文系人間は言葉がよく分かるのに対して、理系人間は空間がよく分かる、などと言われます。こういう比較がよく使われるということは、言葉と空間とがそれぞれ別の感覚で捉えられるものと思われているからでしょう。言葉と空間というものは、このように、互いに関係がなさそうに思われがちですが、実は深い関係があります。私たちが空間について考えるときは(拙稿の見解では)、結局は、だれかとそれについて語り合う場合です。書きものとして書いているときも読者に語っています。一人で考えているときでも、私たちは自分自身と語り合っています。つまり、私たちが空間についてはっきりと考えているときは、言葉を使うときです。
空間について語り合うとき、私たちはお互いに共鳴できる運動を使って語ります。たとえば「まず私の立っている所へ来てください。そこから私が見ている方向へ10メートル進んでから左を向いて20メートル進みます。・・・」などと言って空間の位置を示すことができます。
つまり私たちはその空間に身体を移動させる動作について語っていきます。動作の順序に従って移動の手続きを述べていくことで、空間の構造を語ります。空間の位置を示すときはその位置に至る移動の過程を語ることで位置を示します。
ごく小さい、原子の世界について考えるときも、巨大な銀河について考えるときも、私たちは、実は、自分の身体を動かすことを想像することで考えています。たとえば水素分子の回転について考えるときも、あるいは巨大な銀河の回転について考えるときも、私たちはその物体を手にとって指でひねる場面を考える。つまり指をどうひねるか?指の運動感覚で抽象的な回転を直感しようとします。
動物が身体を移動すると身体と接する地面が相対的にずれていきます。また周囲の風景がずれていきます。進行方向を変えると体軸と太陽方向の角度が変わります。風景も回旋します。さらに筋肉にかかる抗力の履歴も記憶できます。これらの連続的な記憶を脳内で(ユークリッド空間のベクトル積分として)積算していくとユークリッド空間が生成されます。多くの昆虫や脊椎動物など左右対称形動物はこのような空間積算能力を備えた神経機構を持っていて、帰巣性の動物は特に、巣の周辺などの地理を作り出し、記憶しています。
伊能忠敬 が日本地図を作製したとき、日本列島がどんな形をしているのか、地図が完成するまで誰も分かりませんでした。測量隊が歩いている山や海岸の形は目で見て分かるけれども、大きな地域の全体像は地図ができて初めて分かる。大きな地図は、毎日歩ける範囲の地形を何日分も作図して継ぎ足していって描いていくものだからです。精密な日本全図ができてしまうと、もう自分が立っている場所がどういう位置であるか、周りにはどういう空間が広がっているのかが直感ではっきり分かるようになります。
このように空間というものはその中を動き回る経験を蓄積し積算して作られていくものです。動物は無意識のうちにこの地図つくりのような測量と積算を繰り返して記憶し空間を把握します。
私たち人類も身体を動かして移動することによって生成されるユークリッド空間構造を(読者が今身体の周りに感じておられるような)現実の空間として身体感覚で感知しています。人間はだれもが (拙稿の見解では)空間を感じ取るその感覚を運動共鳴によって仲間と共有しています。人類はさらに、その共有する空間感覚を言葉で語り合うことで、空間についての知識を固定することができます。