哲学の科学

science of philosophy

人類最大の謎(12)

2010-09-25 | xx3人類最大の謎

人間社会が効率化され、言語が発達して、人々の間で物事の見方、感じ方が広く共有されるようになると、客観的現実世界の存在感がきわめて強く共有されるようになります。そうなると、ここまでに述べてきたように、人間が感じとる自意識と客観的現実世界の認知との間の矛盾がはっきりしてくる。神話や宗教がうまく世界を説明していられる時代は、それでも矛盾は覆い隠されてきました。トーテムやタブーや祟りや妖怪や精霊を使って物事を説明できている間は、人々は安心して生きていられる。しかし近代にいたって、科学がひろく認められるようになると、客観的物質世界の存在感は極度に強まってきます。

世界は日常言語で説明されている限り、私たちの直感で理解できる範囲にある。日常言語は、主体客体、意志意図、存在感、自他認知、というような私たちの直感を使って、だれもが世界を共有することで成り立っているシステムだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。しかし現代科学はそういうシステムではない。現代科学は私たちが直感にもとづいて(主体客体、意志意図、存在感、自他認知、などの認識の上で)日常言語を使いこなすことで操作できるシステムではなく、高性能な望遠鏡や顕微鏡で測定した膨大な数値データを抽象的な幾何学と計算手続きによって操作しなければ理解できないシステムになっています。そのため、科学を理解する人々は、日常言語の感覚とはかけ離れた客観的物質世界の存在感を獲得していて、それが本物の世界である、と考えるようになります(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。

日常言語で私たちが語り合っている物事は俗世間のいい加減な存在についての話であって、真に実在する世界は科学の描く物質現象でしかない、という考えが時代とともに強くなってくる。

そういう考えを持つ現代人は、客観的物質世界だけが実在する、という唯物論的考え方におちいる。物理学を理解する人々はさらにその傾向が強い。物理法則に従う物質・エネルギーの変遷だけがすべてを説明するという物理主義におちいる。さらに二十世紀に入ってから、進化論と分子生物学および脳神経科学の発展による生命・人体の物理現象への還元理論が完璧になってくると、科学の世界像から締め出される人間の感性や自我意識の意味づけが浮き上がってしまう。そうなると、世界を意識している自分とは何か、意識とは何か、という存在の矛盾に悩むことになります。科学者ばかりでなく、宗教を信じられない人々、不治の病気や障害をかかえて自分の身体の存在感に悩む人々、あるいは老齢になって死を恐れる人々、あるいは、社会から疎外されたと思い込む人、あるいは世の中は嘘ばかりと思う人、あるいは人生に懐疑する人々、など、この世の中での自分と自分の身体の在り方の意味をうまく理解することができずに苦しむことがある。そこに、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)が苦しみを伴って、はっきりと湧きあがってくる。

世界と私が同時に存在することの矛盾について、ふつうの生活場面でふつうの人はそれに気づかない。気づかなければ、この矛盾は合理性の瑕疵あるいは生活上の支障としては表れない。人生という機構は、この瑕疵があってもふつうは支障なく働くようにできています。しかし人の人生では、たまにですが、この瑕疵が苦痛を引き起こすときがある。人生のあるときに、周りの人と通じない気持ちになるときです。世界をともに感じとる仲間がいないとき、人との接触がまったくなくなるとき、きわまりない孤独を感じるときです。逆に言えば、孤独に伴う苦痛は人生のこの瑕疵からくるといえます。

だれでも、自分が死ぬときを考えると孤独感に悩むでしょう。一人だけ難病にかかってしまったとき、あるいは年をとって子供が出ていき、同年代の配偶者も友人も皆死んでしまったとき、あるいは失業、左遷などで仕事仲間から落ちこぼれるとき、離婚や死別によって配偶者や家族を失い一人だけで生きなければならないとき、故郷や実家を遠く離れ帰ることができないとき、人はさびしくてたまらなくなります。しかし若く健康な人はしばしば孤独にはなっても、底知れない孤独感に悩むことは少ない。たとえば、外国に一人で暮らすとき、失業などで社会から極度に疎外されたときなどの場面が考えられますが、新聞、雑誌やテレビや携帯電話やインターネットやコンビニや宅配便などが普及した今日など、ふつうに暮らしている若い人にはそれほどの孤独はあまり起こりそうにありません。

人はふつう、一人だけでは生きていない。仲間とともに暮らし続けることができる人々が経験しなくてすむような孤独感が問題です。そのような孤独な状況におちいった人だけが、本章のテーマである存在の謎をはっきりと感じる。

逆にいえば、人はきわめて強い孤独感を感じない限り、客観的現実世界と自分の存在矛盾に疑念を持たずに生きていける。現実世界と自分との関係に関する疑念は、深い孤独感に落ち込んだ人だけが感じる謎だ、ということができます。

存在の謎から発生したと思われる宗教や哲学が、死や老いや病気や社会的疎外と親近性があるのはそのためでしょう。また多くの宗教や哲学が出家や隠遁や瞑想を奨励していることも、孤独の問題と関係がありそうです。孤独な環境を故意に作ることによって、存在の謎を顕在化し神秘化することが宗教や哲学の使命であると思われているのかもしれません。

タヒチの楽園を描いたポール・ゴーギャンの絵に、「私たちはどこから来るか?何ものなのか?どこへ行くか?」という文字が書かれています。画家の(自殺未遂に際して書き残した)遺書だといわれています(拙稿15章(6)「私はなぜ死ぬのか?」)。拙稿本章のテーマである存在の謎が、南海の孤島で孤独に芸術と格闘していた画家の懊悩のうちに浮かび上がってきた、と推測できます。

私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問が孤独の深淵から湧きあがってきます。この謎を感じとる直感は(拙稿の見解では)、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)からくる違和感です。

共に語り合う仲間とともに世界をしっかりと共有している限り、私たちはこの違和感をあまり意識することはない。理論的には矛盾があることを理解しても、それに違和感を感じたり、つらいと感じたりすることはありません。しかしふつうまれにしか起こりませんが、これが身体に響くように感じる場合がある。たとえば共に語り合う仲間がまったくいなくなったとき、自分がこの現実世界の中に存在することの違和感は耐え難いものとなり得る。

だれも私を必要としない。だれも私を見ていない。だれも私の存在に気づかない。私が今ここに生きているということを知っているのは私だけだ。だれもそれを知ってくれない。これからも決してだれにも知られることはない。だれにも知られずに私は死んでいき、その後には何も残せない。それでも私はここにいる。私はこの現実世界の中にいる、という孤独な叫びに私たちは共感できる(拙稿19章「私はここにいる」)。

人間は、だれもが次のように直感しているようです。

私はモノではない。命がある。心がある(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。タマシイを持っている、私という存在は、客観的世界の一部分である客観的な物質現象にすぎないのではない。私は冷徹な科学が示すような物質世界の中で進化の産物でできあがった物質現象などではない、私は私だ、という思いに私たちは共感できる。

人のこういう思いに共感できるからこそ、私たちは人間には心があると感じられる。だれもがタマシイを持っていると感じられる。私以外の人々もとうぜん私と同じようにこの客観的世界を感じとっていることを感じとることができる。それが(拙稿の見解では)客観的世界の存在感を成り立たせている(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。それがこの現実世界を現実と感じさせています。私たちに心があるからこそ、客観的な現実世界がある、と思えます。

Banner_01

コメント

あとがき(書きかけ)

2010-09-23 | その他

 

あとがき

 

二十一世紀が始まって数年したころ筆者は還暦を迎えました。何を感じたのか、何かささやかな新しい習慣を始めたいという気分になったのでしょう。生まれて初めてゴルフクラブを握って練習場で振ってみました。それは意外と続いて今まで月一回くらいの頻度でラウンドする仲間に恵まれています。

ブログも始めてみました。もちろん初めてでしたが、これも無事習慣化できて、この拙稿になっています。ブログといっても、日記風のものを書くことは好きでもないし続けられるはずがないので、その一年ほど前の数か月の入院生活中に書き溜めたエッセイ風の文章を少しずつアップロードしてみました。それを第1章と称して進めていくと、書き溜めた分が毎日減っていくので不安になり、まじめに書き足して章を繋いでいったところ、今日に至り、長々となってしまったものが拙稿です。

 

カニは甲羅に似せて穴を掘る。身に余る大穴を掘るカニがいたとしても、穴ごと波に消し去られてしまうだけでしょう。掘るべき人が掘った穴以外は、すぐに消し去らなければ砂浜が穴だらけになって困ります。

しかし現役を引退する年齢にもなり、同時にたまたま長患いをして数ヶ月にわたる入院をした頃から、そろそろいいかな、と思うようになりました。若いころ、年寄りが墓参りに熱心なのを見て笑ったものです。人生の終わりを感じると、人間は帰るべきところを探すようになるのでしょうか。病床の脇机にパソコンを横向けにして、ポツポツと打ちはじめたものが拙稿の下書きです。風呂に入れず、毎日、ベッドの上で妻に身体を拭いてもらいながら、人生の幸福について考え、感じるところを書きはじめました。人生と科学の関係については、若い頃から興味はありましたし、現代に生きてきた以上、直接、あるいは間接的に、現代哲学や現代科学の長年にわたるユーザーではあるわけなので、それなりの意見を述べてみたいところもあります。

 

隠居ともいえる身になれば、興味のままに、どの話にでも好き勝手に入り込み、青春に戻って無邪気に大それた言葉を語ってみても、人生の余興として許されるのではないか、という気にもなってきました。

最近、老眼が進んで、細かいものがよく見えなくなったからでしょう。人生も哲学も科学も、単純な輪郭だけが、かなりはっきり見えるような気分になってきました。

近い将来、旧来の哲学が霧消したあと、まったく新しい哲学と科学が、同時に再発生するのではないでしょうか。かつてニュートンの時代、科学は哲学から派生しましたが、今度は、むしろ最先端の科学から、まったく新しい哲学が派生する。そしてそれは科学と一体化したまま、哲学の科学とでもいうか、あるいは単に基礎科学とでもいうのか、そういう方向へ行くのではないか、という予想を持つようになりました。

そしてそれはたぶん、高尚な学問からというよりも、私たちが日常感じている、科学の存在感と個人の生活感覚とのギャップのあたりからヒントが見つかってくるのではないか、と思ったわけです。昨今の書籍にも、拙稿の狙ったそういう予想を上手に語った話を読んだことがありませんでしたから、気楽な身を利用して、その面白そうな所にチャレンジしてみようかな、という遊び心もありました。

 

○○はなぜあるのか? 存在論といわれる哲学のテーマであり、また「なぜ人間はそれがあると思うのか」あるいは「それがあると思うということはどういうことなのか」と問えば、認識論でもある。認識論は現代の認知科学につながり、また脳の進化論につながる。また、拙稿の見解によれば、脳神経活動の集団的共鳴による存在感の進化でもある。ここで弁証法を使えば、この人類特有の存在感覚、これがすなわち、メタな論法としての存在論にもなるといえる。この思考法を、さまざまの存在にあてはめて考えてみる、という遊びに、延々とはまり込んだわけです。

学問の実績を主張する論文ではありませんので、既存の諸学説との連関を述べることは省略し、筆者の独創ないし独断と偏見だけを思いつくままに書き下したという形をとりました。けだし独創と思い込んでいるのは本人だけで、所詮、凡庸な老脳にミューズが舞い降りるわけもなく、古今東西の先哲の著作から無意識のうちに影響を受けてできあがった発想の羅列にすぎないでしょう。もともと独創を主張するつもりで書いたものでもなく、哲学の伝統に繋がる何らかの位置を主張するつもりもまったくありません。ただ折に触れ、自ら思いついたように感じられた風変りな発想を、徒然なるままに書き下すことが楽しかったというだけです。

 

ブログ原稿が適当に溜まったところで表題をつけて紙の本にしています。自宅本棚の最上部に並べておくとナルシスト気分で背表紙をながめることができますが、まずめったに見ませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ⓒ Tsutomu Iwata 2007-2017

 

 

 

コメント

人類最大の謎(11)

2010-09-18 | xx3人類最大の謎

私たち人類の身体は、仲間の視座から見えるであろう物事だけをはっきりと現実の存在として認め、それ以外に感じたことを抑えて、仲間の視座から見て現実と感じられる物事にだけ強く反応して動くようにできている。この仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは自分の内面とは無関係に存在すると感じられる客観的世界を感じとることができる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。こうして仲間と同じように「世界がはっきりとここにある」と感じることができれば、私たちは仲間と共通の現実世界を共有してうまく協力できる(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

一方この仕組みとは別の仕組みとして、人間は仲間の身体の動きを見て、その中に心というものがあると感じる神経機構を持つ(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。その神経機構を働かせて、それを自分の身体に適用することで自分の身体の中にも心があると感じられる。それが自我の存在を作り出す(拙稿12章「私はなぜあるのか?)。その仕組みで「私がはっきりと現実世界の中にいる」と感じることができれば、現実世界の中で私自身の身体をうまくコントロールしてじょうずに生きていくことができる。

二つの仕組みは、それぞれの場面で、私たちが生きていくために便利に働く。それぞれの場面で必要な存在感を作り出す機構です。それぞれの機構がそれぞれの場面で稼動した場合のメリットは十分大きいので、この両方が同時に稼動するというまれな場合において論理的に矛盾が起きることのデメリットは無視してよい。こういう事情で(拙稿の見解では)人類の脳神経系は、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)を作り出し、それを放置し続けるように進化してきた、と推測できます。

ちなみにこの謎の放置は、逆説的に、ある面では人類にラッキーに働いた、と見ることもできます。たとえば、人類の進化が放置してきたこの謎のおかげで、人間には神秘感を伴った自意識が生まれ、自分の人生を重要だと思う感情が生まれ、そこから自尊心や帰属意識や倫理観が作られたと考えられます。その結果、それぞれの個人が仲間の中での自分、社会の中での自分というものを論理的に操作できるようになり、人間関係を安定させ、義理人情や契約や商取引を成立させ、社会構造をより強固にすることに役立った。歴史時代になると、論理的な言語使用が発達して世界の存在の謎が自覚されるようになり、それが神話を作り宗教や哲学や倫理の発達を促し、それらが結局は科学や経済や法律や国家を作り出したことで、それなりに現代の社会を支えている、と見ることができます。

さて、ここまでの検討で、本章で取り上げた問題の周辺がだいたい整理できました。

存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、人類のふつうの生活において、それほど実害があるものではない。さらにいえば、それが謎であり続けることで人類に多少の利益をもたらすものでもある。そのためそれが謎であり続けるほうが有利であったから、謎であり続けた。つまり、人類の進化の過程で、この謎を消滅させるように神経系が変化することができなかった、またはその必要もなかった、ということでしょう。

拙稿本章は、存在の謎はなぜ謎であるのか、という設問を立てて議論を進めてきましたが、ここで、一応の結論に到達しました。

つまり、存在の謎は、それが謎であることによって人類に害をもたらすことがほとんどなく、逆にいくらかの利益をもたらすという働きを持つがゆえに、いまも謎であり続けているのです。

実際、世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる。当たり前ではないか、と思える。私たちは毎日これが当たり前と感じて暮らしています。こう感じていることで、毎日、ほとんど問題はない。実際まったく問題はないといえる。周りの人々は皆これが当たり前として生きている。それでだれとでも話が通じる。まったく問題はない、と思えますね。逆に、これが当たり前だと皆が思っていないと、困ったことになります。

拙稿の見解では、まさにここに謎にアプローチするためのカギがある。毎日、私たちが周りの人々と一緒に暮らしていく場面で、この謎は放置されたままでうまく働いている、といえる。実際、この謎は無視されている。むしろこれが無視されていないと私たちは困ってしまう。

私たちは互いに「世界ははっきりとここにあるし、私ははっきりとその中にいる」と思っているから話が通じ合って、お互いに何を思っているのか分かるのです。ここにあるこの世界があるのかないのかよく分からないとか、私がその中にいるのかいないのかよく分からないとかいうことを、多くの人が問題にしだしたら、とたんに、私たちは毎日、何を話せばいいのか分からなくなる。世界は、はっきりとここにあるということでないと、私たちは困ってしまいます。また、私が世界の中にいるということでないと、さらに私たちは困ってしまうのです。

あるものがこの世に存在している場合、それが存在しないと、人間どうし一緒に暮らしていくために困る、という事情がある。たとえば、食べ物。食べ物がないと私たちが困るからそれは存在している。仮に私たちがロボットだったら、世の中に食べ物などありませんね。たとえば、命。命が存在していないと私たちは困ります。生きているのか死んでいるのか分からなくなってしまいます。戸籍制度も年金制度も葬式も死刑も消滅してしまいます。しかし仮に私たちがロボットだったら、世の中に命などありません。私たち人間が、こういうような社会を作ってうまく生きていくために必要だから、食べ物や命がこの世にある、といえます。

つまり人間がうまく社会を作って生きるために必要だから(拙稿の見解では)命は存在している(拙稿7章「命はなぜあるのか?」)。それがないと私たちが困るからそれは存在している。この世に存在するものは、それが存在していないと私たちが困るから存在しているものが多い。いや、拙稿の見解では、存在するものはすべてこういう事情によって存在しているといえる(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

こういう、いわば便宜主義を使いこなすことで、私たちは毎日つつがなく暮らしている。そのものが存在していると思い込むほうがうまく生き抜いていかれるようなものは存在していると思い込むことで、とにかく、とりあえず現実を生き抜いていく。つまりそれが、人間にとって、そのものが存在している、ということです。現実主義というか、いい加減主義というか、ちょっと自己欺瞞のようにも思える。そういうところが私たち人間の生き方、というか、生物一般の生き方にはあるのですね。

この世において、あるものは人間生活におけるある便宜のために存在している。別のものは人間生活における別の便宜のために存在している。その二つのものが同時に存在することは論理的に矛盾する場合がある。それでも、私たちが生活の場でその矛盾に気づかなければ問題はない。あるいは気づいても気にしなければよい。たまたまよけいな事に気づいた人がいて、その矛盾について語り始めたとしても、多くの人がそういう人を無視すれば問題ありません。

たとえば、神棚と仏壇が同じ家にあっても、かまわない。たとえば、うどんとスパゲッティが同じ皿に盛ってあって、醤油とミートソースを混ぜたものがかけてあってもかまいません。だれも気にしなければ、それでよいではありませんか?またたとえば、身体と心、あるいは物質と精神が両方ともこの世に存在しても、たいていの場合はかまわない(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。さらに言えば、現実というものはひとつだけでなく、いくつもあってもかまわないのです(拙稿19章「私はここにいる」)。

物質も精神も、それぞれ人間の生活に必要だから存在している。リンゴの赤さもA君の心も、世界も私も、同じように、それぞれ私たちの生活に役に立つから存在している、といえます。そもそも(拙稿の見解では)、物事が存在するということは、それが存在すると感じとるように人間の脳神経系が進化したからだといえる。それが存在すると感じとることが、人間が生きていくために、特に人々が緊密な社会を作って気持ちを通じ合わせ、言葉を共有して、協力して生活するために有益だったから、それの存在感を感じとるように私たちの脳神経系が進化したと考えられます。

しかし、その後、人類の文明が急発展すると、このことがいくつかの不都合を引き起こしてきます。

Banner_01

コメント

人類最大の謎(10)

2010-09-11 | xx3人類最大の謎

たとえば、机の上にリンゴがある。その机をはさんで私はA君と向き合って座っている。A君はリンゴに視線を向けて、手を伸ばそうとする。そのA君の動作を見て、私もリンゴに視線を向け、つい手を伸ばしそうになる。このときなぜ私がリンゴに手を伸ばそうとしているのか、実は、私は知らない。それでも私の手が伸びそうになっていることが私には分かる。A君の手が私より先に伸びていく。私はA君がリンゴを目的として手を伸ばしていることがよく分かる。A君と私のそれらの身体運動を感じとることで、そこから私たちが手を伸ばす目的物として、リンゴの存在感が私の中に現われてくる。そうなることによって(拙稿の見解では)、リンゴは現実として、客観的に、ここに存在することになる。

ところで、本章で問題にしている存在の謎というテーマについてですが、そもそもこういう話は、毎日忙しく暮らしているふつうの人には、なかなかぴんと来ないテーマと思われますね。

本章の冒頭で人類最大の謎であるとしましたが、その存在の謎、つまり「私はなぜ今ここに生きているのだろうか? 今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 私はなぜこの私なのか?」という疑問には、実際、ほとんど興味がない人が多い。

こういうことを問題にしている人は、哲学好きというか、ちょっと少数派の変わった人たちである、ということもできる。そういう人たちがえらい、ということはいえませんが、そうでないほうがえらいというわけでもない。では、どちらがえらいのか? ここまで書いてきてしまった拙稿としては、ここまで読んでくれた読者のためにも、この問題が好きな人のほうがえらい、といいたくなってきますが、そこは抑えましょう。まあ、哲学者たちはたいてい、存在一般について抽象的に語ることがえらい、と言っているようですが、それは立場からの発言に聞こえてしまいますね。実際、抽象的な一般知識よりも具体的な実際知識のほうが重要だ、という哲学もあって、拙稿として冷静な立場をとれば、こちらがもっともらしいと思います(一八九〇年 ウイリアム・ジェームス 心理学の原理)。

そういうことで、拙稿としては、本章のテーマなどぴんと来ないという多数派の味方をすべきなのですが、公平に言って、そうもいえないところがあります。それはこれから述べるように、存在の謎など無関係であるはずの多数派の人々も、現代では、しばしばこの謎に巻き込まれてあぶない目に合う可能性が大きいからです。このことはすぐ後で述べます。

いずれにせよ、なぜ多くの人は本章のテーマである存在の謎にぴんと来ないのか? この点にも、拙稿の見解では、このテーマを考えるヒントがあります。

目に見えるこの現実世界が存在するすべてであって、私たちが感じるものはすべてそこからきている、とふつう私たちは思っています。宗教を深く信仰している人々を除けは、私たちのふつうの毎日の生活では、存在するすべてはこの現実世界以外にありえない、と思えますね。これはいかにも理性がある現代人らしい感覚ですが、この現代感覚は、この後述べるように(拙稿の見解では)、実は宗教を信じすぎる人たちに比べて、どちらがあぶないともいえないくらい、あぶないところがある。

このような日常感覚では、本章のテーマである存在の謎は無視されています。たとえば物質である身体と物質でない心とは、実は、両立しないのではないか、という哲学上の問題がある。しかし、そういうことは毎日の生活では問題にならない。そういうことが生活の支障にならないように、私たちの感性は、そういう論理矛盾には適当に鈍くできているからです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

机の上にリンゴが一個あります。その机をはさんで私はA君と向き合って座っている、とします。

ここにはっきりと客観的な現実世界がある。この世界の中にはっきりとこのリンゴがある。このリンゴの前にA君が座っている。私もA君も、私たちがこれから、このリンゴを話題にしてさりげない会話を開始するであろうと思っている。A君はたしかにこのリンゴを見ている。A君はたしかにこのリンゴがとても赤いと感じている。実際、このリンゴはとても赤い。A君もまた、私がリンゴを見ていると感じている。A君は私がたしかにこのリンゴがとても赤いと感じていると思っている。実際、このリンゴはとても赤い。こういうとき「このリンゴはとても赤い」という言葉が私の口から発声される。

現実世界のありさまは(拙稿の見解では)、身体運動に伴って現れる。あるリンゴがとても赤いという現実は、「このリンゴはとても赤い」と発声するという身体反応にともなって、私たちの間に立ち現われてくる。これは、(拙稿の見解では)私たちの身体が、仲間の視座で見た物事に反応して動くようにできているからです。私の身体のこの運動反応によって、A君の心の存在感もA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感も、そこから立ち現われてくる。

A君の心の存在感とA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感。それぞれがはっきりと存在すると感じとることで、私はA君と同じ現実世界を共有し、A君と話が通じていく。こういうことを繰り返すことで、私はA君と仲良く付き合う気持ちになっていく。私の中でA君は、間違いなく同じ人間どうしであり、仲間だということになっていく。こうして私はA君と、最後には緊密に協力していく間柄になる。逆に言えば(拙稿の見解では)、私たちの身体はこうして、私がA君と仲良く仲間として協力し合うようになるために、このリンゴはとても赤いというA君と共有できる物事の存在感を客観的な現実として感じとることができるようになっている、といえます。

私は、ここにいるA君がたしかにこのリンゴがとても赤いと感じていると感じとることで目の前のリンゴが間違いなくとても赤い、ということを現実だと感じとるような身体を持っている。と同時に、目の前にいるA君の身体の中にはA君の心が入っていることも現実だと感じる。そのA君の心の中にあるリンゴの赤さを現実と感じる。さらにここにいる私がこのリンゴの赤さや、A君の心を感じている、と思っている。こういう場合、私は、このリンゴの赤さが存在することを信頼できると同時に、A君の心が存在することも信頼できる、と思う。これらの全部が同時に現実だと思う。

しかしここで実は、矛盾がでてくる。拙稿でここまでに述べたように、物質の存在感と心の存在感が同時に成り立つことは矛盾であるということが分かっています(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

リンゴの赤さの存在感とA君の心の存在感。この二つが同時に存在することには矛盾がある。しかし矛盾に気づかないか、気づいても無視できれば、私たちの協力はうまくいく。こういう場合、いくつかの存在感の間に、哲学的考察によるいくらかの矛盾があっても、うまく人間どうしの協力が成り立つメリットにくらべれば、そのデメリットは無視できる。人類にとって(拙稿の見解では)、仲間としっかり協力して健康な子孫を育て上げることが重要であって、哲学がうまくいくかどうかはあまり重要ではない。

リンゴの赤さのことでA君と認め合って協力がうまくいけば、それでよい。リンゴの赤さは存在する。A君には心があるということを私とA君の双方が認め合ってA君と通じ合うことで二人の協力がうまくいけば、それでよい。A君の心は存在することになる。リンゴの赤さとA君の心と両方が存在するということが、哲学的に矛盾なく説明できるかどうかは、あまり重要ではない。

人類の生存にとっては、客観的と思える世界がはっきりとここに存在するように思えて、その中にいるように思える人々とそれを共有することで自分たちの心が通じあえるように思えて、かつ実際にその結果、仲間の皆とうまく協力しあって子供を産み家族を養っていければそれでよいのであって、よほどていねいに検討しなければ見つからない哲学的な矛盾などはあってもなくてもかまわないのです。人と通じ合えなければ私たちは生き残れない。哲学がうまく作れなくても生き残れる。

Banner_01

コメント

内容解説と抜粋

2010-09-11 | 読者のための案内

 

    

 どの章から入っても読めます。飛ばし読みでも大丈夫。

 専門知識は要りません。科学用語や哲学用語は少しだけありますが、知らなくて問題ありません。

哲学的な発想に興味はあるけれど勉強は嫌い、という人にお勧め。筆者がそうです。

わずかな数の筆者自家製の造語がありますが、『拙稿のキーワード』としてサイドバーに索引があります。見なくても問題ありません。ひっかかる言葉があったら、「哲学の科学」の索引検索を引いてください。

 

やさしい書き方でも科学的に品質の高い内容は表現できます。哲学的内容も、ことさらむずかしい言葉づかいをする必要はありません。やさしい言葉のほうが、むずかしい内容を正確に伝えることができる、という拙稿の信条にしたがって、書かれています。

 

  最新版→『哲学の科学』の草稿版はブログ『哲学はなぜ間違うのか?』にほぼ毎日掲載。草稿はたいてい土曜日にまとめられて、『哲学の科学』に掲載されます。

  挿絵→ブログ『哲学はなぜ間違うのか?』には一回飛ばしくらいで挿絵がありますが、本文と何の関係もありません。クリックする必要なし。筆者の自己中な西洋古典画趣味の押しつけです。

 

プロローグprologue

 

 

目次contents

 

 

第一部 哲学はなぜ間違うのか  why philosophy fails?

 

 

1  哲学はなぜ間違うのか?   why philosophy fails?

 

哲学はなぜ負け犬なのか?

 言語を使って哲学を語ろうと思うことから、もう哲学は間違う。言語は哲学を語る道具ではなく、空気を読み合うための道具です。命とか心とか、自分とか社会とか、愛とか死とか、感情に訴える神秘的で深遠に思える人生上の問題を、言葉だけを使って語りつくそうとするから、哲学は間違えていく。

 

2  言葉は錯覚からできている  words are made of illusions

 

言葉は現実を語れるのか?

 言葉は現実を記述する道具ではなく、仲間と錯覚を共有するための道具です。たとえば「自分の命」あるいは「地獄」などという実体が脳の外には存在しないとしても、そういう錯覚の存在感を発生させ、仲間とその感情を共有して集団行動に結びつける脳の機能は、人間が子孫を残すためにとても役に立つ。

 

3  人間はなぜ哲学をするのか?  why do humans do philosophy?

 

哲学が謎であることは謎ではない。

人間が自分の人生を謎と感じるような脳を持っていること、その事実自体は、まったく謎ではない。人間は、世界が変化する原理を知りたがり、仲間の多数派の考え方を知りたがり、権威ある教えを身につけ、それを自分の行動に織り込んで集団として効率よく生活していくような脳を持っている。

 

4  世界という錯覚を共有する動物   animal sharing an illusion of the world

 

人間は、世界が存在すると錯覚する動物である。

人間の脳は、仲間の人間集団の運動に共鳴する神経回路を働かすことで、世界があるように共感する仕組みを持っている。人間は、言語以前に仲間と共鳴共感することで世界の存在感を獲得していてそれが言語の発生を導いた。自然科学の描くような物質世界はもともと存在しない。もちろん、目に映るこの世は存在しない、命は存在しない、心は存在しない、意識、苦痛、幸福というものは、実は存在しない。自我とか自分というものも、やはり存在しない。私は存在しない。死は存在しない。存在は存在しない。そして、それら存在しないものが、なぜ存在しているようなのか? なぜ存在しているように思えるのか? それは現代の科学知識だけを使っても、ある程度見分けることができる。そしてそれを知ることはちっとも怖いことではない。

 

5  哲学する人間を科学する  science of doing philosophy

 

世界があると錯覚する人間の身体構造を科学する。

<span s

コメント

人類最大の謎(9)

2010-09-04 | xx3人類最大の謎

言葉で言うということは、だれかに聞いてもらうことを前提としていますから、その聞き手と共有できると感じられる物事について言っていることになります。独り言を言うときも自分という聞き手に聞いてもらうことを前提に言っている、といえます。どんな場合でも、言葉をしゃべる限り、聞き手を想定している。つまり言葉で言いあらわす物事は、仲間と共有できる物事です。逆に言えば、仲間と共有できる物事しか言葉では言いあらわせない(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』)。言語というものの限界です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。言い換えれば、人間が言語を使う場合、私たちは、だれもが同じように感じられる物事についてだけ正確に語ることができる。

言葉として語るものが、はっきりと仲間と共有できているとき、その言葉ははっきりと存在する物事を表します。逆にいえば、物事がはっきりと存在するということは、それをどう感じるかを、はっきりと仲間と共有できているということです。こういう場合、適切な言葉を選ぶことによって、いくらでも正確に語ることができます。目の前のリンゴについて話すときなどそうです。話し手がリンゴを見て感じることを聞き手も同じように感じている。リンゴを見て感じることを二人は共有しています。

しかしだれも見たことがない果物について話すときなどはどうか? 百年に一度くらいしか実らないといわれる竹の実について友達と話してみましょう。どんな味か? というか、どんな形なのか? だれも知らない。

「見たことないけど、竹の実、おいしいかな?」「え、竹に実がなるの?」というような会話になって、お互いの頭の中でその言葉の内容がどういうふうに存在しているのか、さっぱり分からない。しかしそれでも、友達どうしの会話は続いてしまいます。「口裂け女」の怪談を聞いて、夜道でそれに出くわしたら怖いな、と思う。実はその口裂け女とは何なのか、話し手も聞き手もさっぱり分かっていない。それでも、話はうまく伝わっていく。友達どうし楽しく会話することができる。

言語というものはそれ自身閉じた空間を作ってしまう性質があるようです。ある言葉の架空の存在感を周りの言葉が作り出して相互に存在を支えあう。それはその場かぎりで通じ合う架空の存在感であることも多い。それでも会話中はかなりしっかりした存在感と感じられます。比喩を使ったり、たとえ話をしたり、まあそんなものだ、ということにしてしまったり、いろいろなテクニックで私たちは、よく分からない話も、お互いに、分かったことにしてしまいます。それらの架空の存在感によって、二人の会話は閉じた仮想空間を作ってしまう。それが人間の言語の特徴であり、それができるから(拙稿の見解では)、言語は便利に使われている。

言葉を使うとき、話し手と聞き手は、語られたものの実体から離れて、言葉でできた仮想の空間に入っていく。人間の脳神経系は(拙稿の見解では)、言語をこのように作り出すようにできています。言葉が持つこの作用のために、言葉の間だけでしか存在できない物事までが存在感を持ってしまいます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。話し手が自分の内面について言葉で語るとき、ふつう聞き手はなかなか話し手が言葉にして語る話し手の内面の物事を正しく共有することはむずかしい。しかし私たちの日常では、こういう会話が案外簡単に行われていてそれらはたいてい簡単に通じていくかのようです。「あなたが言っている口裂け女の怖さというのはどんなものなのか、私には全然分からない」と言い返す人はふつう少ない。それは会話というものが、多くの場合、協調を主な目的としておこなわれているからでしょう。しかし実際は、お互いの内面にあるものを感じとることは簡単ではない。

私たちが互いにだいたいは理解できるとしている互いの内面の物事は、実は、もうすでにそれは本当の内面ではない。仲間と共有できるように加工してしまった内面です。話し手が「私の悲しみ」と言ったときにすでに、話し手は聞き手の受け取り方を想像して言葉を作っている。話し手は、本当の「私の悲しみ」というものが何かはさておいて、聞き手が理解してくれるような「私の悲しみ」を想像してそれで会話を組み立てていく。それは、はじめから会話用に加工された表現です。そのときの「私の悲しみ」という言葉で表現できるものは私の中にある本当の悲しみではない、ということですね。このことから考えると、私たちの本当の内面は言葉で言い表わせない、ということになる。確かに、言葉では言い表せないそういうものも、私たちの内面にたくさん存在すると思えます。

そういうような、目には見えなくて、しかも言葉でいうこともできないようなもの。私たちの身体がいつのまにかそれらに反応することでばくぜんと感じとれるそういう存在感は、言葉で言えるものよりも、実はずっと多いようです。私たちはふつうそれと気づかないけれども、目に見えず言葉でも言い表せないが身体の奥で感じとれる物事は、はるかに多い。むしろ目で見えたり言葉でいえたりする物事は、氷山の一角より小さい、と思えます。一方、言葉で人々と語り合ったり、書いたり読んだり、あるいは一人のときでも、言葉で考える限り、言葉でいえない物事は無視されてしまう。それらは本当に無視してよいものなのだろうか? そういうところから(拙稿の見解では)存在の謎が立ち現われてくる。

しかしここで拙稿として注意しておきたいことは、たとえ私たちの内面の感情や気分や欲望や意志であっても、それらは、私たちがそれを意識する限り、実は仲間の視点から感じられるものになってしまっていることです。たとえ、言葉で言い表せなくても、それが私たちの内面にあると思ったと同時に、それは仲間に共有されるものになっている。自分の内面にあるものを自分の内面にある、と意識した瞬間にそれは存在感を持つ。存在感を持つということは(拙稿の見解では)、それは仲間に共有されているものに支えられている。仲間に共有されることができる物事から類推できるものとしての存在感を持っています。

それらはだれにも知られない私だけのものであると同時に、だれにも分かる人間の内面のものという存在感として作られています。逆にいえば私たち人間は、実は自分の内面であろうとも、仲間とまったく共有できない物事が存在すると思っていない。何かが存在すると私たちが思うとき、それは必ず仲間にも分かるものであるはずです。存在の必要十分条件として、存在感の仲間との共有、がある。

自分の内面にあって、言葉でいえるものは意識できるものです。独り言であろうと、言葉にできることは、意識できている。さらに、言葉でいえないようなものであっても、それが内面に存在すると思うときは、それは自分以外の人にも分かるはずだと思える。自分の内面には、言葉でいえないようなものがたくさんある。それらははっきり意識できないが、瞬間瞬間に、ぼんやりと感じることはできる。つまり仲間と共有できる物事です。

私たちの外面に存在すると思われる物質世界も、人々の心や社会のありさまも、また私たちの内面に存在すると思われる自分の心や感情や感覚も、すべて存在すると思われるものは、その存在感を仲間と共有することができる。あるいは、共有できるはずだと確信できます。それら存在すると思われるものすべては、前に述べた、すべてを含む大きなものの中に含まれます。

すべてを含む大きなものは、そのほかに、仲間と共有することができるはずがないと思われるような微妙な感覚、瞬間の感覚、私がいつのまにか感じているらしい何か、というようなものを相当たくさん含んでいると思われます。ただ、私たちの身体は、言葉にできる物事や目に見える物事あるいは仲間と共有できると思われる物事などの存在感をきわめて強く感じとるので、それら以外の物事は、はっきりとは意識できない。記憶もできない。

しかしそれら意識できない物事は、私たちの身体の働きに大きな影響を与えている。そこから違和感が出てくる。拙稿の見解では、そこに存在の謎が湧き出てくる(存在感の)裂け目がある。

目の前のここにはっきりとあるように感じられる客観的世界も、その中にはっきりといるように感じられる私自身も、それらすべてを感じているように思える私自身も、すべては私の身体の自然な働きから立ち現われてくる。

この客観的現実世界がなぜこのようにはっきりと立ち現われるのか? この客観的現実は、なぜだれが感じても同じように感じとれるのか? それは現実がはっきりと存在するからだ、とふつうは思えますね。しかしその現実の存在感自体は、私たちの身体が作り出している。それは(拙稿の見解では)私たち人類の身体が、仲間の視座から見える、あるいは仲間とともに感じられる、あるいは、ともに感じられるであろう物事だけをはっきりと現実として認め、それ以外に感じたことを抑えて、仲間の視座から見て現実と感じられる物事にだけ強く反応して動くようにできているからです。

このように仲間と認識を共有して感じられる物事に、それと気づかないうちに、ほとんど自動的に強く反応して動く身体を、私たちは持っています、たとえば、仲間が見ている物事に自然に視線が向いてしまう。そのように、自動的に動いてしまってから、その自分の動きを自分で感じとって、私たちは物事の存在感を感じる。それはいつのまにか感じているので、私たちは自分の身体がそう動いてそれを感じているとは気がつかない。ただ五感に映る物事を客観的な現実感を伴ったしっかりした物事の存在感として感じる。身の周りの物事の存在感を感じると、それが世界の存在感となって、同時にそこから、自分がその現実を感じとっている、という現実感覚が現われてくる。

人間は、仲間の視線が行く先をいつも知っていて、一緒にそれを見ようとする。それが目の前のものであろうと、語られたものであろうと、想像上のものであろうと、仲間が注目する物事をすぐに感知して動作を協調させることができる。私たちはそういう身体を持っています。

それは人類が、仲間と緊密な社会を作り、その中で仲間と協調し協力して、よりよく生き抜いていくために適応して進化させた身体機構なのでしょう。私たち人間は、仲間の目で見て世界はどう見えるか、仲間から自分がどう見えるか、客観的に自分は何をしているように見えるのか、常にそれを予測しその予測に対応して、無意識のうちに、すばやく全力を集中して行動を形成するような身体になっています。

その予測と結果との誤差を記憶して学習し予測機構(脳神経系の予測計算アルゴリズム)を修正する。私たちの身体のそのような働きが(拙稿の見解では)意識といわれるものを作っている、といえます(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。この予測機構を使って、仲間の視線の中を、仲間とともに自分たちの身体がどう動いていくかをいつのまにか身体で感じとる。そのとき感じとった自分たちの動きを、私たちは物事の存在感として認知している。つまり私たちは(拙稿の見解では)、身体の動きに働きかけてくる物事の存在感を、自分たちの身体運動として内部表現している、といえます。こうして私たちの内部に身体運動を引き起こす外部因子としての物事の存在感を感じとることで、私たちはそれを客観的現実世界の存在だと思っています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

Banner_01

コメント

文献