哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ死ぬのか(1)

2008-01-26 | x5私はなぜ死ぬのか

15 私はなぜ死ぬのか?

バグダッドに商人がいました。ある日、召使を市場に買い物に行かせました。真っ青な顔で帰ってきた彼が言うには、『ご主人様、市場で背中を突かれて振り向くと、死に神がいたのです。私を脅すしぐさをするのです。どうか馬を貸してください。この町から逃げてサマラに行きます。そこまで行けば、死に神に見つからないでしょうから』。召使は馬を駆って全速力で逃げました。商人が市場に出かけたところ、死に神が立っていました。商人は聞きました。『なぜ、私の召使を脅したのか?』 死に神は答えました。『あれは、脅したのじゃないの。私は驚いた顔をしちゃったのよ。だって、あの人とは今晩サマラで会う約束なのだから』

(一九三三年 サマセット・モームサマラで会う約束』訳文筆者)

(一九八七年  ダニエル・デネット『真の信者』プロローグに引用されている)

昔の哲学は死の話が得意でした。好きでした。商売の種にしていました。「死のことを、いつも考えろ(ラテン語でメメント・モリという。うつむいてこれをつぶやくと、いかにも哲学っぽい)」と教えました。昔の哲学者は、書斎に(どこで買ってきたのか)頭蓋骨を飾っていました。

 哲学など知らなくても人間はだれも、物心ついてから老いて死ぬまで「そのうち自分は死んでしまう。空しい。怖い」と思っています。しかし拙稿の考えでは、こういう思いも、数千年にわたって人々が間違った理論(世界観)を語り合ってきたために身につけてしまった錯覚のひとつです。

 人が(自分の)死について語るとき、経験したことがないものについて語ることになる。死んだ人は語れない。生きてそれを語っている人は死んだことがない。それを指差しながら話そうとしても、(自分の)死は物質ではないから目に見えない。指差せない。話し手が聞き手と同じものを見ながら語ることができない。そういうものは客観的に語ることができません。

客観的でないものについて語るということでは、痛みを語ることに似ている。しかし、痛みは話し手も聞き手も、だれもが経験したことがある。同じではないかもしれないが似たような経験はある。その経験に関して、比喩あるいは類推を使って共感を求めることで、それを語れば何とか伝わりそうではある。ところが死に関して語る場合は、そういう方法も絶望的です。互いに知っている似たような経験として共感を求めることもできない。まったくできない。話し手も聞き手も、だれもがまったく経験したことがないものを、将来経験することを想像して語ることになる。

宇宙の果てについて語ることに似ている。だれも行ったことがない。今ここからはそれは見えない。だれも見たことがない。見ることができるはずがない。それが見えるとしたら、それは果てではないのだから。そういうものは、そもそも語ることができるものなのか。疑問ですね。そういうものを語ること自体が間違いではないのか?

(拙稿の見解では)人間の言葉(自然言語)は、それをいくら上手に使っても語れないものがたくさんある。どんな言語を使っても人間が語る限りは、目に見ることができないものを正確に語ることはできません。それらを語れると思うことが間違いの始まりです。

宗教も哲学も文学も、世間話も、しばしば死について語る。言い伝えと比喩とたとえ話を駆使して、熱心に語ろうとする。しかし語れば語るほど、どれも間違ってくる。それについて言葉で語ることができないものを無理やりに語るから、かならず間違っていく。人類が死の観念を発見して以来、それについて語ってきたことは全部間違いでしかなかった。大人の言葉によって死の観念を教えられた小学生は、それにおびえながらそれを自分の言葉にしていく。

私は死ぬ。私はなぜ死ぬのか? その言葉の意味は、実は分からない。それでも何か恐ろしい意味があるような気がする。小学生は、こういう言葉を聴くと、怖がる。意味は分からないけれども、言葉の響きから、怖そうに感じるわけです。また、それを言うときの人の顔を見て、そう感じるわけです。そのとき子供はもう間違っている。言葉にできないものがあるということを知らないからです。実際、私たち大人もそれを知らない。言葉に限界があることを知らない。それを知らないということさえも知らない。

拙稿もこれから死について語ります。読者はまたもうひとつ間違いを聞かされる、と思うでしょう。しかたありません。そう思って読み始めてください。いままでのどの著作も、死について間違いしか述べていないことを、皆さんはよく知っているのですからね。

さて拙稿の見解では、まず、死といわれるできごとは、特に他のできごとと比べて変わった特徴があるわけではない。生物が故障して動かなくなる、元のようには戻らない、という現象は、何の神秘もない自然な物質現象です。物の形が不可逆的に変形するという物質現象の一種です。アイスクリームが溶けてしまうのと変わらない。

「形あるものは必ず壊れる」と昔の人も言いました。形が壊れることが問題となるのは、それを見ている人間がその形に注目しているからです。ただ甘いからアイスクリームが好きだ、という人にとっては、溶けても甘さは変わらないから、それが溶けるか溶けないかは問題ではありません。しかしアイスクリームのこんもりした形が好きな人にとっては、それが溶けてべたっと流れてしまうのは、とても残念なことです。溶けて液状になったアイスクリームなど食べる気がしない。形があるうちに食べるべきだったのです。残念でした。実に残念です。しかし、アイスクリームの溶解それ自体には残念という特徴があるわけではない。残念というのは、それの形を問題にしている人の内部に起こる感情の特徴でしょう。甘さだけを問題にしている人には、それは残念なことではない。

火山が噴火して山頂が吹き飛んでしまうことがある。大音響がして巨大な火柱が立ち、噴煙がもうもうと上がる。山の形は一瞬にして大きく変わる。昔の人々は、神の怒りとか言って神秘的な大事件だと思ったようです。しかし、噴火という物理現象も個々の原子が自然法則にしたがって運動する結果に過ぎない。他の自然現象と比べて特別な特徴があるわけではない。山の形に注目しているから大変化と思える。一個一個の原子に注目していれば、それが自然法則に従って加速されている運動があるだけです。また地球全体に注目していれば、ほとんど変化は起きていない。

同じように私たちが、一個の生物の身体と活動の外見に注目している場合だけ、その身体が壊れて活動が停止してしまう不可逆的な変化、つまり死を、見てとることができる。死は、いわば、現実にあるというよりも、それを見る観察者の内部にある。それが大事件であるとすれば、それは観察者にとって大事件であるからでしょう。

生物の身体はいつか壊れる。しかし、生物は形あるから壊れる、というばかりではなく、ちゃんと壊れるように進化してきたのです。

生物の身体は生殖(と育児)を何回か終えて一定の年齢になると、きちんと老化して壊れていくように設計されている。それは生物の身体というものが、個体が生き延びるためにあるのではなく、遺伝子(DNA配列。ゲノム)が生き延びるように進化が進んだ結果、自然に起こった現象だからです。進化の結果、種ごとに固有の寿命がDNA配列(ゲノム)に書き込まれているわけです。

自然の生存競争においては、まったく同一のDNA配列(ゲノム)を何度も複製して、いつまでも同じ能力の生物の数を増やしていくよりも、速く世代を交代させて、新しく再配列されたDNAを使う遺伝子発現システム(遺伝子型)を早く生存競争にさらして淘汰させるほうが競争に勝つ。なぜならば(病気になりにくいとか、食料が少なくても繁殖できるとかの)生存能力をレベルアップした新しい繁殖システム(表現型という。生物の身体構造や生態、生得的行動などのこと)をなるべく早く出現させ、新しい環境に適応していくほうが、その遺伝子発現システム(遺伝子型)自身が生き残りやすい。

ちなみにこの状況は、経済界での企業の生存競争にも似ている。携帯電話やパソコンの型が古くなると、すぐ店頭から消えてしまうのはなぜか? グローバリゼーションの競争的な環境下で市場シェアを確保するためには、絶え間なく研究開発を続け、つねにバージョンアップした新製品とその生産販売システム(表現型)を実現し続けなければ、その会社(遺伝子型)は市場に生き残れないからですね。

ウイルスや細菌など病原体の進化に対抗する人体の免疫系の防御的な進化(赤の女王仮説などという{一九七三年 レイ・バン・バレン『新進化法則』})、などが典型例です。(男女を問わず)同じ人間がいつまでも子を作り続けると、同じ免疫体質の人間ばかりが多くなって、ウイルスの速い突然変異に免疫系の応答変異で抵抗できる人間が生まれてこなくなり、(人間に限らずどの生物種でも)種族は滅びてしまう。子から孫、ひ孫への世代交代を早め、違った体質の人間を次々に増やすことで、ウイルスの速い変異に対抗できるDNA配列〈ゲノム〉を早く作り出し、種族を生き残らせることができる。

そういう自然現象として、動物は(植物も)、自分が手に入れた生存圏を、自分よりもう少し環境適応能力が高くなる可能性のある子供たちに明け渡すために、老いて死んでいく。人間も同じ。それを繰り返している。私たちの身体が今ここにあるのもそういう自然現象の一環です。

生物はそういう身体に作られている。つまり、それは複雑ではあっても何の神秘もない、そういう機構を備えた生物だけが、変化し続ける生態系環境、たとえば食料となる植物群や捕食し捕食される動物群が変化し続け、害虫、病原体、ウイルスなどが変化し続けるこの地球上で生き残り、子を産み育て繁殖していく。これは神秘でもなんでもない。進化という単なる自然現象、つまり物質世界の法則が繰り返される結果です。

現代の科学は、人間を含むあらゆる生物のDNA配列(ゲノム)を読み取ることを可能にしました。料金は高額だそうですが、米国で(そのうち日本でも)専門会社に委託すれば、だれでも自分のDNA配列(ゲノム)全部を読み出してもらえるそうです。そのデータがあれば、何歳頃になればどの程度老化が進んで、どのガンでいつ頃死ぬか、かなり正確に予想できる。心配な病気についてだけの検査ならば、ずっと少ない料金だそうです。さらにもう少したくさん料金を出せば、遺伝子工学の医療が受けられて、寿命は何パーセントか延びるようになる。

さらに数十年後の将来には、先端科学を応用した高価な医療を施すことで、人間が百数十年、さらには数百年以上も生きつづけることが可能になるでしょう。しかし、その時代になっても、生物は死なないとうまく子孫を残せない、という自然原理は働く。つまり寿命を長く延ばすほど延命医療にかかるコストが幾何級数的に膨大になっていって、ごく一部の金持ちしか恩恵にあずかれない。そのため、国民全体の平均寿命はほとんど変わらない可能性が大きい。実際はたぶん、そうなる前に、貧富格差による身体能力やルックス、寿命などの二極化により上下の社会階層が固定される懸念が政治的な問題になってくる。そうなれば、遺伝子技術の人体応用は法的に規制されるでしょう(二〇〇七年 マイケル・J・サンデル『完全化への反論』)。いずれにせよ人類が存続する限り、未来の人間といえども、不老不死になるわけにはいかないようです。

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それでも科学は存在するのか(3)

2008-01-19 | x4それでも科学は存在するのか

人間の脳は、五感で直接感じることだけでなく、身体の内外から来る情報全体に応じて、気分、体調、感情、苦痛、快楽、夢、幻想、錯覚、その他いろいろなことを感じる神経機構を持っている。それらは互いに連携して連鎖的に感覚が作られていくが、その過程はまったく意識できない。私たちはそれらの感覚がいつの間にか現れていることに気づくだけです。それらを感じると人間の脳は無意識のうちに、それを客観的世界の空間位置、つまり自分の身体の内部や外部の各部に投射します。たとえば、かゆみを感じると、そのあたりを触ることで、かゆい皮膚の位置を確定できます。また「ピー」という音が聞こえると身体の外の空間のどこかでその音が発生していると感じる。左右の耳に聞こえると方向が分かります。しかし、その音は外し忘れたイヤホンから出た音の場合もある。あるいは、内耳や神経の疾患で幻聴が起こっている場合もある。しかしふつうは、(視覚、聴覚、触覚、運動感覚など)感覚の空間投射はかなり正確に信号発生の原因位置に的中する(この機構に関する脳神経科学の理論としてはたとえば、二〇〇〇年 ジン・ヒン、リチャード・アンダスン『いくつかの座標系での多モード統合空間表現を行う後部頭頂葉皮質のモデル』)。これは進化の過程でこの仕組みが洗練されてきたためでしょう。見当違いの位置ばかり注目する動物は子孫を残せなかったと思われます。

この感覚信号を自分の身体内外の空間に投射する脳の仕組みは、生まれつきの神経反射と経験による習熟と身につけた理論による思い込みが混合してできあがっている。この仕組みを使って、私たち人間は、身体の(内側と)外側にひろがる物質世界の存在感を感じる。人間のだれもが視覚や触覚(や聴覚や{内耳で感じる}加速度感覚)で共有できる空間とその中に位置づけられる物質現象たちの認識、また同時に、人間の身体運動‐感覚受容の対象となる物質たちの認識。脳のその働き、(それは脳の働き全体から見ればほんの小さな一部分ですが)それだけに依存して、この自然と呼ぶ客観的物質世界は存在している、といえる。人間の脳のこの働きが、進化によってここまで洗練されているために、物質の法則とそれにしたがってできている物質世界をこれほど正確に、私たちは認知できる。そして、その物質世界を描きあらわす理論として科学が作られてきた。この仕組みが、いわば〈拙稿の見解では〉科学の基礎の基礎を作っています。

科学が記述する物質現象は、神話、伝説など他のどの言い伝えよりも存在感がある。目に見える物質現象はもちろんですが、目に直接は見えなくても科学によって存在が確認されている現象は、明らかに存在するように感じられる。それは、科学者が昔からの言い伝えを信じないで、自分の目で見て自分の手で動かしてみたものだけを信じて、明快な言葉で語り合ってきたからです。それは、だれが実験しても何度でも同じように起こるような、再現性があるものでなくてはいけない。そして報告するときは嘘を語らない。それは科学者の職業倫理でもありますが、なによりも科学者は、専門に関して嘘を語ると、科学者として生きて行けない社会に暮らしているからです。つまり、自分は科学者として生きていけなくてもかまわない、などと思うようないい加減な志願者は科学者になるための厳しい修行に耐えられないはずですから、これは強い縛りになっている。そういう科学者たちがその研究成果を報告し互いの評価に曝される国際学会は、どの国の政治からも宗教からも独立している。その倫理と科学者社会の構造によって、科学者の学会で認められる科学は、その信頼性を保証される仕組みになっています。

科学が大成功した理由は、成功するはずのことだけをしたからです。仲間どうしの間で、だれの目でも見ることができて、だれの手でも触れて動かすことができて、だれもに通じるはっきりした言葉で語ることができて、正確に繰り返し確かめ合えること、つまりだれにも共有できる経験にもとづいている再現性のある物質現象だけを研究の対象にする。あやふやなことは避ける。はじめから自分以外の研究者が後から追実験をして確認できるような形で研究発表をする。つまり、だれの目にも明らかに、いつでも、何度でも、はっきり目に見える。何度でも触って確かめられる。そういう現象だけを対象にして、観察し実験し、正確に語り合い記録してきたからです。そうすることによってしか、科学者は科学者社会の中で生きていけません。

そういう態度で研究を進めたので、科学者の研究対象は、物質だけになってしまったのです。こういう態度で研究を進めて、うまく解明できる現象は、物質現象しかない。だれの目にもはっきり見えて、語り合えて、記録できて、いつでも、何度でも、同じ条件では同じ法則にしたがって同じ現象を観察できるものは、物質しかありません。逆に言えば、そういうものを物質というのです。人間にとっては、厳密にいえば、そういうものしか客観的には存在できない。だれもが目で見えて、その存在感を共有することによって存在が確かめられるもの、それを物質という。

ですから物質以外のものを対象とする学問が、科学のように大成功できないのは当然なのです。この世界で物質以外、だれもが同じように認めるものは、実はあまりありません。

お金のありがたさ、音楽の楽しさ、数学の美しさ、ゲームの魅力、スポーツの快楽、くらいでしょうか。これらも目には見えませんが、言葉に頼らず、人間の脳の先天的な神経機構に強く働きかけます。つまり、お金や音楽やゲーム、これらは頭蓋骨の外側に人工的に作られた脳の雌型(脳が雄型とすれば)なのです。それぞれに特有な神経回路にぴったりはまって人々の脳に共通な共鳴を起こす人工の仕組みです。身体の外側に作られたものなのに身体の奥深いところを揺さぶる。ある意味では麻薬のような機能を持っている。

お金を媒介に人々が連携できるゲームである経済活動は、現代社会で大成功しています。音楽、数学、ゲーム、スポーツなどを通じての人間どうしの相互理解は、ほぼ完全に成功している。そういえば私たちが毎日をそのために費やしている仕事やビジネス活動は、お金と数学とゲームを混ぜたような活動ですね。音楽やスポーツも混ざっているかもしれない。まあとにかく、これら以外の場面での人間の相互理解は、実際、なかなかうまくいきません。

言葉を使えばどんな場合でも相互理解できるはずだ、という期待が大きい分、日常会話などでは、どうもうまく行かない場合が目立つ。政治や権利関係や感情問題を話し合っているときなど、特にそんなようです。正確に話そうとすればするほど、こんがらがってくる。言葉を安易に使うと、錯覚が錯綜として絡まりあい、論理的な矛盾を引き起こしやすい。実は、懸命に正確な言葉を使おうとするアカデミックな議論でもそううまくはいかない。物質という介在なしに、言葉(自然言語)を精緻に使おうとすればするほど、混乱してくる。結局、人文系の学問、哲学、文学などは、なかなかうまくいきません。

それで結局、言葉、あるいは言葉に準ずる記号体系を使う学問としては、物質に関する言葉だけを扱う自然科学と、人工的な抽象記号を組み上げる数学と音楽が、ずば抜けて成功を収めるわけです。

だれが見ても、いつ見ても、何度でも同じように目にしっかりと見えて、手で触れて動かせるものたちを物質という。それらの物質たちの変化は、分かりきった法則にしたがっている。その法則は私が見ても、私以外のどの人間が見ても、いつ見ても、何度でも同じように見える。その法則にしたがってこの私の肉体が物質から作られていて、この物質世界をこのように感じている、ということがはっきり分かります。それで私たちは安心して、物質が存在している、と感じる。物質世界は実在すると思っている。そう感じられるならば、そう感じられることだけを根拠に、そう思ってよいのです。

この物質世界が存在している、と言う意味はそれだけのことです。(拙稿の見解では)そこに神秘などは、何もありません。

最近数百年の科学者たちの努力が積み重なって、現在の科学は、この物質世界をかなり詳しく説明することができる。科学は、もともとは人間どうしで共感できる身体感覚(視覚、触覚、運動感覚、聴覚、加速度感覚)でつかんだ目に見える物質の存在感を基礎として、そこから経験と論理で積み上げていって合成した、統一的な理論の存在感を作り出している。科学の結論は、だから、きちんと理解すれば、目の前の物質に関する視覚など直接感じられる身体感覚の共感と同じくらい、しっかりした存在感を持っている。

人間どうしの共感が身体感覚に存在感を与える目の前の物質について、それが存在する、といってよいならば、科学が存在するといっているものは、存在するといってよいことになる。つまり、目の前の物質が存在すると感じられれば、科学は存在すると感じられます。

これが、いわば、科学の根底、科学的認識の根っこのところです。この根っこは現代科学のすべてに共通する。私がこの身体で、仲間の人間と共感して身体感覚で感じることによる世界の現れ方の他に、科学の根拠はないのですから(認知論・認知心理学の観点による科学の基礎論としては、たとえば二〇〇二年  ピーター・カルーサーズ他編『科学の認知論的基礎』)。

仲間としっかり共感できないことで、人間が感じることはいくらでもある。それらの中には、強く感情に結びつき存在感が強いものも多い。しかし、そういうものは、科学の方法では捉えることができない。たとえば、科学を使って物質世界をいくら詳しく調べても、その物質世界を見ている主観としての自分自身や物質を動かす主体としての自分というものは見つからない(一九八九年 コリン・マクギン『心身問題は解けるのか?』既出)。科学は、対象を見ている主体としての自分を棚上げにしたうえで、対象を記述することしかできないからです。これは科学の限界といえるが、それ以前に、人間の言語の限界でもある。

人間の言語は、主観を持った主体が、自分の外側の対象を感じ取り(自分の意志で)操作するという図式を表現する形式で成り立っている。もし人間が主観(と意志)を持った主体でないとすれば、人間は言葉を話すことができない。言葉が何かを表わすことができない。言葉というものは、主観を持っている主体が何かをすることを表現する形式(主語・述語)で成り立っているからです。ところが、科学が描く物質世界には主観もなく主体も意志もない。すべての物質は、言語形式で表現される場合、主体が操作対象とする主体の外側に属するもの(客体という)でしかない。

こういう問題は、科学以外の方法、たとえば哲学、文学、宗教でも、やはり、しっかり捉えることはむずかしい。(拙稿の見解では)言葉を使う限り、だれの目にも見えて、指で指し示して共感することができないものは、物質として存在させることができないからです。それらは物質として存在はできないけれども、人間の感情に強く響く。なによりもそれらは、話し手と聞き手の間を共感によって伝わる主体的な操作の表現になっている。それらは、主体が何かをするという形式で自然言語の背骨になっている(自然言語の構造については一章を設けて拙稿の見解を後述する予定)。自然言語の骨組みをつくる、私、今、ここ、というような言葉に対応するものは科学では表現できない。それらは、だれもが直感で簡単明瞭に分かりきっているものであるのに、科学では説明できない。物質として表現することができない。科学にとって、それらは意味が不明なのです。物質の法則だけを描写する科学は、私、あるいは今、あるいはここ、という言葉が表わすものを存在させることができません。

それらを、どうすれば存在させることができるようになるのか? あるいは、存在させなくてもよいのか? 存在させなくてもすむようなやり方があるのか? (拙稿の見解では)それを説明できない現代科学は虚無の上に立っている。

逆に言えば、それら(自然言語の骨組みを作っているような)人間が感じる強い存在感を科学するということは、科学が自分の立っている足元を掘り崩していくことです。りっぱに背が高くなった現代科学は足元がよく見えないし、自分に足元があることさえ忘れているかもしれない。その足元を掘り崩したら、まともに立っていられなくなる。

しかし、近い将来、科学はそれをしなければならなくなるでしょう。

14 それでも科学は存在するのか? end

15 私はなぜ死ぬのか?

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それでも科学は存在するのか(2)

2008-01-12 | x4それでも科学は存在するのか

西洋の近代科学から発展した現代科学がここまで成功した秘訣は、何でしょうか? 筆者の考えでは、それは観察の客観性を徹底したこと。つまり人間どうしの相互理解を基礎にすえた上で、観察から主観を取り除き、だれもが理解できる客観性だけを残し、相互理解に伴うあいまいさを徹底的に排除していったことにあります。キリスト教をスポンサーとする中世の神学は厳密な論理学で武装していました。その隙を突いて人々を説得していかなくてはならなかった西洋科学は、論理に対して論理で対抗する。つまり、客観性を徹底的に磨き上げ、理論からあいまいさを排除していったわけですね。

人間が相互理解できるものから、あいまいなものを排除していくとどうなるか? まず、感情のようなものは、真っ先に捨てる。義理も人情も捨てて、非情に徹します。それから、大体の感じとか、すごいとか、かわいいとか、クールとかウェットとか、空気を読むとか、フィーリングだけの話も無し。だれが測っても同じ数値になるものだけを議論の対象にします。つまり、客観的に測定可能なものだけにするのです。構成物は徹底的に要素に還元する。原子、電子、素粒子まで分解します。そうすると結局は、時間と空間の中での要素粒子の位置、質量、運動量、エネルギー、電荷、あるいは場の分布関数、という数量で表現できるものだけが存在する、というところに行き着く。そういうものを書き表すのに一番あいまいさが少ない言語、つまり数学、で表現するわけです。それも、できる限りシンプルな方程式で書き表す。これが現代科学です。

科学はこうして、客観性にあやしさの含まれるあいまいなものを次々に排除して、どんどん議論の対象を減らしていった。世界のすべての問題は、時間と空間、原子、電子、素粒子、エネルギー、それらがどう組み合わさるか、だけの話になっていきます。

ふつう、議論の対象を減らしていくと、話はどんどん面白くなくなる。話題が狭くなって、興味を持つ人が少なくなります。そうだとすれば、科学が発達するほど、科学はつまらなくなって、科学者になりたい人は減るはずですね。ところがそうではなかった。近代科学、現代科学はその応用力で、人間の衣食住、医療、経済、娯楽など、毎日の生活のすべてにおいて必要不可欠なものになってしまったのです。科学(知識)は力である(scientia potentia est 既出))。これを素直に見れば、結局は科学が一番頼りになるものだった、ということになる。

物質に関することは、科学が圧倒的に分かっていて、コントロールできます。この世で目に見えることはすべて、科学にお任せすればよい。実際、お任せするしかありません。残りの問題は、目に見えない人間の気持ちです。人間は物質にしか興味がないわけではない。むしろ、物質でないもの、人間関係、スピリチュアルなもの、感情とか、正義とか、個人の尊厳などがずっと大事だと思っている。ところがそういうものは、科学の描く世界では無意味です。目に見えないからです。身近に科学者を知らないふつうの人々から見れば、そういう科学の態度は実に冷淡にみえる。科学は根本的に虚無と見える。ぞっとするようなニヒリズムを感じるわけです。

科学は、人間が感じることの一部分だけを使って、世界全体を表現してしまいました。人間の感覚のうちの主に視覚、空間の認知、時間の認知、そして数量の認知の機能だけを使って、ニュートンの時代に近代物理学がつくられた。現代までに、その方法で科学全体が統一されました。そのほかの感覚は、科学から排除されています。芸術の美しさなどを論じても、科学では意味不明となります。コーヒーのおいしさも意味不明、となってしまう。コーヒーの化学成分が味覚信号に変換されて、脳の各神経回路が次々に信号処理をする。しかし、そのプロセスをいくら正確に記述しても、おいしさは全然感じられない。

私という存在も、個人というものも、人生も、心も、自我も、正義も、全部、科学的には意味不明ですね。ふつうの人が一番大事に思っているこういうことを、冷たく、意味不明だと切り捨てる。冷血で、無味乾燥で人間的でない。もっと言えば、非情で冷酷ないやな奴、という感じが科学にはあります。科学者はみんな、そういうキャラクターの持ち主だ、と思っている人は多い(実際はまったくそうではなく、親切で温情的な科学者が多い)。

だから、科学が人間にとってすべて、ということはありえない。これはだれでも分かる。つまり、私たち人間が感じるものは物質だけではない、むしろ、命や心や自分や愛や憎しみ、というようなもののほうが断然、大きく感じる。それらに比べれば、科学などほんの片隅の小さな問題だ、とふつうの人々は思っています。科学者自身でさえも、科学が職業として自分の社会的な経済的なよりどころであるからこそ、科学に強い関心を持っている。科学至上主義の変人科学者もいないわけではないが、とても少ない。だれにとってもふつうは、自分の人生が先、科学は後だ、ということですからね。人間あっての科学、というわけです。ちなみに、科学の描く物質世界そのものについても、それを人間が感じるから論じることができる、というところに形而上学的な謎がある、と主張する現代哲学もあります(一九九九年 ピーター・ウンガー『物理的存在の神秘とクオリティの問題』)。

いずれにせよ、私たちが生きているこの物質世界は科学が描くようにある、としか思えない。あるいは、科学が描くように存在する、と考えることが一番もっともらしい。現代科学はこの世界を説明できる最も単純で明快な理論だ、ということになります。それ以外の理論、経典、教義、主義、神話、伝説、空想科学等は、世界を説明しようとして、いろいろなことを言っています。しかし同じことをいろいろな言い方で説明できるなら一番シンプルな理論が正しいとすればよい、という考え(オッカムの剃刀、などという)を持ち込めば、この世では、間違いなく現代科学が正しい。

この現実世界全体は、私の脳の内部に映っている錯覚の虚像ではないのか? それとも、やはり実像か? どちらも正しいかもしれない。どちらの場合も、世界はまったく同じに見える。同じに感じられる。科学が描くとおりに見える。虚像か実像か? どちらが正しいか? 人間がそれを知る方法はありません。

さらに話を混乱させることは、人間の脳には神秘を感じ取る感覚がある、という事実です。大いなる未知に遭遇すると、私たち人間は立ち止まり、天を仰いで畏敬の感情に駆られるような身体を持っています。つまり脳にそういう機能を持った神経回路がある。脳がそう進化してきた。原始生活の中で、脳が神秘を感じ、未知を恐れ敬う感覚を備えていることが、生存と繁殖に有利だったのでしょう。真っ暗な森の中を、暗黒に神秘を感じず、恐れを知らずにずんずん進んでいく人間は、猛獣や毒蛇にかまれたりして子孫を残せなかったでしょう。適当に、未知を神秘と感じて怖がる脳を持つほうが、生存に有利なのです。

世界全体が神秘そのものではないのか? 科学はそれを解明できるのか? 科学は、本当に真実なのか? 科学では解明できない未知がいくつもある。むしろ、人間が一番知りたい生と死、苦しみと喜び、愛と憎しみの問題、あるいは美と醜、あるいは宇宙の究極の様相なども、科学は解明できていないではないか? 私たちはそう思う。そこに神秘を感じる感覚が入り込みます。そうすると、科学の描く物質世界も錯覚に過ぎないのではないか、という気もしてくるわけです。何もかも神秘だ、という相対的な言い方をしたくなる。

しかし、神秘感という感情も、それ自身は神秘的なものではありません。ホモサピエンスの脳が作り出す錯覚です。生存に有利な錯覚には違いありません。だから(拙稿の見解では)実は、この世に神秘などない。神秘を感じる人間の脳があるだけだ、ともいえます。

世の中には、いろいろ神秘を感じさせるような現象もあるけれど、それらは私たちの身体が感じ取る錯覚だ。結局は、この世界は科学が発見した物質の法則だけで動いている。そう仮定するほうが、(拙稿の見解では)他のどの考えよりも分かりやすい。

現代科学は大いに存在感がある、と感じられます。逆に、経典や神話や占いなど、科学以外の神秘体験の言い伝えなどは、昔の人たちの空想が人間の神秘感覚にうまくマッチしていたために次第に体制化してしまった現象だ、という説明のほうが説得力がある。「そうは思えない。私はどうしても科学は信用しない」という人たちは説得できませんが、ふつう文明国の現代人は、神秘体験の言い伝えよりも科学のほうがずっとまともだ、と感じるでしょう。

テレビで人気のある占い師が「来週、大災害が来る」と叫んでいても、テレビを消した途端、筆者は忘れてしまいます。しかし、科学者たちの大多数が「巨大隕石が地球に衝突する」と言ったら、まっさきにロケットに乗って逃げます。

まあ、占いという行為は原始時代以来、たぶん数万年の実績を持って人々に信頼されてきた手法を使って行われているわけですから、それなりの威厳があったりする。なにより占い師の顔つきや手つきなどが神秘的で不気味な魅力もあったりします。それでも、現代人の多くは、筆者と同じく、占い師よりは科学者アカデミーの意見とそれを報道する新聞やテレビを信用するでしょう。

ただし、科学がいずれはすべての神秘感をなくすことができる、という言い方も、また間違いです。科学が解明できるものは、人間の目に見えるか、耳に聞こえるか、あるいは手で触れられる物質現象だけです。こういうものは、人間にとって一部のものごとでしかない。苦しみや喜びや、愛や憎しみなど、目にも見えず耳にも聞こえず、手で触れることもできない感覚については、科学は無縁です。説明することも、関係することもできない。そういうものに関する神秘感は、科学がいくら詳しく説明しても、それでなくなるものではない。

じゃあ、そういう見えない、聞こえない、触れられない感覚は神秘なのか、というと、これは単純にそうだ、という答えにはならない。科学が説明できないからと言う理由だけで神秘だというのはおかしい。また、直感で神秘的に感じられるから、それは神秘だ、というのも間違い。神秘に感じられるということと、神秘である、ということは違う。それらは、神秘感をもって感じられるものではあるが、神秘ではない。

それらの神秘感は、私は確かに感じるけれども、客観的物質世界の中には見つけられない、というだけです。こういうものは、神秘ではない。物質は私がその存在を感じるものであるけれども、その逆ではない。私が存在を感じるものは、必ずしも物質だけではない。私が感じても物質的世界には見つからないものが、いくらあっても不思議はない。むしろ、そっちのほうが圧倒的に大きい、という感じがします。そのことが不思議だと思う人は、自分の脳が感じているこの物質世界が自分の感じるもののすべてを含んでいるはずだ、という間違った思い込みをしてしまっているからでしょう。私たちの脳は確かにこの世界の存在感を感じていますが、この世界にないものの存在感をも、むしろずっと多く感じている。

苦しみや喜びや、愛や憎しみ・・・命の躍動や人の心の温かさ・・・人間がそういうものを感じるのは、それがこの世に物質としてあるからではない。人間は、物質を感じるよりも、むしろ強く、多く、そういうものも感じるような身体を持っている。しかし、それらはこの物質世界の中にはない。それらは脳内の錯覚です。それらの錯覚を強く感じる脳の機能が、人類の生存に有利だったからです。その仕組みは、脳の微細な機構とそれをもたらした人類の進化の過程を詳しく調べることができるようになる時代がくれば、はっきり理解できるでしょう。

ですから、この世の中にも、この世の外にも、(拙稿の見解では)どこにも神秘はない。ただし人間の脳は錯覚の存在感と神秘感を感じる機構を持っている。だれもが神秘は感じる。神秘を感じる人類だけが生き残ってその子孫が私たち現生人類になったからです。

神秘を感じることは実用的だったのです。あるときは神秘を感じることで恐れを感じる。またあるときは神秘を感じることで安心を感じる。経験によってそれらの神秘感を使い分けて、私たちは上手に生きてきました。だから私たち人間は、神秘を感じることで不安を感じるとその法則を知りたいと思い、法則のようなものを知ると安心できるところがある。だから神秘の話が大好きな人が多い。そうなるので、神秘を商売にしている人たちもいる。占い師ばかりでなく、科学者も含めておおかたの学者、言論人、著作者たち、あるいは最近のウェブライターたちは、多かれ少なかれ、人々が感じる好奇心と神秘感を商売ネタのひとつにしています。よく売れるからですね。

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それでも科学は存在するのか(1)

2008-01-05 | x4それでも科学は存在するのか

(14  それでも科学は存在するのか? begin

14  それでも科学は存在するのか?

前章までの拙稿では、命の存在を疑い、心の存在を疑った。ついで、意識、欲望、意志、意図、そして苦痛の存在をも疑った。さらにそのうえ、世界を感じている私はこの世界の中には存在しないのだ、と言ってみた。そのうえ、存在は存在しない、というようなことまで言ってしまいました。

奇妙な事を言っている。筆者もそれは分かっています。多くの人がふつうに思っている常識からは、相当にずれた話をしている。言葉をもてあそんでいるのか、大事そうな言葉を次々に否定してしまう。命、心、自分・・・拙稿でその存在の確かさを否定したこれらの言葉を、とても大事なものと思っている人がたくさんいる。筆者以外の人は、だれもがそうかもしれない(実は筆者も、それらを大事だとは思っています)。筆者はそれもよく知っています。そういう人たちを怒らせるために、筆者は拙稿を書いているわけではありません。

どちらかといえば保守的な筆者は、背広にはネクタイとか、宴会を始めるにはカンパイとか、年賀状は元旦に間に合うように投函とか、理由のない世間常識が大好きです。それにもかかわらず拙稿で筆者が常識を否定するような話ばかり書く理由は、コペルニクス以来、科学のもたらす知識が、世間常識からみると、どんどん非常識な方向へ進んでいくからです。そしてその科学は正しい。これはどういうことなのか?

命、心、自分、意識、存在、価値・・・とても大事そうな、尊厳がありそうな、そしてときどき哲学的な匂いを発するこういう言葉が指しているものは、目には見えず、手でも触れない。カメラで撮ったりデジタルデータとして記録したりすることもできない。科学の対象として実験も観察もできない。あると言っても実証できない。ないと言っても実証できない。科学が教えるところによれば、そういうものは物質の法則だけで動いているこの世界には存在できないはずです。科学が描く世界には、それらの居場所がないことがはっきりしてしまった。

それなのに、人間はそういうものが確かにあるように感じる。それらは物質よりも大事なものと思われている。私たちには、それらが間違いなくあるはずだという確信がある。しかしそれは直感で感じるもので、写真には撮れない。絵にもうまく描けない。言葉でも、比喩としてはうまく言えても、正確には説明できない。もちろん、科学では説明できない。

科学は物質しか説明できない。生物という物質は命を宿しているように見えるけれども、詳しく調べるとふつうの物質からできている。人体も含めて生物の身体はふつうの物質現象として科学で説明しつくすことができるが、その説明では幼稚園児が感じる命の意味は分からない。命は特別に私たちの感情に強く響く。また脳という物質は心と関係があるように思えるけれども、これもよく調べると、ふつうの物質からできている。脳がふつうの物質現象であることは科学として明らかになったが、そういうこととは関係なく、心の動きは特別に私たちの心を打つ。心は私たち人間そのもの、という気がする。脳の物質現象がどこまでも詳しく分かったとしても、それでは私たちが心を感じる心は分からない。

人体という物質が、ふつうの物質であることは明らかになっている。クラゲの身体も人間の身体も、物質としては高性能のコンピュータが搭載されている精巧なロボットと違いはない。構造がほんの少し違うだけだ。では、私の意志というものは何なのか? 私の意志と私の身体の動きとの関係は、科学では説明できない。私が身体を動かそうと思うと、なぜこの身体が動くのか? そもそもロボットが動くとき、彼または彼女またはそれ、は、自分の身体を動かそうと思っているのかいないのか? 「ワタシハワタシノ身体ヲ動カソウト思ッテイマス」とロボットがしゃべったとしても、彼または彼女またはそれは、本当にそう思っているのかいないのか? 

そういうことは、科学がいくら発展しても説明できるものではない。むしろ科学が進むほど、物質としての人体の構造はますます明らかになり、それと同時に、人間が内面で感じる意志や感情や欲望や価値、それらはますます意味不明になってくる。ところが、明らかにいつの時代でも、それらは、私たちにとってこの世で最も大事なものです。それらを使いこなして人間は社会を作り、それらを目的にして毎日の人生を生きている。それらがなくては、人間は一日も生きられません。

私たちの身体の奥深い、目に見えない内面にあると感じられるそれらが、なぜあるのか? 逆に言えば、それらと関係なく客観的に存在するかのように見えるこの自然と呼ばれる、科学が対象とする物質世界。これはなぜあるのか? 同じ『ある』という言葉で認められているこの二者は、全然違うものなのか? お互いにまったく関係がないのか?それとも繋がっているものなのか?

それを調べるために、筆者は拙稿を書いてきました。

物質ではないそれらはなぜあるのか? それは、そういうものがあるという錯覚を起こす仕組みが、人間の脳の中にあるからなのではないだろうか?

多くの人が持っているふつうの直感と現代科学との矛盾を調べていくと、拙稿のような議論になってしまいました。どうしてそうなってしまうのかを前章まで、いろいろな観点から書いてきました。分かってくれる人も、かなりいるだろうと思います。「私も実は、そうじゃないかと思っていた」と言ってくれる読者もいるでしょう。

結局、物質として目で見えるものしかこの世界には存在しない、という言い方を拙稿は好んで使う。それは次のような考え方から来ています。

ものごとは、自分の目だけに見えるのではなく、だれの目にも見えなければ、間違いなく存在するとは思えない。逆に、いつでもだれの目にも見えるならば、それは確かに存在する、と感じられる。また、今ここで目に見えなくても、それが見えるところに行けばだれもが見ることができる場合も、それは存在するといえる。また、それがあるとしなければ理解できない現象がいつでもだれにでも観察できるならば、それは存在するといってよい。だから、だれの目にも見えるものたちから理論的に存在を証明できるものは、それも存在すると感じられます。そういう存在について、人々と話が通じれば、もうそれは間違いなく存在するとしか思えません。

そういうことで、こういう条件を満たすすべての物質、たとえば原子、電子、電波、素粒子、小惑星イトカワ、私の一円玉、近所のおばさん、日本の総理大臣、南極大陸の最高峰、などは確かに存在する、と思える。つまり、私たちがいま自分の目の前に見ている自然の物質と、私自身は今目の前に見ていなくともだれもが認めている遠くの物質たち、それに加えて、科学が描く理論的な宇宙の物質たちは、間違いなく存在することになる。

結局拙稿では、科学が存在するとしているものは確かに存在すると言い、一方、宗教や哲学や法律や、ふつうの日常会話では存在するとされているけれども目には見えない多くの重要なものたち、たとえば命や心や意志や生死や自我や私の借金は、それらがはっきりと存在しているとは言いがたい、と言っているわけです。

この筆者は、科学に肩入れしているのか?

まあ、理系出身ですから科学に親しみはありますが、特に科学の強い味方というわけでもありませんね。仕事柄、広く理系の世界を見てきた経験もあって、現代科学の実情はおおむね分かります。その点、科学に対して、こむずかしくて不可解で気味が悪いという先入観は持ってはいない。科学や科学者に対しての不信感、反感とか不安とかも持っていません。科学者の気持ちもよく分かります。科学者たちを特に賢く気高い人たちだとも思っていませんが、また特に変わった人たちだとも思っていません。長年、日本や欧米の多くの科学者とつきあってきた筆者の経験から言うと、彼らは、どちらかというと気がよくて素朴で勤勉な、ふつうの人たちです。

しかし、拙稿のテーマを語るに当たって、科学や科学者の実情をいくら知っていても、あまり役には立たない。科学は科学そのものを説明できない。筆者に言わせれば、自分自身が存在することの根拠を説明できない現代の科学は、基礎の基礎ができていない。いわば、虚無の上に立っている(と拙稿では考えています:拙稿3章「人間はなぜ哲学をするのか?」)。

科学の基礎、つまり科学のよって立つ所に関して拙稿の見解は、実は、大多数の科学者たちの見解とは違います。むしろ正反対かもしれない。科学者は、物質世界(自然界)の存在をすべての科学の基礎と考えている(ナチュラリズムという思想)。一方、拙稿の見解では、物質世界の存在は科学の基礎になっていない。物質世界は、完全にもっともらしく存在しているように見えることから存在していると感じられるだけだ、と考えます。拙稿の見解によれば、物質世界が実際に存在しているかいないかは問題ではない。そういうことは人間にとって意味がない。だれもが直感で確かに存在感があると感じられるから存在していることにしているだけです。科学の基礎は、そんなあやふやな物質世界の存在の上に築くわけにはいかない。

それでも、それはそれとして、仮にアプリオリに物質世界の存在を認めてしまうことにすれば、あとは問題なし。科学の言うとおり。拙稿も科学が語ることに全面賛成です。現代科学によって、世界は単純明快に説明できる。 

科学は、物質世界を説明する。この目に見える物質世界、宇宙や生物は、なぜこうなっているのか? なぜ、こう動くのか? 世界の創生を教えてくれる神話や経典の現代版と言えます。だが、現代では科学は、宗教の神話や経典に比べて、矛盾なく論理的であり、かつ人間のすべての経験との整合性がある。科学が分かる人は、宇宙も生物も人工物もすべてを同じ法則で説明できる現代科学の整合性と信頼性に感嘆する。科学をよく知らない人でも、現代人の衣食住すべてが現代科学技術によって支えられている事実を見ればその威力がすぐ分かる。特に最近の医療技術は、病気治療ばかりでなく、延命、生体機能回復に劇的な効果を発揮する。さらに身体能力向上、生殖制御、さらに近い将来は胎児乳幼児の身体改造、特に知的能力向上も可能になりそうなことから、個人や家族の身体への物質的操作を介して、科学はすべての人の人生に深くかかわってくる。私たち現代人にとっては、このような現代科学が圧倒的な現実感と存在感を持って存在していることは間違いない、と感じられます。

神話や経典は、結局は、言い伝えです。科学も、本を読んだり、先生の講義を聴いたりするだけでは、学生にとっては神話、経典と同じ。単なる言い伝えに過ぎない。科学は、神話、経典に比べて、直感では分かりにくい概念や専門用語や数式が出てきたりして、まじめに勉強するのは面倒なものです。

しかし、科学は、対象が物質ですから、自分でやろうと思えば、だれでも実験、観察で確かめることができる。まあ、最近の科学は高価な装置が必要なものが多いが、とにかく、どの分野の科学も、単に伝説や言い伝えのようにたとえ話や、本と講義だけで伝わっているのではない。世界中の大学や研究所で、毎日のように実験され観察されることで確認されて、継承されている。

宗教の経典の非合理性を指摘した者は破門されたり、火あぶりになったりする。逆に、科学の学説が間違っているところを見つければ、それは指摘した科学者の手柄になる。だから、世界中の科学者が競って、互いの科学の怪しいところを実験で暴こうとしている。単なる言い伝えを排除し、間違った理論を暴きだして実験で反証する。こういう仕事が科学だ、ということになっています。

ヨーロッパでは、ルネッサンスの時代から、こういう科学の伝統が積み重ねられてきた。百数十年ほど前から、欧米を中心に、しっかりしたアカデミー、大学、学会など科学者のコミュニティが形成されてきました。そこで論文誌を中心に、実験と観察のデータを徹底的に検証された理論として、近代科学から現代科学が発展してきました。そういうものはかなりの信頼性があり、存在感があります。

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