孤独で退屈な人は現実をもてあまし、あるいは趣味に、あるいはギャンブルに、あるいはスポーツに、あるいはルーティンワークに没頭しようとしますが、たいがいうまくいかない。巨大な現実の中で個人の活動の意味は限りなく小さいとしか思えません。現代人が獲得した科学や経済の法則に現れている現実の究極の確かさは、逆説的ですが、その上に確立したはずの私たち個々の人生の意味を矮小化していきます。
私たち現代人は、まず現実に徹して、そのうえで自分の人生を考えようとする。しかし、自分の人生をどうするかという問題の答は、現実の中にはない。この場合、人間にとって現実は無意味で中身のない存在です。
まず現実に徹する、という態度が間違いのもとでしょう。人間が現実に徹する場合は、(拙稿の見解では)そうすることで仲間と通じ合うためです。仲間と通じ合うことのない孤独な人にとって現実に徹することは意味がない。
まず現実から、ではなく、まず仲間と協力しともに動くことから、人間にとって物事は始まります。そこから自分が始まり、個人が始まり、人生が始まる。仲間と協力する行動の過程から現実が立ち現われてくる。そのような場面で懸命に、熱心に行動するために人は現実に徹する、という順が正しい。そうすれば、私たちは現実に徹する生活ができるでしょう。
現代は、科学と経済の発展により、現実の存在感が極限にまで強烈に現れています。私たちのこの時代、現実に徹する人々は、現実に徹することに熱中するあまり、しばしば、仲間と一緒に行動することからそれが始まっていることを忘れてしまう。しかし現代においても、(拙稿の見解によれば)人間が感じ取る現実、人生そして自分自身というものは仲間と協力して行動するための仕組みとして身体に備わっている装置であるという事実を無視することはできません(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。
科学と経済に支えられて現実の存在感が完璧に近くなっている現代、なかなか現実の背景である仲間との協力の必要性を感じ取ることはむずかしくなってきています。仲間と離れて現実だけを立脚点として生きる現代の個人は限りなく孤独です。そのような個人が自分であると思う内面の感性は、現実との間につながりを見出すことはできない。現代人は現実と切り離されたその内面を言葉にすることもできない。言葉は、元来、仲間と共鳴するところに意味を持つものだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。
だれの目にも見える自分の身体のほかに自分だけにしか感じられない自分の内面があると思う限り、人は現実から疎外され続ける。現実の中にあるのは自分の身体だけであって、それは自分の内面とは違う。現実の中にあるものは、自分の身分証明書、氏名、写真、肩書き、戸籍、系図、家族、友人、友人が思う自分、というようなだれの目にも見えるものです。それらは他人にとっての自分であって、自分が感じ取る内面とは違う。だれの目にも見えない自分の内面は現実の中にはない。言葉で語ることもできない。
そう思う人は、自分の身体やここにある物質、人々の認識などの現実そのものと何の関係もない自分の内面を見つめることになる(拙稿19章「私はここにいる」 )。自分の内面が嘘なのか、あるいは目の前の現実が嘘なのか、その矛盾さえも私たちははっきり自覚できない。そうなった現代人は、現実と何の関係もない自分の存在に不安を感じるようになるしかありません。
(33 現実に徹する人々 end)