哲学の科学

science of philosophy

日本という国民国家(3)

2025-01-26 | その他


一九六二年五月一二日、堀江謙一(一九三八年― )は単身で全長5.83mの小型ヨット(マーメイド号)を操船して兵庫県西宮を出港し、太平洋を横断航行して、同年八月一二日、アメリカのサンフランシスコに入港しました。航海日数は九四日でした(一九六二年 堀江健一「太平洋ひとりぼっち」、拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
当初、大阪入管事務所による「小型ヨットは当然ビザが必要になる」との違法性嫌疑が主なマスコミ報道でした。その後、サンフランシスコ市長が名誉市民として受け入れたとのニュースが報じられると、マスコミは一転して快挙を称えました。
一九七〇年二月一一日、鹿児島県之浦町の東京大学宇宙空間観測所からラムダ4S型ロケットが打ち上げられました。失敗を乗り越えて五度目の打ち上げは成功し、無事人工衛星を軌道に乗せました。日本はソ連、米国、フランスにつぎ、世界で四番目に人工衛星を誕生させた国となりました(拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
大隅半島内之浦の発射場には人工衛星「おおすみ」の記念碑が立っていますが、その隣にプロジェクトの推進者糸川英夫(一九一二年ー一九九九年)の像があります。
糸川教授は当時世間的に全く少数派の宇宙愛好家とマスコミを相手に「ロケットニュース(一九六二―)」を発行していました。筆者がその編集係をさせられていたころは、低調な月刊誌で新聞の宇宙関連記事をスクラップして一枚紙の裏表に印刷してリストに郵送するだけの細く長いミニコミでした。
小惑星表土を世界初で回収した探査機「はやぶさ」が着陸した小惑星の名は「ITOKAWAイトカワ」と命名されました(2003年)。
一九七〇年二月、内之浦から打ち上げられた日本最初の人工衛星が長楕円形の初軌道を回っているころ、筆者は通信衛星用大型ロケットを開発する宇宙開発事業団(NASDAのちJAXA)の初代社員として開発計画を作らされていました。麻布台にあった本社企画課の隣室は役員室で、理事長の留守にソファーで居眠りをしていて叱られました。理事長は、新幹線を開発した島英雄氏でした。大柄の老人で、日本最高の技術者として貫禄のある人でした。新幹線は美しさでも姫路城と並ぶ日本の技術遺産でしょう。
占領軍改革の成功と朝鮮戦争特需に支えられて急成長した戦後日本経済は一九七〇年代には世界最高(一九七九年 エズラ・ボーゲル「Japan as Number One: Lessons for America」)と称賛されますが、この時期、国内でも日本人論は最高潮に盛り上がります。
この時代、若輩だった筆者はNASAやヨーロッパ宇宙機関での会議で、生意気にも世界戦略などを語ったりしていましたが、欧米人たちが殊勝に聞いてくれているのでかえって心配になった覚えがあります(その当時、パリやヒューストンで集まった非公式国際委員会「International Lunar Exploration Working Group:筆者やNASA有志などが提唱」が半世紀を経て、アルテミス計画の種火になりました)。
日本人は忍耐強い、計画的である、用意周到に実行する、不言実行である、などなどと褒めながら、彼らも半分は本気でそう信じていたようです(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本国家論で語り始めた本章は、結局、現代に近づくほど、日本人論になってしまいそうです。吉田松陰からはじめて、深く掘っていこうとすると、明治維新以降の話だけではとても見極められない。この国民の根っこがどこまで続いているのか。GHQが教育委員会を利用して切った、とかいう人もいますが、全然切れていません。
たとえば、小学校の校庭にある二宮金次郎を捨てる。捨てても、小田原駅構内に移設されています。小学生の夢は金次郎であるべきなのか?この人(二宮 尊徳 一七八七年―一八五六年)は勤勉努力の結果、江戸時代の農村に組合(の原型)を作り銀行(の原型)を作り会社(の原型)を作って江戸時代農村の経済を活性化しました。日本資本主義の祖父(父は渋沢栄一)と呼ばれています(拙稿89章「資本主義の夢」)。この人の根っこがまた、この国民なのではないでしょうか?





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日本という国民国家(2)

2025-01-18 | その他


一九四九年八月、米国、ロサンゼルスで全米水泳選手権が開催されました。古橋、橋爪、浜口ら、日本選手が表彰台を独占しました。古橋広之進は自由形三種目で優勝し、新聞に the flying fish of Fujuyamaと書かれました。
古橋らは、渡航ビザをもらうために、占領軍GHQへ行ったところ、マッカーサーに会ったそうです。「GHQに行ったら、突然、マッカーサーに呼ばれたんだ。何事かと思って部屋に行くと、にこにこ笑って『米国をやっつけてこい。負けたら、帰りのビザは知らんよ』っていうんだ。連合軍総司令官に背中を押されたんで、こりゃ負けられないと思ったよ(古橋回顧録)」。
当時は旧敵国としてジャップと言われる、唾を吐きかけられる、ホテルへの宿泊を拒否されるなどした選手達を日系事業家フレッド・イサム・ワダが自宅に宿泊させ、食事を提供した。選手たちは白い飯を喜んだという。そして古橋広之進が世界記録で一位、橋爪四郎が二位の成績を収めると、ジャパニーズ イズ グレートとアメリカ人に評価され、日系人の入店拒否が無くなる等の地位向上にも貢献した(2013年 NHK「オリンピック招致にかけた男たち」)。
一九四九年、物理学者湯川秀樹がノーベル賞を受賞しました。日本人初、アジア人としては三番目(インド人の詩人タゴール、ラマン効果の発見者ラマンに次ぐ)でした。湯川の原子核理論は、アインシュタインの相対性理論とともに現代物理学の基盤を開拓しました。日本人にとっては、敗戦からの再起を促す動機となりました。科学アカデミズムの発展、政府の科学技術振興策、産業界の研究開発志向など、現代日本の科学技術は、このノーベル賞受賞を発端として展開した、といえます。
ちなみに、湯川の回想記によると、生地は、筆者が今住んでいる東京六本木市兵衛町とあり、一歳時に父親が京都大学教授になって京都市に転居した後、ずっと京都人として生きた、とあります(一九六〇年 湯川秀樹 「旅人 ある物理学者の回想」)。古都京都のプライドを作っています。





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日本という国民国家(1)

2025-01-11 | その他


(103  日本という国民国家  begin)








103  日本という国民国家

明日の夜は家族でテレビを見るでしょう。
紅白歌合戦は、日本の国民イベントです。日本といえば世界に冠たる国民国家、と(日本人には)思われています。
この国民と国民国家は、十九世紀の中ごろ、明治維新によって生まれました。
吉田松陰が、松下村塾で講義した過激な国家論が、日本国家の起源、といえます。
国は発展しなければ衰退する。幕府の鎖国主義は誤りである。成長なければ縮小あるのみである。蝦夷からカムチャッカに侵攻し朝鮮と満州を取り、台湾、フィリピンに進んで内外に進取の勢いを示し、ともに栄え、その住民をいつくしみ社会人を育成してこそ善く国を保つことができる。(一八五四年 吉田松陰「幽囚録」)

松陰門下の伊藤博文と山形有朋はこの道を忠実に進んで、明治維新を達成し、五十年後、ついに日本を世界列強(一九一九年ベルサイユ条約五列強:英仏伊米日)に押し上げました。松陰の夢は、その後も実現に向けてまい進し、昭和の帝国主義日本は、大東亜共栄圏と称する西太平洋全域から朝鮮、満州、東南アジア、シンガポール、ミャンマーに広がる赤く塗られた最大版図を達成し、ヨーロッパとは反対側に、東京を中心とする大球冠を削り取りました。
一転、一九四五年、大日本帝国は崩壊し、連合国軍占領下の復興、非武装独立をはたした戦後日本は、米ソ冷戦下の経済成長に成功し、進取の勢いを示して、再び先進国の仲間入りを実現しました。敗戦でいったんは否定された明治体制ですが、その土台である松陰の国際展開主義は戦後経済の原動力となって復活を果たし、明治以来の政府の業界指導、国民の勤勉、教育制度の充実などと相まって、昭和日本の経済大繁栄を招来しました。
ソ連崩壊後の国際緊張緩和の中、日本社会はまた一転して平和享受にまい進し、安定守勢を非とする松陰の戒めに逆らい、縮小鎖国を是とする江戸期の保守思想に回帰して三十年、少子高齢化に苦しみ経済不振に落ち込んでいます。
赤い靴 はいてた 女の子、異人さんにつれられて 行っちゃった、とうたわれる大正期の童謡 赤い靴(一九二二年 野口雨情 作詞)。青い目の異人さんは、アメリカ人の宣教師、とされています。古今の童謡で人気三位(一位は、赤とんぼ)。大正期の作品ですが、一九七〇年代以降、各地に銅像が作られています。紳士的な欧米人に保護される幼い日本人のイメージが鮮烈です。
筆者が持っているガラクタ骨董品の皿の裏面に、メイドインOJ(made in occupied Japan)の銘があるものがあります。 進駐軍時代、輸出品にはこの刻印が必要でした。第二次世界大戦敗戦後、日本を占領した進駐軍は、巨大な足跡をこの国に残しました。一九五二年、占領体制が解散し、進駐軍が去ってから七十年、原爆、大空襲の記憶は消えていません。しかし不思議なことに、目に見えるものは、かなり早い時期に消えています。
現在の代々木公園の前身、ワシントンハイツは 進駐軍の将校用宿舎でした。進駐軍撤収後は、日米安保条約に基づく無期限使用施設として治外法権を保ちました。ハイツが解体撤収されたのは一九六一年で、東京オリンピックの選手村になりました。オリンピック後、現在の代々木公園となっています。
進駐軍の足跡のうちで、現代にまでこの国に巨大な形で残っているものには、憲法があります。一九四六年二月一三日、進駐軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの承認を経て、「マッカーサー草案」(GHQ草案)が日本政府に提示されました。 
    (英語原文constitution of japan前文)
we, the japanese people, acting through our duly elected representatives in the national diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim the sovereignty of the people's will and do ordain and establish this constitution, founded upon the universal principle that government is a sacred trust the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people; and we reject and revoke all constitutions, ordinances, laws and rescripts in conflict herewith.
desiring peace for all time and fully conscious of the high ideals controlling human relationship now stirring mankind, we have determined to rely for our security and survival upon the justice and good faith of the peace-loving peoples of the world. we desire to occupy an honored place in an international society designed and dedicated to the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance, for all time from the earth. we recognize and acknowledge that all peoples have the right to live in peace, free from fear and want.
we hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other peoples.
to these high principles and purposes we, the japanese people, pledge our national honor, determined will and full resources.
(外務省仮訳 [一九四六年二月二六日臨時閣議で配布])
我等日本国人民ハ、国民議会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル我等ノ代表者ヲ通シテ行動シ、我等自身及我等ノ子孫ノ為ニ諸国民トノ平和的協力及此ノ国全土ニ及ブ自由ノ祝福ノ成果ヲ確保スヘク決心シ、且政府ノ行為ニ依リ再ヒ戦争ノ恐威ニ訪レラレサルヘク決意シ、茲ニ人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ、国政ハ其ノ権能ハ人民ヨリ承ケ其ノ権力ハ人民ノ代表者ニ依リ行使セラレ而シテ其ノ利益ハ人民ニ依リ享有セラルル神聖ナル信託ナリトノ普遍的原則ノ上ニ立ツ所ノ此ノ憲法ヲ制定確立ス、而シテ我等ハ此ノ憲法ト抵触スル一切ノ憲法、命令、法律及詔勅ヲ排斥及廃止ス
我等ハ永世ニ亘リ平和ヲ希求シ且今ヤ人類ヲ揺リ動カシツツアル人間関係支配ノ高貴ナル理念ヲ満全ニ自覚シテ、我等ノ安全及生存ヲ維持スル為世界ノ平和愛好諸国民ノ正義ト信義トニ信倚センコトニ意ヲ固メタリ、我等ハ平和ノ維持並ニ横暴、奴隷、圧制及無慈悲ヲ永遠ニ地上ヨリ追放スルコトヲ主義方針トスル国際社会内ニ名誉ノ地位ヲ占メンコトヲ欲求ス、我等ハ万国民等シク恐怖ト欠乏ニ虐ケラルル憂ナク平和ノ裏ニ生存スル権利ヲ有スルコトヲ承認シ且之ヲ表白ス
我等ハ如何ナル国民モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニアラスシテ政治道徳ノ法則ハ普遍的ナリト信ス、而シテ斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ自己ノ主権ヲ維持シ他国民トノ主権ニ基ク関係ヲ正義付ケントスル諸国民ノ義務ナリト信ス
我等日本国人民ハ此等ノ尊貴ナル主義及目的ヲ我等ノ国民的名誉、決意及総力ニ懸ケテ誓フモノナリ

   

いつも弁当を買いに行くファミリーマートがある六本木麻布台ビルの玄関わきに、「日本国憲法草案審議の地」という石碑があります。当時、外務大臣官邸だったこの地で、外務大臣吉田茂は、進駐軍民政局長ホイットニー准将から、マッカーサー草案を手渡されました。突然の文面だったそうです。上空には米軍機が飛んでいたという記録があります。マッカーサーのいた米国大使館は歩いて五分くらいの距離です。
この時代、一般国民は食うや食わずで、憲法議論などに関心はなかったようです。しかも占領軍のジープは走り回り、大型ヘリコプターが飛び交っている。戦犯処刑を恐れている議員、政府高官や、戦時中嘘を書いていた新聞は、今何を考えているのか怪しい。おおかたの人々は占領軍のいうことを聞くしかない、と思っていたでしょう。
その後、不思議なことに、今日まで七十数年間、日本人はこの憲法を改正せず、守り続けています。地下のマッカーサーもびっくりでしょう。利用されたのは、日本国人民か、マッカーサーか?






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車輪の世界制覇(5)

2025-01-04 | その他


今、私たちが見ている現代文明は、未来の歴史家の記述では、スマートフォン、あるいはコロナワクチンによって支えられている、と書かれるでしょう。過去三千年の古代、中世と呼ばれている文明は、車輪あるいは農業牧畜によって支えられていた、と書くこともできます。
過去の歴史は、それが記述される頃には、現在状況ではなくなっているので、日常的な退屈なインフラストラクチュアになっています。忙しい現代人の目には映らなくなります。それが現在的存在を作っていて未来がそこから芽生えていくことを、今現在言ってみても、理論でしかなく、空想でしかありません。■








(102  車輪の世界制覇  end)





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