哲学の科学

science of philosophy

マシンガンとスマートフォン(7)

2017-04-20 | yy56マシンガンとスマートフォン

生活はいちおう安定していて明日のパンに困るということはないが、夢中になって個人力を駆使するほどの機会がないのはむなしい。スマートフォンを使って意見や気分を表現することはできるがそれで個人力が発揮できることは、あまりないように思えます。
有名人やスターであればツイッターやフェイスブックでますます個人力を伸ばしそれを駆使して多くの人々に影響力を及ぼすことができますが、無名の個人の発信では、スマートフォンへの書き込みも知人以外に読んでくれる人はいないでしょう。
結局、個々人が同等の能力を持たされているかのように見えるスマートフォンも、それによって個人力を発揮できる人は少数の有名人のみ、ということになります。大多数の無名の人々は少数者の個人力に影響されるだけのフォロワーになるという構造は、政治的権力や金力の格差と変わらないように見えます。
大多数の個人がスマートフォンを使いこなすという現代社会最近の現象は、しかしながら、個人力の極端な偏在を防ぐという効果を持っています。特定の集団が持つ個人力の突出に対して、個人力のその源泉構造への懐疑、否定、修正の意見が次々とインターネット上に表明されることで、虚偽のあるいは有害な個人力の効果が減殺されていきます。
たとえば政治家への批判、テレビ有名人への批判、私的あるいは公的企業の管理者経営者への不満、問題発言への批判、超富裕層への課税強化提案、などがスマートフォンを通じた意見として湧き出てきます。これらは突出した個人力を保持している人々を抑え込む圧力となっています。
不特定多数の意見、狭い意味では世論と呼ばれるこれら批判、評価、評判のようなものは、個人力発揮への抑制的圧力となっていますが、その個人力の源泉がどこにあるかによって、圧力の効力はかなり違います。
まずマスコミに依拠するスター、セレブ、タレント、評論家、著作家、言論人などは、視聴者、読者に嫌われると売り上げが減る、という直接的影響によって強い圧力にさらされています。スターたちよりもさらに、マスコミの構造自体がそれら不特定多数の批判によって脅威にさらされるので、記事や番組編成の権限を持つマスコミの幹部、社員エリートたちもまた、スマートフォンの書き込みが怖い、という一種の抑制装置になっています。
政治家、官僚、公的組織の管理者、経営者などもまた、スマートフォン、インターネットの書き込みが、人事的な圧力に変換される可能性を怖がります。
一方、世界にビジネスを展開し、海外との取引が利益の大半を占めている私企業のトップなどは、日本語のマスコミやスマートフォンの書き込みなどの評判に関する怖さの感受性は半減しています。マスコミに載ることなどほとんどない著名でない超富裕層は、圧力をほとんど感じない、という実態でしょう。
超富裕層の個人力が影響を受けるとすれば、それはマスコミ、政治家などを通じた課税強化政策など、間接的圧力によります。そのような圧力は政治力ではあっても個人力ではありません。マスコミに名を知られていない超富裕層、たとえば金持ちランキングで千位から一万位くらいの層は、個人力を阻害される場面が少ないという意味でスマートフォンの攻撃にさらされない個人力のサンクチュアリ、ともいうべき領域にいます。

マシンガンの瞬間的破壊的な個人力。スマートフォンの広域的継続的な個人力。あるいはマイカーあるいはパーソナルコンピュータが備えるように見える個人力の自由な行使感覚。いずれも現代人が信じ込みたがり、依存したがる個人力の象徴ではありますが、現実にその実力は思うほどではない。それらは、現代の社会構造の中で、多数の個人力を実際に強化する道具となるよりもむしろ互いに競争し牽制しあって少数の顕著な個人力の突出を抑制し、結果的に非個人的な組織力を強化する、というアイロニカルな社会的機能を持つ、ともいえます。

マシンガン、スマートフォン、マイカー、個人用コンピュータ機器。今日、個人が使いこなせる優れた機械が簡単に手に入ります。しかしそれらの道具は、現代社会の構造の中で、個人力を拡大するかのように見える一方、それを抑制する装置でもあります。組織力に依存しながらも個人力を憧憬し、しかし構造的に個人力から疎外され続ける現代人は、それでもそれらしか頼る道具がない現実の中で、それらを身体から離すことはできないでしょう。■






(56 マシンガンとスマートフォン end)





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マシンガンとスマートフォン(6)

2017-04-07 | yy56マシンガンとスマートフォン


現実の権力者たちがオルテガの本を読んで真のエリートに改心するはずもないので、実際は、個人力を持たない大多数の大衆ならびに個人力は大いに持っているものの精神的には大衆でしかない偽エリートの組み合わせで現代社会は成り立っているのでしょう。
真のエリートは教科書の中にしかいません、というニヒルな見方ですが、残念ながら大体当たっているようです。もちろんノーベル賞に値するほどの立派なリーダーや尊敬すべき有名人はいないことはありませんが、ごく少数のそれら孤立した精神的貴族に動かされるほど現代社会とそれを構成する大衆は腰が軽くありません。
現代社会の中で絶望的に個人力を失っている多数の一般人から見れば、真のエリートであろうが偽のエリートであろうが、有名人で個人力、つまり人におよぼす大きな影響力を持っていそうな少数の人々は、憧憬の対象であると同時に嫉妬の対象であるので好きでもあるが大嫌いでもあるのです。そんな人のきれいごとの教えに従うのは嫌という感情が強くあります。
エリートやそれらセレブのスキャンダルがマスコミで執拗に追及され、人々がそれを熱心に視聴する現象は、たしかに正義活動でもあると同時に大衆的なエンターテインメントでもあることは否めません。
古代ローマの詩人は、市民にはパンとサーカスを(panum et circensus)与えておけば十分である、と揶揄しましたが、このサーカスとは円形競技場に大観衆を集める競馬(戦車競走)や格闘技(剣闘士対猛獣)など娯楽スポーツ見物のことです。
個人力を持てない一般市民はテレビやスポーツ紙、週刊誌の提供するエリートやセレブの活躍に興奮し、同時にしばしばそれら有名人たちのスキャンダルを話題にし、あきれたり真相を追及したりして正義感を満足させ同時に娯楽スポーツ見物として楽しむ、という見方でしょう。
ローマ帝国の繁栄と平和がこのような大衆の生き方を産んだとすれば、現代先進国の繁栄の結果生まれた社会状況はそれに似ているところがあるのかもしれません。








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マシンガンとスマートフォン(5)

2017-04-02 | yy56マシンガンとスマートフォン


さてそういうことで、世界全体の個人力の総和が一定であると仮定すると、個人力を発揮する側の格差を問題にすることができます。
マシンガンを持った人の個人力は大きい。しかしふつう勝手にマシンガンを発砲するわけにはいきません。たいていは軍隊を統率する隊長の命令で兵士は動きます。その場合、兵士の個人力はあまり大きいとは言えないでしょう。
軍隊は最高指揮官の命令で動く。最高指揮官は国家のトップです。そうであれば大統領とか国家主席が巨大な個人力を持つことになるはずです。また大会社のトップ、大株主、会社オーナー、超富裕層の人々は、権力と財力で人に大きな影響力を発揮しますから、当然、個人力が高い。有名人、セレブも個人力が強い。
問題は、現代のこれら個人力の大きな人々がごく少数しかいない。つまり、集中している、少数寡占の状態になっていることです。世界の個人力の総和が一定であるとすれば、そこで少数寡占状態となれば大多数の人々は個人力を奪われた状態にあることになります。

現代経済の問題点として、富の偏在と格差、と言われていますが、それと表裏をなす形で、個人力の偏在と格差、があります。貧困層や中間層から見て、超富豪の存在は羨望と嫉妬と絶望の感情を呼び起こしますが、それと同じように、個人力のない大多数の人々から見ると、著名人、セレブ、大組織幹部、経営者管理者などへの個人力の極度な集中は、現代社会において経済的不満にも勝る虚無感、絶望感を醸成しているといえます。
富の偏在と個人力の偏在は、現代社会において似たような構造を呈していますが、詳細に見るとかなり違いがあります。超富豪の存在は、そうでない人々にとってそれを思い起こす機会はあまりなく、話題に上るときは羨望と嫉妬を喚起しますがそれは抽象的なものでしかありません。一方、個人力の偏在はマスコミやインターネットを通じて大多数の人々に階層の存在を日常的に感知させます。慢性的な虚無感無力感を与えるという意味で、個人力の偏在は、現代人の社会意識に深刻な影響を与えていると思われます。

現代思想の潮流の中で、大衆とエリートの相克、というようなテーマで繰り返し理論化されてきた現代社会構造のとらえ方があります。大衆の反逆(一九二九年 ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」)という概念は、現代の民主主義・資本主義社会の分析として頻繁に引用されます。この概念の基本テーマは、大衆は社会体制維持に関心も責任も持たずしたがってそれに責任を持てるエリート層が必要、という理論を下敷きにしています。
個人力という観点から見れば、個人力を持たない大多数の人々が大衆であり、個人力を集中的に保持している少数者層がエリートということになるでしょう。しかしオルテガが描いたように、権力を持つ少数者の中にも社会維持に実は関心のない精神的大衆が多く存在して社会を腐らせているところに現代の病根がある、という理論があります。
中国共産党のトップが汚職腐敗幹部の摘発に躍起になっているというニュースを読むと、どの国でも健全なエリート層の維持はなかなかむずかしそうだという気がします。







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マシンガンとスマートフォン(4)

2017-03-26 | yy56マシンガンとスマートフォン


問題は、数百万人が享受するエンターテインメント、あるいは作品がたった一人あるいは数十人の個人力で生産されている、というところにあります。昔は、たった一人あるいは数十人の個人力で生産されるエンターテインメントあるいは創作物は、それを享受する人数もせいぜいその十倍か、多くて百倍、つまりたかだか千人くらいだったはずです。
極端に言えば、現代は、ppm、つまり百万分の一の人々がその他の人々が最も必要とするものを生産している。たとえばマイケル・ジャクソンの曲を数億人の人が毎週何時間も聴いています。ビル・ゲイツが発案したウィンドウズ概念を数億人の人が毎日数時間も利用しています。
ジャクソンやゲイツは巨万の富を得て世界の憧憬と尊敬を集め、野心に満ちた若者の成功モデルになっています。彼らの個人力は極度に強い。この類の有名人は、けれども、人口の割合では極端に小さい。その他大勢の現代人は無名人です。つまり個人力は無限に小さい。
個人力の総和は昔から人口に比例しているのではないでしょうか?なぜならば個人力を受ける側は、毎日いろいろな人から受ける個人力によって楽しんだり苦しんだりしていて、一日に他人から受ける個人力の圧力のようなものは平均すればだいたい一定でしょう。一人が受ける個人力の平均に世界人口を掛ければ世界全体の個人力の総和が求められます。
もちろんこの話は、個人力の単位をニュートンなどと決めてあるわけでもなければ、そもそも個人力の測定方法もはっきりしないわけですから、いい加減な話でしかありません。






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マシンガンとスマートフォン(3)

2017-03-18 | yy56マシンガンとスマートフォン


戦時、軍隊は切実に兵士の個人力を必要としていますから、連戦連勝の場合、兵士は戦友を信頼し充実感を持ち続けられます。マシンガンを持ち仲間の安全を守る自分の個人力を確信することができます。
会社が急成長して連戦連勝している場合、充実した兵士と同じように社員は幸せです。自分の個人力を確信できます。しかし、平和になり兵士が除隊してマシンガンを手放した場合、あるいは会社が低迷しそこでも幹部社員になれず平社員か契約社員として時間を切り売りしている場合、仲間に認められ仲間から必要とされているような個人力が自分にあると感じることはできません。
今世紀が進むにつれて、ますます多くの、ほとんど大多数の人が、自分の個人力を感じることができなくなっているようです。個人力がここまで矮小化された社会は、実は歴史上ほとんどありませんでした。
昔の人は、槍や刀や、鋤や鎌や、ハンマーやのこぎりを持っていました。それらの道具を使いこなすことで仲間に認められ必要とされました。今の人はスマートフォンを持っている。しかしそれで、どれほど仲間に必要とされる働きができるのか?
現代、私たちが必要とする生活物資やインフラや安全システムは、会社や警察や役所によって供給されています。しかしそれらは組織であって個人ではありません。それぞれの組織の内部にはごく少数の個人力の優れたエリートがいるに違いありませんが、それらの人々の割合は、非常に小さい。組織を構成する大部分の人々は、個人力を大きく働かせることはできません。
たとえば息抜き、娯楽、エンターテインメントと呼ばれるものを供給する産業は現代の消費者へ大きな影響力を持っています。昔は、お祭りや大道芸人や芝居小屋がそれを提供していました。現代は、まずテレビ、ビデオ、オンラインソフト、書籍、新聞雑誌。オリジナルデータが何万部、何百万部と複製されて販売されます。
毎日新しく供給されるそれらのイベントや作品は、確かに一人か数人の制作者がいます。またそれぞれ出演者やモデルの身体によって表現される作品もあります。しかしいずれにしろそれぞれの作品は一人か多くても数十人という少人数の個人力によって世の中に存在しています。





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マシンガンとスマートフォン(2)

2017-03-10 | yy56マシンガンとスマートフォン


マシンガンやスマートフォンのように個人力に貢献する道具が発明されて便利になったとはいえ、現代は、前世紀や前々世紀に比べれば個人力が衰えていく傾向にあります。現代人一人一人は、槍や刀を持った昔の兵士のような個人力はありません。
教育機関やマスコミやインターネットなどを通じて人々の世界観は広がり、商品は世界中から流通してきます。相対的に、近隣の一人一人の存在が矮小化される。毎日会う人々であっても、命を託して共に生きる人々であるとは感じられません。競争相手ではあっても助け合う仲間という気はしません。頼りになりそうな人が、身の周りにはいません。
個人力が高くて、本気で助け合えそうな人は身の周りにはいません。頼れそうな人はテレビや新聞で有名な著名人、セレブ、スターの中には見つけられますが、それらの人と顔を合わせることはできません。政治家や会社の偉い人や超お金持ちは個人力が高い人が多いという気がしますが、そういう人と仲良くなりたいと思っても近づくのはむずかしそうです。
そういう、自分との距離が果てしなく遠い人々だけが個人力を持っている、という現代人の感覚があります。
昔の人は、まず大家族、親族、一族郎党など、血縁、地縁にもとづいたコネクションの中で個人力の高い人に頼ることができました。大地主の伯父さんとか、陸軍隊長の従兄とかでした。現代の都市生活者は遠い親戚などとは疎遠で、おじおば、いとこはおろか、兄弟姉妹もいなかったり、いてもあまり頼りになりません。核家族だけあるいは単身で生活していて、職場の上司も組合の委員もあまり頼りにならない、という実情にある人は多いでしょう。
頼れるものは勤務先あるいは市役所などの公共組織の福利厚生という状況も多い。このような現代社会は、組織力のみが存在していて個人力の存在がきわめて薄い社会である、ということができます。
スマートフォンで連絡を取り合う仲間であっても、命を共有しているというほどの依存関係にあるわけではありません。仲良く付き合いながらも経済力や社会的地位などのわずかな格差を比較しあい、ジェラシーを感じあったり競争心を刺激しあったりする不愉快な面も大きい。戦場で戦友のマシンガンに命を託す兵士の連帯感は、平時の市民生活では経験できません。個人力は戦場で強く、平和な市民生活では希薄です。





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マシンガンとスマートフォン(1)

2017-03-04 | yy56マシンガンとスマートフォン

(56 マシンガンとスマートフォン begin)




56 マシンガンとスマートフォン  個人力の存在論

古代から中世までどこの国でも、軍隊は歩兵と騎兵だけで編成されていました。大砲とか戦車とか爆撃機とか核ミサイルは近代の産物です。
歩兵や騎兵は一人一本の槍や剣をふるって一人ずつ敵を倒していました。戦争も手作りだったわけです。
こういう状況では、一人一人の兵士の強さが重要ですが、最も重要なファクターは人数です。団結できて統率された動きができる人数が多いほうの軍隊が、ふつう勝ちます。一緒に戦う仲間が逃げないで前に進んでくれることが勝利につながり、自分の命につながります。仲間の一人一人の力が自分の命と同じくらい大事です。
個人が個人に及ぼす影響が大きい。現代人に比べて昔の人々は、ふつうの人個人の影響力が互いに大きい。このような状況を、個人力がある、ということにしましょう。
社員個人の戦力とか、女子力とか、個人の力のようなものを概念化する言葉は受けやすい。あいつは個人力がある、といういま筆者が思いついた言葉がネットで流行してほしいとは思いますが、むりでしょうね。

さて拙稿本章では、拙稿のいうこの個人力なるものがいかに存在し、時代によって、特に現代にいたって、どう変わってきたか、についてすこし調べてみます。
現代の軍隊で歩兵の武器はマシンガン(正しくは自動小銃あるいはassault rifle)です。槍や旧式銃に比べれば効率が良い。短時間で多くの敵を殺せます。仲間の兵士から見ても、サバイバルの成否は共に戦う兵士の数と力量に依存しています。このような場合、一人一人の個人力は高い、といえるでしょう。歩兵隊は町を占領し、守り、住民の治安を維持することができます。混乱する無法地帯では、マシンガンで武装した歩兵が究極の政治力の源泉、といえます。
現代、情報化時代になり、個人が持てる力の象徴は、スマートフォンなど携帯電話端末である、ということもできます。個人が一人一個を身に着けて二十四時間通信することができ、またインターネットを通じて世界中の情報と接触できます。これはまさに現代的政治力の源泉ではないか、ということができそうです。個人が個人に及ぼす影響という点でも非常に大きい。何千人の人々に「国会の前に集まろう」と呼び掛けて大集会を開くこともできます。
いつでも応答してくれる。いつでも大事な情報をくれる。鮮明な画像や動画を送ってくれる。スマートフォンを使いこなしている人は個人力が高い、といえます。









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