私たち人間も群棲動物の性質を持っている。私たちが感じ取る自分というものは、外面だけだったり、内面だけだったり、ということはない。そのことを確かめるために、次のような思考実験をしてみましょう。
仮に私たちが、ジキル博士とミスター・ハイド(一八八六年 ロバート・ルイス・スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』)のような二重人格者で、昼と夜とで二つの違う世界に住むとしたら、どうでしょうか? 小説のジキル博士とミスター・ハイドは、紳士と無法者という、ひどい二重人格ということになっていますが、ここでは、もっとすごい両極端の二重人格を考えてみます。昼は、人間の外面だけしか信じない科学者、昼子博士。夜は、内面の自分しか信じない夜子さん。超ショートストーリー。名づけて「昼子博士と夜子さん」。
昼の私は、昼子博士という名の徹底した物質主義の科学者です。世界は物質だけから成り立っている。物質の法則だけで動いている。この机も、このパソコンも、そこのケージに入っている実験用の猿も、原子と分子のかたまりだから、物質に過ぎない。あそこに座っている助手のマリーも、人間だけれど、すべての人間は物質に過ぎない。物理と化学の法則で動いている機械に過ぎない。この私、昼子だって、人間の一人なのだから、同じです。こういうことは全部、今私が考えているみたいに感じるけれども、それは脳細胞の細胞膜が電位変化しているだけだから、科学で完全に記述できる物理現象に過ぎないわ。今私は、コーヒーが飲みたいけれども、それもマリーが作っているコーヒーの香りで脳細胞が電位変化しているからなのね。「私の心がコーヒーを欲しがっている」なんていう言葉は意味がない。私などない。心なんて錯覚なのだから。あ、マリー君、私にもコーヒー一杯くれる?
一方、夜の私は、夜子さん、という名になって、昼の私とはまったく別の人格です。広いマンションに一人で住んでいますが、帰宅したらもう、ハイヒールは蹴飛ばして脱いじゃうし、靴下は引っ剥がすし、下着まで全部そこらへんに脱ぎ捨てちゃう。バスタブに沈み込んで、あー、とか、うおー、とか大声で意味ないことを叫ぶ。身体中の筋肉が弛緩していく。そのまま裸で出窓に寝そべって身体を乾かしちゃいます。夜間照明された東京タワーがきれい。涼しくていい気持ち。そのまま居眠りしてしまいそう。でも、ちょっとのどが渇いた。冷蔵庫からビールを出す。ごくごくごく・・・・ぷはー、うまい。泡がこぼれて胸と腹がぬれても裸だからかまいません。
夜子はだれにも見られていない。自分自身にさえ見られていない。だから自分というものがない。
昼子と夜子は、同じ身体を交代に使ってはいても、まったく別の人間です。
昼子の世界には物質としての身体があるだけで自分はなく、自分の存在とは何か、などという謎もなく、したがって生もなく死もない。夜子の世界には外から自分を見る視点がなく、したがって客観的な自分はなく、自分の謎もなく、生もなく死もない。どちらにも自我の存在はないが、二つの世界は一つにならない、まったく別々の世界です。
そこへ突然、助手のマリーから電話がかかってくる。「先生、明日、大阪の会議でお使いになる資料、間違っていました。修正しましたので、今からお宅にお届けしてもよろしいでしょうか?」まもなくマリーが現れる。「ごくろうさま。ビール飲む?」夜子は昼子の顔になっていう。「私、お酒だめなんです」「あら、じゃあ、コーヒーいれるわね」おかまいなく、というマリーのためにコーヒーを入れていっしょに飲む。ああ、私はもう一杯ビール飲みたかったのに、でも酒を飲まない部下の前で一人だけがぶがぶ飲んで横暴な上司みたいに見られるのもいやだし、と夜子=昼子は思う。
マリーが登場してこういう場面になると、夜子=昼子は、自分というものを強く意識している。この世界では、夜子=昼子、マリー、ビール、という三者が世界を構成する。その世界で、夜子=昼子は、自分のためにビールを飲む快楽を想像したり、マリーから見て自分がどう見えるかという想像のもとにそれを断念したりする。マリーが自分を見ている以上、彼女の目に自分がどう映るかを油断なく想像して、自分の動きを操作していなければ、自分の評判が悪くなって損をしてしまう恐れがある。こうなると、はっきりとこの世界の中に自分がいる。これは、私たちが毎日生きている現実世界そのものですね。自分があり、他人があり、生もあり、死もある。しかし、(拙稿の見解が述べるように)そういうようなこの世界は、人の目に映る自分という作られた錯覚が作り出すバーチャルな世界だ、ともいえます。
昼子の世界。夜子の世界。夜子=昼子の世界。どれが本物なのか? 私たちが目の前に見ている、現にここにあると感じているこの世界は、本当はどの世界なのか?
科学が描くような物質だけでできている世界。自分の感じることだけからできている世界。他人の目で見た自分を自分で見ながら自分を操縦している世界。どれも、私たちは現実と感じる。ここで、現実はひとつのはずだからと思えば、この三種類の世界を同じものとみなしたくなる。これらを同じものとみなしてしまえば「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」と思える。これは、まあ、私たちがいつも、ふつうに考えていることです。
しかし、このふつうの考え方では、同じでないものを無理やりに同じとしてしまうので、理屈がおかしくなる。自分の人体は物質でしかない。他人の人体と同じことです。それなのに、この人体だけがなぜ自分という自分にとって特別に大切なものでなければならないのか? 理由がない。この私の身体である物質とは別に、私の意識(あるいは魂)があるような気がしてしまう。たまたまこの人体に私の意識(あるいは魂)が入っているだけのような気がする。しかし、それでは物質でない意識(あるいは魂)が物質である人体を動かしているという、科学を超越した、おかしな話になってしまう(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。
どうも、現実はひとつしかない、とまじめに常識的に考えていくと、どうしても矛盾に落ち込んでしまう。もう、しかたがないから、現実はひとつという前提を外してみましょう。まあ仮にですが、現実は次の三つくらいある、とする。適当に番号をふって、現実1、現実2、現実3としましょう。順不同、番号に意味はありません。
現実1=科学が描くような物質だけでできている世界が本物という現実。目に見える物質現象だけから成り立っていて、その変化のしかたは科学が解明する物質の法則に従う。
現実2=自分が感じることだけからできている世界が本物という現実。その感じ方は自分ではだいたい分かっている。
現実3=他人の目で見た自分を自分で感じながら自分を操縦している世界が本物という現実。人の心、自分の心というものが互いに影響しあって動いていく。その心の動きは、物質の法則とは違う目に見えないけれども皆がよく知っている法則にしたがって動いていく。その法則は心理学や社会科学や処世術などの研究領域。