哲学の科学

science of philosophy

生物学の中心教義について(2)

2017-07-22 | yy58生物学の中心教義について


では、それに伴って生命の謎がなくなってきたかというと、そうではなく、ますます謎は深まる。クリックのころとは別の意味で、中心教義は、その存在そのものが大きな謎として浮かび上がってきました。
いったいなぜ、生物はここまで複雑で精密な構造を完璧に複製して子孫に継承するのか?人工の機械は、自己複製などまったくできません。人間が製造する機械で最高に複雑なものは原子力潜水艦や宇宙ステーションなど数百万個の部品から組み上げられていますが、生物に比較すると単純極まりないといえます。
生物はどうかというと、最も単純な細菌などでも遺伝子の数にして数千個、タンパク質の種類も数千以上となるので、核酸塩基の数が百万、アミノ酸の数が数千万となり、その他の糖鎖、高分子鎖も部品と数えると数億の部品数になり、その複雑さは、それぞれ構造の違う宇宙ステーションを数百基くらい組み上げたシステムに匹敵するでしょう。
これだけ複雑なシステムが毎回正確に間違いなく整然と複製されていくプロセスを人工の機械と比較して想像すると、気が遠くなるほど高度な設計がなされていると思わざるを得ません。
生物以外のものに比べて、生物というものはなんと複雑にできているものであるのか?このようなものがどうしてできあがったのか?という謎は現代科学最大の疑問の一つでしょう。

クリックが発見した中心教義によって、生物の構造原理は分かりました。この教義は「生命とは、自己を複製する自動機械である」というデカルト以来の生命観を、具体的に分子構造を示すことによって立証しました。しかし、デカルトの時代に機械の代表として考えられていたゼンマイ時計や現代の自動運転自動車、さらには宇宙ステーションを持ってきても最も簡単な構造の細菌に比べれば月とスッポンくらい複雑さの程度が違います。もちろん細菌が月です。
さらに細菌を百万倍くらい複雑にしないと作れないようなゴキブリや人間の身体などの構造の複雑さを想像すると、気が遠くなります。











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生物学の中心教義について(1)

2017-07-15 | yy58生物学の中心教義について

(58 生物学の中心教義について begin)




58 生物学の中心教義について

生物学の中心教義(central dogma)とは、DNA構造の発見者であるフランシス・クリック(一九一六―二〇〇四)によって一九五八年に提唱された地球生物すべてに共通する生物体の構成法則です。
細菌、動植物あるいは人間であろうとも、あらゆる生物の身体は物質として同一の部品から同一の構成法則に従って作られています。
DNAの配列(genotype)からアミノ酸の配列順序が一義的に決まっていて、それによりタンパク質の構造が決まり身体の形状や動き(phenotype)が決まってくる。身体の形状と動きがそのDNA配列を複製する能力を維持できる場合、その生物は自身と同じ形状の子孫を残し種として存続する。そういうような物質分子の部品が秩序よく複雑かつ巨大に組み上げられたシステムが生物である。という法則です。
たしかにこれは現代生物学の基礎原理です。
しかしこの法則を中心教義と名づけたことがおもしろい。

中心教義とは、ふつう宗教で使う信仰の原理などを指す語です。科学の仮説なのに、クリックはなぜこんな宗教のような用語を使ったのでしょうか?後日クリックが語ったところによると、彼は単純にキャッチコピーとしてインパクトの強い語を使いたかったというだけだったそうです。
しかし現代生物学の父祖ともいえる業績を残したクリックの教えはまさに偉大な教義とも言ってよいでしょう。自分が基礎を作った学問が巨大な科学に育っていくことを見越して、彼は、教祖のような言葉を残してみたかった、と言えなくもありません。

筆者は大学生のときアメリカ帰りの新進の若い生物学助教授からこの言葉を聞き、それこそこの世の謎を解き明かす秘儀を教わったような気になりました。生命の神秘というものはこれだったのか、というような意味で、まさに秘密の教義でした。

その後数十年、今日までに分子生物学は大発展し、多くの生物のDNAは解明され、細胞構造はもちろん細胞を構成するタンパク質、核酸、糖鎖その他重合分子の構造、機能、システム機構が詳細に解明されてきました。遺伝子工学の技術は生物種を改変し人体を改造する可能性までを示しています。










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宇宙人はいるか(11)

2017-07-09 | yy57宇宙人はいるか

一九六九年七月二〇日、地球人は月に着陸しました。筆者は、宇宙服を着たニール・アームストロングとバズ・オルドリンがカンガルーのように月面で跳ねている現場中継動画をリアルタイムで見ました。科学技術庁宇宙開発推進本部のテレビでした。その後、一九七二年一二月のアポロ一七号を最後に人類は、地球以外の天体を訪れていません。
当時、米国は冷戦を戦い抜くために科学力の優位を見せつける必要があったため、NASAには膨大な開発予算が認められていました。今日世界のどの国もその規模の宇宙予算を支出していません。地球近傍の軌道を離れて月や火星に宇宙飛行士を派遣する計画は、近い将来には予算化されることはないでしょう。
行き先が太陽系外はもちろん、太陽系内であろうとも、地球に似た地球的天体から宇宙へ飛び出すことはたいへんなエネルギーを必要とします。
地球的天体は重力が大きいので、宇宙へ飛び出すための速度エネルギーを作り出す巨大な装置が必要です。実際、現代の技術ではロケットを使うしかありません。ロケット以外の技術概念は提案されていますが、たとえば電磁カタパルト、軌道エレベーターなど、いずれもロケットよりさらに格段に巨大な装置になり実現可能性はありそうにありません。
ロケットを使う場合も、宇宙飛行士の身体に比べて数万倍の機体とエンジンや燃料を必要とする大規模なシステムとなるのでそれだけコストがかかります。将来の技術発展を見越しても、宇宙システムは飛行機や自動車のように廉価な量産品にはなりにくいでしょう。
地球人類における宇宙開発のこの事実が、UFOがめったに来訪しない理由を示している、といえます。つまり、異星人はなかなか故郷の星から飛び立たない。なぜならば宇宙飛行のリスクとコストは、彼らがする他の社会的経済的活動に比べて格段に大きいため、それを超克するほどの強い動機が見当たらないからです。
個人で賄える程度のリスクとコストであれば、それを試みる冒険家が必ず出てきます。大西洋横断飛行をなしとげたリンドバーグ、エベレストに初登頂したヒラリー。彼らの背景には国家的援助があったとしても、その規模はアポロ計画の百分の一くらいでした。どんなに英雄的な個人であっても、計画段階で国家予算による援助は出ません。
国家予算が投入された現在の国際宇宙ステーションあるいは過去のアポロ計画にしても、数人の人間を地球から数十万キロメートルくらいの高度までしか打ち上げていません。
宇宙のかなたでUFOによる超長距離遠征計画を練っている異星人も、それに必要な巨大なリソース、つまりそのための巨大な物理的装置を作り上げるのに必要な資金調達が足かせになって、地表面から飛び立つことはできないはずです。

宇宙人はいる、といっても科学的には証拠がない。いない、といっても証拠がない。この問題はしたがって、科学の対象ではありません。
にもかかわらず拙稿としては、宇宙人は存在する、としたい。それは、宇宙人が存在しないと困ることがあるからです。
地球人類以外に宇宙人がいないとすると、科学の法則を知っているのは地球上の人類だけということになります。科学は宇宙のどこでもいつでも普遍的に同じ法則が働いているはずであるのに、そのことを知っている存在は太陽系の一惑星である地球という天体に住む動物のたった一種である人類だけというのは、どうもおかしい。
人類という地球の一動物種は宇宙の特異点なのか? 特異点がないはずの宇宙像を獲得したはずの人類が、自分自身特異点になっていてよいのでしょうか?そんな人類が解明した科学やそれが描く宇宙像はいかがなものでしょうか?宇宙全体にとって普遍的な法則と言って大丈夫ですか?
つまり、宇宙人が存在しないとすると科学の普遍性が崩れる。そうなると、その普遍性を担保として科学的相対視点に立脚していることになっている拙稿の立場も怪しくなります。つまり拙稿が困る。宇宙人がいないとすると拙稿のような書き方ができなくて困るから宇宙人は存在する、と拙稿としては言いたい。

たぶん宇宙のどこか、はるかかなたにある地球に似た天体の上で、拙稿と同じようなことを言っている宇宙人がいるに違いありません。それが拙稿本章の結論です。■






(57 宇宙人はいるか end)





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