哲学の科学

science of philosophy

現実に徹する人々(11)

2013-03-23 | xxx3現実に徹する人々

孤独で退屈な人は現実をもてあまし、あるいは趣味に、あるいはギャンブルに、あるいはスポーツに、あるいはルーティンワークに没頭しようとしますが、たいがいうまくいかない。巨大な現実の中で個人の活動の意味は限りなく小さいとしか思えません。現代人が獲得した科学や経済の法則に現れている現実の究極の確かさは、逆説的ですが、その上に確立したはずの私たち個々の人生の意味を矮小化していきます。

私たち現代人は、まず現実に徹して、そのうえで自分の人生を考えようとする。しかし、自分の人生をどうするかという問題の答は、現実の中にはない。この場合、人間にとって現実は無意味で中身のない存在です。

まず現実に徹する、という態度が間違いのもとでしょう。人間が現実に徹する場合は、(拙稿の見解では)そうすることで仲間と通じ合うためです。仲間と通じ合うことのない孤独な人にとって現実に徹することは意味がない。

まず現実から、ではなく、まず仲間と協力しともに動くことから、人間にとって物事は始まります。そこから自分が始まり、個人が始まり、人生が始まる。仲間と協力する行動の過程から現実が立ち現われてくる。そのような場面で懸命に、熱心に行動するために人は現実に徹する、という順が正しい。そうすれば、私たちは現実に徹する生活ができるでしょう。

現代は、科学と経済の発展により、現実の存在感が極限にまで強烈に現れています。私たちのこの時代、現実に徹する人々は、現実に徹することに熱中するあまり、しばしば、仲間と一緒に行動することからそれが始まっていることを忘れてしまう。しかし現代においても、(拙稿の見解によれば)人間が感じ取る現実、人生そして自分自身というものは仲間と協力して行動するための仕組みとして身体に備わっている装置であるという事実を無視することはできません(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

科学と経済に支えられて現実の存在感が完璧に近くなっている現代、なかなか現実の背景である仲間との協力の必要性を感じ取ることはむずかしくなってきています。仲間と離れて現実だけを立脚点として生きる現代の個人は限りなく孤独です。そのような個人が自分であると思う内面の感性は、現実との間につながりを見出すことはできない。現代人は現実と切り離されたその内面を言葉にすることもできない。言葉は、元来、仲間と共鳴するところに意味を持つものだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

だれの目にも見える自分の身体のほかに自分だけにしか感じられない自分の内面があると思う限り、人は現実から疎外され続ける。現実の中にあるのは自分の身体だけであって、それは自分の内面とは違う。現実の中にあるものは、自分の身分証明書、氏名、写真、肩書き、戸籍、系図、家族、友人、友人が思う自分、というようなだれの目にも見えるものです。それらは他人にとっての自分であって、自分が感じ取る内面とは違う。だれの目にも見えない自分の内面は現実の中にはない。言葉で語ることもできない。

そう思う人は、自分の身体やここにある物質、人々の認識などの現実そのものと何の関係もない自分の内面を見つめることになる(拙稿19章「私はここにいる」 )。自分の内面が嘘なのか、あるいは目の前の現実が嘘なのか、その矛盾さえも私たちははっきり自覚できない。そうなった現代人は、現実と何の関係もない自分の存在に不安を感じるようになるしかありません。

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(33 現実に徹する人々 end

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現実に徹する人々(10)

2013-03-16 | xxx3現実に徹する人々

目に見える現実だけを対象とする人生は退屈である、目に見えない内面の感情を動かすものが本質である(一九四三年 アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ『星の王子様XXI 』)、という言葉は私たち現代人に訴える力があります。

私たちは漠然とした感覚としてこれを知っているから、現実に徹する生活というものを実際に実行する人は多くありません。何があっても迷いもなくいつでも現実に徹するという態度をとる人は、現実には、ほとんどいないでしょう。

私たちふつうの人間は、現実に徹するべきだ、そうしないと損だ、と思いながらもそれを実行することはしない、と言ってよいと思います。だからこれを実行する人物像は虚構の中にしかいません。つまりこういう人物は、小説になる、ドラマになる。漫画のヒーローあるいはダークヒーローとして活躍します。ところが私たちの人生でも、たまに現実の世界でそういう人に会うこともないわけではありません。現実に、現実に徹している人を見るとき、私たちは、よくやるな、漫画の主人公のようだ、と思い、半ば賞賛し半ばあきれてその人を見ることになります。

科学と経済が発展し、個人が確立されてきた現代に至って、私たちは現実世界の存在感をどの時代の人々よりも強く感じ取っています(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。その確固たる現実の上に構築されている現代人の言語は、現実以外のものをますます表現できなくなっています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。互いにそのような言語で現実を語るしかできない現代人は、現実以外のものに感受性がない。実際私たちは、目の前の現実に対処することに忙しくて、現実以外の物事があるのかないのか考えるひまもありません。

まじめに考えてみても、目の前の現実はすべて物質的なものからなりたっていて間違いなく現実の法則通り動いていく。科学の描く物質世界であるこの宇宙や地球は間違いなく整然と存在している。自分の身体を含めて人間はすべて物質としての身体から成り立っている。これらの物質の上にある人間社会はしっかりと経済の法則で動いている。そのような現実の中で私たちは毎日の生活を生きている。私たちはそう確信しています。

この現実を知れば知るほど、現実だけがすべてではないか、と感じます。自分も現実に徹して生活すべきだ、と私たちは思います。しかし実際にはしない。

それは自分の意思が弱いからなのか?どうもそればかりではない。もともと人間が生きるということは現実に徹するということとは違うのではないか、とも思える。現実の冷然とした推移を見れば見るほど、この現実は人間にとって冷たすぎるのではないか、と思えます。

そもそも人間の身体は、仲間と協力するために現実をつくりだすようにできている(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。それは人類がそのように身体を進化させることによって存続し繁殖してきたからでしょう。そうであれば人間が現実に徹する場合は、そうすることで仲間と通じ合うためにするはずではないか?仲間と通じ合って協力を進めているところから現実が現れてくるならば、仲間と通じ合いながら現実に徹するのでなければ、現実に徹すれば徹するほど、私たちはその現実そのものにどう対処すべきかが分からなくなるでしょう。

そうであるとすれば、仲間と通じ合うことのない孤独な人にとって現実に徹することは意味がない。現実に対して本当にこうしなければならないということがない。ニヒルで退屈な人生となります。ここに現実に徹する人の多くが陥る落とし穴があります。

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現実に徹する人々(9)

2013-03-09 | xxx3現実に徹する人々

ここまでで、現実に徹する人々のイメージはだいたい分かりましたが、そもそも現実に徹する生き方というものは正しい生き方なのでしょうか?この点をここで少し調べてみましょう。

私たち現代人は、現実に徹する生き方をどう思っているのでしょうか?宗教などを軽視している現代人は、むしろ現実に徹する生き方、という言葉に魅力を感じ、賢そうな生き方だ、と思っているところがあります。しかし、これは本当に賢い生き方なのか?

現実に徹する、という言葉は、いかにも正しい考え方のように聞こえます。しかしここで注意すべきことは、人生において現実に徹するべきだ、と思うことと、実際に現実に徹することとは、かなり違うということです。実際に、徹底的に、何があっても現実に徹するということは、自分の感情、他人の感情、良心、モラルあるいは義理人情をすべて無視して冷徹に、合理的に、自分の身体を操作するということです。人生のどんな場面でも常にこういう行動を実行しているという人は、人口の数パーセントもいないでしょう。

ではそれなのになぜ、私たちは、現実に徹するべきだ、と思うのでしょうか?人は、感情に流されて、義理人情にほだされて、あるいは良心やモラルや教養に邪魔されて、冷徹に割り切ることができなかったために、しばしば損をしたり自己利益を失ったりしたことを後悔して反省します。その場合の言葉が「これから自分は、しっかり現実に徹するようにすべきだ」という戒めになることがよくある、ということでしょう。

しかし実際に現実に徹する人は少ない。その理由は、私たちがそうするべきだと思いながらも、実はそうしたくない、という気持ちも併せ持っているからでしょう。

富や社会的地位を確保するために、自分や他人の感情、良心、モラルあるいは義理人情を無視してでも冷徹に行動しようと思う人は多い。しかし実際にそうした場合、そうしてようやく手に入れた富や社会的地位が空しい、意味のないものとなってしまうという矛盾があります。

そもそも富や地位、その他、人生で人々がぜひ獲得したいと思うものは、それを保有することが人の心に強く響くからでしょう。それを持つことが、称賛、尊敬、あるいは嫉妬、怨嗟などの強い感情を他人に抱かせることができる、という理由で私たちはそれを獲得したい。

ところが、現実に徹する人であるということは、その人々が人間の感情に関心がないということです。この人々は、称賛、尊敬、あるいは嫉妬、怨嗟などの強い感情を他人に抱かせることに関心がないはずです。したがって現実に徹する人々が富や地位を獲得できたとしても、それらは獲得したいと思ったものではないということになります。パラドックスです。

多くの人は、漠然とした感覚としてではあっても、これを知っています。それで、実際に現実だけに徹するという行動はしない。

もともと富や地位への欲求は、個人の内面の価値観から始まっている場合がしばしばです。家族の幸せのために富や地位がほしかった場合、プライド、自尊心、あるいは他人への優越感、あるいは劣等感の克服のためにそれらがほしかった場合、あるいは恨みや見返したいという感情など、相当に個人的な、内面的な価値がその欲求の根源であるケースが多いといえます。

これらの価値観は、人生の早い段階、子供のころから思春期のあたりまでに身につくものでしょう。幼少期、あるいは青年期に身体に染みついた価値観は自覚できないまま、人生の目的になっていることがあります。その目的に近づくことで安心できる。楽しくなる。その理由を本人は分かりません。私たちの人生において目的の追求というものは、無自覚の深い感情に根付いている、といえます。

ところが、現実に徹する人の場合、その生活態度は、何事にも個人的、内面的な価値を認めないこととなるので、喜怒哀楽がない、成功感も挫折感も優越感も劣等感も称賛も嫉妬もない。ニヒルな生活態度です。

自分の感情にも人の感情にも関心がない。パラドクシカルですが、人々と感情を交換することで感動するなどということのない、退屈な人生となってしまうでしょう。実際、権力の絶頂にあった王様や大富豪が人生に退屈していたという皮肉な状況が歴史、伝記などに記されています。

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現実に徹する人々(8)

2013-03-03 | xxx3現実に徹する人々

最後に、金や出世を追求しないにもかかわらず現実に徹する人の中に少数ですが、さらに別のタイプとして分類するほうが分かりやすい人々がいます。人生に熱心とはいえないタイプです。

明日の人生に懐疑的というか、明日に備えることが重要であるということを素直に信じられない人たち。明日の人生を期待できなくて、今日現在の物質的な力だけを信じる。明日を期待して社会的に努力しても、うまくいくとは思っていない。だから何事も懸命にする気になれない。何も努力を傾けるほどの対象として信頼できないから何事も熱心にしない。人と感情が通じ合うことに疑念を持っているので、人のために何かをしたり、してもらったり、ということがない。したがって、人との交流にも熱が入りません。人付き合いに不熱心、怠惰にみえる。生活のすべてにわたって不真面目で怠惰なニヒリストにもみえる。こういう人たちもまた、現実に徹する人、と言えないこともありません。

俺たちに明日はない、というアウトローはこのたぐいでしょう。死刑確実な囚人もこうなってしまう人が多いでしょう。また、人生の辛酸をなめた老人などにこのタイプが多いでしょう。ところが現代人、特に日本の若い人たちの中にこのタイプが増えている、という観察もありそうですね。若年寄現象というのか、面白い、といっては不謹慎ですが、少子高齢化を患う国にさもありそうな、もしかしたら人類の明日を暗くするような現象であるのかもしれません。

以上をまとめると、現実に徹する人々について、次のことが言えそうです。

まず、エリートのように経済的社会的地位を求めて人々を操作しながら攻撃的な人生を懸命に生きている人は現実に徹する場合が多い。また対極的ですが、社会的弱者あるいは病弱などで防衛的な人生を懸命に生きている人も、また現実に徹する場合は多い。淡々とルーティン的人生を送っているように見える人々の中にも、その日常的作業において熱心であるがゆえに現実に徹する人もいます。またこれらとは別に、明日の人生に懐疑的な怠惰なニヒリスト、老成した人、あるいは若年寄的な若者のようにみえる人たちの中にも、現実に徹する人はいるようです。

要するに、懸命に熱心に人生を生きている人々は現実に徹する人々であることが多い。一方、明日の人生に懐疑的である人々の中にも現実に徹する人はいます。この二つのグループの共通点は、人との感情の交流を信じないために実質上、孤独である、という点です。

これらを合計すると、人口のどれくらいの割合になるのか? どんな場面でもどんな事態でも徹底的に現実に徹するという人は、現実には、まずほとんどいないでしょう。そのように見えるという人を拾い上げても、人口のせいぜい数パーセントくらいでしょう。しかし、自分は現実に徹するべきだ、とか、どちらかといえば現実に徹しているつもりだ、と思っている人の割合は、現代の日本など先進国では、ずっと多くて、人口の五分の一か四分の一あるいは半分に近いと数えることもできそうです。

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現実に徹する人々(7)

2013-02-23 | xxx3現実に徹する人々

趣味嗜好など快楽を求めず退屈から逃れようともしない。快適な住居や衣服、道具を手に入れることに熱心ではない。つまり快不快に鈍感で、人々が楽しんでするようなことに関心を持たないし、ふつう人が嫌がることもいやではないらしい。義理付き合いや仕事関係以外では人と一緒に飲食しない。仕事以外、電話もメールもあまり使わない。ブログもツイッターもしない。文通しない。自分史を書かない。自慢話をしない。遺書も残さない。人生全般にクールというか、冷淡な態度にみえます。

恋愛や結婚や育児にも冷淡。ペットを飼わない。無用な勉強はしない。見栄を張った発言や態度をしない、見栄のための住居、自動車、アクセサリーなど高価な財物を持たない。肩書きや賞をほしがらない。ファッションはさえないけれども不潔ではない。住んでいる部屋も簡素で整理整頓されている。ルーティンワークや家事はけっこうきちんとやる。変人とみられないように義理付き合いはする。いいも悪いもあまり人間臭くない。

まあ、こういう人は生活費も最低限なので、収入も多くは必要としないでしょう。収入があっても交際や見栄や娯楽教養などに使わず、貯金にまわっていきます。

たとえば、母親が死んだ次の日にガールフレンドと海水浴に行ったりする(一九四二年 アルベール・カミユ『異邦人 』)。こういう些細な行動は、ふつうは人に見つかりませんが、犯人になったりした場合、冷血の証拠としてマスコミや法廷での非難告発に使われたりして人々の憎しみを買います。小説ではハードボイルドの殺し屋などにこういうキャラクターが登場するところをみると、憎まれ役として意外な人気がある、ともいえます。

さてこの人たちに関して不思議なのは、エリートや悪人に見られたように熱心に人生の何かを追求していてその達成のための戦略を立てるために現実に徹するという必要がないのに、なぜ現実に徹するのか、という点です。この人たちが現実に徹するように見える理由は、積極的に現実を利用しているのではなくて、人の内面を信じないことから現実だけを認めていることが顕著に見えてしまう、ということでしょう。何かを目的として現実に徹するのではなくて、現実以外のものを期待しない、といういわば消極的な態度から来ていると推測できます。

そういう場合、金銭的利益の獲得や社会的出世はある程度あきらめているということがあります。何かの理由で、金や出世は手に入らないものだと思い込んでいるらしいところがあります。こういう人は、金や出世を追求しないにもかかわらず現実に徹する人、といえます。差別されている社会的弱者、病弱や身体障害などを抱えている人、あるいは身体的な劣等感が強い人、あるいは事故で家族を失った人、戦争に負けて生き残った人、あるいはいつの間にか自分は社会に受け入れられないと思い込んでしまっている人、などは人生に防衛的であるがゆえに現実以外のものを期待しないという人になる場合が多そうです。

こういう人たちの中には、ルーティンワークや家事はけっこうきちんとやる、という人が多いようです。家計など金銭管理はきちんとする、変人とみられないように義理付き合いはちゃんとする、というように、毎日淡々と実行していることは、熱心にしています。この点、この人たちも、攻撃的なエリートや悪人と同じように人生に熱心である、ともいえます。そうであれば、広い意味で、人生に熱心であるがゆえに現実に徹する人々、と分類することができます。

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現実に徹する人々(6)

2013-02-16 | xxx3現実に徹する人々

では次に、別のタイプとして、熱心に何かをするというのではないが現実に徹する、という人のことを調べてみましょう。たとえば、平凡なサラリーマンで金も出世も望まず黙々と毎日のルーティンをこなしている人が、実は現実に徹する人である、というケース。これはちょっと分析がむずかしいケースです。しかしこういう人々は、実はけっこういるらしい。興味をひかれます。

サラリーマン的な、平凡でいわば平穏であるが、人から見れば、いささか退屈な人生を送っているだけなのに、実は、現実に徹する生き方をしている。文学のモデルでは、冒頭に挙げたラーセン船長(一九〇四年 ジャック・ロンドンシー・ウルフ海の狼)』)もある意味、実はインテリであるのに地味にアザラシ猟船の船長などをしているサラリーマン的人物ともいえます。あるいは死刑囚ムルソー(一九四二年 アルベール・カミユ『異邦人 』)も平凡なサラリーマンでしたが、現実に徹する人であったがために死刑になってしまった、ということができるでしょう。

まあ、現実に徹するといっても、こういう、現実に徹するがゆえに協調性のなさそうな人たちはサラリーマンとしても、仲間と意気投合しないのでチームワークはだめですね。そうなるとふつう出世は無理です。衛星携帯電話などない時代の船長のように孤立した環境の管理職か、あるいは非正規社員がさせられるようなルーティンワークに従事する場合は、出世はしなくとも、まあまあやっていけるでしょう。いずれにしろ、並はずれた実力を発揮するか、あるいはよほど懸命に演技して上司や同僚の共感や同情を得られるように装えない限り、サラリーマンとしての出世はむずかしそうです。

こういう平穏ではあるが金儲けや出世に縁のない退屈な現実に徹する人たちは、本当に金も出世も望んでいないのでしょうか?たとえば愛する家族のために、もう少し豊かで名誉ある地位を確保したいと思っていないのでしょうか?人生の目的というものを持たないのでしょうか? 

ちょっと不思議ですね。ラーセン船長などは、操船にはまじめに取り組んでいるし、船乗りへの威圧的管理など毎日のルーティンな仕事をこつこつとこなしている。実は楽しんでいる、というようにもみえます。死刑囚ムルソーも、殺人を犯すまでは、下積みのサラリーマンとしての平凡な毎日を楽しんでいたようにもみえる。

人物像として書き出してみると、この人たちは、宗教もモラルも善悪も天国も地獄もない、この世は弱肉強食、死んだらナッシングだ、と思っていて、人の言葉を信じないから人と心を通わせることもない。まことに孤独です。それがさびしいとも思っていません。しかし蓄財や出世に懸命なわけではなく、平凡な社会人としかみえない平穏かつ(他人が見たら)退屈な日常を送っている人たちです。人生の目的として、たとえば金や出世を得る、あるいは家族や友人と仲良く暮らす、ということを目指していない。そうであるから目的を達成するための戦略を立てる、ということはありません。

金や出世など人生の目的を懸命に追っているエリートや悪人は、目的に向かって進む行動自体が現実に徹する態度を表現しています。しかし、目的を持たないのに現実に徹する人たちはそもそも積極的な行動を示さないので、その仕事や(政治・経済)活動から現実に徹する生き方をしているのかどうかを見分けることがむずかしい。

この人たちは、言葉では、もちろん本心は言いませんから、見分けられません。人が見ていないときにする些細な行動を詳細に分析しないと見分けられません。したがってふつう、こういう人たちが世の中にかなりの割合でいるということも知っている人は少ないでしょう。

些細な行動の癖や習慣にこの人たちの特徴が隠れています。

たとえばギャンブルをしない。宝くじを買わない。おみくじを買わない。占いをしない。ゲームをしない。小説を読まない。映画を見ない。寄付をしない。賽銭をしない。趣味のサークルに入らない。友達と酒を飲まない。

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現実に徹する人々(5)

2013-02-10 | xxx3現実に徹する人々

さて悪人もエリートも非エリートも含めて、現実に徹する人たちに多い傾向は、熱心に何かをしているということです。そうでない人たちもいますが、そのケースは後で調べるとして、まずは熱心に何かをする人のことを調べましょう。

熱心にお金をためる人。熱心に出世や成功を目指して働いている人。熱心に子供を育てている人。熱心に科学、学術を研究している人。熱心に会社や団体を経営、運営している人。皆、現実に徹する人たちです。こういう人たちは、かなりはっきりした目的を持って毎日、何かをしています。こういう人の中には現実に徹している人が多そうです。熱心に何かを達成しようとして物事を操作するために現実に徹することになるのでしょう。

小説にもよく出てきます。ハードボイルドのダークヒーローたち。危険を冒さず安全に徹するというプロの手順を踏みながらターゲットを確実に抹殺する殺し屋(一九六八年 さいとう・たかお『ゴルゴ13』)。着実に縄張りを広げる暴力団の組長。会社を次々と乗っ取って巨大な権力を握る実業家。閨閥を利用して地位を維持する財閥のオーナー。院政を敷いてトップ人事を握ることで官僚機構や象牙の塔や白い巨塔を維持する黒幕ОB。現実に徹しています。

いや悪人とは限らず、社会のいろいろな所に、この、現実に徹する人、はいます。この人たちは決して「私は現実に徹している」などと言って自慢することはありません。むしろモラルや友情など、現実以外のことにも大いに関心があるように装っています。しかし、実はモラルは持っていない。友情も演技です。暴力や権威や欲望や金力を信じ、それを利用しています。まさに現実に徹しているといえます。

このように熱心に頑張る人たちの人生の目的はバラエティに富んでいるように見えます。しかしまとめると要するに、自己存続,自己増大でしょう。

自己の存続と増大を目的とする場合、最良の戦略は、たいていの場合、現実に徹することです。そうであれば、現実に徹する人は、人生における自己の存続と増大を目的として最良の戦略をとっている人である、ということが分かります。

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現実に徹する人々(4)

2013-02-02 | xxx3現実に徹する人々

さて一方、エリートでない人々の中にも現実に徹する人は、もちろん、います。実際、エリート層ほど割合が高くはないけれども、けっこう多そうです。職人、兵隊、主婦などにもいそうです。しかしこれは、理論としては、ちょっと分かりにくい現象です。

エリートでないふつうの人々。名もなく黙々と毎日のルーティンワークをこなしている人たち。こういう多数派の人々は、ふつう、常識的な人生観を持っています。親と同じようにこつこつと働く人生を過ごし、子や孫を育て、周りの人たちと仲良く生きていきます。誠実に人々と交際し、仲間との間に共感や同情を持ち、助け合うことができます。

特定の宗教の信者であったりなかったりしますが、いずれにせよ、自分として誇れるモラルはしっかり持っています。義理人情、人の気持ちや感情を無視してまでも現実に徹する、というような考え方はしません。しかし実は、こういうふつうの人と同じと見える人たちの中に、少数派ですが、現実に徹する人が隠れていたりします。

一見ふつうの人なのに現実に徹している人々。そういう人の人生に対する考え方はどうなっているのか? 仲間とも仲良さそうに見えます。宗教行事など適当に参加している。モラルについても会話や行動では仲間に合わせています。しかしもちろん、現実に徹している人ですから、宗教もモラルも実は信じていない。

こういう人は、自分の感覚だけを信じている。

世界に関しては物質的、物理的な力だけを信じる。現代の科学、医学は信頼する。暴力や武力や権力は感覚的に感知できるから信じる。そういうものが現実だと思う。人の言葉は信じない。人のうわさは信じない。テレビや書物や先生の言うことも信じない。人が言ったり書いたりすることの半分は嘘だ、と思っています。

人はだれも自分がかわいいだけで、口では何ときれいなことを言っていても、実は自己利益や自己顕示を求めている、と思う。

神様なんていない。信仰や道徳や法律や自由平等はまやかしである。愛とか誠とか心の安らぎとかは嘘。そんなものがこの世にあると思っている人は錯覚しているか、だまされている。天国も地獄もない。死んだらナッシングだ。世間の人間関係も、一皮むけば食うか食われるか、弱肉強食。競争に負けて食われるか、事故か病気で身体が壊れてしまえば人生はおしまい。人はそうして死ぬしかない。

そういう考えを持っています。しかし、自分の周りの人にはそれを言わない。そういう人たちが、ふつうの人に混ざって少数ですが、たしかにいます。

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現実に徹する人々(3)

2013-01-26 | xxx3現実に徹する人々

さて、社会学的には、このような現実に徹する人間は社会に何パーセントくらいいるのか、あるいは、どういう職業、階層、集団に多いのか、などを問題とすべきでしょう。実は、こういうことは学問的には研究されていないようです。その理由は、まずこの人々の定義がしにくいこと、したがって問題を定式化しにくいことでしょう。だいたい、拙稿本章で興味の対象としているこの、現実に徹する人、という人をどうやって見分ければよいのか? 簡単ではありません。

「あなたは現実に徹する生き方をしていますか?」と質問してもその回答で見分けることは不可能でしょう。たいていの人は、現実が分かっていないと思われるのは嫌ですから、「はい、もちろん現実に徹して生きています」と答えるでしょう。しかし、その人たちの行動は、明らかに現実に徹していません。皆に喜ばれるから試合で頑張る。まじめに質問されると、言わないほうがよいことでもつい気が引けるから本当のことを教えてしまう。というような行動をいつもしています。そういう行動は結果的に得する場合もありうるでしょうが、たいていは得しません。

結局、その人の行動を詳しく長期にわたって観察し分析すれば、その人がどの程度、現実に徹する人かを定量的に評価することは可能でしょうが、大変な調査コストがかかります。それ以外に簡単に識別する方法はなさそうです。

そうであるとすれば、学問的興味で研究するには調査にコストがかかりすぎて無理です。したがって残念ながら、今までもこれからも、当分はこのテーマに関しての社会学的研究はなされそうにありません。実際、現時点ではきちんとした社会学的調査データはないようです。したがって拙稿としても、アカデミックでない世間常識的な方法で憶測するしかありません。

さて、現実に徹する人間は社会に何パーセントくらいいるのか?

まず本章で例示する現実に徹する人は、極端な人物像の例を挙げて描写していますから、これは人口分布の端にしかあたりません。つまり無視できるほど少ない。数パーセント以下という感じでしょう。本当に徹底的に現実だけに徹する人を探せば、ゼロパーセントかもしれない。逆に極端な典型ではないけれど、こういう傾向がある程度強い人ということになると、ぐっと増えて人口の10~20%ともいえることになります。

結局、人間はだれもが、大なり小なり、いくらかは現実に徹する傾向があるのでしょう。その傾向の程度を「徹する」という語で表現しているだけということです。つまりこの質問(現実に徹する人間は社会に何パーセントくらいいるのか?)は実はあまり意味がない、トリビアルな質問です。

さてそれでは、人種、民族との関連はどうか? これも残念ながら、信頼できる調査結果はないようです。ただし理論的にはある程度相関がありそうです。というのは、この現実に徹するという傾向は、文明化、都市化が進むほど強く表れるからです。つまり欧米、日本、あるいは都市化の進んだ国などに多い、と思われます。

次に職業、階層との関連はどうか? 冒頭の例に挙げた遠洋漁船の船長など、独裁的な権力を持つ経営者管理者には現実に徹する人が多いと思われます。現実に徹しないとやっていられない人生を送っているからでしょうね。

具体的には、医者、法律家、官僚、軍隊指揮官などいわゆる知的管理的職業、社会的に重要な専門的行為をする人、多くの人の運命を預かる操作行為をする人、社会の支配層を形成する人、などの中でも有能な人は、現実に徹する人でしょう。いわゆるエリート階層ですね。

その中で有能といわれる人たちは、現実に徹する人、という表現があてはまるでしょう。ラーセン船長なども野蛮な船乗りでもありますが、主人公のインテリ青年ハンフリーと対等な教養知識を備えているように描かれているので、当時二十世紀初頭の欧米におけるエリート階層出身の人なのでしょう。

このように、エリート階層には現実に徹する人の割合が多い、といえそうです。

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現実に徹する人々(2)

2013-01-19 | xxx3現実に徹する人々

ところで拙稿の見解では、現実というのは目や耳で感じ取れる身の回りの事物の現実感から世界を感じ取り、周りの仲間の動作や表情を見取ってその世界が現実であることに間違いないと確信する人類共通の神経機構が集団的に共鳴を起こすことで現れてくるはずです(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。

そうであるとすれば、仲間の動作や表情に素直に共鳴できない場合は現実感がなくなる、あるいは薄れる、ということが起こり得る。深い孤独に陥ったとき、人となじめないとき、自分だけの個人的事情たとえばひどい不運あるいは自分の身体の障害、病気あるいは自分自身の死、に直面するとき、人は現実に徹することがむずかしくなるでしょう。そういう場合、現実に徹するはずの人は、どう感じ、どう考えるのでしょうか?

現実とは何か、をめぐっていろいろ議論してきた拙稿としては、興味がある話題です。

まず現実に徹する悪人たち。こういう人たちは、人間の誠意など信じていませんから、まず本心を語ることはありません。しかし、その本心では何を考えているのでしょうか?何を信じているのでしょうか?

こういう人は、自分の感覚だけを信じているのでしょう。

まずは物理的力を信じる。鉄砲で撃てば人は死ぬ、富や社会的地位を与える者に人はなびく。このような武力や権力は感覚的に感知できるから信じる。そういうものを現実と思う。人を操作するために自分も嘘をいうから人の言葉は信じない。人はだれも自分がかわいいだけで、口では何ときれいなことを言っていても、実は自己利益や自己顕示を求めている、と思う。

神様なんていない。信仰や道徳や法律や自由平等はまやかしである。愛とか誠とか心の安らぎとかは嘘。そんなものがこの世にあると思っている人は錯覚しているか、だまされている。天国も地獄もない。死んだらナッシングだ。毎日は食うか食われるか、弱肉強食。負けて食われるか、事故か病気で身体が壊れておしまい。それまでは、勝って勝って勝ちまくればよいのだ。

こう信じている自分は悪人と言えばその通りだが、やましいことはない。なぜならば、自分は悪人でないと思っている人たちも自分が実は悪人であることを知らないだけなのだ。そういう人たちに遠慮する必要はない。現実はそういうものだ。

こういう考え方の人は、現実に徹する。ひたすら金や権力、自己顕示を求める。金と権力を限りなく求めて大成功すれば、昔ならば王様、現代では独裁政治家か大富豪になれるでしょう。成り上がった王様や独裁者、大富豪が必ずしも現実に徹する人とは限りませんが、むしろ二代目以降の王様や大富豪などには、いかにも現実に徹する人がかなりいそうです。

王様として権力を維持するには、君主論に書かれているように冷徹なリアリスト、あるいはマキアヴェリスト(英語では正しくはマキアヴェリアン という)になることが正しそうです。敵は容赦なく殲滅する。ライバルは陥れる。あるいは謀殺する。忠実な側近で身の回りを固める。強力な宣伝機構を確保する。秘密警察を強化する。

現代の国家でもこういう独裁者に率いられている政府はいくつもあります。ほかの国からは独裁国家とか、悪の帝国とか呼ばれますが、けっこう独裁元首はしっかり継承されて何世代もの長期にわたって体制が維持されていますね。いくつもの会社を持つ大富豪なども似たようなやり方で周りを支配しているケースがあるようです。

国など大きな単位ばかりでなく、小さな規模でこういう支配を続けている人たちはずっと多くいます。小さな会社や団体、あるいはもっと小さな党派、派閥などの内部も、しばしば、こういうマキアヴェリ的統治で成功した人が牛耳っていたりします。先に挙げたラーセン船長もこの類でしょう。

現実に徹する人の典型は、このように、政治的、経済的、あるいは社会的な成功を求めてどこまでも支配を拡大し、あるいは維持継続し、それが成功しても成功しなくても、いずれにしろ頑張り続ける、という人生を送ることになるでしょう。

ここで注意しなければならないのは、現実の社会では現実に徹する人だけが成功するわけではない、という点です。成功者の実例を調べると、むしろ理想が高くて人々の幸せを願う人がそれを目標にして努力を続ける結果、成功することが多い、といえます。誠意を持って仲間と連携できる人が、社会の中で力を集め、結局は政治的、経済的、あるいは社会的な成功を達成しています。

本章が対象としているような、現実に徹する人は、誠意を持って仲間と連携できません。自分が誠意を持つ気になれないから人の誠意を信じることができません。この辺に現実に徹する人の限界がありそうです。

小説などでは、悪人が「ろくな死にざまはできないよ」と言われたりします。どうも、現実に徹する人は、幸福な死に方はできないようです。この辺にも現実に徹する人の限界がありそうです。

こういう現実は、現実に徹する人もよく知っていることでしょう。彼または彼女は、人の共感を得るために、人に親切で同情的なキャラクターを演じようとしますが、そううまくはいかない。長い付き合いでは演技はばれる。したがってこういうような(現実に徹する)人が社会的に大成功する実例は実はあまり多くありません。

いずれにしろ、こういう性格というか、生き方というか、いわゆるこの世はこういうものであるという無意識の認識、つまり世界観、は人格に付随していますから、簡単には変わりません。一生変わらないと言ってよいでしょう。現実に徹する人は、どこまでも現実に徹する。現実の成功を求めているが故に成功できないというジレンマに陥ることもありますが、抜け出せません。

何度失敗しても、年老いても、懲りずに現実に徹した行動を繰り返す。ある意味で、対極にある理想主義者、死ぬまで見果てぬ理想を追い求めて活動する人と同じワンパターン人生といえます。

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