本題に戻ります。 言葉というものは、人間という動物が仲間と協力し合うための運動様式として有利だったから進化したものでしょう。他の動物に比べて、言葉を使える人類は飛躍的に緊密に、仲間との共同作業ができる。その結果人類は大いに繁殖したから、現在私たちが言葉を話している。つまり言葉は、人間という動物が集団で協力して物質世界の法則の中で生き抜いて子孫を増やしていくために有利だったから発達した脳の機能です。人類の言語機構は、鳥の翼や蛍の光のように、確かにすばらしい高性能の設計になっていますが、神秘でもなんでもない、物質の法則に従って現れた進化という生物現象のひとつの結果です。 しかし人間は自分たちが使う言葉を、特にそれを文字で書き記すようになってから、この世を超越した特別な存在だと思い始めた。さらに神聖なものだ、とも思うようになった。宗教は文字で書かれた聖書経典を神聖なものとして崇拝した。文字がなければ、世界の大宗教は成立できなかったでしょう。キリスト教などでは「はじめに言葉ありき」という考えから始まり、神的存在が何らかの言葉を発することでこの世や人類が創生されたとしたのです。 西洋哲学はこういう考えに拍車をかける役割を果たした。「人間は言葉(ロゴス)を有する動物である(BC三三〇年頃 アリストテレス『形而上学』)」として、言葉を絶対視することから哲学を始めた。 西洋の哲学者ばかりでなく、たとえば日本人も「話せば分かる」、「話してくれれば何とかしたのに」・・・というようなことをいつも言い合っている。人間はだれもが、言葉を、すべての物事に明快な意味を与えてくれるもの、絶対的なものとして信頼している。そうしないと、社会生活はなりたちません。 「言葉で話しても分かりあえるはずがない」、「話し合ってもどうにもならない」などと、友達に言ってみましょう。なんて危ないやつなんだ、と思われるでしょうね。こういう言い方をする人は反社会分子です。こういうことを言いふらす人とは友達にならないほうが無難です。 つまり結局、言葉にすっかり頼って生きているものが文明社会の、ふつうの人間なのです。 言葉を間違いなく使いこなせば、間違いなく世界を生きていける。正しい言葉で考えれば、人間は正しい考えを持つことができる。社会にどっぷりつかって上手に言葉を使いこなしながら生きていく文明人は、だれもがそう思うようになった。 未開人はそうではありません。自然の息づかいを言葉ではなく身体で感じ、それに対して言葉ではなく身体で応える。仲間の感覚を身体で感じ集団で行動する。未開人のリーダーは言葉で人々を説得はしない。身体で感じる自然の雰囲気を感じてリーダーは動き、その動きから漂ってくる雰囲気を人々が集団的に身体で感じて追従する。文明が発達する前、人間どうしの相互理解は言葉というよりも、言葉も使ったでしょうが、むしろ身体全体を使ってたがいの運動を共鳴させることだった。現代人も、雰囲気を読む、空気を読む、と言いますね。そのことです。もともと人間(というか霊長類)の脳神経系は、無意識に自動的に周りの仲間の運動を感じ取り、それに自動的に共鳴して自分の身体が動きだし、そうして仲間と交わるように進化してきた。空気を読む能力のほうが、本を読む能力より、先に必要です。人間は、言葉を使うようになる前から、もともと、空気を読む動物だった。そうでなければ、言葉など話せません。 文明人はもちろん、言葉や文書に頼る自分たちのやりかたが良いと思っている。 現代人、つまり文明人は、言葉による相互理解に皆がすっかり自信を持って暮らしている。互いに言葉を交わせば、相手の考えていることが分かると思っている。でも皆がそう思っているということと、実際に相互理解があるということとは違う。 私たちはなぜ言葉が理解できるのか? 言葉の意味を知っているからですか? 意味って何ですか? 辞書に書いてあるのが意味ですか? 辞書は言葉を言葉で説明してぐるぐる回しているだけでしょう。私たちのだれも、言葉の意味とは何かを知らない。人間は、意味とは何かを知らずに、意味が分かっていると思っている。このような状態の私たち人間が、世界の真理を解き明かすなどという大それたことができるのでしょうか? 言葉を使っているとき、話し手と聞き手はどのように相互理解をしているのか? 何を相互理解しているのか? お互いの脳で何が起こっているのか? これが実は、人間にはよく分かっていない。最先端の科学者も、偉大な哲学者も、まったく分かっていない。それをすっかり分かっているかのごとく錯覚して思い込んでしまう機構を人間の脳は持っている。まあ、そう思い込んでいるから、安心して生きているわけですね。 空耳(聴覚の錯覚)とか、聞き間違え、と言うのはよくある。薄暗いところでは枯れススキを人と見間違えたりするでしょう? 筆者も年をとって耳や目が悪くなったのに自分でそれと認めないので、このごろとみに聞き間違い見間違いをします。人の言っていることを三回に一回は聞き間違え、トンチンカンな答えをしているようです。向かうから歩いてくる人の顔などは、二回に一回は見間違えて、挨拶しそこなったりする。それでも、うまくごまかしながら、ふつうの人間のふりをして生きているのです。でも若い人どうしの会話も、それほどではなくても、いい加減に間違いを含みながら伝わりあうものでしょう? それでいいのです。あえて言えば、人間が使う言葉は内容を正確に伝える必要なんかない。大体分かればよろしい。あるいは、もっと言えば、分かるような気がすれば、たいていの場合それでよい。錯覚でよいから互いに分かったような気持ちになって仲良く協力できればよい。それで人類は生き残れたし、それどころか、大繁栄したのですからね。意味なんかよく伝わらなくても、仲間を信頼し互いに力をあわせる気持ちが伝われば、それでよい。逆に、コンピュータ通信のように内容が正確に伝わったとしても、それで仲間と集団行動がうまくいかなければ何にもならない。仮に完璧に真理を伝え合えるすばらしい言語体系を持った人類の一族がいたとしても、真実を言い合い過ぎて団結できない人類は滅びていくから、その言語体系は現在残ってはいないはずです。 「どうもどうも」 「すみません。すみません」 「まあまあ、そういうことで」 「ウッソー? ほんと?」 「じゃあ、よろしく」 というようにわけの分からない言語表現を頻繁に使う民族が、世界一の経済社会を作っていたりする。 人間は、大いに錯覚を起こすことによって世界を滑らかに分かりやすくすばやく認知し、それに存在感を感じ、その錯覚による存在感を集団で共有することによって、お互いにうまく付き合っていけるようにできている。そういう便宜のために、人間の脳は錯覚による存在感をいつも簡単に作り出せる。 人間の脳は、壊れた陶器を補修する粘土状の充填剤のように、錯覚を作り出してギャップを埋め、断片を滑らかにつないで物事を分かりやすい形で存在させている。しかも陶器の正しい形など知ろうともせずに、どこかで見知った形、あるいは作りやすい形にさっさとつなぎ合わせて一丁あがり、として仕事を終えてしまう。 それで、人間どうしは、「ね、ぼくが言いたいこと分かるでしょう?」、「うん。分かる。分かる」という具合にうまく分かり合える。つまり、「うん。分かる。分かる」とうなずくことが、分かるということなのです。 原始時代はこれでよかった。 言葉は、人間が仲間と集団をつくって、この世界の法則を利用して生き延びるために役立った。しかし、こうして進化してできた言葉という粗雑な道具を、そのまま真理の探究に使おうとすると無理が起きる。人間の言葉は、真理の探究など、そんな高尚なことに使えるようにはできていない。なんとなく気持ちが通じ合うような気になって、仲良く協力する気持ちになれればそれでよい。そういう働きができるように、言葉は進化して来た。原始時代の生活に有利になるような機能を持った言葉だけが、私たちの身についている。素朴な原始生活に使えること以上の余計な機能は持たないほうが、原始時代を生き抜くには役立った。 私たち人類は、ついこの間まで、たった百世代くらい前、数千年前まで、その前の数十万年にわたってあまり変わらない原始生活を送っていた。動物の身体は鳥の翼のように、蛍の光のように、その生活環境の中で有利な形態と機能に進化してくる。原始人のその生活にぴったり役立つように洗練された脳の機構が、私たち現代人にまで継承された言葉の土台を作っている。人間の言葉は、哲学や論争をするために発達したものではない。仲間と集団で狩猟採集生活を能率的にこなすための道具として進化したものです。このことを知らずに言葉を振り回すことは、とても危ない。 そこに、哲学の危険がでてくる。 また人間は、言葉を使って、目に見える物質世界を表現すると同時に、目に見えない主観的な、私たち自身の内部の感覚や感情的なもの、神秘的なもの、想像、願望など、つまり自分が感じるすべてのことを表現しようとする。 そのこと自体、進化で身についた人間の性癖です。自分が感じることはできるだけ多く、仲間と共有することが生存繁殖に有利だからです。自分が感じる大事なものを言葉でしゃべれば、仲間はちゃんと感じ取ってくれる、と思いたい。そう思えれば、この仲間とどこまでも一緒に行こう、という気になれる。特に、目に見えないもののほうが、人間にとっては大事なものと感じられる。目に見えなくても言葉で言えば、そういうものだって、仲間どうし分かり合えるはずだ。自分の中の奥のほうから湧き出てくる感覚や感情、神秘への恐れ、そういうものを何とか仲間に伝えたい。分かり合いたい。言葉で語りたい。その気持ちによって言葉が工夫され、表情、身振り、声音が工夫されて、ついには気持ちが通じると思えるようになる。 あなたと私の間で、本当に気持ちが共有されているのか? そこまでは、だれにも分かりません。分かり合えるような気がする、というだけです。でも、毎日、うまく気持ちが通じている、としか思えない。皆がそう思っていれば、そうなのです。 目に見えないのに人間のだれもが感じることは、人間にとって重要だからそれを感じる。そういうものは物質としての実体はないのかもしれない。それでも脳は粘土状の充填剤のように自由自在な形の錯覚を作り出せるので、実体がない存在感をいくらでも作り出せる。そもそも、原始人が生きていくためには、物質の実体だとか、世界の真の存在などあってもなくても、どちらでもよかった。仲間がみんなで協調して行動できるようになるような感覚感知ができれば十分です。そうなるように進化した感覚が現代人である私たちの現実感覚なのです。そうだとすれば、この現実が錯覚であろうとそうでなかろうと、人間どうしが共感できるというだけの理由で、これは現実であるわけです。 人間の言語は、そのように現実を作り出すための道具として発達した。言語は哲学を語る道具ではなく、空気を読み合うための道具だった。 人間は他人が感じている錯覚を敏感に共感する能力を持っていますから、実体のない錯覚の存在感を共感できてしまう。そうすると錯覚の存在感の共感にもとづいて、それに対応する適当な言葉が作られてしまう。座敷わらしとか、天狗とか、人魚とか、竜とか、悪魔とか、霊魂とかも、それです。 集団的な錯覚を作り出して、それを維持する脳のこういう仕組みも、原始時代には人々の団結に役立って、便利でよいことだった。天狗の存在を恐れて一族が団結できれば、それは生存繁殖に有利だった。 しかし、これは科学の時代の真理の探究には向かない脳の機構でしょう。科学者たちに向かって、いつまでも天狗を信じさせようとする哲学を主張するのも、いかがなものでしょうか。ここにも哲学が見捨てられていく危険がでてくる。 これらの危険に気づかないまま、命とか心とか、自分とか社会とか、愛とか死とか、感情に訴える神秘的で深遠に思える人生上の問題を、言葉だけを使って語りつくそうとするから、哲学は間違えていく。 人間の感情に響く言葉と、目の前に見えて手で触れる客観的な物質世界。この二つの関係は哲学を発達させて言葉を精密に磨き上げれば磨き上げるほど、また科学を発達させて物質世界の法則を精密に明らかにすればするほど、だんだんと分裂していく。現代哲学はこの問題の深刻さに気づいてはいますが、どちらに進めば脱出できるのか、見当が付かない。主観的に感じる内的世界も、結局は科学的アプローチで解明できるし、そうするしかない(一九六〇年 W・V・O・クワイン『言葉と対象』)とか、いや現代の科学的思考というものこそ、人間の感性を分断し文明を底なしの虚無に落し入れる元凶だ(一九八六年 A・J・マント『哲学的多元論の勝利?』)とか、意見は離れるばかりです。 本当に文明人のほうが未開人よりも、この世界を分かっているのでしょうか?
(1 哲学はなぜ間違うのか end)