15 私はなぜ死ぬのか?
バグダッドに商人がいました。ある日、召使を市場に買い物に行かせました。真っ青な顔で帰ってきた彼が言うには、『ご主人様、市場で背中を突かれて振り向くと、死に神がいたのです。私を脅すしぐさをするのです。どうか馬を貸してください。この町から逃げてサマラに行きます。そこまで行けば、死に神に見つからないでしょうから』。召使は馬を駆って全速力で逃げました。商人が市場に出かけたところ、死に神が立っていました。商人は聞きました。『なぜ、私の召使を脅したのか?』 死に神は答えました。『あれは、脅したのじゃないの。私は驚いた顔をしちゃったのよ。だって、あの人とは今晩サマラで会う約束なのだから』
(一九三三年 サマセット・モーム『サマラで会う約束』訳文筆者)
(一九八七年 ダニエル・デネット『真の信者』プロローグに引用されている)
昔の哲学は死の話が得意でした。好きでした。商売の種にしていました。「死のことを、いつも考えろ(ラテン語でメメント・モリという。うつむいてこれをつぶやくと、いかにも哲学っぽい)」と教えました。昔の哲学者は、書斎に(どこで買ってきたのか)頭蓋骨を飾っていました。
哲学など知らなくても人間はだれも、物心ついてから老いて死ぬまで「そのうち自分は死んでしまう。空しい。怖い」と思っています。しかし拙稿の考えでは、こういう思いも、数千年にわたって人々が間違った理論(世界観)を語り合ってきたために身につけてしまった錯覚のひとつです。
人が(自分の)死について語るとき、経験したことがないものについて語ることになる。死んだ人は語れない。生きてそれを語っている人は死んだことがない。それを指差しながら話そうとしても、(自分の)死は物質ではないから目に見えない。指差せない。話し手が聞き手と同じものを見ながら語ることができない。そういうものは客観的に語ることができません。
客観的でないものについて語るということでは、痛みを語ることに似ている。しかし、痛みは話し手も聞き手も、だれもが経験したことがある。同じではないかもしれないが似たような経験はある。その経験に関して、比喩あるいは類推を使って共感を求めることで、それを語れば何とか伝わりそうではある。ところが死に関して語る場合は、そういう方法も絶望的です。互いに知っている似たような経験として共感を求めることもできない。まったくできない。話し手も聞き手も、だれもがまったく経験したことがないものを、将来経験することを想像して語ることになる。
宇宙の果てについて語ることに似ている。だれも行ったことがない。今ここからはそれは見えない。だれも見たことがない。見ることができるはずがない。それが見えるとしたら、それは果てではないのだから。そういうものは、そもそも語ることができるものなのか。疑問ですね。そういうものを語ること自体が間違いではないのか?
(拙稿の見解では)人間の言葉(自然言語)は、それをいくら上手に使っても語れないものがたくさんある。どんな言語を使っても人間が語る限りは、目に見ることができないものを正確に語ることはできません。それらを語れると思うことが間違いの始まりです。
宗教も哲学も文学も、世間話も、しばしば死について語る。言い伝えと比喩とたとえ話を駆使して、熱心に語ろうとする。しかし語れば語るほど、どれも間違ってくる。それについて言葉で語ることができないものを無理やりに語るから、かならず間違っていく。人類が死の観念を発見して以来、それについて語ってきたことは全部間違いでしかなかった。大人の言葉によって死の観念を教えられた小学生は、それにおびえながらそれを自分の言葉にしていく。
私は死ぬ。私はなぜ死ぬのか? その言葉の意味は、実は分からない。それでも何か恐ろしい意味があるような気がする。小学生は、こういう言葉を聴くと、怖がる。意味は分からないけれども、言葉の響きから、怖そうに感じるわけです。また、それを言うときの人の顔を見て、そう感じるわけです。そのとき子供はもう間違っている。言葉にできないものがあるということを知らないからです。実際、私たち大人もそれを知らない。言葉に限界があることを知らない。それを知らないということさえも知らない。
拙稿もこれから死について語ります。読者はまたもうひとつ間違いを聞かされる、と思うでしょう。しかたありません。そう思って読み始めてください。いままでのどの著作も、死について間違いしか述べていないことを、皆さんはよく知っているのですからね。
さて拙稿の見解では、まず、死といわれるできごとは、特に他のできごとと比べて変わった特徴があるわけではない。生物が故障して動かなくなる、元のようには戻らない、という現象は、何の神秘もない自然な物質現象です。物の形が不可逆的に変形するという物質現象の一種です。アイスクリームが溶けてしまうのと変わらない。
「形あるものは必ず壊れる」と昔の人も言いました。形が壊れることが問題となるのは、それを見ている人間がその形に注目しているからです。ただ甘いからアイスクリームが好きだ、という人にとっては、溶けても甘さは変わらないから、それが溶けるか溶けないかは問題ではありません。しかしアイスクリームのこんもりした形が好きな人にとっては、それが溶けてべたっと流れてしまうのは、とても残念なことです。溶けて液状になったアイスクリームなど食べる気がしない。形があるうちに食べるべきだったのです。残念でした。実に残念です。しかし、アイスクリームの溶解それ自体には残念という特徴があるわけではない。残念というのは、それの形を問題にしている人の内部に起こる感情の特徴でしょう。甘さだけを問題にしている人には、それは残念なことではない。
火山が噴火して山頂が吹き飛んでしまうことがある。大音響がして巨大な火柱が立ち、噴煙がもうもうと上がる。山の形は一瞬にして大きく変わる。昔の人々は、神の怒りとか言って神秘的な大事件だと思ったようです。しかし、噴火という物理現象も個々の原子が自然法則にしたがって運動する結果に過ぎない。他の自然現象と比べて特別な特徴があるわけではない。山の形に注目しているから大変化と思える。一個一個の原子に注目していれば、それが自然法則に従って加速されている運動があるだけです。また地球全体に注目していれば、ほとんど変化は起きていない。
同じように私たちが、一個の生物の身体と活動の外見に注目している場合だけ、その身体が壊れて活動が停止してしまう不可逆的な変化、つまり死を、見てとることができる。死は、いわば、現実にあるというよりも、それを見る観察者の内部にある。それが大事件であるとすれば、それは観察者にとって大事件であるからでしょう。
生物の身体はいつか壊れる。しかし、生物は形あるから壊れる、というばかりではなく、ちゃんと壊れるように進化してきたのです。
生物の身体は生殖(と育児)を何回か終えて一定の年齢になると、きちんと老化して壊れていくように設計されている。それは生物の身体というものが、個体が生き延びるためにあるのではなく、遺伝子(DNA配列。ゲノム)が生き延びるように進化が進んだ結果、自然に起こった現象だからです。進化の結果、種ごとに固有の寿命がDNA配列(ゲノム)に書き込まれているわけです。
自然の生存競争においては、まったく同一のDNA配列(ゲノム)を何度も複製して、いつまでも同じ能力の生物の数を増やしていくよりも、速く世代を交代させて、新しく再配列されたDNAを使う遺伝子発現システム(遺伝子型)を早く生存競争にさらして淘汰させるほうが競争に勝つ。なぜならば(病気になりにくいとか、食料が少なくても繁殖できるとかの)生存能力をレベルアップした新しい繁殖システム(表現型という。生物の身体構造や生態、生得的行動などのこと)をなるべく早く出現させ、新しい環境に適応していくほうが、その遺伝子発現システム(遺伝子型)自身が生き残りやすい。
ちなみにこの状況は、経済界での企業の生存競争にも似ている。携帯電話やパソコンの型が古くなると、すぐ店頭から消えてしまうのはなぜか? グローバリゼーションの競争的な環境下で市場シェアを確保するためには、絶え間なく研究開発を続け、つねにバージョンアップした新製品とその生産販売システム(表現型)を実現し続けなければ、その会社(遺伝子型)は市場に生き残れないからですね。
ウイルスや細菌など病原体の進化に対抗する人体の免疫系の防御的な進化(赤の女王仮説などという{一九七三年 レイ・バン・バレン『新進化法則』})、などが典型例です。(男女を問わず)同じ人間がいつまでも子を作り続けると、同じ免疫体質の人間ばかりが多くなって、ウイルスの速い突然変異に免疫系の応答変異で抵抗できる人間が生まれてこなくなり、(人間に限らずどの生物種でも)種族は滅びてしまう。子から孫、ひ孫への世代交代を早め、違った体質の人間を次々に増やすことで、ウイルスの速い変異に対抗できるDNA配列〈ゲノム〉を早く作り出し、種族を生き残らせることができる。
そういう自然現象として、動物は(植物も)、自分が手に入れた生存圏を、自分よりもう少し環境適応能力が高くなる可能性のある子供たちに明け渡すために、老いて死んでいく。人間も同じ。それを繰り返している。私たちの身体が今ここにあるのもそういう自然現象の一環です。
生物はそういう身体に作られている。つまり、それは複雑ではあっても何の神秘もない、そういう機構を備えた生物だけが、変化し続ける生態系環境、たとえば食料となる植物群や捕食し捕食される動物群が変化し続け、害虫、病原体、ウイルスなどが変化し続けるこの地球上で生き残り、子を産み育て繁殖していく。これは神秘でもなんでもない。進化という単なる自然現象、つまり物質世界の法則が繰り返される結果です。
現代の科学は、人間を含むあらゆる生物のDNA配列(ゲノム)を読み取ることを可能にしました。料金は高額だそうですが、米国で(そのうち日本でも)専門会社に委託すれば、だれでも自分のDNA配列(ゲノム)全部を読み出してもらえるそうです。そのデータがあれば、何歳頃になればどの程度老化が進んで、どのガンでいつ頃死ぬか、かなり正確に予想できる。心配な病気についてだけの検査ならば、ずっと少ない料金だそうです。さらにもう少したくさん料金を出せば、遺伝子工学の医療が受けられて、寿命は何パーセントか延びるようになる。
さらに数十年後の将来には、先端科学を応用した高価な医療を施すことで、人間が百数十年、さらには数百年以上も生きつづけることが可能になるでしょう。しかし、その時代になっても、生物は死なないとうまく子孫を残せない、という自然原理は働く。つまり寿命を長く延ばすほど延命医療にかかるコストが幾何級数的に膨大になっていって、ごく一部の金持ちしか恩恵にあずかれない。そのため、国民全体の平均寿命はほとんど変わらない可能性が大きい。実際はたぶん、そうなる前に、貧富格差による身体能力やルックス、寿命などの二極化により上下の社会階層が固定される懸念が政治的な問題になってくる。そうなれば、遺伝子技術の人体応用は法的に規制されるでしょう(二〇〇七年 マイケル・J・サンデル『完全化への反論』)。いずれにせよ人類が存続する限り、未来の人間といえども、不老不死になるわけにはいかないようです。