哲学の科学

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資本主義の夢(2)

2023-03-25 | yy89資本主義の夢


そもそも世界の資本主義はどのようにして発展していったのでしょうか?海外貿易の成功で蓄積される商業利潤を産業に注入するという十七世紀オランダ、イギリスの重商主義からはじまったいわゆる株式会社式資本主義は、すぐにフランスおよびドイツに拡散しました。
ドイツの産業化では、イギリス型の民間自由経済ではなく政府主導の重化学工業化の成功でした。この形が維新期日本の政府エリートの共感を得て、日本では全速でのドイツ型産業構築が実行された、とみることができます。

江戸幕府で田沼意次が老中だったころ、スコットランド/グラスゴー大学の道徳学教授アダム・スミスは「国富論」を出版して市場経済における個人の自由な経済活動を擁護しました(一七七六年 アダム・スミス「国富論」)。今日、隆盛を誇る西洋資本主義の基本思想となっています。
スミスは、国が豊かになるためには、利益を追求する個人の競争が公正に行われるような社会システムが必要である、フェアネスとシンパシーを持つ個人が堂々と経済競争をする公共の場が必要である、としています。
このスミス式資本主義システムは、しかし、マルクスが指摘した(一八六七年 カール・マルクス「資本論 第一部」)ように、経済格差を蓄積し階級を恒久化するという欠点があります。
経済格差による階級対立は、前世紀には戦争によって緩和されています。戦争が簡単ではなくなった第二次世界大戦後は、政府の福祉政策によって階級対立が緩和されています(二〇一三年 トマ・ピケティ「二十一世紀の資本 LE CAPITAL AU XXIe SIECLE」)。
だがもし、資本主義の本質がマルクスの説くように経済格差を蓄積し階級を恒久化する運動であるのならば、現代それが緩和されている平和な社会は、かえってその基盤が腐食されつつあるのかもしれません。






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資本主義の夢(1)

2023-03-18 | yy89資本主義の夢


(89  資本主義の夢  begin)




89  資本主義の夢


幕末期一八五四年、萩の獄中で吉田松陰は倒幕後の日本の進むべき道を記述しました。

日不升則昃月不盈則虧國不隆則替故善保國者不徒無失其所有又有増其所無今急修武備艦略具礮略足則宜開墾蝦夷封建諸侯乘間奪加摸察加隩都加諭琉球朝覲會同比内諸侯責朝鮮納質奉貢如古盛時北割滿洲之地南收台灣呂宋諸島漸示進取之勢然後愛民養士愼守邊圉則可謂善保國矣不然坐于群夷爭聚之中無能擧足搖手而國替者其幾與(一八五四年 吉田松陰「幽囚録」)

国は発展しなければ衰退する。幕府の鎖国主義は誤りである。成長なければ縮小あるのみである。蝦夷からカムチャッカに侵攻し朝鮮と満州を取り、台湾、フィリピンに進んで内外に進取の勢いを示し、ともに栄え、その住民をいつくしみ社会人を育成してこそ善く国を保つことができる。国際社会での積極的外交が大事だ、との主張は当時最先端(最異端)の攘夷論でした(一八二三年 佐藤信淵「混同秘策」)。 
       
松陰門下の伊藤博文、山形有朋たちはこの道を忠実に進んで五十年後ついに日本を世界列強(一九一九年ベルサイユ条約五列強:英仏伊米日)に押し上げました。松陰の夢は、その後も実現に向けてまい進し(外交はまずかったようですが)昭和の軍国日本は、大東亜共栄圏と称する西太平洋全域から朝鮮、満州、東南アジア、シンガポール、ミャンマーに広がる赤く塗られた最大版図を達成しました。
一転、一九四五年、大日本帝国は崩壊し、連合国軍占領下の復興、非武装独立、米ソ冷戦下の経済成長に成功し、進取の勢いを示して、再び先進国の仲間入りをはたしました。敗戦でいったんは否定された明治体制ですが、その土台である松陰の国際展開主義は戦後経済の原動力となって復活を果たし、明治以来の政府の業界指導、国民の勤勉、教育制度の充実などと相まって、昭和日本の経済大繁栄を実現しました。
ソ連崩壊後の国際緊張緩和の中、日本社会はまた一転して平和享受にまい進し、安定守勢を非とする松陰の戒めに逆らい、縮小鎖国を是とする江戸期の保守思想に回帰して三十年、少子高齢化に苦しみ経済不振に落ち込んでいます。
いま、「新しい資本主義」(二〇二〇年 岸田 文雄「岸田ビジョン 分断から協調へ」)が叫ばれています。
そもそも日本は資本主義なのか?

明治維新前後、西洋の産業革命にあこがれた日本のエリートたちは富国強兵、殖産興業を国是として帝国主義と資本主義の体制作りにまい進しました。経済興隆が強国の基礎であることは幕末から分かっていましたので、薩長土肥など雄藩は率先して産業、貿易に投資し、技術と設備を開発しました。
蓄積されたそれら技術資産を明治政府が引き継ぎ、さらに民間に移すという国家資本主義が採用されました。
渋沢栄一は合本主義を唱え、政府から民間への資本循環システムを開発し銀行をはじめ五百社の会社を設立しました。カルテル、コンツェルンの産業システムが導入され重化学工業へ遷移していく日本資本主義システムの出発点といえます。






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終わりの存在論(3)

2023-03-11 | yy88終わりの存在論


であるからして、人は終わりと次の連続の中に生きている。人生の綿々と続く連続の中に終わりの終わりはあり得ません。
次がない終わり、とか、人生の終わり、とか世界の終わり(二〇一六年グザヴィエ・ドラン監督「Juste la fin du mondeたかが世界の終わり」)とかと言われると不思議な感じがしてしまいます。不気味な不安を感じてしまう。次がないということはないはずだからです。
途中でふっと真っ暗になる。放送事故?変なブツ切りのようなイベント。なんだ、これは。あっては困る。それはそれが世界のシンギュラーポイントのようだからです。
次がない終わり、というアイデアは形容矛盾であり使用禁止語です。小説家は、あえてこの語を使って興味を引く。ちょっと不思議感を演出できます。音楽にもあります。セルジュ・ゲンスブール(1928年―1991年)の曲はアウトロがなく唐突に終わるものがあってそこが新鮮でした。終わりの存在論を論じている拙稿も、そこを狙ってふっと終わってみることとします。■





    
(88 終わりの存在論 end)









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終わりの存在論(2)

2023-03-05 | yy88終わりの存在論


踏切で貨物列車の通過を待つ。長い。これ終わりがない列車じゃないのか、と心配になります。
疾走する貨物列車はいつまでも続く。轟音を立てて目の前の踏切を通過していきます。しかし終わる。
最後の車両が通り過ぎるとしばらくして遮断機が上がる。人と自転車が横断し始める。自動車が行き交います。
そうして貨物列車の通過というイベントは終わる。それはもうここにはありません。遠いかすかな振動もすでに聞こえません。列車は跡形もなく消えてしまいました。過去という記憶の中にあるだけ。
その姿も音も振動も強烈に覚えている。しかし目の前には跡形もない。踏切は空いていて前と同じようにそろそろと人や自転車や自動車が横断していきます。
貨物列車は終わった。
終わり。電車が好きな幼児はまだ待っている。次の列車を待っています。
さっきの貨物列車は今遠くの線路を走っている、はずです。それは存在している。しかし、この踏切では終わってしまいました。ここにはその終わりが存在している、といえます。

エンドロールはまだ続いている。長い。照明はまだ暗い。しかし映画はもう終わっています。あとは席を立って帰るしかありません。
がんばって座り続けていてもスクリーンは真っ暗になり、劇場は明るくなり、客はだれもいなくなります。終わりは終わらない。
実は画面中央にエンドマークが出る前から、あ、終わるな、ということが観客は分かります。分かるように編集されています。エンドマーク、エンドロール、エンディングテーマが流れる。終わりは徐々にそしてはっきりと存在し始めます。終わりが始まると終わりは終わりません。
終わりが存在し始めるとそれはずっと続く。永久に続く、といえます。
人々は終わってしまったものには関心がない。覚えてはいるがだんだん忘れてきます。もう他のことで忙しい。アイスクリームを食べに行かなければなりません。
家で見てビデオにとっておいてもメモリーにしまったまま、もう再生しません。終わったものを覚えている暇もなくなってきます。
逆に言えば、次のことに取り掛かるために、終わったことは終わってくれないと困る。次を始めるために終わりが存在する、ともいえます。次の何かを始める人が終わりを終わりと思うから終わりがある、といえます。
であるから、終わりを終わりと思う人は、かならず次の何かを始めます。では次、と進む。つまり終わりの中にはすでに次、が存在する。もちろん、次の中には次の終わりが存在し、そのなかには次の次もある。入れ子構造のようです。







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