江戸幕府で田沼意次が老中だったころ、スコットランド/グラスゴー大学の道徳学教授アダム・スミスは「国富論」を出版して市場経済における個人の自由な経済活動を擁護しました(一七七六年 アダム・スミス「国富論」)。今日、隆盛を誇る西洋資本主義の基本思想となっています。
スミスは、国が豊かになるためには、利益を追求する個人の競争が公正に行われるような社会システムが必要である、フェアネスとシンパシーを持つ個人が堂々と経済競争をする公共の場が必要である、としています。
このスミス式資本主義システムは、しかし、マルクスが指摘した(一八六七年 カール・マルクス「資本論 第一部」)ように、経済格差を蓄積し階級を恒久化するという欠点があります。
経済格差による階級対立は、前世紀には戦争によって緩和されています。戦争が簡単ではなくなった第二次世界大戦後は、政府の福祉政策によって階級対立が緩和されています(二〇一三年 トマ・ピケティ「二十一世紀の資本 LE CAPITAL AU XXIe SIECLE」)。
だがもし、資本主義の本質がマルクスの説くように経済格差を蓄積し階級を恒久化する運動であるのならば、現代それが緩和されている平和な社会は、かえってその基盤が腐食されつつあるのかもしれません。
であるからして、人は終わりと次の連続の中に生きている。人生の綿々と続く連続の中に終わりの終わりはあり得ません。
次がない終わり、とか、人生の終わり、とか世界の終わり(二〇一六年グザヴィエ・ドラン監督「Juste la fin du mondeたかが世界の終わり」)とかと言われると不思議な感じがしてしまいます。不気味な不安を感じてしまう。次がないということはないはずだからです。
途中でふっと真っ暗になる。放送事故?変なブツ切りのようなイベント。なんだ、これは。あっては困る。それはそれが世界のシンギュラーポイントのようだからです。
次がない終わり、というアイデアは形容矛盾であり使用禁止語です。小説家は、あえてこの語を使って興味を引く。ちょっと不思議感を演出できます。音楽にもあります。セルジュ・ゲンスブール(1928年―1991年)の曲はアウトロがなく唐突に終わるものがあってそこが新鮮でした。終わりの存在論を論じている拙稿も、そこを狙ってふっと終わってみることとします。■