目の前にない空間について語ってみましょう。
広場から北を向くと石垣の上に瓦屋根と白壁の小さなお城のような建物(巽櫓)が見えます。そちらへ進むと建物は堀に隔てられています。堀は西からきて建物を内側にして北に曲がって掘られているので、堀(桔梗濠)の東側を北に向かって進むことができます。この道の東側には大噴水が見えます。堀を左手に見てそのまま進むと、すぐに堀を向こう岸に渡る通路があって大きな門(大手門)の前にお巡りさんが立っています。そちらに渡らないで堀を左に見たまま北に進みましょう。左手の堀(大手濠)はゆっくりと左にカーブしていきます。堀に沿って進むと左の堀に突き出した小さな公園のような土地があります。ここから堀は大きく左に曲がって西北西十時の方向に向かっていきます。
この堀を左手に見てさらに進みましょう。すぐに対岸に渡る橋(平川橋)が見えてきます。向こう側の門(平川門)にはお巡りさんが立っています。これを渡らずに濠を左手に見たままさらに進みます。今度は車道ごと堀を渡る橋(竹橋)が出てきますので、車道に沿って左の歩道を進みます。道は左に少し曲がって西南西八時の方向に進み、すぐに左側に堀(平川濠)が現れて道は堀に沿って進みます。対岸へ渡る橋(北桔橋)がありますが、渡らずに堀を左手に見て進みます。
道なりに進むと右手に大きな堀(千鳥が淵)とそれを渡る高速道路(首都高速)が見えます。左側に入る道はありません。今度は左にも堀(半蔵濠)が見えて両側が堀になっている道を進みます。大きな車道に出ますが、左の堀(半蔵濠)に沿って左に曲がると歩道は南に向かいます。左側が堀(半蔵濠)に沿った公園になっています。道に沿って進むと左に対岸に渡る通路があって大きな門(半蔵門)の前にお巡りさんが立っています。通路には通せんぼの柵が置いてあるので近づかずにこれを左に見て南に進みます。また堀(桜田濠)が左に続いているので沿って南下します。
道はゆっくりと左にカーブして南南東五時の方向になります。右手に立派な建物が見えます。さらに進むと右に壮大な建物(国会議事堂)が見えます。ここで左手の堀はゆっくりと左にカーブして東に向かいます。堀に沿って東に進むと左に大きな門(桜田門)が見えてきます。右手にも堀(凱旋濠)があるので隘路になっている道を通って門に行くとお巡りさんが立っていますが通ってもよいようで、そこを通り抜けます。通り抜けても左の堀(桜田濠)は門の左にずっと続いているのでこの堀の対岸には渡れません。堀を左手に見て進むとそこは出発点の広場(皇居前広場)です。
ここまで具体的に語ると空間がよく分かります。逆にこのくらい詳しく語らないとよく分かりません。歩いている人が進みながら目に見える光景を話しています。話し手の運動がよく分かります。空間を語ることは話し手が自分の動きを語ることでもある、といえます。
空間を人と共有する手段としては、言葉のほかに絵を描いて見せる、という方法がよく使われます。絵は描き手が手を動かして見たものを平面に写すことと思われていますが、これもまた人間が身体を使って人と空間を共有する行為でしょう。絵画を見る人には、それを描いた人の視線の動きと、それによる空間の捉え方が伝わります。
絵画に描かれる空間を見てみましょう。
十七世紀スペインの王女マルガリータと取り巻きの人々を描いたベラスケスの有名な名画(1656年 ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』)があります。
絵の内容については、美術史家のさまざまな学説がありますが、大方の解釈は、国王夫妻の肖像画を描く画家本人とアトリエを訪問した王女を描いた絵ということになっています。画面中央に王女マルガリータ、画面左にベラスケス自身が描かれています。この絵の特徴は、もちろん世界最高傑作といわれる画面の完成度、そして微妙な光線と質感を表現する画家の卓越した技術ですが、同時にまた視点の面白さがあります。この絵に描かれた光景は、画家がいま描いている肖像画の対象人物、つまり国王の視点から見たものとなっています。
スペイン国王の目は、当然、愛娘マルガリータに注がれている。そのことから、画面中央に位置する幼い姫の姿は窓からの光線でさらに目立つように明るく照らされています。画家は左端でカンバスに向かっている。右利きの画家はふつうカンバスを自分の右に置きますから、モデルからみるとカンバス裏側の右側から顔を出す。それで必然的に画家はこの画面の左に位置することになります。
そういうことを全部計算しながら、画家は、肖像画を描いている自分の肖像画を描いた。宮廷画家の仕事であるからには当然、この絵は国王を賛美し王位継承者であるマルガリータ姫の肖像を人々に賞賛させるために描かれたものでしょう。しかし素直に考えて、画家はこの機会に自分をアピールしたかったという動機を持っていたと推測できます。
画家は、国王の光栄ある要請を受けて仕事をしている自分を自分の目で見ています。このとき画家にとって現実の空間は、自分の目に映っている国王夫妻とその背景の空間ではなくて、自分の身体が置かれている自分の少し前から後方の空間であったはずです。国王夫妻の視点から見た空間が実像として描かれている反面、画家の視線が見ているはずの国王夫妻の立つ空間は後方の小さな鏡に映る虚像として描きこまれています。
私たちはふつう自分の姿を実像としては見ることができません。ところがこの絵では、自分の姿が実像となっている空間が描かれています。
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