哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(11)

2009-01-31 | x9私はここにいる

私たち人間も群棲動物の性質を持っている。私たちが感じ取る自分というものは、外面だけだったり、内面だけだったり、ということはない。そのことを確かめるために、次のような思考実験をしてみましょう。

仮に私たちが、ジキル博士とミスター・ハイド(一八八六年 ロバート・ルイス・スティーヴンソンジキル博士とハイド氏)のような二重人格者で、昼と夜とで二つの違う世界に住むとしたら、どうでしょうか? 小説のジキル博士とミスター・ハイドは、紳士と無法者という、ひどい二重人格ということになっていますが、ここでは、もっとすごい両極端の二重人格を考えてみます。昼は、人間の外面だけしか信じない科学者、昼子博士。夜は、内面の自分しか信じない夜子さん。超ショートストーリー。名づけて「昼子博士と夜子さん」。

昼の私は、昼子博士という名の徹底した物質主義の科学者です。世界は物質だけから成り立っている。物質の法則だけで動いている。この机も、このパソコンも、そこのケージに入っている実験用の猿も、原子と分子のかたまりだから、物質に過ぎない。あそこに座っている助手のマリーも、人間だけれど、すべての人間は物質に過ぎない。物理と化学の法則で動いている機械に過ぎない。この私、昼子だって、人間の一人なのだから、同じです。こういうことは全部、今私が考えているみたいに感じるけれども、それは脳細胞の細胞膜が電位変化しているだけだから、科学で完全に記述できる物理現象に過ぎないわ。今私は、コーヒーが飲みたいけれども、それもマリーが作っているコーヒーの香りで脳細胞が電位変化しているからなのね。「私の心がコーヒーを欲しがっている」なんていう言葉は意味がない。私などない。心なんて錯覚なのだから。あ、マリー君、私にもコーヒー一杯くれる?

一方、夜の私は、夜子さん、という名になって、昼の私とはまったく別の人格です。広いマンションに一人で住んでいますが、帰宅したらもう、ハイヒールは蹴飛ばして脱いじゃうし、靴下は引っ剥がすし、下着まで全部そこらへんに脱ぎ捨てちゃう。バスタブに沈み込んで、あー、とか、うおー、とか大声で意味ないことを叫ぶ。身体中の筋肉が弛緩していく。そのまま裸で出窓に寝そべって身体を乾かしちゃいます。夜間照明された東京タワーがきれい。涼しくていい気持ち。そのまま居眠りしてしまいそう。でも、ちょっとのどが渇いた。冷蔵庫からビールを出す。ごくごくごく・・・・ぷはー、うまい。泡がこぼれて胸と腹がぬれても裸だからかまいません。

夜子はだれにも見られていない。自分自身にさえ見られていない。だから自分というものがない。

昼子と夜子は、同じ身体を交代に使ってはいても、まったく別の人間です。

昼子の世界には物質としての身体があるだけで自分はなく、自分の存在とは何か、などという謎もなく、したがって生もなく死もない。夜子の世界には外から自分を見る視点がなく、したがって客観的な自分はなく、自分の謎もなく、生もなく死もない。どちらにも自我の存在はないが、二つの世界は一つにならない、まったく別々の世界です。

そこへ突然、助手のマリーから電話がかかってくる。「先生、明日、大阪の会議でお使いになる資料、間違っていました。修正しましたので、今からお宅にお届けしてもよろしいでしょうか?」まもなくマリーが現れる。「ごくろうさま。ビール飲む?」夜子は昼子の顔になっていう。「私、お酒だめなんです」「あら、じゃあ、コーヒーいれるわね」おかまいなく、というマリーのためにコーヒーを入れていっしょに飲む。ああ、私はもう一杯ビール飲みたかったのに、でも酒を飲まない部下の前で一人だけがぶがぶ飲んで横暴な上司みたいに見られるのもいやだし、と夜子=昼子は思う。

マリーが登場してこういう場面になると、夜子=昼子は、自分というものを強く意識している。この世界では、夜子=昼子、マリー、ビール、という三者が世界を構成する。その世界で、夜子=昼子は、自分のためにビールを飲む快楽を想像したり、マリーから見て自分がどう見えるかという想像のもとにそれを断念したりする。マリーが自分を見ている以上、彼女の目に自分がどう映るかを油断なく想像して、自分の動きを操作していなければ、自分の評判が悪くなって損をしてしまう恐れがある。こうなると、はっきりとこの世界の中に自分がいる。これは、私たちが毎日生きている現実世界そのものですね。自分があり、他人があり、生もあり、死もある。しかし、(拙稿の見解が述べるように)そういうようなこの世界は、人の目に映る自分という作られた錯覚が作り出すバーチャルな世界だ、ともいえます。

昼子の世界。夜子の世界。夜子=昼子の世界。どれが本物なのか? 私たちが目の前に見ている、現にここにあると感じているこの世界は、本当はどの世界なのか?

科学が描くような物質だけでできている世界。自分の感じることだけからできている世界。他人の目で見た自分を自分で見ながら自分を操縦している世界。どれも、私たちは現実と感じる。ここで、現実はひとつのはずだからと思えば、この三種類の世界を同じものとみなしたくなる。これらを同じものとみなしてしまえば「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」と思える。これは、まあ、私たちがいつも、ふつうに考えていることです。

しかし、このふつうの考え方では、同じでないものを無理やりに同じとしてしまうので、理屈がおかしくなる。自分の人体は物質でしかない。他人の人体と同じことです。それなのに、この人体だけがなぜ自分という自分にとって特別に大切なものでなければならないのか? 理由がない。この私の身体である物質とは別に、私の意識(あるいは魂)があるような気がしてしまう。たまたまこの人体に私の意識(あるいは魂)が入っているだけのような気がする。しかし、それでは物質でない意識(あるいは魂)が物質である人体を動かしているという、科学を超越した、おかしな話になってしまう(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。

どうも、現実はひとつしかない、とまじめに常識的に考えていくと、どうしても矛盾に落ち込んでしまう。もう、しかたがないから、現実はひとつという前提を外してみましょう。まあ仮にですが、現実は次の三つくらいある、とする。適当に番号をふって、現実1、現実2、現実3としましょう。順不同、番号に意味はありません。

現実1=科学が描くような物質だけでできている世界が本物という現実。目に見える物質現象だけから成り立っていて、その変化のしかたは科学が解明する物質の法則に従う。

現実2=自分が感じることだけからできている世界が本物という現実。その感じ方は自分ではだいたい分かっている。

現実3=他人の目で見た自分を自分で感じながら自分を操縦している世界が本物という現実。人の心、自分の心というものが互いに影響しあって動いていく。その心の動きは、物質の法則とは違う目に見えないけれども皆がよく知っている法則にしたがって動いていく。その法則は心理学や社会科学や処世術などの研究領域。

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私はここにいる(10)

2009-01-24 | x9私はここにいる

どうも、外面の自分と内面の自分と、両方の自分がある、と思ってしまうところがいけないらしい。

哲学で唯物論というのは、外面しかないという理論です。逆に、内面しかないという理論は、唯心論とか観念論とか独我論とか、ニュアンスの違いによって違う名称で呼ばれています。しかし、唯物論も唯心論も、その他の何とか論も、どの哲学も、無理があるような感じがする。

だいたい、どの哲学も言葉を使って理論を語る。理論を言葉で語るところからして、人と人の対話を基礎としているわけなので、もう、外面と内面の両方を同時に使っている。人間には内面があって、その内面が持つ意図によって行動が起こる、という理論から述語ができている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。外面と内面、物質と精神、の両方があることにしないと、言葉を使うことができない。そういうこともあって、どの哲学理論を聞いても、素直には理解できない。そこで、結局、こういう問題は神秘だ。人間存在の謎だ、と言いたくなってくる。

外面だけがある、という理論は、あやしい。外面の物質としての私の身体だけしかないなら、なぜ私はこの身体なのか、理由がない。どの人間の身体であってもおかしくないではないか、と思う。

内面だけがある、という理論は、もっとあやしい。この宇宙にこうしてあるさまざまな物質たちは詳しく見れば見るほど、私自身とは関係なく存在している、としか思えない。私の内面で世界の物事のすべてが作られるとは、とうてい思えません。

内面と外面の、どちらか一方がない、という理論は受け入れがたいわけです。

実際、私たちが毎日の生活で、無意識のうちに使っている常識は、外面と内面と両方の自分がある、という折衷案です。理屈など気にしないで使っている限り、これは便利でよいものです。直感的にはまったく問題がない。気持ちよく使えます。これで哲学もいければよいのですが、残念ながらこれは論理として、はじめから破綻している。二種類の異なる存在があってそれらは同じものだ、というのは、これは論理的に無理があります。それだから、論理に敏感な哲学者たちが悩んだ末、唯物論とか観念論とか、いろいろな理論を作り出したわけです。間違ったものばかりでしたけれどね。

そもそも人間の外面と内面の境界はどこか? 自分の身体の表面でしょうか? 私たちの身体の表面は皮膚や粘膜です。それらは細胞組織ですね。皮膚や粘膜の細胞は外側から毎日はがれて垢になっていく。それら細胞組織のどこからが人間の内面なのか? 皮膚や粘膜は、まず外面でしょう。その内側の筋肉や骨も手術で切り取ったりできるから、内面とはいえない。内臓も同じことですね。そもそも医学の観点からみれば、人間の身体全体がただの物質でしょう。現代の再生医療では、手足ばかりでなく、内臓も骨も神経も交換可能になる。そうすると、脳が内面なのか? 脳の内部がその人の内面だといっても、脳は神経細胞からできている。近い将来の医療技術では神経細胞も交換可能になるはずです。それに細胞は、どこまで調べてみてもただの物質ですね。つまり、物質を見ている限り、私たちに内面はない。どこにも、私たちの内面といえるものはない。

まあ、しかし、私たちは、この客観的な世界の中に自分があって、その自分には、だれの目にも見える外面がある、というように感じる。また同時に、その感じ方とは別に、他人には分からない内面の自分があるように感じる。この二つの感じ方は同時に起こるが、別々のものなのか? それとも、同じものの両面なのか?

純粋に客観的に世界を観察すれば、自分は、単に一人の人間に過ぎない。一つの生物体です。自分だけは他の人間と全然違う、というような特別の存在ではない。人間だけが特別の生物だとか、自分だけが特別な人間だとかいう、合理的な理由は、まったく見つからない。これは物質しか見ない純粋な科学者の世界です。

実際の科学者は、ふつうの人間なので、物質しか見ないわけではなく、ふつうに内面の感情も悩みもある。しかし、実際の科学者を知らない人たちがテレビドラマなどを見て想像する科学者像を極端に誇張すれば、ものごとの物質的外面しか認めない冷血なこわい人たちということになります。

そういう科学者のモデル人物が仮にここにいるとすれば、その人にとっての世界は物質だけからできている。当然、人間も物質だけでできています。人間には物質としての外面しかない。人間は細胞の集合体である物質に過ぎない。自分自身も、もちろん、ただの物質です。自分も含めて、人間の言動はすべて、脳の神経細胞の物質現象が筋肉を駆動して収縮運動をしたり、音波を発生したりする、という見方になる。この冷血な科学者的な人物は、人間の心とか、精神とか、内面の話など興味がない。そんなものはすべて幻だ、と思っている。物質としての人体の構造を語るだけで、人間のすべては語りつくせる、と思っている。

確かにそういうものの見方もありうる、と思える一方、私たちは、逆に、外面がなくて内面だけという極端なあり方も想像することはできる。

純粋に自分の内面の感覚だけで動いていれば、他人の心は感じられない。他人というものは存在しない。世界のすべての物質も存在するかどうか怪しい。存在するかどうか、などという疑問も存在しない。あらゆる存在は存在するかのごとく感じられるだけだ。それ以外は何もない。目から来るらしい感覚も、耳から来るらしい感覚も、皮膚から来るらしい触覚も、今ここに感じる感覚信号があるだけです。そう感じる、というだけです。したがって他人の心など存在しないから、他人の心に映る自分の姿はない。つまり、別の意味ですが、この場合もやはり自分というような存在はない。これは、結局は、生まれたばかりの赤ちゃんや、群れを作らない動物、たとえば熊やパンダや猫、などの世界なのでしょう。

読者の皆さんが猫を飼っているならば、観察してみましょう。猫は人間が何を感じているかに無関心です。猫にとっては人間の内部には心などというものはない。だいたい、物事に見えない内部などない。猫どうしでも、互いに何を感じているかには、とても鈍いように見える。パンダや猫は、群棲動物に比べれば、社会性がない、といえる。ではここで、猫に乗り移った気持ちになって考えて見ましょう。

猫は自分の内面の感覚だけで動いているらしい。というか、猫にとっては、自分の外面というものは意味がない。自分がどう見えるか、などと思うことがない。吾輩は猫である、などと思わない。自分が猫であるか、そうでないか、などにはまったく関心がない。もちろん、一匹の猫として猫らしくありたい、などとも思わないでしょう。外から見た自分という、そんなものがあることさえ気づかないからです。猫は、鏡に映った自分を見ても、それが自分だとは思わない。これは猫の鏡像である、とも思わないでしょう。一度くらいは鏡を眺めるけれども、鏡に映った物体は匂いも味もしないので猫の生活には意味がない、と気づいてしまいます。その後は見向きもしない。

したがって猫にとって、自分の外面というものはない、といってよい。そうだとすると、外面と内面という区別は意味がありません。私たちは、ふつう、外面と内面の区別が分かるから、自分があると思う。その区別がなければ、自分はない。その意味で、猫に自分はない。

犬など、群れを作る社会性の動物は、かなり違う。自分の外面と内面というほど、はっきりした認識は持っていないようですが、仲間の動作に共鳴し、集団として感覚を共有する。仲間集団の立場から、自分がどう動けば周りはどう変化するか、を認知することもできるようです。

面白いことに、自己認識能力は、脊椎動物の進化の過程で何度か独立に発生(収斂進化)したらしい。群れを作って生活する社会性の動物は、外面から見える自分というものに対応できる能力があると生存に有利なことが多い。偶然そういう能力が出現すると、それは社会生活に適応するので、ますます発達する方向に進化するのでしょう。ある種の鳥は、鏡を見てそれが自分だと分かるらしい、という実験が最近、報告されています(二〇〇八年 ヘルムート・プリオール、アリアン・シュワルツ、オヌル・ギュンチュルキュン『鏡に誘起されるカササギの行動:自己認知の証拠

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私はここにいる(9)

2009-01-17 | x9私はここにいる

人間というものはハンドバッグのようなものです。外面と内面がある。外面は見えるが、内面は見えない。外面はだれにでも見えるが、内面は本人しか見ることはできない。もしかしたら外面は美しいが内面はみられたものではない、かもしれない。ふつうは外面だけしか見えないから、内面がどうなっているのか、外面を見ながら推し量るしかない。私たちは、自分を含めた人間というものを、こう思っています。

人間は、外面の内側に外からは見えない内面を持っている、という理論。それと気づかないで私たちが毎日使っているこの理論は、人間の行動を予測し、計画を考える上で役に立ちます。また、この理論を自分自身に適用することもできる。これはとても役立つ。社会に生きるためには、不可欠の能力です。つまり、自分も自分以外の人間も、同じように外面の裏に内面を持っている、と思えば、他人の行動も自分の行動もよく予測できる。顔は笑っているけれども、心は怒っているらしい、とか分かる。私たちが感じ取っている他人の心の存在感はそうして作られている(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)

私たちは、他人の身体の外面的な動きを見るだけで、他人の行動の内面にある心を感じ取り、その人のこれからの行動の意図を理解することで行動を予測できる。

この外面内面という理論は、実に役に立つ。人々の行動の意味がよく分かる。自分の行動も他人の行動も予測しやすくなる。

まず、人間の行動というものを概念として捉えることができる。人間は、その内面に持つ意図にしたがって一連の身体運動をする。これが行動です。外面に表れる行動はその内面の意図を表すから、当然その結果は予測できます。

人間の行動をこのような図式で捉えることができると、それを言語で表すことができる。行動をあらわす述語、動詞が作れる(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。これは便利です。こういう実用性から、私たちは、(拙稿の見解では)人間の外面と内面とを一つの自我という存在の両面として捉えるようになった。これは私たちが他人を理解するときに使う理論でもあり、自分自身を理解するときに使う理論にもなっています。

人間は外面内面という二面性を持つ、という理論。人間以外の物でも、その内部状態を予測するにはこの理論が使えます。あるソフトを使うとパソコンの動きが鈍くなるとき、このパソコンは(言葉はしゃべらないけれども、実は)そのソフトが嫌いなのだな、と思う。私たちは、実際、そういうことを、同じパソコンのユーザー仲間と言い合いながら使っている。パソコンは外面を見ると、形や色の違いしか見えない。メーカや型式の違いは見ても分かる。けれども、あるソフトを使うと動きが悪くなるかどうかは、いくらながめてもパソコンの外面からは分からない。(ユーザーとしては)使ってみてはじめて分かる。使った感触で、パソコンの内面には、目に見えないが、ソフトの好き嫌いがある、と思える。

パソコンがない時代にも、外面内面の理論は、便利に使われた。あの山に女性が入ると、作物の実りが悪くなることが多いから、あの山は女が嫌いだ、という山の内面の性格に関する知識が伝承されるわけです。山は、外面は変わらない表情をしているけれども、内面では、女性に入られることを怒っている、と感じられる。こうして、人間は、自然現象にも、外面内面という哲学理論を適用するようになった。こういう感覚を延長していくと、私たちが生きているこの世というもの全体も、目に見えるような外面のほかに、見えない(奥深いところに)内面があるのではないか、と思えてくる。これが宗教の起源につながってくる、という古典的な理論があります(一八七三年 ショーンシー・ライト自意識の進化』既出)。

外面内面の理論は、しかし、実用的ではあるが、実は論理的にはおかしい。内部に矛盾を抱えている。間違った理論です。これをするから、私たちが思っている自分、私、という存在が、主観的な直感でしか理解できず客観的には理解しにくい、おかしな存在になってしまう。客観的な世界の中にある自分というものを、真剣に見つめようとすると、おかしな感覚を覚えるようになります。神秘感のようなものを感じたりする。このあたりの神秘感にひかれて、この理論を軸に、自分の内面を対象として高尚な議論を展開しようとする哲学は、必ずおかしくなります。

人から見たら、物質としての自分の身体だけが自分と見えるのは分かっているけれども、自分から見たら、外面の物質でできた身体のほかにも、外から他人の目には見えない内面の自分というものがある、と思える。私は、実は、外面の私という皮をかぶった内面の私、という目に見えない、物質とは違う(精神的な?)何者かである、という感じがする。昔の人が、魂とか精神といったものはそれでしょう。一寸の虫にも五分の魂、というから、身長百六十センチの人間には八十センチくらいの長さの内面がある、ということになる。脊髄の長さくらいかな? まあ、物質でないものに長さがある、というのもおかしな話ですが。

内面の自分は、外面の自分の身体を含んだこの世界全体の存在を感じている。だから、内面の自分は、外面の自分の身体が物質としてどうであるかということとはあまり関係なく、外面の物事を感じている、と思える。そうすると、外面の身体が死んでしまっても、内面の自分はどこかで物事を感じ続けているはずだ、あるいは、どこか別の世界で生まれ変わる、あるいは誰かに乗り移るはずだ、と思いたくなる。実際、宗教では、あの世とか転生などいう概念で、そういう理論が語られています。

こういう理論は、確かにおかしい。もちろん科学と矛盾しますが、科学との矛盾以前に、他人を冷静に観察するだけでおかしいと分かる。他人については、その身体が壊れれば行動も壊れるのは当たり前と分かる。死んでしまえば、感覚もないでしょう。第一、神経細胞が動かないのに、物が感じられるわけはない。じゃあ、自分のことだとすればどうだ? そうすると急に分からなくなる。私たちは混乱する。

自分が死んだとき、内面の自分がどうなるか、私たちは、実は、さっぱり想像できない。棺おけの中で、死んだ(内面の)自分が何を感じるのか、さっぱり分からない。眠るときに似ていて、何も感じないのかな、と漠然と想像できるだけです。

私たちは、他人が死ぬことはよく分かるのに、(内面の)自分が死ぬということの意味はよく分からないのです(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。私たちは、自分も他人と変わらない一個の人間に過ぎないことはよく分かっているのに、自分が他人と同じように死んでいくということが受け入れられない。他人の死は現実として理解できるのに、自分の死は、実は、現実として理解できない。

これは人間としての修養が足りないからでしょうか? どうも、そうでもなさそうです。それでは、脳科学の発展がまだ足りないからでしょうか? これも、そうではなさそうです。

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私はここにいる(8)

2009-01-10 | x9私はここにいる

外面の自分がいる客観的な物質世界全体の存在感は、(拙稿の見解では)もともと、(関節‐筋肉感覚や皮膚感覚や平衡感覚など)体性感覚や感情感覚や身体の内的存在感と視覚聴覚などの遠隔感覚との総合的な組み合わせから派生してくる。私たちは、体内の感覚と目や耳で感知する外界の情報とを組み合わせて身体を動かし、物質世界の中を移動していく。

私たちの身体は、これらの情報をうまく組み合わせて身体運動と連動させるようにできている。身体運動に伴う筋肉感覚や平衡感覚と視覚とがうまく連動しないと、私たちは道を歩くこともできません。そうして世界を歩くことで、私たちは世界の存在感をつかむ。同時に自分の身体の存在感をつかむ。逆に言えば、そうして世界の中をうまく歩いたりするために、私たちは、世界の存在感をつかめるような身体になった。そういうことができる脳の仕組みが進化しました。

ところが、外界の存在を感じ取る脳機構があまりにも見事に、うまくできてしまったために、私たちは、外界の客観的物質世界だけが存在するすべてだと感じてしまう身体になってしまった。特に、私たち人間は、仲間の人間との運動の共鳴を起こすことで仲間が感じている物質世界の存在感を集団的に共感できる。私たちが感じる客観的物質世界の存在感は、みんながそう感じる、だれもがそう感じる、間違いない客観的なものだ、と思える。身体がそれを感じる。

皆が客観的な存在だと感じていると思われるものは客観的に存在している、と私たちは思う。そう思うような身体になっている。実際、そういうものは、たいてい客観的に存在しています。この結果、私たちの身体は、このように進化することで、仲間と協力して、客観的に物質を操作できるようになった。身体のこの仕組みが見事に発達したために、私たちのだれもが共有する物質世界の客観性は、他の主観的な存在感を圧倒する唯一無二のものであると感じられるようになった。

そういう身体になっているほうが、仲間と協力して世界の物質を操作していくには便利です。そういう実用的な身体に、私たちは進化した。それで私たちは、この世界をこのように感じている。そして人類は繁栄しました。ところがそうなったおかげで、今度は、個人の体内感覚だけで感じる内面の自分の居所がなくなったわけです。

私たちの脳は(拙稿の見解では)、もともと、運動するために視覚聴覚を使い始めた。身体周辺の変化に対応して、うまく身体運動を形成するために(関節・筋肉・平衡感覚など)体性感覚と併用して視覚聴覚情報を使うように、私たちの脳の情報処理機構は進化している。体性感覚も(視覚聴覚など)遠隔感覚も、感覚神経系は、あらゆる感覚信号を総合することで身体運動がうまく働くように進化してきた。

観察や実験によって、私たちの身体が、体内感覚情報(体性感覚)と遠隔感覚情報(視覚聴覚)とを全部使って、うまく働くように作られている事を確かめることができる。実際、猿の頭頂葉皮質には、自分の手の動きを(外的に知覚する)視覚と(内的に知覚する)関節運動感覚の両方からの入力信号で感知する神経細胞群が見つかっている(二〇〇四年 田中美智雄他『内部行為から外部空間を描出する頭頂葉内双感覚神経細胞群』 )。これらの神経回路は、身体内外の多数の情報源からのセンサー情報を統合して、うまく運動するために進化した仕組みと思われる。この仕組みで、猿や人間は、自分の手を見ながら手を伸ばしていって物を正確につかむことができる。人類の場合、この仕組みは(拙稿の見解では)さらに上位の認知機構に発展していて、外面の自分と内面の自分を一つの自分の表裏として、表裏一体視する感覚を生み出す土台になっている、と思われる。

脳神経系のこの仕組みは、精密な動作をするのに、とても便利です。逆に言えば、動物は、こうしないと精密な動作はできない。筋肉の緊張感覚など、自分の身体の内的状態の情報というものは身体制御の基礎的な情報(工学でいう制御パラメータ)になっている。これを視覚で捉えられる(外面の)空間的な自分の姿勢運動イメージ(工学では出力フィードバック)と突き合わせることで、指や手の細かい作業ができる。

人間や動物に限らず、一般に、外部空間に表現された位置、姿勢などの目標状態に到達するために運動を自動制御する自動機械システム(たとえば、ロケットなど)は、システム内部のアクセルバルブ開度やステアリング回転角のような制御パラメータの状態量と、システムの状態が視覚的に外部空間の中に表現される位置、姿勢などの出力結果の状態量の測定値を総合的に計算処理して、目標に近づいていくように作られている。

拙稿本章の、ここでの議論では、人間というシステムの外部空間における表現と、内部情報による表現、との関係が問題です。身体の位置の移動や姿勢、表情、身体形状の変形などシステムの外部空間における表現から視覚や聴覚によって遠隔的に感知されるものと、関節筋肉感覚、平衡感覚、皮膚感覚、内臓感覚など内部情報から感知されるものとの二種類の感覚情報が入ってくる。これらをうまくつなぎ合わせて、環境変化に正しく反応していくためには、どうすればよいか?

特に、社会的生活を発展させた人類の場合、重要な能力は、他人から見た自分のイメージと自分が内面で感じる体感とを、じょうずにつなぎ合わせることです。こうすることで、他人と自分との相互運動をリアルタイムで予測し、制御することができる。柔道とか社交ダンスとかをする場合、内面で感じる自分の身体の変化が、外面の自分を見ている相手にどう見えるか、が分からないとうまくいかない。うまくいかない場合、柔道だと相手の足を払いそこなったり、ダンスだとパートナーの足を払ってしまったりする。競争するにしろ、協力するにしろ、人と関係するときは、当然、必要な機能です。

会話する場合は、まさにそうです。たとえば、話し手から見ると、会話の聞き手は話し手の外面を見ている、と思える。聞き手は話し手が口から外に出した音声を聴いている、と思える。話し手から見ると、聞き手が話を聞きながら話し手の内面を想像している、と思える。話し手は、自分が聞き手であったならば話し手の内面をこう想像するだろうな、と想像しながら、聞き手に自分の内面を語る。

それと同時に、話し手は、聞き手の気持ちになってその自分の語りを聞くことで、自分というものが外面と内面とでどうなっているのか、知ることができる。たとえば、自分は今、聞き手から見れば顔は笑っているけれども、内面は違う。外面ではニヤニヤ笑った顔をしているけれども、実は内面では、くやしくて泣きたいほど怒っているのだ、とか、自分で自分が分かる。

顔の筋肉が引きつってしまって目が笑っていないから、自分の内心が相手に見破られてしまうかな、などと気になります。こういう場合、私たちは、自分の筋肉や血管の緊張、内臓感覚や内分泌ホルモンによる自律神経系の働きなどを感じ取って、内面の自分を感じ取る。それと同時に、聞き手の目つきや表情を自分の目や耳で感知することで、聞き手の目に映る自分の身体の動きを感じ取る。その仕組みで私たちは、外面の自分を感じ取る。つまり、こういう場合、私たちはリアルタイムで、自分の内面と外面とを同時に感じ取っている。

私たちは、また、人の目に映る自分の外面を意識して作ることで、内面を意識するようになる。演技したり、ウソをついたりすることで、逆に本音の正直な自分自身の存在感を感じる。自分はどういう人間なのかが分かる。外から見れば、自分は一人のふつうの人間だとしか思えないから、当然、ふつうの人と同じように自分は行動するはずだ、そうしなければおかしい、などと思える。それで、自分の行動が客観的に分かり、予想もできる。

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私はここにいる(7)

2009-01-03 | x9私はここにいる

さて、ここで問題は、「私はここにいる」という感覚、つまり自分の内面について、私たちはどうやってその存在感を感じ取っているのか、です。私たちは、たしかに、いつでも、自分の内面というものの存在を感じている。それは自分にしか感じられない、はずです。私が他人の内面を直接感じることができないように、他人には私の内面が直接は感じられない、と思える。私の歯の痛みは、私以外には感じられないでしょう(拙稿11章「苦痛はなぜあるのか?」)。私の内面は、(テレパシーは不可能なので)他人には感じられない、はずです。人間と人間が、いくらじっと目を見つめあっても、互いの内面が直接感じられるということはない。

私の外面は、仲間の集団が、それを感じ取ることができる、と思える。ところが、内面に関しては、仲間の集団が、それを直接感じ取れる、とは思えない。私以外の者がそれを直接感じ取る仕組みがあるとは思えない。集団の運動共鳴によって、これを認知することは不可能です。つまり、私たちは、自分の内面というものを、客観的な存在として感じ取ることはできません。それは、視覚や聴覚では感じ取れない。身体の奥の感覚で感じ取るしかありません。内面というものは外面からは感じ取れない。だから、逆に言えば、それを自分の外面ではない内面だ、と言うのですね。

まあ、人間について、外面、内面というときは、人間を、建物や容器のように外側と内側があるものにたとえて言っている。建物などの、外から見える光景を外面といって、中に入ると見える光景を内面という。つまり、外面からは感じ取れないものを内面というわけです。

実際、私たちは、目をつぶっていても、自分の身体を感じることができる。それは、感じようとして感じるのではなくて、いつでも無意識に感じていることです。内臓感覚、心臓や動脈の拍動、血管平滑筋の緊張、呼吸運動の感覚、その他筋肉や関節の緊張感覚、身体の重さ、姿勢、傾き、皮膚感覚。そういうもの(体性感覚という)は無意識にいつも感じるし、意識を集中すれば、身体のその部分部分が、いつでもはっきり感じられます。

運動することで、これらの(体性感覚)センサーからの情報が変化すれば、身体の姿勢、各関節の角度や、脈拍、呼吸の変化など、特にはっきりと感じる。脳神経科学の見地では、こういう体性感覚の信号は中脳、脳幹、網様体、視床、大脳前頭葉内側皮質や島皮質に送られて、身体状態を反映する神経活動パターンを引き起こす(一九九九年 アントニオ・ダマシオ『何が起きたかの感情無意識の脳 自己意識の脳〕』)。それが、私たちが自分自身を主観的に感知する場合の、脳内の物質的表現になっている、とされる。

ちなみに、最近の脳画像観測の研究成果によれば、人間の脳では、何もしていない休息時には、頭頂から後頭部を結ぶ頭蓋中央線にそった大脳表面領域とその深部で神経細胞の活動が活発になる(二〇〇八年 パトリック・ハグマン、ライラ・カムン、ザビエル・ヒハンデ、レト・モイリ、クリストファ・ハニー、ヴァン・ウェディーン、オラフ・スポーンズ『ヒト大脳皮質の構造核のマッピング』)。そこは体性感覚信号やその他五感の感覚信号が集中する領域です。この脳領域が、いわゆる自我意識を生み出す神経機構の座ではないか、という提唱もある(二〇〇四年 ジョージ・ノートフ、フェリックス・バームポール『大脳皮質中央線構造と自我』)。

さて、一方、私たちが他人の存在を感知する場合、(テレパシーは不可能ですから)自分の体内の体性感覚では他人の内部の感覚を直接感知することはできない。他人の内部の状態を推測するために、私たちは、身体外界から来る遠隔情報を受信する器官である目と耳を使う。視覚と聴覚で、その人の身体の動き、視線、表情、声色、呼吸音、足音などを感じ取ります。そこから、(拙稿の見解では)自分の脳内でその人に憑依して、その運動を自分の運動形成神経回路を使って逆シミュレーションを行い、その運動を形成する運動指令信号を再構成して、それにそって仮想運動のシミュレーションを起こすことで自分の運動を他人の運動に重ね合わせて、なぞる。

こうすることで、私たちは、注目するその人の運動を予測する。同時に、自分の仮想運動信号が自分の自律神経系や運動神経系を伝わることで引き起こされる心臓血管系や筋肉、分泌腺などの微弱な緊張から体性感覚にフィードバックしてくる感覚信号を捉えて、その人の内部の状態、つまりその人の感情、気分や気持ち、意志や意図のあり方を感じ取る。この仕組みで、その人がどういう感情や意図でどう動いていくかを予測する。つまり、私たちは(テレパシーは不可能なので)目と耳で人の運動を読み取って、それを自分の運動神経系と自律神経系を介して自分の身体に反映させることで、他人の心を読み取る。その仕組みで、その人の存在感を感じる。

犬など多くの哺乳動物は、目と耳のほかに鼻も大いに使って、他人(他犬)の感情を感知しているようですが、人間は嗅覚が鈍いので、鼻はあまり使わない。つまり、戸棚の奥に食べ物が隠されているとか、犬などが察知できるらしい目に見えない情報を、人間は察知できない。「あの人は嗅覚が鋭い」という比喩表現もありますが、これは、その人が(実際に鼻を使うのではなくて)目と耳だけで他人の隠された感情や意図を察知する能力が特に優れている、という意味でしょう。

ここで重要なことですが、(拙稿の見解では)私たちが自分自身を客観的に感知する場合にも同様の仕組みが使われている。自分自身を意識する場合、拙稿の見解では、私たちは目と耳、つまり視覚と聴覚から来る情報に頼って他の人物を感知する場合と基本的には同じ神経回路を使っている。つまり、まず仮想の仲間集団に乗り移り運動共鳴の神経回路を使って、仮想の群行動として仲間集団の視線で自分自身を注目し、それによって自分自身の身体のイメージを作り上げる。

これにもとづいて、私たちは、自分というものの客観的な存在感を感知している。こうすることで、自分というモデルを作り上げて、それを客観的世界の中におき、まわりの人々とつきあい、同時に自分ともつきあっている。

私たちは、自分自身を見る場合といえども、まず一人の人物とみなしているだけであって、他の人を見る場合と特別に違う見方をしているわけではない。つまり、私たちは、自分自身を客観的に見ている。幼稚園に入るころ、子供はこのような見方で自分を客観的に見る能力を身につける。そうすることによって、社会の中で、人々に認められる。また人や自分を上手に操作できるようになる。他人の視覚や聴覚に乗り移って客観的に自分自身を認知することは、社会の中でうまく生きていくために必要な、実用的な能力なのです。

さて、ここまでは良いのですが、ここで困った問題が起こる。こうして幼稚園に入ったころ自分自身の客観的存在感を獲得した私たちは、そのとき同時に、困ったことをしてしまう。自分の外側から仲間集団の目で見た外面としての自分自身の客観的な存在感を、自分のすべてだと思い込んでしまうのです。そうすると、実は、次のような困ったことが起きるが、そのことに、ふつう本人は気づかない。

外から見える自分が自分のすべてだと思うと、自分の内的な体性感覚や感情や身体の内的存在感という、主観的な、いわば内面で直接感じられる存在感の置き所がなくなる。目で見える自分の身体のどこに内面の自分があるのか、分からない。内面の自分というものは何なのか、外面の自分と違う内面の自分があるはずだ、なぜ自分はあるのか、などという変な疑問が出てくる。敏感な子供は、小学生くらいから、こういう自我意識の違和感を持つようになります。

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