人間社会が効率化され、言語が発達して、人々の間で物事の見方、感じ方が広く共有されるようになると、客観的現実世界の存在感がきわめて強く共有されるようになります。そうなると、ここまでに述べてきたように、人間が感じとる自意識と客観的現実世界の認知との間の矛盾がはっきりしてくる。神話や宗教がうまく世界を説明していられる時代は、それでも矛盾は覆い隠されてきました。トーテムやタブーや祟りや妖怪や精霊を使って物事を説明できている間は、人々は安心して生きていられる。しかし近代にいたって、科学がひろく認められるようになると、客観的物質世界の存在感は極度に強まってきます。
世界は日常言語で説明されている限り、私たちの直感で理解できる範囲にある。日常言語は、主体客体、意志意図、存在感、自他認知、というような私たちの直感を使って、だれもが世界を共有することで成り立っているシステムだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。しかし現代科学はそういうシステムではない。現代科学は私たちが直感にもとづいて(主体客体、意志意図、存在感、自他認知、などの認識の上で)日常言語を使いこなすことで操作できるシステムではなく、高性能な望遠鏡や顕微鏡で測定した膨大な数値データを抽象的な幾何学と計算手続きによって操作しなければ理解できないシステムになっています。そのため、科学を理解する人々は、日常言語の感覚とはかけ離れた客観的物質世界の存在感を獲得していて、それが本物の世界である、と考えるようになります(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。
日常言語で私たちが語り合っている物事は俗世間のいい加減な存在についての話であって、真に実在する世界は科学の描く物質現象でしかない、という考えが時代とともに強くなってくる。
そういう考えを持つ現代人は、客観的物質世界だけが実在する、という唯物論的考え方におちいる。物理学を理解する人々はさらにその傾向が強い。物理法則に従う物質・エネルギーの変遷だけがすべてを説明するという物理主義におちいる。さらに二十世紀に入ってから、進化論と分子生物学および脳神経科学の発展による生命・人体の物理現象への還元理論が完璧になってくると、科学の世界像から締め出される人間の感性や自我意識の意味づけが浮き上がってしまう。そうなると、世界を意識している自分とは何か、意識とは何か、という存在の矛盾に悩むことになります。科学者ばかりでなく、宗教を信じられない人々、不治の病気や障害をかかえて自分の身体の存在感に悩む人々、あるいは老齢になって死を恐れる人々、あるいは、社会から疎外されたと思い込む人、あるいは世の中は嘘ばかりと思う人、あるいは人生に懐疑する人々、など、この世の中での自分と自分の身体の在り方の意味をうまく理解することができずに苦しむことがある。そこに、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)が苦しみを伴って、はっきりと湧きあがってくる。
世界と私が同時に存在することの矛盾について、ふつうの生活場面でふつうの人はそれに気づかない。気づかなければ、この矛盾は合理性の瑕疵あるいは生活上の支障としては表れない。人生という機構は、この瑕疵があってもふつうは支障なく働くようにできています。しかし人の人生では、たまにですが、この瑕疵が苦痛を引き起こすときがある。人生のあるときに、周りの人と通じない気持ちになるときです。世界をともに感じとる仲間がいないとき、人との接触がまったくなくなるとき、きわまりない孤独を感じるときです。逆に言えば、孤独に伴う苦痛は人生のこの瑕疵からくるといえます。
だれでも、自分が死ぬときを考えると孤独感に悩むでしょう。一人だけ難病にかかってしまったとき、あるいは年をとって子供が出ていき、同年代の配偶者も友人も皆死んでしまったとき、あるいは失業、左遷などで仕事仲間から落ちこぼれるとき、離婚や死別によって配偶者や家族を失い一人だけで生きなければならないとき、故郷や実家を遠く離れ帰ることができないとき、人はさびしくてたまらなくなります。しかし若く健康な人はしばしば孤独にはなっても、底知れない孤独感に悩むことは少ない。たとえば、外国に一人で暮らすとき、失業などで社会から極度に疎外されたときなどの場面が考えられますが、新聞、雑誌やテレビや携帯電話やインターネットやコンビニや宅配便などが普及した今日など、ふつうに暮らしている若い人にはそれほどの孤独はあまり起こりそうにありません。
人はふつう、一人だけでは生きていない。仲間とともに暮らし続けることができる人々が経験しなくてすむような孤独感が問題です。そのような孤独な状況におちいった人だけが、本章のテーマである存在の謎をはっきりと感じる。
逆にいえば、人はきわめて強い孤独感を感じない限り、客観的現実世界と自分の存在矛盾に疑念を持たずに生きていける。現実世界と自分との関係に関する疑念は、深い孤独感に落ち込んだ人だけが感じる謎だ、ということができます。
存在の謎から発生したと思われる宗教や哲学が、死や老いや病気や社会的疎外と親近性があるのはそのためでしょう。また多くの宗教や哲学が出家や隠遁や瞑想を奨励していることも、孤独の問題と関係がありそうです。孤独な環境を故意に作ることによって、存在の謎を顕在化し神秘化することが宗教や哲学の使命であると思われているのかもしれません。
タヒチの楽園を描いたポール・ゴーギャンの絵に、「私たちはどこから来るか?何ものなのか?どこへ行くか?」という文字が書かれています。画家の(自殺未遂に際して書き残した)遺書だといわれています(拙稿15章(6)「私はなぜ死ぬのか?」)。拙稿本章のテーマである存在の謎が、南海の孤島で孤独に芸術と格闘していた画家の懊悩のうちに浮かび上がってきた、と推測できます。
私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問が孤独の深淵から湧きあがってきます。この謎を感じとる直感は(拙稿の見解では)、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)からくる違和感です。
共に語り合う仲間とともに世界をしっかりと共有している限り、私たちはこの違和感をあまり意識することはない。理論的には矛盾があることを理解しても、それに違和感を感じたり、つらいと感じたりすることはありません。しかしふつうまれにしか起こりませんが、これが身体に響くように感じる場合がある。たとえば共に語り合う仲間がまったくいなくなったとき、自分がこの現実世界の中に存在することの違和感は耐え難いものとなり得る。
だれも私を必要としない。だれも私を見ていない。だれも私の存在に気づかない。私が今ここに生きているということを知っているのは私だけだ。だれもそれを知ってくれない。これからも決してだれにも知られることはない。だれにも知られずに私は死んでいき、その後には何も残せない。それでも私はここにいる。私はこの現実世界の中にいる、という孤独な叫びに私たちは共感できる(拙稿19章「私はここにいる」)。
人間は、だれもが次のように直感しているようです。
私はモノではない。命がある。心がある(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。タマシイを持っている、私という存在は、客観的世界の一部分である客観的な物質現象にすぎないのではない。私は冷徹な科学が示すような物質世界の中で進化の産物でできあがった物質現象などではない、私は私だ、という思いに私たちは共感できる。
人のこういう思いに共感できるからこそ、私たちは人間には心があると感じられる。だれもがタマシイを持っていると感じられる。私以外の人々もとうぜん私と同じようにこの客観的世界を感じとっていることを感じとることができる。それが(拙稿の見解では)客観的世界の存在感を成り立たせている(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。それがこの現実世界を現実と感じさせています。私たちに心があるからこそ、客観的な現実世界がある、と思えます。