拙稿本章での興味は、なぜ日本で特にこの種の議論が盛んなのか、なぜそれらが面白いのか、です。
日本は、江戸時代までは国内で完結する高度な自律的文化を持っていた、といえます。少なくとも二百数十年の鎖国の間、それが急激に変容することはなかった、といってよいでしょう。
黒船に代表される幕末の西洋文化の流入は当然最大の文化変容をもたらしました。当時の地政学的リスクを痛感していた明治新政府は、開国進取、富国強兵を国是とし、チョンマゲを切り小学校を全国に普及させました。
生糸を輸出し軍艦を輸入しました。その政策は功を奏し、日清日露戦争を勝ち抜き、第一次世界大戦の勝ち組としてついに世界列強(一九一九年ベルサイユ条約五列強:英仏伊米日)になりあがりました。
わずか半世紀で日本のパワーは西洋諸国に追いつきました。これは革命的発展といってよいでしょう。この大成功によって日本人はどうなったのか?このテーマが、すなわち日本人論の起源といえます。
さて現代日本人は自分を日本人だと思っています。
まず日本人である。日本人である前に人間である、などといってもふつうの場面でそうは考えていません。まずアジア人である、とか極東人である、とかはふつう思っていません。
なぜ自分はまず日本人なのか?
筆者は赤いタオルの鉢巻をした老人がテレビの現場インタビューで答えた場面での「わざわざじゃないですよ。日本人だから。言葉が通じるから私は日本中どこでも行きます(二〇一八年 尾畠春夫)」という言葉をはっきり記憶しています。この事件は、山口県の山林で三日間行方不明だった二歳児が、三八〇人の捜索隊の活動によってではなく他県から来た老ボランティアが現場到着三〇分後になしとげた快挙によって発見され、無事保護されたというものです。
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(78 日本人論の理論の理論 begin)
78 日本人論の理論の理論
日本人論という理論カテゴリーがあります。日本人について論じる考察のことです。昨今、インターネットやマスコミや出版物にあふれるばかりあります。しかし、これらの中身はともかく、一番の特徴は、こういうものが日本国内でよく読まれる、売れる、ということでしょう。
日本人ほど自らの国民性を論じることを好む国民は他にないようです。最近の傾向ではなくて前世紀あるいはそれ以前からこうであったらしい(一九九四年 南博「日本人論―明治から今日まで」)。
これら出版物あるいはコンテンツの特徴は、慨していえば、日本人は特殊である、という主張が圧倒的に多い。当然、西洋人とは違う。さらに他のアジア人とも違う。どう違うか、それはなぜか、なぜ問題なのか、という観点で論じられるようです。
これら日本人論の個々の中身は広くバリエーションに富んでいてその分類もまた興味深い議論を呼ぶところですが、拙稿ではさらにその背後にある共通の理論のまた理論、つまりなぜこれらの話が語られるのか、私たちにとってなぜそれが面白いのか、という観点から考えてみましょう。
明治以来、西洋から移入された制度やそれに伴う思想と文化が江戸時代からの伝統文化と衝突する場面で、彼我の感覚的差異、権威が移行する場面での齟齬、それに伴う不愉快な違和感などが生じたでしょう。
それに触発されて彼我の身体と個人能力の差異に関する劣等感とそれへの反発をはじめ自国の制度、システムへの批判、改善要求、逆に現状の擁護などの議論が沸き起こってきます。これは世界中、異文化の交流が起こる場面では当然起こる現象ですが、諸外国に比べ特に日本で著しい、と観察できます。
これらは異文化の流入に対する集団心理的反応、さらにそれに喚起される国民のアイデンティティの危機意識、あるいはその不安定化への不安からくる、とみることもできます(二〇〇三年 船曳建夫「日本人論再考」)。
土着文化と外来文化との衝突は世界史上どこの国でも起こっていることです。よく知られている民族大移動、侵略征服、植民移民、布教活動などに伴って文化間の軋轢が起こります。ある民族文化が急激に変容していく場合、その文化の本質は何か、アイデンティティは何か、という考察は当然なされるでしょう。その文化圏内外の知識人の研究対象となります(紀元前四三〇年 ヘロドトス「歴史」など)。
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これら命あるものが生きていることの証拠は、まさにいま私がこうして自然を身の回りに感じている、自分は生きていると感じるところにあります。特に自分の死を意識する老人などは自然の美しさに感じ入ることが多そうです。
ちなみに死の気配は現在の地球全体にある、という認識も昨今言われはじめています。地球生物は六回目の大絶滅に向かいつつある。その原因はもちろん人類の活動です。
いのちが美しいのは、いま私がそれを感じているからです。そうであれば、私が死んでしまえばそれを感じるものがいないから、それはなくなってしまう。世界は、私がいなくなってもなくなるはずはないから、そのままあり続けるでしょう。しかしそこに命の美しさはない。
いや、私がいなくなっても、だれかが、いのちの美しさを感じるだろうから、それはこの世界とともに残るはずだ、ともいえます。しかしどうもこのような話になるとはっきりしないところがある。
「この世界ははっきりとここにあって、同時に、私ははっきりとここにいる(拙稿19章「私はここにいる」)」とはっきり言ってしまって良いのか?
いのちは、確かに美しい。けれどもそれは同時にはっきりしないこの私の世界の中にあるようです。■
(yy77 いのちの美しさについて end)
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生物体を高分子情報の制御系であるとみれば、自然環境における核酸タンパク質系自己複製構造へのダーウィン理論の超長期にわたる作用結果が驚異的な複雑性多様性を実現しうることは納得できます。
一方、ミクロな高分子機構の作動結果を、電子顕微鏡を使わない一般人のマクロな視覚聴覚で感知しようとすれば、生物個体全体を見て分かる特徴的な運動や形態変化をとらえて、非生物とは異質の、目的志向の存在感を感知するしかないでしょう。
この直感的な認知の対象を、いのち、ライフという語で表現し、いのちは美しいあるいは怖いという感情で反応することは人類普遍の生得的感性です。
生物現象を高分子の結合エネルギー分布から分析する二一世紀の現代生物学とはむしろ無縁の、この素朴な直感生物観は時代錯誤の非科学として否定されるべきものでしょうか?しかし科学者といえども感性としては無視できないこの素朴な世界観は、逆に見れば、人間存在のコアではないか、ともいえます。
目的をもって存在しているように見えるものを、生きている、というならば、自然は生きているといえるでしょう。草も木も虫も生きている。
鳥も獣も、ペットや人間も、もちろん生きている。そうであれば目の前に満ち溢れているいのちは美しい。生きているだけで美しい、といえます。自分もまた、命を持つものであり、美しいものにつらなっている、と思えます。
この感性から人は、たぶん、人生とその終焉、死も認知していくのでしょう。トロツキーも西行も近づく死の気配を感じながら、いのちの美しさを語っています。
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生物は機械である、という科学的理論からすれば、命を愛でる感性は感情的な錯誤です。それは擬人化である。雷を疑人化して雷神とみることも同じ。生物はすべて人のように命を持っている。命あるものは心も持っているらしい、とも思える、となります。
これは幼稚な、非科学的ダメ理論でしょうか?幼稚園児や小学生はだいたいこう思っているでしょう。ふつうの大人でも、実は多数の人は、こういうものの見方をしている。
つまり生物は人間を代表として鳥獣、魚類、虫けら、植物と、意識が弱くなりだんだん下等ないのちになってくる、と思っています。この見方によれば、当然、意識をはっきり持ち、目的をしっかり持っている人間やそれに似ている哺乳類や鳥類が生物の完成形ということになります。
このような感性は現代生物学の常識からすれば錯誤ですね。哺乳類鳥類など大型の見栄えのいい生物はDNA分子進化の枝葉末節であるという理論が現代生物学の常識です。人間やサル、犬、雉などよりも大腸菌のほうが生物の代表である、となっています。つまり見方が逆ですね。科学者でない一般の人は、逆方向から生物現象を見ているので根本的に間違っている、ということになります。
しかし現代科学からは取り残された十九世紀的なこの目的論的生物観は科学者以外の一般人にとっては疑ってもいない常識です。
自然の美しさと自然の多様性からくる神秘感は、一九世紀まで高尚な学問とされた博物学の立脚点でした。これがまた一九世紀中ごろのラマルクやダーウィンが進化論を研究する動機にもなっていました。つまり進化論から始まる現代生物学の最初の出発点もまた目的論的な神秘感であったといえます(一九七七年 山根 銀五郎「生命の概念 鹿児島大学理学部紀要」)。
DNA分子構造の解明(一九五三年 ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック「デオキシリボ核酸の分子構造」)から始まり今世紀に入って大発展している分子生物学は一九世紀生物学の出発点であった神秘の生命観をほとんど消しかかっています。
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