哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ息をするのか(18)

2009-09-26 | xx0私はなぜ息をするのか

ところが、この自然科学の対象となるごく小さくて狭い部分、つまり物質現象の世界に関する予測能力が、現代人の生活の根幹を支えている。その理由は、これら科学が対象とするものたちの状態変化が、科学を使うことによって定量的に精密にかつ正確に予測できるからです。現代の私たちが生きていくために必要な物質、食べ物、エネルギー、医療などは、すべて物質現象に関する科学の強力な予測能力のおかげで手に入るものです。

 一方、私たちの毎日の生活では、科学や物質のような無味乾燥なものよりも、生き生きとした言葉で表される人との会話や人間関係、テレビ、新聞、マスメディアが言葉で語りかけてくる事件や事故や争いや世相などニュースやイベントを大事なものとして感じ取っています。つまり、私たちにとっては、言語で表されることのほうが、物質そのものよりもずっと大事なのです。しかしそういうものの実態と変化は科学に比べてつかみにくい。精密に測定できないし、今後の変化もうまく予測できない。日本の新政権は安定するのか、今年の不景気がいつまで続くのか、だれも、まったく予想はできません。

さらに、私たちが意識的に強く感じることとして、人の表情や感情や場の雰囲気など言語で表しにくい物事はたくさんあって、それらは言葉よりもさらに重要と思われるのですが、言葉以前の直感としても、それを正確につかむことはとてもむずかしい。まして、そういうものごとの変化を正確に予測することは不可能に近い。

最後に、意識さえできないけれども私たちが身体の深いところでいつも感じているらしい直感的な気分や内部感覚、不安感、孤独感、自信のなさ、安心感、人の信頼感、不信感、敵意、連帯感などは、実は一番大事なものかもしれませんが、ぜんぜんコントロールできません。予測などできないし、それらがどう存在するのかさえ、うまく表現することがむずかしいわけです。

こういうふうに私たち人間は、いつも、いろいろな物事を感じてそれがどう変化するかを予測しながら生きている。予測が正確なほど、上手に生きられることは確かでしょう。意識も言語も科学も、(拙稿の見解では)人間の生存上重要な物事の予測を正確にするための装置として次々と出現し、進化の過程で人間の身体と社会に備わるようになった。

私たちが感覚や感情を通じて意識するこの世界も、言語で言い表す概念の世界も、科学が描き出す物質世界も、どれもその世界が実在するかどうかということが重要なのではなくて、いずれも(拙稿の見解では)人類の身体に備わった予測装置として、それらの仕組みが実用的な予測を行い、人間の身体をうまく生存させ繁殖させているという事実が重要なのです。

なぜ、この世界はこういうふうになっているのか? それは、世界をこういうふうに感じ取ることで実用的な予測ができるような身体を作り上げた結果、地球全域に繁殖することに成功した動物が私たちだからです。

私たちは生きている限り、息をしている。私たちは、ふつう無意識に息をしている。空気中の酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すということのためだけならば、無意識に呼吸していればよい。自分が息をしているかどうかを知る必要はありません。それで、動物としては生きていけます。実際、人間以外の動物が、自分が息をしていることを知っているとは思えませんね。

酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すということ以外の目的で空気を肺に入れたり出したりする場合、私たちはその吸気あるいは呼気の運動を意識する。

仲間に信号を送り仲間と運動を共鳴させるために、動物は呼吸運動を意識的に応用して声を出すことがある。多くの哺乳動物は、声を聞いた仲間の行動を予測しながら声を立てます。人類は、さらに、声に情報を載せて仲間に伝える仕組みとして言語を作りました。私たちは意識して言語を操る。その言葉によって聞き手が起こす感情と行動を予測しながら言葉を話します。

言語を使って人類は、社会を維持し、文明を作り、科学を作って、自分たちの身体の構造を解明する。科学によれば呼吸運動の動きも予測できます。神経細胞や筋細胞や赤血球の分子構造の変化のレベルから、現代科学は、呼吸という現象を詳しく説明できます。

そのように自分の身体を描き出す科学の強い存在感を感じ取り、それが描き出す物質世界を唯一の実在する現実の世界だと私たちは思う。しかし(拙稿の見解では)そこに現代人の大いなる間違いがあります。ここに哲学が大きく間違ってしまう分かれ道がある。よほど注意して見なければ、その分かれ道のところから正しい道が通じていることに気づくことはできない。しかし、見えにくいけれども、正しい道は真ん中に通っている。

それは無意識の呼吸運動のように、私たちの身体が自律的に動き続けているところからすべての現実が生まれているという事実です。自律的に動き続ける身体をうまく誘導して(食べ物を獲得するなど)生存に必要な運動を効率的に実行するために、(拙稿の見解では)私たちの身体は、現実を感じとる装置を身につけるようになった。逆に言えば、それを現実と感じ取れば生存に便利なような感じ方ができるものが現実となった。そういう現実が感じ取れるように進化した動物の子孫が私たちだからです。

哺乳動物の進化の過程で、目の前で変化する物体や運動する動物体の変形と移動の予測装置が身体に備わってくる。その予測装置が予測した状態に自分の身体を誘導するために、(拙稿の見解では)類人猿の進化の過程で、現実を感じ取るという仕組みが人類の身体に備わるようになった。その機構が、脳の内部に意識を作り出し言語を作りだし科学を作り出した。それに対応して私たちの外部には意識できる現実世界や人間社会や言語表現や科学的に説明できる物質世界が、それぞれの現実として、映し出されていくようになった。

身の回りの環境を生々しい現実と感じ取って、それに反射的に対応するように身体運動を誘導することで生存繁殖に便利な行動を作り出す。(拙稿の見解では)そういう仕組みの身体を持つように人類は進化した。科学が描くような物質のあり方が現実と感じ取れれば、道具を操作して物質をコントロールする場合にとても便利です。それで私たちはこの物質世界を生々しい現実と感じる。人の心がよく分かり、人々の作る空気を敏感に感じ取れれば、現代の社会の中を生き抜いていく場合に相当便利です。それで、そういう社会に暮らす私たちは、現代社会の人間関係を生々しい現実として感じ取るような身体を持つようになる。言語表現を生々しく感じ取れれば、会話を重んじる社会生活で有利です。それで言葉の操り方そのものをまたひとつの生々しい現実と感じて、私たちは社会を生き抜いていくようになりました。

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私はなぜ息をするのか(17)

2009-09-19 | xx0私はなぜ息をするのか

私たちが直感で感じる世界(世界A)から理論と実験観察によって科学が作られる。その科学の理論を整理して作られた方程式の解として物質から成り立つ世界(世界B)が記述される。こういう関係を、「世界Aが世界Bを含む」と言うわけですね。一方、物質世界Bの中にある物質としての人体(特に脳)の状態が科学の方程式に従って変化することで直感世界Aが現れてくる。こちらの関係からは「世界Bが世界Aを含む」と言うことができる。

どちらか一方が他方をちゃんと含み込めるなら、それで分かりやすい。しかし、世界Aと世界Bとの関係は、どうもそうではない。直感世界Aは、主体XがYをしようとしてYをするという組み合わせ(X、Y)の集合で作られているのに、科学世界Bは時間と空間をパラメーターとする数学方程式で作られている。私たちからみれば、科学世界Bは理論計算で分かるだけです。直感では感じられない。私たちが直感で感じられる物事は直感世界Aでしかない。

科学など無視してしまえば、話はすっきりする。昔の人々は、科学など知らなかった。それでも、世界についての、あるいは人生についての大事なことは、現代人の私たちと同じくらい、あるいは私たち以上に、よく分かっていた、と(拙稿の見解では)思われます。

現代人は科学に惑わされすぎている、という人は多い。拙稿の基本的な見解もこれに近い。しかし、科学を全部無視するというのは乱暴すぎるので、拙稿としては、科学は部分的に正しい、としておきましょう。

科学は、実験観測ができることだけを対象として作られている。つまり、科学は人と人が言葉を使って正確に共有できることだけを基礎にして作られている。言葉を使って正確に共有できることは、実は、私たちが感じること全体の小さな一部分でしかない。それは、結局は目に見える物質の世界、あるいは、目に見える物質から明らかに推論できる理論的物質世界だけです。それ以外のことについては、科学は何もいえない。言葉で私たちが毎日話し合っていることについてさえも、科学は何もいえないことが多い。たとえば、このラーメンはなぜおいしいのか?なぜ、このラーメンはあのラーメンよりもおいしいのか?科学は答えられません。

さらに、私たちが言葉で表せないものは実に多い。ラーメンのおいしさについて、あるいは、私の背中の痒みの微妙な不快感を表したい場合、言葉は無力です。こういう場合、科学はまったく無力です。二重に無力です。まず、科学は言葉で記述できないものには無力です。さらに科学は言葉で記述できるものについてでも物質に関する言葉で記述できないものには無力です。こういうことですから、科学が活躍できる世界は、実は、とても狭い。科学世界が直感世界を含むことなど、とてもできません(たとえば一九八六年 フランク・ジャクソン 『メリーは何を知らなかったのか』既出)

その狭い科学が、私たちの生活には不可欠になっている。私たちが毎日の生活で必要とする物質やエネルギーは、ほとんどすべて科学が生み出している。それらは科学が持つ驚異的に強力な予測能力によって可能となっている。物質をどうすれば物質がどうなるか、私たちは科学を使うことで正確に知ることができます。適用範囲は狭いけれども正確無比な予測能力。これが現代科学の特徴でしょう。

一方、私たちの直感はあらゆる物事を感じとる。人間関係、人の心、自分の気分、物事の美醜、好き嫌い、体調。きわめて広い。そのかわり、まず正確な予測はできません。いわゆるフィーリング。これらは正確な言語表現さえもできないものがほとんどでしょう。つまり逆にいえば、言語は私たちが直感で感じとるもののうちのごく一部しか表現できない。言語が言い表せるものは、(拙稿の見解では)人と人とがはっきりと運動共鳴できるものだけです。そして、言葉で言い表せないものは、科学の対象にはできない。

結局、私たちの身体が感じるもの全体は(拙稿の見解によれば)次のように分類できる。

〔全体〕感じられる物事すべて。五感、物の存在感、距離感、時間感覚、立体感、速度感、体性感覚、内臓感覚、自分の気分、快不快、物事の美醜、好き嫌い、体調、暑い寒い、恐怖、理由のない不安、不満、人間関係、人の心、人への信頼感、不信感、敵意、軽蔑、憎悪、嫉妬、愛情、仲間意識、尊敬、やる気、むなしさ、安心感、幸福感、おかしさ、楽しさ、その他のフィーリングなどもろもろ。

〔意識的なもの〕私たちが感じとれるもの全体のうちのある部分が、はっきりと意識的に感じとられていて、それらの変化に関する予測がなされる。逆に言えば、(拙稿の見解では)私たちの内部でその対象の変化に関する予測がなされるとき、そしてそのときに限って、私たちはその対象を意識的に感じているといえる。そして予測されたものは記憶され、学習される。その学習によって、私たちは、私たちがそれを意識したと思う。

〔言語的なもの〕前項のように意識的に感じられるもののうちのある部分が、人と人とが、それの変化に関して、はっきりと運動共鳴できて、その結果の予測を皆で共有できる。この場合、それは言語によって表現される。逆に、言語で語られるものすべてはこのカテゴリーに入る拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」。なお、そのうちのあるものは抽象概念になり、複雑な理論に組み上げられるが、それらはしばしば強い存在感を伴って人々に共有される。たとえば神話、伝説、学問、科学、倫理、哲学、宗教、政治理論、俗信、通説、人生訓など。

〔科学的なもの〕前項のように言語によって表現されるもののうちのある部分(物質に関する自然現象)は、科学的に実験観察できるのでその結果、科学的に理論化され実証されて科学的に予測される。これら〔科学的なもの〕に関する私たちの予測精度は、現代科学の大成功によって驚異的に正確になってきている。そのため、現代人にとっては、科学の描く物質世界、人間が完全にコントロールできる人工物、都市、機械、エレクトロニクス、マスメディア、医学、工学などが、現実のすべてであるかのように受け取られている。

このように、私たちの身体が感じるもの全体を四段階に切り分けていくと、どんどん小さな部分を切り出していくことになる。私たちの身体が感じるもの全体のうちで、意識できるものはごく小さな部分と思われる。その意識できるもののうちで、言語表現が可能なものは、またごく小さな部分でしょう。さらに、そのうちで科学の対象にできるものとなると、またまたさらに小さな狭い部分です。

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私はなぜ息をするのか(16)

2009-09-12 | xx0私はなぜ息をするのか

生物ではない物質現象も、この形式で、私たちは捉えていく。雨は地面を濡らそうとして降る。風は私たちの間を通り抜けようとして吹く。川の水は海に帰ろうとして流れ下る。花は咲き誇るために咲く。星は夜空を飾るために輝く。

しかし、一方、私たちは、自然が目的を持っているようには見えないことも知っている。自然はあるがままにあるように見える。自然は自然の法則にしたがって変化していくだけと思えます。自然に関して、こちらの見方を徹底していくと科学になります。

(X、Y)、つまりXがある目的を持ってYをする、というこの世界認知形式は、物質現象一般の表現にはかならずしも適していない。科学を作ろうとすると、これは使えません。たとえば現代科学にはこの(X、Y)〔Xがある目的を持ってYをする〕という認知構造はありません。

現代科学の描く物質世界は、時間空間をパラメータとする数学方程式の解ですべてが決まってくる。ある時刻の空間の各点の状態が決まれば、世界のすべてはその状態を出発点として連鎖的に変化していく自動的なプロセスに過ぎない。

物質世界は、それぞれの物質Xが何かの目的を持ってYをすることで変化するものではありません。ふつう人間は、世界の中のXに注目し、Xがある目的を持ってYをするから、Xのまわりの世界はYというシミュレーションで予測されるように変化する、と見なしている。民主党は格差を是正する。あるいは自民党は経済を発展させる。私たちはそう思っている。これは直感に従っていて素直なものの見方ですが、科学と矛盾しています。つまり、人間の直感は科学と矛盾している。

ちなみに、昔の哲学者が熱中した自由意志の問題もこの類ですね。人間の直感と科学が描く客観的物質世界との矛盾です。あるいは、現代哲学でいわれる「意図的解釈」(一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出。あるいは古典としては一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図 など)も似た議論ですが、拙稿の見解では、これらの哲学問題も、私たちの脳に備わった予測機構が引き起こす見かけ上の問題に還元される。

それはこういうことです。

人間の直感による世界の認知は、脳の予測機構の働きで自動的に現れる。目の前に見える物事Xを見て、私たちの直感は、Yが起こることを予測する。このXはYをしようとしているな、と思う。無意識のうちに身体がそう感じる。予測機構は過去の学習によってYという動きの予測ができるようになっているからです。いま目の前で起こっているYを見る前から私たちはYがどう変化するかを知っている。人間はそうして、世の中のもろもろの事柄を理解する。そういう予測機構を身体の中に備えている。

私たち人間が感知する世界は、すべからく予測機構によって捉えられてくる。予測機構は、XがYをすると予測する。世界の変化は、すべてそういう(X、Y)からできている。

そういう私たちが、自然現象を観察していくと、それらはどう見えるか?

「月が東から西へ天空を回っている」

「リンゴが木から離れて地面をめがけて落ちる」

「リンゴの種からリンゴの木が生える」

「万物は低いところを好む(アリストテレス)」

「自然は真空を嫌う(アリストテレス)」

というように自然現象を記述していく。XがYをする。XはなぜYをするのか? XはYをしたくてYをする。私たちはそう思います。そうして、そういう(X、Y)の表現形式ですべての自然現象を羅列するやり方でいくと、天動説は作れるが、地動説は作れない。

 そこへ突然、近代物理学が登場した。ニュートンが発見した数学方程式を使うことで、地動説が完璧に表現できる(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)。そうなると、こんどは自然について(X、Y)の形で人間が表現できるすべての記述はニュートンの方程式で描き出される世界のごく一部分を表現しているに過ぎないことが分った。それが19世紀までの近代科学です。

20世紀に入って、ニュートン物理学は拡張されて相対性理論と量子理論ができあがり現代物理学の基礎が整えられた。物質世界の記述はさらに完璧なものになった。私たちの目で見えるすべての物質現象は、これらの物理学理論による方程式で計算できるようになりました。宇宙の果ても生物の進化も、巨大な銀河系の変化も原子核の崩壊もすべての物質現象はこの現代科学で説明できる、と私たち現代人は思っています。

科学の方程式は、ふつうの人間が感知できない世界のことも、もちろん、記述できる。原子力の原理、遺伝子の原理など、ふつうの人の直感ではとても想像できない。

人間が直感で感知する(X、Y)の世界(これを世界Aとします)と科学の方程式で記述できる物質世界(こちらは世界Bとしましょう)とは、互いにどういう関係になっているのか? 人間が科学を作ったという観点からは世界Aが世界Bを含む。一方、(X、Y)という形の現象はすべて科学方程式で説明できるという原理からは、世界Bが世界Aを含む。

ここで、「含む」という言葉が問題になりそうです。

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私はなぜ息をするのか(15)

2009-09-05 | xx0私はなぜ息をするのか

ようするに、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識が(X,トイレに行く)という物事の捉え方を裏から支えている。物事の裏にあるこの知識によってXの行為が予測できるからこの行為は認知される。

人間ならだれもが、(X,トイレに行く)というシミュレーションを、Xに成り代わって自分の身体を使って簡単に実行できる。トイレの場所が違っていても、トイレの形が違っていても、男子用でも女子用でも、このシミュレーションは実用上だいたい同じ内容を表現している、といってよいからです。

このことは、「トイレに行く」という言語表現で端的にあらわされています。しかしながらここで重要なことは、言語表現以前に(X,トイレに行く)というシミュレーションが(日本語が分かる限り)だれの身体にも共有されている、ということです。このシミュレーションは人間の意識的運動を導く世界の分節化のひとつになっている。席を立ってトイレに行く。階段を降りてトイレに行く。トイレのドアを開ける。・・・。

トイレに行くことは、人によってわずかずつ違う運動様式になるし、それもいろいろな細かい運動を連ねて実行するかなり複雑な行動ですが、人間Xがだれであっても、どのような仕方でそれらの運動を実行するにしても一かたまりのシミュレーションで表現される。人間の身体を持っていれば、(日本語が分かる限り)トイレに行くというシミュレーションの意味は、だれでも自分の身体の動き方によってよく知っている。そのシミュレーションを拙稿では(X,トイレに行く)という記号で表しています。(X、Y)という形のシミュレーションを使うことで人間のする運動はすべて表現できます。そのように人間の意識的運動が分節化されているからです。

つまり、人間の意識的運動は、分節化された物事ごとに分類されていて、それぞれのシミュレーションが私たちの身体の中に作られている。物事の動きは、そのシミュレーションによって表現され、その変化の予測がなされる。こうして世界にあるもろもろの物事の変化の仕方が、人々に共有されて身体の中に予測機構の構造として(拙稿の見解では、脳の運動形成回路の最上層=言語回路の基礎になっている部分として)作りこまれています。

それらのシミュレーションに対応して、言語が作られていく。私たちの身体に作りこまれているYというシミュレーションをYという言葉で表現する。「トイレに行く」というシミュレーションを「トイレに行く」という言葉で表現する。「食べる」というシミュレーションを「食べる」という言葉で表現する。あるいは、この場合は「お食事をする」と言ってもよい。だいたいは同じシミュレーションを表現しています。

こういう動作を表す言葉で人間の運動は分節化されている。それは言葉が作られる以前に、その運動のシミュレーションが作られているからです。それはその運動の結果を予測するシミュレーションです。人間がする運動は、他人がする場合であっても自分がする場合であっても、どんな場合でもいずれかのシミュレーションによって予測できる。それは「Yをする」という言葉に結びついている。

逆にいえば、「Yをする」という言葉があるとき、その運動の結果が何を引き起こすかが、その言葉に付随するシミュレーションによって予測できる。それでその言葉の意味が分かる。換言すれば、私たちは、自分たち人間の運動をこういうふうに分節化して予測することで捉えていくような身体機構を持っている。この予測機構が人類の生存繁殖に有利に働いたから、私たちの身体はこう進化した、といえます。

この(X、Y)。XがYをする、という表現形式。Xがある目的を持ってYをするという言語の構造は、しごくあたりまえのように見えます。世の中は、すべからく(X、Y)からできている。あたりまえではないか、と思える。しかし、拙稿の見解では、これはあたりまえではない。

これは(拙稿の見解では)哺乳動物特有の生活形態に適応して進化した脳神経機構が作り出す認知構造です。哺乳動物が運動する物体を視認するときに脳の運動形成回路が共鳴する仕組みから来ている。Xがある目的を持ってYをする、という物事の捉え方は、(拙稿の見解では)獲物を追ったり捕食動物に追われたり仲間に追従したりする哺乳動物が相手の動物の動き方を予測するために便利だったから哺乳動物の神経回路の中に定着した予測計算手法です。それがさらに進化して人類の言語活動に特有な世界認知の仕組みになった拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

言語は、(拙稿の見解では)仲間の動きと共鳴する人体の無意識なシミュレーション機構を発音運動に連携させて作られた人類特有の認知システムです。原始人類の狩猟採集生活に便利だったから進化した神経活動です。仲間の人間や獲物や猛獣の動きを捉えるのにとても便利な仕組みになっている。

Xがある目的を持ってYをする。人間や動物が動くのはそれで何かを得ようとするからだ。Yという動きをするのは、その動きの結果によってある目的を果たすためだ。Yという動きにはその目的が何かということまで現われている。と、私たちは感じる。つまり、XがYをする、と思うと同時に、私たちは、XがYをする目的を知っている。

このように目的を志向する運動とその運動を起こす主体との組み合わせとして世界の変化をとらえていく認知の仕組みは(拙稿の見解では)、人間が仲間の人間や獲物や猛獣の動きを捉えるのにとても便利だから、進化によって身体に備わった神経機構です。これは自然世界の原理原則を理解するために発達した認知方法ではありません。ただ、生存繁殖に便利だったから人間の身体に備わった便宜的な認知方法です。

私たちは、仲間の人間や獲物や猛獣の動きばかりでなく、世界の物事の変化をすべて、この形式で予測し理解する。仲間の人間との仮想運動の共鳴によって、物事の変化についての予測を共有し記憶を共有する。私たちが関心を持つあらゆる物事について、その物事が何を目的として動いていくか、その結果はどうなるか、についてだれとでも共有できる予測機構を私たちの身体は備えています。それが(拙稿の見解では)この世界をつくり、それを意識してその中で行動していく自分というものを作っています。より正確に言えば、(拙稿の見解では)私たちが、物事の変化を予測しそれを共有して行動することで、この現実世界が意識される、といえます。

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