の見解によれば、私たちが感じ取っているこの空間は私たちの身体が動くことで生成される、と考えます。私たちの身体が動くとき(拙稿の見解では)、運動形成の神経系は仮想運動によって身体が移動する空間を生成しながら運動の結果を予測しています。私の身体が動き、仲間の人間の身体が動き、互いの動きが干渉し、協調する。それらの動きに身体が反射的に反応することによって自動的に生成される空間を私たちは感じ取っている、と(拙稿の見解では)考えます。その結果、私たちは、初めから空間がそのようにあり、その中に私たちの身体があって、それらが動いている、と感じることになります。

そう感じることによって、自分や他人の運動やそれらが組み合わさって動く世界の変化を予測する計算が簡単になり能率的となります。このような空間感覚を作り出す神経系を持つ動物は自他の運動の予測が速く正確になるので生存に有利になります。その状況に適応して、私たちの運動形成神経系はこのように進化したのでしょう。

私たちは(仮想運動による)人体の動きを積算することによってそれが動きまわる(枠組みとしての)ユークリッド空間を生成する神経系を備えている。そのように生成された空間の中に(視覚や触覚で)知覚する物体を位置づけることができる。人の身体も自分の身体もその同じ空間に置くことができます。

そうして感じ取る空間を、私たちは現実の世界だと思っています。その空間を比喩に使って、私たちは時間を感知し、人間関係を感知し、社会関係を認知し、社会理論を作り、あるいは科学理論を展開していきます。

それは、いわば、世界認知の原点です。私たちの身体の構造を改めてながめればよく分かることですが、左右対称形動物がその体軸を回旋し、あるいは左右両側を同形機構で作動させて長軸方向にまっすぐに進行する身体構造から、その身体が動きまわる枠組みとしての空間を私たちは感じ取るようになっている、といえます。

この大地が平らで堅くて不動なのは、そうであることが、その上を私たち人間の身体がすばやく走り回ったり、互いの身体の動きを見てとったり、予測したりするのに便利だからです。であるから、地球が丸くて回転しているというガリレオの理論は、直感で生活しているふつうの人々には受け入れがたい理論でした。その理論(地動説)は一応もっともらしいところがあればあるほど、神学者など知識人や有為の青少年を惑わす恐れがある。したがって社会によって徹底的に否定されなければならなかったのでしょう。現代でも、宇宙の果ては理解不可能な神秘の謎である、ということになっています。

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私はなぜ空間を語るのか(9)

2011-11-26 | xx7私はなぜ空間を語るのか

ふつう動物は周りの空間を手足(やヒレや翼など)で押して移動します。言い換えれば、動物は周りの空間(にある媒体物質)に作用を与えることでその反作用によって運動します。その場合、周りの空間は動かないものとして運動の結果を予測計算しています。

私たちが起きたり座ったり歩いたりジャンプしたりという身体運動を容易に実行できるためには、周りの空間が不動であると仮定することが実用上不可欠です。この理由によって、脊椎動物や昆虫など巧緻な運動が可能な動物は、人間と同じように周りの空間が不動であるとする認知システムを進化させたはずです。

周りの空間が不動であれば、その中を動く運動体としての自身の身体を認知できます。それが自分というものだといえます。このような図式から私たちの身体感覚はできています。人類においてはそれが社会的な自我意識の基盤にもなっているようです。「それでは私の立場がない」などと、よくいいますね。剣ヶ峰の頂上で大勢が記念撮影するときなどは、地面に立場がないわけですが、私たちの実生活では、ふつうそれを社会的な比喩として使う場合がほとんどですね。

不動の空間とその中を動く自分の身体。こういう図式が私たち人間の立場であります。この図式がなくては、赤ちゃんのようなものです。手足をバタバタしているうちに偶然進んでしまう這い這いくらいはできますが、空間の認知ができなければ、よちよち歩きもできない。空間概念がない人は、まあ一歳未満の赤ちゃんと認知症が進んだ老人くらいでしょう。その中を自分の身体が動いている空間を感じ取る能力は、ふつうの人間生活に不可欠の認知能力です。

私たちはだれもが同じ空間を感知する。互いが存在する空間を共有しています。だれもがそう思っています。そう思っているに違いない、と思われます。

それは私たちが同じ構造の身体を持っているからです。そして、互いの運動が共鳴し合う。運動共鳴の機構を神経系に備えているからです。前を歩いている人が石ころをよける動作をすると、私もしっかりその石ころをよけることができる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?{4}」)。私たち人間はだれもが「この世」という不動の同じ空間の中にいる。そしてそのことをだれもがよく知っています。

私たちは仲間の人間がどのようにこの現実の空間を感じ取っているかがよく分かります。「そこの石ころにつまずかないように気を付けて歩いてね」と言えば、何を言っているのかよく分かります。それはだれもが、同じ空間を感知しているからです。だれもがこの空間を私が感じ取っているのと同じように感じ取っているはずだ、と確信できます。むしろ逆にいえば、私が感じ取っている空間は仲間の皆が感じ取っているのと同じものを感じ取っているはずだという確信があります。もしそうでなければ私は身体を動かすことができません。こわくて脚がすくんで一歩も歩けないでしょう。

私の身体が、とくに意識せずに自然にその中を動いていくということは、この空間が間違いなく現実のものであって、人間はだれもが、私と同じようにこの空間を感じ取っているということを表しています。逆に言えば、この空間が現実であるということは、私の身体がその中を自然に動くということである、あるいは言い換えれば、私の身体の運動(または仮想運動)がこの空間を現実として作っている、といえます。

私がほとんど意識せずに身体を動かそうと思っているとき、たとえば部屋のドアを開けて外へ出ようとしているとき、私の身体はドアを開けると外に出られること、つまりここはそういう空間であること、を無意識のうちに知っている。そういう場合、この部屋から外への空間は、身体が動こうとしているその仮想運動によって作られている、といえます。こうして(拙稿の見解では)空間は私たちの身体の動きによって生成されています。人間にとって、そのように生成される空間は、先に述べたように、人間の運動を形成する神経系の機構によって、自然にユークリッド空間になっています。つまり近代哲学で論じられたように、人間にとって空間はアプリオリに(先験的に)与えられている、といえます。ただしそれは理性によって(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判』第二版)というよりも(拙稿の見解では)動物として進化した人体の(神経系の)運動機構によりアプリオリに与えられています。そしてそれを言葉で語るとき、私たちは仲間との運動共鳴によって共有する空間概念を語っている、といえます。

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私はなぜ空間を語るのか(8)

2011-11-19 | xx7私はなぜ空間を語るのか

また私たちは想像上の空間についても語ることができます。想像上の空間では私たちの身体を実際に動かすことはできませんが、私たちは頭の中で、仮想運動によって身体を動かすことができます。逆にいえば、仮想運動によって身体を動かすことのできるような空間であれば、私たちはそれがどんなものかを想像することができます。

たとえば私たちは、童話を読んで、あるいはアニメを見て「不思議の国のアリス」の世界を想像することができます。あるいはパソコンを使って、私たちはサイバー空間 に遊ぶことができます。荘子の夢の世界で蝶になって花畑を飛び回ることができます。しかしながら、それらの空間も私たちが仮想運動を使って想像できる限りにおいてしか語ることはできません。その意味で、想像上の空間であろうともそれらの空間は私たちの身体が(想像上も含めて)動ける限りで作られる空間である、といえます。

結局、想像上の空間も含めて私たちが感じ取ることができる空間は、すべて人間の身体が動くことによって作ることができる空間だけです。正確にいえば、私たちの運動の自由度から私たちの身体が動くことできるような広がりをもった空間が決まってくるが、私たちはそういう空間だけを感じ取ることができる、ということです。

私たちの身体が動くことで作られる直感的な空間とそれを比喩や想像によって拡張した空間、あるいは空間の比喩で理解される実数や複素数などから理論的に定義される数学の抽象的空間、そういうような空間だけを私たちは理解できる。

そうでない空間があり得るのか、あるとしたらどうあるのか、そういう質問には答えようがない。そういう質問にはどのように答えることもできますが、どう答えようとも意味がない答えになるしかないからです。

私たちは人間の身体が感じ取ることしか感じ取れない。しかもそのうちの、仲間と共有できることしか言葉で語ることはできない(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。そのため、私たちが語る空間は、想像上の空間や数学的な空間も含めて、あなたと私が感じ取っているこのような空間をもとに作られるものでしかありません。

私たちが移動するとき、空間が動かずに私たちの身体がその中を動いていく。走っている電車の中を歩く時も、電車は揺れているが電車の走行方向と関係なく私たちの身体は電車の中を歩ける、と感じられます。地球は回っていますが、私たちは動かない大地の上を歩いている、と感じます。このように、空間はまず動かないで私たちの身体が移動する、と私たちは感じるようになっているようです。

つまり、そう感じられることから、私たちは私たちの身体が移動することを感じ取る枠組みとして周りの空間というものの存在を感じることができる、といえます。そういう枠組みを私たちは空間といっている。言い換えれば、空間とは私たちの身体がその中で動くと感じ取るために作られた枠組みである、といえます。この枠組みはどのようにして作られるのか? この空間と呼ばれる枠組みは、(拙稿の見解では)実は私たちの身体が移動することで作られています。空間のこの作られ方については後で詳しく述べます。

私たちが部屋の中を歩く時、部屋は動かない。だから私たちは自分の身体がどう動いているかが分かる。自動車を運転しているとき地面は動かない。そうであるから自動車がどう動いているかが分かる。地球が自転しているとき星座は動かない、そうであるから地球の自転運動が理解できる。もし星座が動いていて地球は回っていないという理論を信じるならば、地球の自転は理解できません。

こういうように、周りの空間が不動であると感じ取ることから、私たちは私たちの身体の運動を知ることができます。周りの空間が不動であると感じることは、自分の運動を制御するために極めて能率的です。周りの空間が動いてしまうと仮定すると運動の制御計算がけた違いに複雑になります。

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