ところが、この自然科学の対象となるごく小さくて狭い部分、つまり物質現象の世界に関する予測能力が、現代人の生活の根幹を支えている。その理由は、これら科学が対象とするものたちの状態変化が、科学を使うことによって定量的に精密にかつ正確に予測できるからです。現代の私たちが生きていくために必要な物質、食べ物、エネルギー、医療などは、すべて物質現象に関する科学の強力な予測能力のおかげで手に入るものです。
一方、私たちの毎日の生活では、科学や物質のような無味乾燥なものよりも、生き生きとした言葉で表される人との会話や人間関係、テレビ、新聞、マスメディアが言葉で語りかけてくる事件や事故や争いや世相などニュースやイベントを大事なものとして感じ取っています。つまり、私たちにとっては、言語で表されることのほうが、物質そのものよりもずっと大事なのです。しかしそういうものの実態と変化は科学に比べてつかみにくい。精密に測定できないし、今後の変化もうまく予測できない。日本の新政権は安定するのか、今年の不景気がいつまで続くのか、だれも、まったく予想はできません。
さらに、私たちが意識的に強く感じることとして、人の表情や感情や場の雰囲気など言語で表しにくい物事はたくさんあって、それらは言葉よりもさらに重要と思われるのですが、言葉以前の直感としても、それを正確につかむことはとてもむずかしい。まして、そういうものごとの変化を正確に予測することは不可能に近い。
最後に、意識さえできないけれども私たちが身体の深いところでいつも感じているらしい直感的な気分や内部感覚、不安感、孤独感、自信のなさ、安心感、人の信頼感、不信感、敵意、連帯感などは、実は一番大事なものかもしれませんが、ぜんぜんコントロールできません。予測などできないし、それらがどう存在するのかさえ、うまく表現することがむずかしいわけです。
こういうふうに私たち人間は、いつも、いろいろな物事を感じてそれがどう変化するかを予測しながら生きている。予測が正確なほど、上手に生きられることは確かでしょう。意識も言語も科学も、(拙稿の見解では)人間の生存上重要な物事の予測を正確にするための装置として次々と出現し、進化の過程で人間の身体と社会に備わるようになった。
私たちが感覚や感情を通じて意識するこの世界も、言語で言い表す概念の世界も、科学が描き出す物質世界も、どれもその世界が実在するかどうかということが重要なのではなくて、いずれも(拙稿の見解では)人類の身体に備わった予測装置として、それらの仕組みが実用的な予測を行い、人間の身体をうまく生存させ繁殖させているという事実が重要なのです。
なぜ、この世界はこういうふうになっているのか? それは、世界をこういうふうに感じ取ることで実用的な予測ができるような身体を作り上げた結果、地球全域に繁殖することに成功した動物が私たちだからです。
私たちは生きている限り、息をしている。私たちは、ふつう無意識に息をしている。空気中の酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すということのためだけならば、無意識に呼吸していればよい。自分が息をしているかどうかを知る必要はありません。それで、動物としては生きていけます。実際、人間以外の動物が、自分が息をしていることを知っているとは思えませんね。
酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すということ以外の目的で空気を肺に入れたり出したりする場合、私たちはその吸気あるいは呼気の運動を意識する。
仲間に信号を送り仲間と運動を共鳴させるために、動物は呼吸運動を意識的に応用して声を出すことがある。多くの哺乳動物は、声を聞いた仲間の行動を予測しながら声を立てます。人類は、さらに、声に情報を載せて仲間に伝える仕組みとして言語を作りました。私たちは意識して言語を操る。その言葉によって聞き手が起こす感情と行動を予測しながら言葉を話します。
言語を使って人類は、社会を維持し、文明を作り、科学を作って、自分たちの身体の構造を解明する。科学によれば呼吸運動の動きも予測できます。神経細胞や筋細胞や赤血球の分子構造の変化のレベルから、現代科学は、呼吸という現象を詳しく説明できます。
そのように自分の身体を描き出す科学の強い存在感を感じ取り、それが描き出す物質世界を唯一の実在する現実の世界だと私たちは思う。しかし(拙稿の見解では)そこに現代人の大いなる間違いがあります。ここに哲学が大きく間違ってしまう分かれ道がある。よほど注意して見なければ、その分かれ道のところから正しい道が通じていることに気づくことはできない。しかし、見えにくいけれども、正しい道は真ん中に通っている。
それは無意識の呼吸運動のように、私たちの身体が自律的に動き続けているところからすべての現実が生まれているという事実です。自律的に動き続ける身体をうまく誘導して(食べ物を獲得するなど)生存に必要な運動を効率的に実行するために、(拙稿の見解では)私たちの身体は、現実を感じとる装置を身につけるようになった。逆に言えば、それを現実と感じ取れば生存に便利なような感じ方ができるものが現実となった。そういう現実が感じ取れるように進化した動物の子孫が私たちだからです。
哺乳動物の進化の過程で、目の前で変化する物体や運動する動物体の変形と移動の予測装置が身体に備わってくる。その予測装置が予測した状態に自分の身体を誘導するために、(拙稿の見解では)類人猿の進化の過程で、現実を感じ取るという仕組みが人類の身体に備わるようになった。その機構が、脳の内部に意識を作り出し言語を作りだし科学を作り出した。それに対応して私たちの外部には意識できる現実世界や人間社会や言語表現や科学的に説明できる物質世界が、それぞれの現実として、映し出されていくようになった。
身の回りの環境を生々しい現実と感じ取って、それに反射的に対応するように身体運動を誘導することで生存繁殖に便利な行動を作り出す。(拙稿の見解では)そういう仕組みの身体を持つように人類は進化した。科学が描くような物質のあり方が現実と感じ取れれば、道具を操作して物質をコントロールする場合にとても便利です。それで私たちはこの物質世界を生々しい現実と感じる。人の心がよく分かり、人々の作る空気を敏感に感じ取れれば、現代の社会の中を生き抜いていく場合に相当便利です。それで、そういう社会に暮らす私たちは、現代社会の人間関係を生々しい現実として感じ取るような身体を持つようになる。言語表現を生々しく感じ取れれば、会話を重んじる社会生活で有利です。それで言葉の操り方そのものをまたひとつの生々しい現実と感じて、私たちは社会を生き抜いていくようになりました。